震災から2年目を向かえる昨夜、親族からの依頼で、白羽の矢が立った。食事の席で取り交わされた約束の一つであるオール巨人さんの寄付金に伴うビデオレターの撮影だった。
話は数十日前に遡る。親族が親しくさせて頂いている吉本興業の漫才師であるオール阪神・巨人の巨人さんと食事をした際、被災地復興支援活動の話で盛り上がったそうだ。巨人さんは、これまで阪神さんと共に被災地へ訪れ、漫才や歌など施設などへ慰問をし、また個人的にもポケットマネーから寄付を続けている人でもある。こうした善意はほとんどメディアに紹介もされず、また巨人さんも実に謙虚で誠実なお人柄のため、公にされず秘かに継続されている方だ。
支援というのは、さまざまな形がある。コンビニのレジ前や店頭に並ぶ募金箱への寄付、街頭活動での寄付、また赤十字などへの寄付など、お金による支援だ。そして、被災地へ出向き、ボランティア活動を続ける労力による支援。最後に、被災地を訪れ、観光することによって宿泊やお土産を購入し、地元へお金を落とす支援、間接的また直接的など手法はさまざまだが、支援する気持ちを形に表現することは、ほんの少し余裕があれば、だれしもが出来る小さな善意でもある。個人からほんの少し範囲を広げれば、小さな力が集まり、大きなうねりを生み出す。まさに募金はその最たるものだろう。
親族と巨人さんが盛り上がった話とは、わたしが同行した福島市にある保育園でのお話しだった。2012年1月にこの旅日記を1から9話まで書き綴ったが、この3話と4話で書いた聖心三育保育園でのシーンだった。
【3】福島の地に立って
http://blog.goo.ne.jp/shiraumeirei/e/023d847987a9d595959d14de4449c4a4
【4】福島の地に立って
http://blog.goo.ne.jp/shiraumeirei/e/5c47ef8c9a7d160cfc882f3b169ba522
そして、昨年のクリスマスには、親族と共に、福島市のお花屋さんに手配をしたクリスマス用の観葉植物の寄せ植を贈ったのだが、これに対する御礼状と園内で撮影されたアルバムのお話しもしたそうだ。保育士の先生方の手作りながら、園児たちもしっかりお手紙を添えてくれていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/9b/c99745ec21cc25c0e2f4df1379a6e9ca.jpg)
また、クリスマスに贈った寄せ植を囲んで子供達と一緒に撮影された写真を見て、初めて訪れた時と比較すれば、園長先生はふっくらとされ、園児達は明るい表情を見せていたので、それに触れた時、苦難を乗り越えた生きる力を感じさせてもらった。本当に嬉しかった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/bb/3fda8002b382fa1739d44b8e56bd4578.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/a0/c204df287d03fe2d38de84e6552da8bf.jpg)
それらを受け取った親族が、熱弁をもって園児たちの話をすると、巨人さんは、酔った勢いもあったかもしれないが、『うわ~、ボクも保育園に行きたいですよ~。今度行かれるんだったら、是非寄付させて下さいよ。』と仰ったそうだ。親族は、わたしに巨人さんの食事の席での、この一言を帰宅後教えてくれた。
思わず、わたしは、『いや~、巨人さんステキやなぁ~。酔った勢いとは言え、そんな事を言ってくれるだけでも、ありがたいね。気持ちがなかったら、そんな言葉は絶対に出てこないしね。いや~、ありがたいね~。』と返答をした。もう、会話の返答は、すっかりおばちゃんの如く、関心モードである。
それから数日経って、親族は何やら夜に大阪に行っていたようで、巨人さんから茶封筒を預かって帰ってきた。今回3月11日に震災から2年目を迎える節目にあたり、3月8日に自分が募金活動した資金を保育園に持って行くと伝えたところ、それに間に合うようにと、寄付金を先に預けたようだ。この週は、なんばグランド花月の出番のため、行けないことが理由との事だった。
寄付金を持ち帰った親族は、早速わたしにその現物を見せ、預かって欲しいと告げてきた。手前勝手銀行のような扱いをわたしは受けたわけだが、まぁ~、襲われない限り紛失はしないと告げ、大事に保管することを了承した。
そして後日、巨人さんから連絡を受け、なんばグランド花月までビデオレターを寄付金と一緒に届けていただけないか?という案をこちらへ提示されたのだった。寄付金だけでは味気ないと思われたのか、映像で実像と肉声も一緒に届けた方がいいと、思って下さったのだろう。もう、ここまでして頂き、被災地に向けられた熱意に敬服もので感動しぱなしだった。
