心人-KOKOROBITO-

亡き先人と今を生きる人に想いを馳せて
慰霊活動や神社参拝で感じ取った事を書き綴った日記と日々の雑感コラム

反原発デモ者への苦言

2012年07月05日 | 震災
食糧不足により配給される食糧はきわめて乏しく、成人一人あたりの米の配給量は2合1勺(約300グラム)しかなかった。それでもおかずが一杯あれば、主食はこの程度でも足りるが、当時はおかずといえば、漬物がせいぜい。動物蛋白として、貧弱な干し物を一週間に一回か二回食べられれば、恵まれた方だった。

また、2合1勺の米も、ほかにイモとかカボチャなどの配給があれば減らされ、さらに一週間から一ヶ月におよぶ遅配はしょっちゅうだった。このため、飢え死にしないためには、法律で禁じられている闇米を利用しないわけにはいかなかった。この時期、闇米を買わなかった家庭は殆どなかったといっていい。

そうしたなかにあって、断固として闇買いを拒否し、餓死を選んだ人物が二人いる。

一人は、東京高校(旧制)のドイツ語教授亀尾栄四郎で、「いやしくも教育者たる者、表裏があってはならぬ。どんな苦しくても、国策に従う」という固い信念のもとに配給の食糧だけで六人家族を養っていた。

しかし、六人が三日間に食べる配給がネギ2本といった状況では、どうしょうもなかった。教授は、自分は殆ど食べずに、子供たちに食物を与えていたが、ついに力尽き、昭和20年10月11日に亡くなった。

もう一人は、山口良忠判事である。

食糧難で国民のほとんどがヤミ買いをして生き延びていたとき、配給だけで生活をしていた一人の判事が死亡、世間に大きな衝撃を与えた。この判事は、東京地方裁判所で食糧のヤミ売買を中心にした経済統制違反を担当する山口良忠(34歳)で、昭和22年10月11日のことであった。

山口の死は,『朝日新聞』の記事がなければ、おそらく世に知られることはなかった。死後二十日余りたった11月4日朝日新聞西部本社が山口の死をスクープ記事で報じたのである。だがこれは、「朝日新聞」といっても地方版の記事、目にする人も限られていた・翌5日東京版が記事にしてからがぜん大きな話題になった。

本文にはこう書かれていた。

「押し寄せるインフレの波では二人の子供が訴える空腹さえ満たしてやれなかった、そのたびに妻矩子さんはタケノコを提案し、急場をしのごうとしたが、山口判事は”人を裁く裁判官の身でどうしてヤミが出来るか、給料でやって行け”と家人をしかりつけ配給だけの生活を命じた。」

また、記事中に引用された日記は次のような内容であった。

「自分はソクラテスならねど食糧統制法の下、喜んで餓死するつもりだ。敢然ヤミと闘って餓死するのだ。自分の日々の生活は全く死の行進であった、判検事の中にもひそかにヤミ買いして何知らぬ顔で役所に出ているのに、自分だけは今かくして清い死の行進を続けていることを思うと全く病苦を忘れていい気持ちだ。」この記事を読んだ人々は驚いた。

山口を「現代のソクラテス」「憂国の士」とたたえる人から、「悪法の鬼」「冷徹な判事」と批判する人と、意見は分れた。

またどう受け止めたらいいのかととまどいを見せる人も多かった。

赤塚行雄は、「当時、15歳だった私は、世の中には偉い人もいるものだと思いつつも、しかし、他方では、内心この人のことをちょっと時代遅れの融通のきかない頑固者のようにも思った。しかし、山口判事は、とにかく、こうした形で国家に抗議してくれたのだと考えたりもした」(『青少年非行・犯罪史資料』第一巻)と書いている。

ある夜、山口は妻の矩子にこう話しかけた。「経済犯を裁くには、その人たちが罪に落ちる直前の苦しみ、立場に立たないと、正しい裁きは出来ないと思う。これから僕の食事は、必ず配給だけで賄ってくれ。」

山口も法が現実の食糧事情に合致してなことは充分に承知していた。だから、矩子や二人の子供にも配給生活を守らせることはしなかった。だが自身は判事である以上、裁判から逃れるわけにはいかない。ヤミ買いをしたり、弁護士に転職する判事も少なくなかったが、山口は苦悩のすえ、配給生活は守ろうと決意した。配給米の量は一日・2合5勺(21年11月から)それも米とは名ばかりで、麦、芋、南瓜の方が多いという代物だった。加えて遅配・欠配も珍しくなかった。

