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福岡万葉散歩

街の様子や木々や草花を眺め乍ら、先人の俳句や和歌を織り込んで、今の季節を楽しみたい。たまには万葉散歩も楽しみたい。

2008.3.25(火) 対馬紀行・城下町厳原を行く

2011-09-29 | 旅行記

今日の街角風景は、長崎県対馬市厳原町の武家屋敷跡が残る城下町の風景である。

   12世紀には対馬藩主、宗(そう)氏の始祖・惟宗(これむね)氏が筑前の宗像(むなかた)郡

   から対馬に入国する。対馬守護、地頭であった大宰府の小弐氏の代官として、次第に対馬

   での実権を握って、宗(そう)家の始祖となったという。建久6年(1196)宗家の始祖・惟宗氏

   の名前が対馬の在庁官人のなかに初めて見られるという。

金石(かねいし)城跡    対馬市厳原町金石   清水山の麓

    金石城は享禄元年(1528)宗家第14代将盛が、この地に屋形を造営したもので、桟原

    (さじきはら)に新たな居館ができるまでの約150年間にわたって、宗家の居城であった。

    写真の遺構は、平成2年に発見されたものという。

対馬歴史民族資料館の前庭に建つ朝鮮国通信使之碑   右側にヤブツバキの花

   対馬歴史民族資料館は厳原町の中心、今屋敷にある。このすぐ奥に金石城跡の櫓門が

   ある。

韓国旅行団が対馬歴史民族資料館見学に訪れた

朝鮮国通信使之碑の横に建つ珠丸遭難者慰霊塔    厳原町今屋敷

   先の大戦を生き延びた九州郵船の珠丸(たままる)(800トン)(博多~対馬~釜山航路)は

   昭和20年(1945)10月14日、連合軍の航行差止めが解かれて、戦後はじめて対馬から

   博多への航海に出発した。船が壱岐・勝本の北方約16マイルにさしかかった午前9時ごろ

   機雷に触れ爆沈した。乗船名簿によると730名乗船ということであった。

   今なお対馬海峡の海底深く珠丸とともに眠っている方々の慰霊のため建立された。

武家屋敷塀の残る道を行く

 武家屋敷塀の残る道を行く

半井桃水生誕の地

   半井桃水(なからいとうすい)は樋口一葉の小説の師ではあるが、一葉の想われ人として

   知られている。

   半井桃水は万延元年(1860)対馬厳原の生まれ。藩主宗家の御典医の家の長男。東京

   朝日新聞入社、小説記者、代表作に朝鮮半島を舞台にした「胡砂(こざ)吹く風」、「春香伝」

   などがある。大正15年没、享年65

   

   樋口一葉(明治5年(1872)~明治29年(1896)

   一葉日記の明治24年(1891)4月15日の項に、初めて桃水を訪ねた記述に「色いと白く

   面ておだやかに少し笑み給えるさま誠に三才の童子もなつくべくこそ覚ゆれ。丈けは世の人

   にすぐれて高く肉豊かにこえ給えばまことに見上る様になん」とあるという。

   

   焼き捨てよと妹くにに手渡された一葉の日記は、死後15年を経て公開され、そこに記された

   桃水への尽きぬ思いは多くの人々に衝撃を与えたという。

八幡宮神社

藩校・日新館門    長崎県指定有形文化財・建造物    対馬市厳原町桟原

    元対馬藩主宗氏の中屋敷門であったが、幕末には藩校・日新館に用いられた。江戸末期

    における大名家の格式を備えた武家屋敷門としては長崎県唯一のものである。

    日新館は幕末、対馬勤王党の拠点であったが、藩の内紛によりその多くが憤死して、痛恨

    の歴史を遺したといわれる。

    昭和45年、長崎地裁厳原支部の改築工事に伴い解体・保存していたものを平成4年に

    復元したとのこと。   

藩校・日新館門の前の国道382号線


2008.3.25(火) 対馬紀行・厳原町お船江跡から万松院へ

2011-09-29 | 旅行記

今日の街角風景は、福岡から空路対馬を訪問し昨夜来の雨も上がった対馬市厳原町お船江跡

  から万松院へと続く風景である。

  厳原(いずはら)は鎌倉時代、宗氏が現在の対馬市峰町佐賀から文明18年(1486)に移館

  以来、明治維新まで約380年間の城下町で、府中、府内とよばれ、維新後、厳原(いずはら)

  と改称された。

  