出番の合間に楽屋で撮影をして欲しいとの申出に対し、親族は、この手の電子機器の取扱は全く昭和な人であるため、依頼を承り電話を切った後、速攻でわたしに白羽の矢を当てたのだった。
『巨人さんは、お前の事はよく顔も知ってるから、知らない人行かすわけにも行かないからなぁ~。』と、告げた。う~ん、上手い言い訳である。巨人さんから、出番の合間の日程を受信したメールを、わたしにそのまま転送し、『なんとかならんかの~?』と嘆願してきた。もう親族の昭和な哀れな姿はスルーし、巨人さんの熱意に思いを馳せていた。出番の合間とは言え、わざわざ、ビデオレターを届けたいという心根に、長時間感慨に耽っていた。
ああ、実現したい、しかし、わたしはどうしても今週は時間が取れないため、わたしの知人で巨人さんも一度面識のある方に、速攻電話で交渉したところ、快く引き受けてくれたのだった。ビデオも撮影だけではなく編集まで至るため、誰でも頼むことが出来ず、また仕事ではないため面識のない方にも頼むことが出来ない状況の中、円滑に段取りが組めたのである。ああ、なんと、素晴らしい。
そして、今日の午後2時半に楽屋へ30分ほどお邪魔し、4分ほど撮影をさせて頂いたそうだ。それが、このお写真。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/28/56a567a0079e2c767851016cc22f9bbc.jpg)
この撮影したものにDVDの編集を加え、クリックすれば本編が見れる画面を作ってもらった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/4f/7b4bf1d0f58bb8abbd6381436c1db854.jpg)
撮影の前に、楽屋でわたしが知人に持たせたクリスマスプレゼントの御礼状と手作りアルバムの原本に触れて頂き、そして平成23年12月20日に初めて募金を届けたDVDの映像も、ここで見て戴いた。親族が子供に語り掛け、手を挙げる園児の映像を見て、『子供もおらへんのに、ここまでよ~出来るなぁ。○○さんは、変わってるなぁ~。』と言いながら、巨人さんの目が潤んでいたそうだ。
被災地に思いを寄せるのは、巨人さんのような芸能人だけではなく、わたしの地域の人も寄せてくれていた。このような小さな活動に共感をしてくれたのが、地元小学校のPTAの役員さんだった。会長と親族が親しい関係もあって、震災の年、募金活動のお手伝いを買って出てくれたのがきっかけでもあった。1年がかりで少しずつ、皆が集まり、時には小学校の先生も一緒になって、スーパーマーケット前で募金活動をして下さった。また廃品回収の収益金の一部を寄付金に当てて下さり、親族が行く3月8日の前にも募金活動をして下さったようだ。
今日、そのPTA会長と逢い、募金で集まった小銭をずしりと預かった。会長は、消防士の一人で、指令を受け被災した3月に南三陸町へ救援活動として1週間派遣された経験を持つ。彼が見つけたのはご遺体がほとんどだったが、それでも生き残られた方から、『どこから来たんですか?』と尋ねられ、『神戸ですよ、僕達も阪神大震災で被災しましたが、あの時、日本全国の人たちから支援を受けましたから、私もお返しするつもりで来たんですよ。』と告げたところ、手を合わせおじぎをされたそうだ。
震災から2年を迎えようとする中、当時の事を昨日の事のようにわたしにお話しされるPTA会長。彼から力強い言葉が聞けた。
『微力でもね、続けていくことが大切なんですよ。わたしはこのPTAの役職、この春で終わりますが、募金活動のお手伝いは、新たな役員さんと共に、続けて行きますからこれからも頑張りましょう。』
ああ、もう目がうるうる来る。被災地を、被災当時を、自分の目で見た人の言葉は、重い。
わたしは自分の置かれた立場というか、役割というか、そういうものを噛み締めていた。誰かと誰かを繋ぐ接着剤的な役割。行動された行いを目に出来るよう形を作る役目。その調整役に、この2年間、みんなの善意に励まされながら行ってきたのだろう。
まるで、舞台の黒子のような存在だが、皆さんの善意を直接触れられる事への喜びは計り知れない。日々、殺人や、窃盗や、強盗や、そんな殺伐とした事件が起きる世の中にあって、地味に地道に善意を募る人々がひっそりと身近にいる事は、有り難いことだ。
そんな善意を持ち寄る人々の存在が、些細な苦しみを克服させてくれる。
被災地のことを忘れないことも大切。
それと等しく、こうした善意を持ち寄る人たちを忘れないことも大切だ。
