心人-KOKOROBITO-

亡き先人と今を生きる人に想いを馳せて
慰霊活動や神社参拝で感じ取った事を書き綴った日記と日々の雑感コラム

道義の誤り

2012年03月14日 | 震災
【捨てる】という行為に至るまでには、【戴く】という起点の始まりがある。
今、賛否両論されているのは【捨てる】という行為のみだろう。

道義には始まりがあり、結末がある。
進呈された物には、手渡す人から受取る人へ、物に込められた【こころ】がある。
その事は、受取る側も承知の事実だろう。

まず見るべきは、最初の起点である【戴く】という場面ではないだろうか。

もし、【捨てる】または【捨てるかもしれない】と受取る側ですでに答えが出ているならば、
本来の道義として、戴けない理由を添えて、【戴く】前に、はっきり断るべきだろう。
それが、人としての真の優しさである。

しかし、道義を重んじず生きる人は、それと相反する行いをする。

進呈された物には、手渡す人から受取る人へ、
物に込められた【こころ】がある事を、受取る側も分かっている。
分かっていながら、手渡す側が物に込めた【こころ】に対し、拒否することもなく、
自身の気持ちを表面上ごまかし、相手に気持ちを覚られぬように受取る。

感謝する気持ちなど微塵もなく、こころで拒絶しながら受取る行為は、
捨てるという行為よりも、道義の観点から言えば罪であろう。

しかし、自身の気持ちを誤魔化し断らず【戴く】のはなぜか?
はっきりと自身の気持ちを相手に伝え、受取る事を拒めば、相手が傷つく。
その傷ついた相手を見る事が辛い、相手を傷つける事を避けることは、
同時に、自分が傷つく事を避けているにしか過ぎない。
こころで有り難いとは微塵もないのに、その場を収めるため誤魔化し受取るのである。

この受取ってしまった自身のこころの嘘に対し、物にあるこころと自身のこころが
合致しないため整合出来ない故に、手渡した側の見えないところで【捨てる】のである。
捨てることは、【物】だけを捨てたのではなく、ここで相手の【こころ】も捨てているのである。

この【捨てる】という行為に行き着くまでのプロセスで、人間としてどこに問題があるのか。
それは、全て始まりにあるということだ。

この行為の根幹にあるものは、浅はかな自己愛に基づいた保身にしか過ぎない。
このような行いは、単なる一面にしか過ぎず、この道義のなさは、
さまざまな点において、彼ら自身の行いに繋がっている。
結末に固執せず、まず起点を見ることだ。その時から、すでに誤りは始まっているのだから。



『福島近郊のSAで福島の銘菓、野菜、米など大量に捨てられる』という週刊誌記事によりネットでは炎上しているようだが、販売部数を増やす目論みが背景になる風評被害へのマッチポンプにも感じられた。

しかしながら、もしもそのような行為に出たならば、彼らも遺憾ながら、日本の未来を支える子供達の親であり、親になる人々である。

今の一部の日本人に何が足りていないか、この行い一つでもお分かりいただけるだろう。

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