  対馬藩の城下町は対馬国府中、現在の長崎県対馬市厳原町におかれ、金石屋形(かねいし

  やかた)と桟原屋形(さじきはらやかた)の居城があった。

  徳川時代初期の領地石高は、対馬国が無高、肥前基肄(きい)・養父(やぶ)郡が1万石(佐賀

  県田代領)の合計1万石であるが、幕府の朝鮮貿易を任されていたので、対馬藩宗家の格式は

  10万石であったとされるとのことである。文化14年(1817)に肥前松浦郡(佐賀県)、筑前

  怡土(いと)郡(福岡県)、下野安蘇(しもつけあそ)・都賀(つが)(栃木県)の2万石を加増され

  た。

対馬藩お船江跡  長崎県指定文化財  対馬市厳原町久田

対馬藩お船江跡は厳原の南方約2kmにある。久田浦にそそぐ久田川川口に5基の

船着場があり、対馬藩お船屋の跡である。現在の遺構は寛文3年(1663)の造成

という。築堤の石積みは当時の原形を保ち、往時の壮大な規模を窺うことができる。

江戸時代、水辺の藩はその藩船を格納するお船屋を設けていたが遺存例の乏しい

現在、日本近世史上貴重な遺構であるという。今も久田浦に往時の美しい姿を映す。

対馬藩お船江跡    往時の復元船が舫っていた

  対馬名物「かすまき」の菓子店   餡のカステラ巻といったところ

この料理屋で昼食をとる

昼食はサザエ刺身定食  さすが対馬の魚介類は美味しい

西山寺(せいざんじ)

天安元年(857)島分寺が炎上した翌年、国府嶽(こうだけ)の麓に大日堂

を建てたのが大日寺と号するようになり、これがこの寺の起源だといわれる。

永正9年(1512)宗 貞国夫人の菩提寺となったことから、その法号にちなん

で西山寺(せいざんじ)と改めたという。入口の石段、石垣も見事という外ない。

西山寺下の道路から清水山(206m)を望む   厳原中心部の西にある

   森が伐採されて地肌のように見えるところがある。頂上から清水山城の一の丸、二の丸、

   三の丸と通称される城壁や石塁が残る郭(くるわ)跡である。 これらは国の史跡に指定

   されている山城の遺構である。

   豊臣秀吉の朝鮮出兵時の、いわゆる文禄慶長の役の兵站城であった清水山城址である。

   本丸(一の丸)の規模は東西約50m、南北約40mで城内の跡および枡形が残っていると

   いう。二の丸、三の丸の規模もこれに準じるとのことである。

   