そんな、みんなの善意をバックに詰めて、親族は7日の夜、夜行列車で福島へ向う。
話は数十日前に遡る。親族が親しくさせて頂いている吉本興業の漫才師であるオール阪神・巨人の巨人さんと食事をした際、被災地復興支援活動の話で盛り上がったそうだ。巨人さんは、これまで阪神さんと共に被災地へ訪れ、漫才や歌など施設などへ慰問をし、また個人的にもポケットマネーから寄付を続けている人でもある。こうした善意はほとんどメディアに紹介もされず、また巨人さんも実に謙虚で誠実なお人柄のため、公にされず秘かに継続されている方だ。
支援というのは、さまざまな形がある。コンビニのレジ前や店頭に並ぶ募金箱への寄付、街頭活動での寄付、また赤十字などへの寄付など、お金による支援だ。そして、被災地へ出向き、ボランティア活動を続ける労力による支援。最後に、被災地を訪れ、観光することによって宿泊やお土産を購入し、地元へお金を落とす支援、間接的また直接的など手法はさまざまだが、支援する気持ちを形に表現することは、ほんの少し余裕があれば、だれしもが出来る小さな善意でもある。個人からほんの少し範囲を広げれば、小さな力が集まり、大きなうねりを生み出す。まさに募金はその最たるものだろう。
親族と巨人さんが盛り上がった話とは、わたしが同行した福島市にある保育園でのお話しだった。2012年1月にこの旅日記を1から9話まで書き綴ったが、この3話と4話で書いた聖心三育保育園でのシーンだった。
【3】福島の地に立って
http://blog.goo.ne.jp/shiraumeirei/e/023d847987a9d595959d14de4449c4a4
【4】福島の地に立って
http://blog.goo.ne.jp/shiraumeirei/e/5c47ef8c9a7d160cfc882f3b169ba522
そして、昨年のクリスマスには、親族と共に、福島市のお花屋さんに手配をしたクリスマス用の観葉植物の寄せ植を贈ったのだが、これに対する御礼状と園内で撮影されたアルバムのお話しもしたそうだ。保育士の先生方の手作りながら、園児たちもしっかりお手紙を添えてくれていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/9b/c99745ec21cc25c0e2f4df1379a6e9ca.jpg)
また、クリスマスに贈った寄せ植を囲んで子供達と一緒に撮影された写真を見て、初めて訪れた時と比較すれば、園長先生はふっくらとされ、園児達は明るい表情を見せていたので、それに触れた時、苦難を乗り越えた生きる力を感じさせてもらった。本当に嬉しかった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/bb/3fda8002b382fa1739d44b8e56bd4578.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/a0/c204df287d03fe2d38de84e6552da8bf.jpg)
それらを受け取った親族が、熱弁をもって園児たちの話をすると、巨人さんは、酔った勢いもあったかもしれないが、『うわ~、ボクも保育園に行きたいですよ~。今度行かれるんだったら、是非寄付させて下さいよ。』と仰ったそうだ。親族は、わたしに巨人さんの食事の席での、この一言を帰宅後教えてくれた。
思わず、わたしは、『いや~、巨人さんステキやなぁ~。酔った勢いとは言え、そんな事を言ってくれるだけでも、ありがたいね。気持ちがなかったら、そんな言葉は絶対に出てこないしね。いや~、ありがたいね~。』と返答をした。もう、会話の返答は、すっかりおばちゃんの如く、関心モードである。
それから数日経って、親族は何やら夜に大阪に行っていたようで、巨人さんから茶封筒を預かって帰ってきた。今回3月11日に震災から2年目を迎える節目にあたり、3月8日に自分が募金活動した資金を保育園に持って行くと伝えたところ、それに間に合うようにと、寄付金を先に預けたようだ。この週は、なんばグランド花月の出番のため、行けないことが理由との事だった。
寄付金を持ち帰った親族は、早速わたしにその現物を見せ、預かって欲しいと告げてきた。手前勝手銀行のような扱いをわたしは受けたわけだが、まぁ~、襲われない限り紛失はしないと告げ、大事に保管することを了承した。
そして後日、巨人さんから連絡を受け、なんばグランド花月までビデオレターを寄付金と一緒に届けていただけないか?という案をこちらへ提示されたのだった。寄付金だけでは味気ないと思われたのか、映像で実像と肉声も一緒に届けた方がいいと、思って下さったのだろう。もう、ここまでして頂き、被災地に向けられた熱意に敬服もので感動しぱなしだった。