山口の住んでいた東京世田谷区では、このとき、遅配は11日にもなっていた。遅配が長びけば、当然、山口夫妻のもとには食べるものが何もなくなる。そんな日、二人が口にするのは塩味の汁だった。体力は衰えていった。そのうえ、食糧の遅配が、ヤミ買いを増やしていった。検挙者も増え、山口の仕事はますます忙しくなった。100件以上もの審理をかかえ込み、連日のように夜遅くまでその処理に追われた。体力の消耗は激しく、22年3月には栄養失調状態が周囲にもはっきり分るようになった。

同じ世田谷区に住む矩子の父親たちが食糧を送り届けたが、山口は受け取らない。それならばと、週に一、二度食事に招待しようとしたが、これも断った。8月に入ると、山口の栄養失調は危険な状態を迎えようとしていた。足もとはふらつき、かさばる資料はもう持てず、熱も下がらなかった。8月27日、ついに東京地裁の階段で倒れた。医者の診断は栄養失調による肺浸潤。

初めて休暇を取り、佐賀県の実家へ帰ったが、もう病状を好転させるだけの体力は残っていなかった。

山口は自らの職業的倫理観に従って、自らの死を迎えたのであった。


【闇買いを拒否し餓死を選んだ二人】
http://homepage1.nifty.com/zpe60314/se50-2.htm


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【原発はなくすべき。】平成23年3月11日、東日本大震災での原発事故、この日を境に、わたしもこの理念を持っている。だが、即座廃止、再稼動反対とヒステリックなデモはしない。なぜなら、今の生活で、わたしは電気の恩恵を受けているからである。

そもそも、わたしには疑義がある。自らの生活の営みを、原子力発電所で作られた電気の恩恵を受けていながら、その恩恵を即座廃止せよ、再稼動反対と言う行いは、矛盾していないだろうか。

即座廃止と抗議デモをしている行いが赦されるべき人は、自ら電力を自活出来ている人に限られるだろう。生活で電力会社の供給する電力を使用しながら、自らその電力会社に抗議をする事による矛盾を、どう対外的に整合させ、矛盾をなくす事が出来るのだろうか。

「ここに矛盾はない」と自己弁護で片付けられるなら、そもそもの行動と思考を繋ぐ線に誤りがあるように思う。また、これらを繋ぐ線に誤りがある事への自覚が足りていないように思う。

抗議には、抗議する理由もあるが、それを行動に移す場合、相手の責任を問い詰めると同時に、自らの責任も果たさねばならない。ましてや大きな組織にある保身に抗議するということは、それなりの覚悟を持ち、己の保身を捨て、本来行うべきである。

ここに紹介した二人の日本人は、闇米の購入を拒否し、餓死した人々である。一人は教育者であり、一人は判事、彼らは自らの理念を貫き、自らの正義の下で、死んだ二人だ。

当時の厳しい環境の中で、【食】という生命の根幹の部分に、理念を抱き、命を掛け亡くなった二人の生き方には、矛盾が一切ない。この点において、わたしは敬意を持って彼らの死を悼みながらも、彼らの死に様が、今の時代に問いかけてくるものが過分にあると感じている。

ここまでの自己犠牲をもって、理念を貫ける人々が、今、どれだけいるだろうか。ここまでの信念を持って、生きている人がどれほどいるだろうか。

わたしには、反原発活動の人々が抱えているであろう生き方への矛盾に対し、彼らが内包している保身さを強く感じている。己の家族への憂いを盾に、矛盾する行いを平然としてしまっているその人間性、ここには、公共への犠牲心が極めて薄く感じられるのだ。

非常に厳しい眼差しであるが、わたしは、こうした反原発活動の人々と電力会社を守ろうとする企業側の立場の人々とは、根っこの部分の本質は、何ら変わりがないように感じている。

原発事故で死ぬよりも、圧倒的に交通事故で死ぬ確率が高い時代である。危険性に伴う恐怖心に自分自身が翻弄される前に、足元を見るべきだろう。今もデモをしながら、抗議先より恩恵は受けている事を。

加えて、計画停電への警鐘予告をハガキで送りつけてきた関西電力の世論操作にも、失意を覚える。東京電力の二の前になる前に、足元を見ていただきたい。

大きな組織を守る保身、小さな家族を守る保身。保身を拮抗させる前に、本来やるべき事があるはずだ。それは、徹底的な事故原因調査結果を万人に知らしめる事と、代替エネルギーを早期に確立させ稼動させる事だ。

この2つを、事故前事故後と、何ら変わりなく、これまでと同じような時間配分で処理している事こそを、日本人が最も憂うべき部分であり、ここにこそ、力を注ぎ抗議すべきではないだろうか。

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