清水山城の二の丸、三の丸の遺構   万松院や金石城跡は清水山の麓にある

   朝鮮出兵に際し天正19年(1591)8月、築城令が発せられ肥前の名護屋城、壱岐の勝本

   城とここ対馬の清水山城が築かれた。当時の対馬領主・宗義智が主力となり築城したといわ

   れている。

   清水山城の遺構のなかに秀吉の御座所にあてられた建造物の形跡が判明しないのは真下

   にある金石城を御座所にあて、この清水山城は背後の要塞であったというのが通説とか。

万松院(ばんしょういん)    国指定史跡    対馬市厳原町西里・金石

   元和元年(1615)第20代対馬藩主、宗義成(そうよしなり)が父・義智(よしとし)の菩提を

   弔うために創建し、父の法号に因んで「万松院(ばんしょういん)」としたという。

   万松院の建物は数度の火災により焼失したが、桃山様式を残すこの山門と両側の仁王尊

   のみが、昔の面影を留めているという。

万松院(ばんしょういん) 仁王尊

万松院墓地  百雁木(ひゃくがんぎ)  132段の石段

   万松院の墓地である。桃山様式を残す山門の脇から、百雁木(ひゃくがんぎ)とよばれる

   132段の自然石の大石段を上ったところにある。

金石城(かねいしじょう)跡   清水山の麓、万松院の隣にある

   金石城は享禄元年(1528)宗家第14代将盛が、この地に屋形を造営したもので、桟原

   (さじきはら)に新たな居館ができるまでの約150年間にわたり宗家の居城であった。

   写真の遺構は平成2年に発見されたという。驚きだ。


2007.12.22(土) 長崎に行き、四海楼で昼食をとる

2011-09-29 | 旅行記

今日の街角風景は、長崎に用事があり、福岡から長崎に着いて、中華料理の四海楼で昼食を

とったことである。たまたま飛鳥Ⅱが寄港中で、四海楼5階のレストランから飛鳥Ⅱを見ながらの

昼食となった。

四海楼前から大浦天主堂やグラバー園のある南山手を見る

中華料理の四海楼入口階段の右手に建つ千里眼の像

四海楼5階のレストランから飛鳥Ⅱを見る

四海楼5階のレストラン

四海楼5階のレストラン

豚の角煮

ちゃんぽんと柔らか麺の皿うどん

四海楼5階のレストラン

長崎港に入港中の飛鳥Ⅱ

長崎港に入港中の飛鳥Ⅱ


2007.11.6(火) 諫早市・慶巌寺の磨崖仏三十三観音を見る

2011-09-28 | 旅行記

今日の街角風景は、長崎県諫早市の慶巌寺の磨崖仏三十三観音である。

砂岩の岩肌に、かっては33体の菩薩像が彫刻されていたという。

観音菩薩が33に変化し、衆生を救済するという三十三観音思想と庶民の

救いを求める願望が合致して磨崖仏三十三観音が彫られたという。

成立は多良岳山岳信仰が盛んであったという14世紀後半の南北朝時代で

あろうか。


長崎県諫早市城見町の慶巌寺の崖下に磨崖仏三十三観音が彫られている

慶巌寺の建立は慶長10年(1605年)であり、八橋検校がここ慶巌寺で

筝曲「六段」を創ったという。

この磨崖仏三十三観音の前の道路が旧諫早街道であり、諫早の永昌宿から湯江宿、追分

あたりまで有明海沿線に沿って通じており、浜街道とも呼ばれていたそうだ。


諫早・慶巌寺の崖の磨崖仏三十三観音


諫早・慶巌寺の磨崖仏三十三観音


諫早・慶巌寺の磨崖仏三十三観音



諫早・慶巌寺の磨崖仏三十三観音

画面の右上隅に赤い線が見えるであろうか。昭和32.7.25(1957)の

諫早大水害のときの水位の上昇地点を赤い線で刻んでいるのだ。その高さは

3メートルに近い。


諫早の眼鏡橋

の磨崖仏三十三観音の前の旧諫早街道から本明川を挟んで眼鏡橋を見る。

かっては、ここより左手の少し下流側にあったが、諫早大水害でも崩壊せず、

本明川の一級河川昇格に伴う川幅拡幅工事の際に解体され、現在の諫早公園に

復元されたとのこと。

諫早の眼鏡橋は天保10年(1839年)開通、国指定重要文化財で、

長さ45m、 幅5m、 高さ6mとのこと。



旧諫早街道を慶巌寺から少し行った、水害前の眼鏡橋が架かっていた辺りの店で

名物のうなぎをとって昼食とした。


2007.11.5(月) 会社OB会「工業会」で長崎に行く

2011-09-28 | 旅行記

今日の街角風景は、長崎勤務時代の会社OB会「工業会」が長崎で

開かれたときのものである。


ホトトギス (時鳥草)

  秋の季語

     時鳥草 岩かげくらく 咲きにけり    魚眠


ピラカンサ (トキワサンザシ)


長崎自動車道の金立SA  

向こうに円墳群を配した、古墳公園が見える。

この古墳公園は金立SAの南東500メートルにあった丸山遺跡が、自動車道の

工事に引っかかるため、ここに移設し公園として整備したという。


金立SA


長崎勤務時代の会社OB会「工業会」  長崎市の天然温泉「イオス」にて

地元長崎はもとより、東京、大阪、上海からもかけつけてくれた。

皆が社会貢献や趣味などに、元気一杯で活躍されている話をお聞きし、

楽しい宴であった。


長崎市の天然温泉「イオス」にて先輩と。


宴会場をあとに長崎駅へ向う


JR長崎駅コンコース


長崎新幹線着工期成同盟の横幕がかかる長崎駅前


2007.10.30(火) 長崎市城山町界隈

2011-09-28 | 旅行記

今日の街角風景は、小学校1年生の3学期から40年間以上を過ごした、

僕の故郷、長崎市の城山町界隈である。


長崎に向う途中に立ち寄った長崎自動車道の大村湾PA


城山町界隈


城山町界隈


城山町界隈


甘柿


ムクロジ (無患子)

球形の果実には、堅くて黒い種子が1個入っており、これを羽根つきの

羽根の玉にする。

  秋の季語

    からからと むくろじの鳴る 梢かな   ひで女


金木犀


金木犀


金木犀


2007.10.19(金) 奥豊後の城下町・竹田に遊ぶ

2011-09-28 | 旅行記

今日の街角風景は、昨日泊まった湯布院をあとに、奥豊後の城下町・竹田

に遊んだ風景である。


奥豊後の城下町・竹田の岡城址


岡城址

岡藩初代藩主中川秀成は、もと播州三木(兵庫県三木市)の4万石の

領主であった。

文禄3年(1594年)2月、中川秀成は秀吉から岡城の城主に任じられた。

志賀一族が260年にわたり拠点としていた城である。

石高は6万6000石であったが、関が原の戦いの後、7万石になり明治維新を

むかえるまで中川公が奥豊後・竹田の岡城の城主であったと。


岡城址からくじゅう連山を見る


竹田の上町通り  通りの奥が岡城址


竹田の銘菓三笠野と荒城の月をお土産にする


旧 岡藩御用御菓子司、但馬屋   文化元年(1804年)創業とか


但馬屋のすぐ近くにある廉太郎トンネル  

この廉太郎トンネルを通って瀧廉太郎記念館に行く


瀧廉太郎記念館

瀧廉太郎が12歳から14歳まで過ごした居宅の一部を記念館として公開中


瀧廉太郎記念館の前の道壁に埋め込まれた磁器プレート


「味噌、醤油量り売り」の看板がかかる味噌・醤油店

ここで、おしょうゆソフトクリームを食べて福岡への帰路をとった。


2007.10.18(木) 湯布院の湯に浸かり行く

2011-09-28 | 旅行記

今日の街角風景は、腰の治療には温泉が好かろうと思い立って

湯布院の湯に浸かりに行ったことである。途中、大分自動車道の

山田SAに立ち寄り  菜の花の 遥かに黄なり 筑後川  

という漱石句碑を見、湯布院に入ってからは金鱗湖畔で蕎麦を食い

宇奈岐日女(うなぐひめ)神社を訪ねて湯布院の保養所に落ち着いた。


大分自動車道山田SAの漱石句碑  

   菜の花の 遥かに 黄なり 筑後川   漱石

この句は夏目漱石が明治30年、熊本五高教授時代に久留米の

高良山(こうらさん)に登ったおりに作ったものといわれる。

この句碑のある山田SAは筑後川をはさんで、高良山(こうらさん)のある

耳納山脈と相対した位置にある。ここからは筑後川は見えずまことに残念。


大分自動車道の山田サ-ビスエリア  福岡県朝倉町にある


山田SAから耳納(みのう)山脈を見る


湯布院のシンボル 金鱗湖(きんりんこ)