出番の合間に楽屋で撮影をして欲しいとの申出に対し、親族は、この手の電子機器の取扱は全く昭和な人であるため、依頼を承り電話を切った後、速攻でわたしに白羽の矢を当てたのだった。
『巨人さんは、お前の事はよく顔も知ってるから、知らない人行かすわけにも行かないからなぁ~。』と、告げた。う~ん、上手い言い訳である。巨人さんから、出番の合間の日程を受信したメールを、わたしにそのまま転送し、『なんとかならんかの~?』と嘆願してきた。もう親族の昭和な哀れな姿はスルーし、巨人さんの熱意に思いを馳せていた。出番の合間とは言え、わざわざ、ビデオレターを届けたいという心根に、長時間感慨に耽っていた。
ああ、実現したい、しかし、わたしはどうしても今週は時間が取れないため、わたしの知人で巨人さんも一度面識のある方に、速攻電話で交渉したところ、快く引き受けてくれたのだった。ビデオも撮影だけではなく編集まで至るため、誰でも頼むことが出来ず、また仕事ではないため面識のない方にも頼むことが出来ない状況の中、円滑に段取りが組めたのである。ああ、なんと、素晴らしい。
そして、今日の午後2時半に楽屋へ30分ほどお邪魔し、4分ほど撮影をさせて頂いたそうだ。それが、このお写真。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/28/56a567a0079e2c767851016cc22f9bbc.jpg)
この撮影したものにDVDの編集を加え、クリックすれば本編が見れる画面を作ってもらった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/4f/7b4bf1d0f58bb8abbd6381436c1db854.jpg)
撮影の前に、楽屋でわたしが知人に持たせたクリスマスプレゼントの御礼状と手作りアルバムの原本に触れて頂き、そして平成23年12月20日に初めて募金を届けたDVDの映像も、ここで見て戴いた。親族が子供に語り掛け、手を挙げる園児の映像を見て、『子供もおらへんのに、ここまでよ~出来るなぁ。○○さんは、変わってるなぁ~。』と言いながら、巨人さんの目が潤んでいたそうだ。
被災地に思いを寄せるのは、巨人さんのような芸能人だけではなく、わたしの地域の人も寄せてくれていた。このような小さな活動に共感をしてくれたのが、地元小学校のPTAの役員さんだった。会長と親族が親しい関係もあって、震災の年、募金活動のお手伝いを買って出てくれたのがきっかけでもあった。1年がかりで少しずつ、皆が集まり、時には小学校の先生も一緒になって、スーパーマーケット前で募金活動をして下さった。また廃品回収の収益金の一部を寄付金に当てて下さり、親族が行く3月8日の前にも募金活動をして下さったようだ。
今日、そのPTA会長と逢い、募金で集まった小銭をずしりと預かった。会長は、消防士の一人で、指令を受け被災した3月に南三陸町へ救援活動として1週間派遣された経験を持つ。彼が見つけたのはご遺体がほとんどだったが、それでも生き残られた方から、『どこから来たんですか?』と尋ねられ、『神戸ですよ、僕達も阪神大震災で被災しましたが、あの時、日本全国の人たちから支援を受けましたから、私もお返しするつもりで来たんですよ。』と告げたところ、手を合わせおじぎをされたそうだ。
震災から2年を迎えようとする中、当時の事を昨日の事のようにわたしにお話しされるPTA会長。彼から力強い言葉が聞けた。
『微力でもね、続けていくことが大切なんですよ。わたしはこのPTAの役職、この春で終わりますが、募金活動のお手伝いは、新たな役員さんと共に、続けて行きますからこれからも頑張りましょう。』
ああ、もう目がうるうる来る。被災地を、被災当時を、自分の目で見た人の言葉は、重い。
わたしは自分の置かれた立場というか、役割というか、そういうものを噛み締めていた。誰かと誰かを繋ぐ接着剤的な役割。行動された行いを目に出来るよう形を作る役目。その調整役に、この2年間、みんなの善意に励まされながら行ってきたのだろう。
まるで、舞台の黒子のような存在だが、皆さんの善意を直接触れられる事への喜びは計り知れない。日々、殺人や、窃盗や、強盗や、そんな殺伐とした事件が起きる世の中にあって、地味に地道に善意を募る人々がひっそりと身近にいる事は、有り難いことだ。
そんな善意を持ち寄る人々の存在が、些細な苦しみを克服させてくれる。
被災地のことを忘れないことも大切。
それと等しく、こうした善意を持ち寄る人たちを忘れないことも大切だ。
そんな、みんなの善意をバックに詰めて、親族は7日の夜、夜行列車で福島へ向う。