金鱗湖(きんりんこ)畔の「下ん湯」を見る  ここは岳本地区の共同温泉場だ

この「下ん湯」の向こう側に大分の国府から大宰府に到る官道が通っている。

この岳本地区は万葉時代の官道の重要な宿駅であったといわれている。


蕎麦屋から金鱗湖をみる


昼食は蕎麦だ


宇奈岐日女(うなぐひめ)神社(六所宮)

JR由布院駅の南東約1kmに鎮座まします杉の古木に囲まれた神社

神さびた雰囲気が漂う

平成3年(1991年)の台風19号で杉の古木の大半を失ったという

その時、杉144本をやむなく伐採処理した。その伐採処理された巨木の

一部10株ほどがご神体として境内に祀られている。


宇奈岐日女(うなぐひめ)神社由緒記

創祀は人皇第12代景行天皇の御宇12年冬10月(西暦82年)

嘉祥2年(849年)6月、從五位下に叙されると続日本後記に見えるとか。

延長五年(927年)延喜式の神名帳に列記された式内社である。


宇奈岐日女(うなぐひめ)神社は、湖(みず、うみ)にうかぶ神社である

厳島神社と交流があるであろう。


湯布院の保養所から くじゅう連山を望む


保養所から由布岳(1584m)を望む


由布岳(1584m)

  少女(おとめ)らが 放(はなり)の髪を 木綿(ゆふ)の山

     雲なたなびき  家(いえ)のあたり見む  

                      万葉集巻七・1244 読人不詳

  万葉仮名 : 未通女等之 放髪乎 木綿山 雲莫蒙 家當將見

  大意 : 木綿(ゆふ)の山に雲よたなびかないでくれ。家のあたりが見たいから。

木綿(ゆふ)の山 : 今の由布岳(1584m)。大分県由布市湯布院町の、

             別府市との境の山。豊後国風土記に柚富郷(ゆふのさと)

             に近い故の名で、郷の名は、楮(こうぞ)を多く産し木綿

             (ゆふ)を製するからだとある。

                 以上、日本古典文学大系5(岩波書店)による。

  放(はなり)の髪 : 童女の髪型で、今のおかっぱのことと解するが妥当か。

歌の大意は万葉風土記3(偕成社)猪股静彌文によるものがいいだろう(下記)

  おかっぱの童女が娘になると、髪のうしろの裾を束ねて結います。うしろを結んだ

  髪型を「うない髪」といい、うない髪の娘には恋の申しこみがゆるされるのです。

  歌の三句の「木綿(ゆふ)の山」の木綿は由布であり、髪を「結う」と、かけ詞に

  なっています。五句の「家のあたり見む」というのは、恋びとの家を見たいものだと

  思慕する表現です。序歌で、年ごろの少女の情緒をただよわせ、

    「由布の山よ、雲をたなびかせないでくれ。恋びとの家を見たいから」

  という男歌です。


湯布院の保養所から由布岳を見る


保養所の夕餉


2007.6.9(土) 中学卒業50周年記念同窓会に長崎へ行く

2011-09-28 | 旅行記

今日の街角風景は、出身中学の卒業50周年記念同窓会に出席するため
長崎に行ったときの情景だ。

中学卒業50周年記念同窓会はJR長崎駅に程近い「サンプリエール」
であった。昔の8ミリフィルムで撮った懐かしい映像も映し出され、
宴会場にどよめきがおこった。50年前の中学時代の歳月は思い出と共に
今よみがえり、歓談に興じた。


中学卒業50周年記念同窓会記念写真



皆いい顔してる


お開きも近い


二次会は長崎駅前の「SADAZUMI」に集まった


二次会のひとこま


二次会のひとこま


次の日、JR長崎駅に隣接する「アミュプラザ長崎」に出向いた。
そこから見る、旧長崎漁港の跡地である。ようやく再開発が動き出したらしい。


今日の晩飯はここの茶碗蒸しセットとする(アミュプラザで)


懐かしのぶたまんも仕入れた(アミュプラザで)


お土産はカステラ(アミュプラザで)


長崎駅前からの風景  正面右のクリーム色のビルが昨日二次会を開いた
「SADAZUMI」

  あはれあはれ ここは肥前の 長崎か

    唐寺の甍(いらか)に ふる寒き雨   斉藤茂吉「あらたま」所収

斉藤茂吉は大正六年十二月十八日、午後五時五分に長崎駅に降りたったといわれて
いる。茂吉三十六歳の冬である。
丁度この長崎駅前からの風景は、当時、前面の低い山の中腹に、福済禅寺や聖福寺
が見えていたに違いない。


2007.5.20(日)、21(月) 神戸ハーバーランド・キャナルガーデンで憩う

2011-09-28 | 旅行記

今日の街角風景は、宿泊したJR神戸駅傍のニューオータニ神戸ハーバーランド
の部屋からの眺めと、その隣にある神戸ハーバーランド・キャナルガーデンの
ベンチで憩った時のストリート風景である。


神戸ハーバーランド・キャナルガーデンの対面の道路、神戸ガス燈通りから
キャナルガーデンを見る


横断歩道を渡ってキャナルガーデンに近づく


赤いモニュメントは星の灯台と称するもので、キャナルガーデンの入口だ。
三角錐の先端につけられた、赤い羽根が風を受けて回転する高さ7mの動く
オブジェで、夜にはライトアップされ幻想的に浮かび上がるるという。


キャナルガーデンを入ったところにあるモナリザ?の目が異様に光る


キャナルガーデン入口付近のディンドンというからくり音色時計?
ジョージ・ローズ作とかで、ボールの永久的な動きと、ボールが奏でる音が
美しい人気のモニュメントだという。


キャナルガーデン ストリートから左に「ハレ」商店街、右に神戸阪急を見る


神戸阪急の吹き抜け


1階から6階まで高さ36メートルにおよぶ巨大な吹き抜けは、豪華客船を
イメージしたという


ヘルシーなアジアンスイーツを売る店  ベトナムの冷たいかき氷(チェー)や
緑豆団子しるこなど多種類あり  ディスプレーはどれも美味しそう


天井は満天の星のイメージか


ホテルの居室から北方にJR神戸駅を見る


JR神戸駅の向こうの緑の杜は楠木正成を祀る湊川神社


JR神戸駅を海側から望む。JR神戸駅浜の手口というのだろうか。
JR神戸駅は1874年(明治7年)国内2番目となる大阪~神戸間の
開通に伴い設けられたものという。


ホテルの居室から眼下に上り線大渋滞中の阪神高速道を見る


中山手通りを新幹線新神戸駅へ向かう


中山手通りを行き、これから左折し北野へと進路をとる


北野へと坂を上る


風見鶏の館をちょっと見る


北野異人館街を行く


新幹線新神戸駅へ入ってきた


布引ハーブ園に行く新神戸ロープウェーが見える


JR新幹線新神戸駅プラットホームから新神戸駅前をみる


JR新幹線新神戸駅プラットホームから、右手に見える駅前風景


のぞみ号を待つ新神戸駅プラットホームで、HT球団の選手がファンのサインに
応じている。(能見投手か)

ファンは列車を見送ると改札の方へ帰っていった。
明日はSBと福岡で交流戦が予定されているようだ。


ひかりレールスターが入ってきた。博多までの所要時間は2時間31分だ。
駅の売店ですきやき弁当を手に入れ、今晩の夕食とするつもりだ。


2007.5.19(土) 神戸へ行く・兵庫駅は今・・・

2011-09-28 | 旅行記

今日の街角風景は、息子の引越しの手伝いに神戸に行く道筋とJR神戸線兵庫駅の
今である。
ところで、神戸に着いてから腰痛と両足の付け根のしびれがひどく、約30メートル
ごとの跛行を繰り返すのみで、とても引越し手伝いどころではなかった。福岡に帰って
から医院で診てもらったら脊柱管狭窄症ということで、残念ではあるが仕方が無い。
投薬と物理療法だけで、日常生活に支障の無いところまでもっていき、維持できれば
なあ・・・と思うことしきり・・・。


この、8:45博多発ひかりレールスターで新神戸へ行く
所要時間2時間22分


博多駅にはこだま型車輌が入線中   試験車輌か


福山駅のプラットホーム越しに福山城を望む


ウイーン少年合唱団か!


岡山駅からウイーン少年合唱団の一行が乗車してきた


神戸市中央区中山手通り4丁目を行く


神戸市中央区の大倉山から湊川神社脇の坂を下る  街路樹は勿論、楠だ


楠木正成を祀る湊川神社


多聞通りを新開地方面へ向かう


正面がJR兵庫駅南口


兵庫駅南口に向かって左側を望む


兵庫駅南口に向かって右側を望む  右端は神戸市立兵庫図書館が2階に入る


兵庫駅南口広場から海側を見る  少し先に阪神高速が横切っている


自転車置き場とJR神戸線兵庫駅の高架プラットホームの間の中二階が
JR和田岬線の兵庫駅だ。右端に見えるグレーの箱状のものは線路止めの
ショックアブソーバーだろう。

JR和田岬線は兵庫駅から和田岬駅までの一区間ではあるが勿論現役だ。
昭和40年の4月から6月まで毎日この線で通勤したことを思い出す。


JR兵庫駅の改札口   左奥の小さい階段を上るとJR和田岬線の改札だろう


戦前の雰囲気を色濃く残す、JR兵庫駅のコンコース


JR兵庫駅北口  兵庫駅の正面玄関だ


JR兵庫駅北口車寄せ付近


JR兵庫駅北口前にある、とんかつやで夕食をとる


JR兵庫駅北口構内通路


JR兵庫駅北口を西方向へ出る


JR兵庫駅北口から山陽本線、神戸線を見る


駅近くで見た何やら懐かしい路地裏


2007.3.20(火) カトリック黒崎教会を訪ね、平戸へと足を延ばす

2011-09-26 | 旅行記

今日の街角風景は長崎から西彼杵半島西岸を北上し、角力灘に面した
カトリック黒崎教会を訪ね、平戸へと足を延ばしてオランダ商館の栄華
の跡をみる。
カトリック黒崎教会の所在地は長崎県西彼杵郡外海町上黒崎郷26で
あったが、平成17年1月4日に長崎市と合併し、長崎市上黒崎町26
となった。遠藤周作の「沈黙」の舞台となったところである。


マリア像の台座に黒御影石に金文字で刻んだ碑にカトリック黒崎教会の
歩みとして

1571(元亀2)年1月下旬頃、カブラル神父らが初めて外海地方を
布教し、各地に15の教会が出来た。厳しい弾圧の中で日本人伝道士バスチャン、
治兵衛神父らの指導により、信仰を守り、子孫に伝えた。

1865(慶応元)年信徒発見後、1867(慶応3)年クーザン神父が訪れ、
辻村三次郎宅でミサが捧げられる。ここは信徒の集会所でもあった。

と淡々と書かれている。

1899(明治32)年9月30日聖堂建設に着手。資金難のために一時中断。

1920(大正9)年12月18日計画以来23年、子供まで煉瓦運びに奉仕
するなどの苦労の末、ロマネスク様式赤煉瓦造りの現聖堂が竣工。

1989(平成1)年7月~90年5月に聖堂と石垣の改修。

1997(平成9)年3月、計画以来10年の大改修が終わり、先人の足あと
をここに記し、改修記念としてこの碑を建てる。

  A.D.2000大聖年(平成12年)カトリック黒崎教会


三廊式コウモリ天井と柱が美しくもやわらかく、且つ厳かである


黒崎教会のある外海(そとめ)地方は角力灘の向こうの五島列島に多くの移住者を
出し、長崎カトリック信徒の母郷ともよばれているそうだ。

なお、この聖堂の棟梁として一統を率いたのは川原忠藏といわれている。幕末の
旧大浦天主堂の創建に大工として参加した川原久米吉(1818~1903)の息子である
という。忠藏の息子の片山伝次郎もこの聖堂の建築に参加したという。

1899(明治32)年に岩永神父のもと、黒崎教会の建設に着手したが、資金難で
中断、工事再開は実に1918(大正7)年で、2年後に完成した。

私は40年程前に、ここを訪れたことがある。教会の黒板に、法事の件・・・、
お布施は・・・、香典返しの件・・・と書かれてあったことが思い出される。
今はない。


平戸港の向こうに1707年(宝永4年)竣工の亀岡城(平戸城)と1977(昭和52)
年4月4日開通の平戸島と本土を結ぶ平戸大橋を見る


先ずは腹ごしらえにと、ひらめ尽くし定食をとる。美味しいが酒がないのが残念


食事をとったすぐ傍のポルトガル船入港之地 すぐ向こうに平戸港

1550(天文19)年 ポルトガルの貿易船が初めて平戸に入港
            同年9月にフランシスコ・ザビエルが平戸に来島し布教
 
1584(天正12)年 スペインの貿易船が入港

1609(慶長14)年 オランダが商館を設置

1613(慶長18)年 イギリスが商館を設置

1623(元和9)年  イギリスとの通商断絶(商館閉鎖)

1624(寛永元)年  スペインとの通商断絶

  
平戸市浦之町にある創業四百六拾年という葡傅銘菓カスドースの老舗


城下雛まつりの期間とかで、店内は雛人形が飾られていた。餅花がきれいだ


店内の様子  お土産は勿論葡傅銘菓カスドース

平戸にポルトガルの黒船が来航した1550(天文19)年以来、平戸は
日本唯一の西欧文化の導入口であった。その時、ポルトガル船で渡来した
神父達によってカステーラと共にカスドースの製法も伝えられたと。


寺院と教会の見える風景  教会は1931年(昭和6年)に建設された
聖フランシスコ・ザビエル記念教会


松浦資料博物館  この地は鎌倉時代初頭平戸松浦氏発祥の地であり、南朝の忠臣
松浦鬼八郎定はここより起こったと。また日本最初の蘭英貿易を平戸に独占した
松浦氏邸跡であり、蘭英商館長やウイリアム・アダムス(三浦按針)等も出入した所という。


御部屋(おへや)の坂   写真左下に休み石がある

この付近、旧平戸藩主邸(現松浦資料博物館)一帯は御館(おたち)といい、
鎌倉時代に平戸松浦氏が居城を構え現在に至っている。
石段が続く坂道は、中程に御部屋様(側室)の屋敷があったので「御部屋の坂」
と呼ばれ、周辺に建ち並んでいたといわれる。
写真右手上方に見えるのは御部屋様(側室)の屋敷の門と白い土塀が
おおよその形で復元されているのだろう。中は日本庭園となっている。


平戸和蘭商館跡  後ろの山手にジャガタラ文で有名な平戸観光資料館が見える

1609年(慶長14年)、2隻のオランダ船が平戸に来航して、時の領主
松浦鎮信(法印)の斡旋によって、家康、ついで秀忠に謁見したオランダ使節は、
商館の設置と貿易の許可を得、平戸オランダ商館が設置された。
平戸オランダ商館の貿易額、取引額は1630年代後半から飛躍的に増大する。
後の長崎出島時代を含めても、貿易額が最高潮二達するのは平戸時代後期の
ことである。
しかし、次第に進展する鎖国政策の波には抗し得ず、1639年(寛永16年)
築造倉庫は破風にキリスト生誕を紀元とする西暦年号が記されていることを理由に
破壊を命じられる。
また、平戸オランダ商館自体も1641年(寛永18年)長崎出島への移転を命じられ
平戸オランダ商館の歴史は幕を下ろす。


オランダ塀  漆喰で固められた、頑丈極まる塀である。


銅版画に残る平戸オランダ商館の姿  案内板に転写されている


まだまだ平戸オランダ商館跡の発掘調査は続いている


平戸オランダ商館跡の高台から平戸港、平戸城、平戸大橋を望む

1635年(寛永12年)日本人の海外渡航と在外日本人の帰国を全面禁止

1636年(寛永13年)長崎に出島完成  ポルトガル人を入れた

1637年(寛永14年)島原の乱勃発  幕府はこれをキリシタンの反乱と認定   

1639年(寛永16年)出島のポルトガル人を追放
            以後、ポルトガルとの交渉を厳禁
            この結果、対外貿易はオランダと中国だけに限定し、
            鎖国体制の完成となる

1741年(寛保元年) 空地となった出島に平戸からオランダ商館を移設
            これで平戸での南蛮貿易が終焉となる

1871年(明治4年) 廃藩置県により平戸藩が廃され、平戸県となる
            さらに長崎県へ併合される

1889年(明治22年)4月1日 町村制度施行により北松浦郡平戸町、平戸村、
            田平村、生月村、大島村など1町11村が発足

2005年(平成17年)10月1日 平戸市は周辺の大島村、生月町、田平町と
            対等合併し、新市名を平戸市とした

            この結果、長崎県から村が消滅した。     


2007.3.19(月) 長崎県美術館にベルギー王立美術館展を観る

2011-09-26 | 旅行記

義妹と姪が来福したので、彼女らと一緒に長崎旅行をした。
今日の街角風景は、長崎市に長崎県美術館と長崎歴史文化
博物館を訪ねたときの風景である。


長崎の出島一帯は出島岸壁とその倉庫群を取り払い、長崎水辺の森公園
となって風景を一変させている。その一角にあるレストランで昼食をとる。
レストランの奥に僅かに見える赤い屋根は懐かしい活水女学院である。


平成17年4月にオープンした長崎県美術館をレストランから続く裏口
から見る。長崎水辺の森公園の一角にあり、運河をはさんで建っている。


長崎県美術館のベルギー王立美術館展の入口  窓の向こうは長崎港


ピーテル・ブリューゲル[父]?「イカロスの墜落」16世紀中頃 
73.5cm?112cm  油彩/カンバス  
ブリュッセルのベルギー王立美術館所蔵

ベルギー王立美術館は1801年ナポレオン・ボナパルトによって建設の
政令が発布された巨大美術館であるという。

ピーテル・ブリューゲル[父]?は16世紀のフランドル地方を代表する画家。
フランドル絵画は近代油彩画の原点を創ったと高く評価されているようだ。
ブリューゲルはオランダのブレダ近郊ブリューゲル村に生れたといわれ、
ベルギーのブリュッセルで亡くなったといわれているそうだ。
馴染み深い呼称は「百姓ブリューゲル」か。通称「農民画家」


美術館から港越しに、22年間を過ごした長崎製作所を見る。


遠くに小さく見えるのが岩屋山(いわやさん)  あの山の麓に
生れて、36年間住んだ私のふるさとが眼前にある。


長崎の上町の坂を上る。正面奥を左に曲がれば長崎歴史文化博物館
右手の建物は田中旭栄堂  もちろん栗饅頭をお土産にした


長崎市立山に平成17年11月にオープンした長崎歴史文化博物館の
復元した長崎奉行所立山役所の正面入口前の階段
写真で階段が古色を帯びている部分が、発掘調査で出土した遺構を
そのまま利用している。階段下の石畳と石垣の一部も同様である。

門、玄関、書院と御白州など一部を復元した長崎奉行所立山役所は、
文化五年の長崎諸官公衙絵図をもとにしたもので文化年間前後
(19世紀前半)の様子を表しているという。
同館で上映していた長崎奉行の一年を描いた立体映画には、俳優の
風間杜夫が第84代長崎奉行・遠山左衛門尉景晋(とおやま
さえもんのじょうかげくに)役で出演していた。遠山左衛門尉景晋は
江戸町奉行遠山金四郎の父親だそうだ。

なお長崎歴史文化博物館本館は黒川紀章氏の設計だとか。


2007.3.12(月) 大阪・難波から福岡へ帰る

2011-09-26 | 旅行記

前日の宿は、大阪なんばのスイスホテル南海大阪であった。
このホテルからネオンに輝く通天閣を眺め、いま大阪に居る事を実感した。

今日、3月12日(月)の街角風景は、難波のホテルから靱(うつぼ)公園の
森をわずかに見ながら大阪駅につき、山陽新幹線ひかりレールスターで新大阪を
出て、博多に帰るまでとする。


記憶の彼方の通天閣を、ホテルの窓から、いま見る


ホテルの室内と通天閣方面の夜景が二重写しとなった


右手に見える高層ビルは低層階に屋上回廊庭園をもつなんばパークスに建つ
パークスタワー。 右手下の道路は阪神高速1号環状線


スイスホテル南海大阪でビュッフェスタイルの朝食をとる


壁の装飾画が暖かく、華やいだ雰囲気をレストランに与えているようだ


眼下に見えるのは、南海電鉄なんば駅舎上の大駐車場であろう。右手はなんばパークスと
パークスタワー


ホテルの南側、阪神高速1号環状線の下の敷津東1交差点よりいまチェックアウト
したスイスホテル南海大阪を見る。これより四つ橋筋を北上する


四つ橋筋を大阪駅に北上途中、靱(うつぼ)公園前の交通標識をみて、
あわててカメラを取り出し、リアウインドウ越しに靱(うつぼ)公園の
森の一角を撮る。


四つ橋筋に僅かに覗いた靱(うつぼ)公園の森を通り過ぎて、京町堀1交差点の
交通標識を見る


四つ橋筋の京町堀1交差点の交通標識を見て、振返って靱(うつぼ)公園の
森の一角を望遠で撮る。


今は、靱(うつぼ)公園の中の地番、大阪市西区靱本町一丁目は私の本籍地である。
幼い頃の記憶は僅かにあるが、これは夢幻に近いものかもしれない。

大阪大空襲は昭和20年3月13日深夜から翌日未明にかけてあり、この時の
米軍の照準点の一つが靱本町に隣接する西区阿波座であったという。
この大阪大空襲のときの被災面積は21平方キロ、被災戸数136,107戸、被災者501,578人
死者約4,000人とも言われている。この大阪大空襲で丸焼けとなった靱本町は
戦後復興事業として靱(うつぼ)公園となり、今に至っているものと思われる。

大阪ではこの大空襲のあとも、6/1、6/7、6/15、6/26、7/10、7/24、8/14
と波状的に米軍の空襲があり、商都大阪は壊滅した。空襲による市民の死者は
10,000人とも15,000人ともいわれており、定かではない。

靱(うつぼ)公園の総面積は約10ha、東西約800m、南北約150mという。
その南北の80m位が公園の東端として四つ橋筋に面している。


新幹線新大阪駅プラットホームから駅前広場を望む


博多行きの、ひかりレールスターが入線した。2時間44分で博多駅に着く。


姫路駅手前で車窓から日本一の姫路城を見る。城内を見学した44年前のことが
思い出される。


福山駅の上りプラットホーム越しに福山城の隅櫓と石垣を見る


2007.3.11(日) 大阪 曽根崎にお初天神を訪ねる

2011-09-26 | 旅行記

伯母の七回忌法要に参列するため、大阪に出向いた。
法事の行われるお寺さんは、曽根崎のお初天神から
新御堂筋を挟んで目と鼻の先にある。

今日の街角風景は、JR大阪駅からお初天神に至る
道筋と「露天神社」通称「お初天神」を訪ねることとした。


JR大阪駅の1階コンコースの出発の鐘がある待ち合わせ場所である。
現在このあたりは改修中で、ご覧の通りせまくるしい。


JR大阪駅正面を見る


JR大阪駅正面玄関付近の大丸のディスプレー


大阪駅から阪神百貨店を見る


大阪駅を背に正面右手に大阪第一生命ビル、ヒルトン大阪などを見る
ここを左に歩いて行く


御堂筋にオブジェの如く屹立する日本一の排気塔  左方のノッポビルは
阪急グランドビル  右方のクラシックビルは大阪富国生命ビル


大阪駅前第4ビル前の御堂筋を僅かに南下し、左前方にお初天神の方を望む


大阪駅前第4ビル角の御堂筋を東方に横切って、お初天神通りに入る
お初天神通りのアーケードの右奥がお初天神の裏参道だ


お初天神裏参道の手前のお初天神通りに千鳥屋お初天神前店がある。
創業寛永七年(1630)のお菓子屋さんで銘菓千鳥饅頭が有名である。

  水鏡 せると伝ふる 天神の みあしのあとに 千鳥群れ飛ぶ

という菅原道真の故事から名前をとり千鳥饅頭と名付けたとのこと。


露天神社、通称お初天神の裏参道入口  左側に露天神社由緒略記板がみえる


昌泰四年(901年)菅原道真公、筑紫に左遷配流の途次、当地を過ぎ給う砌、
境内の草木深ければ、

  露と散る 涙に袖は 朽ちにけり

      都のことを 想い出づれば

と詠ぜられ、菅公大宰府にてご他界の後、その遺徳を偲び奉り合祀し、右の御歌より
「露の天神社」と称する。とのこと。


露の天神社拝殿

社伝によれば、創建は壱千百有余年を遡り、文徳天皇の御代、嘉祥三年(850年)
に定め給いし「難波八十島祭」の旧蹟にも数えられ、「住吉住地曽祢神」を祀ると
伝えられる。
往時此の地は曽根、曽根洲と称する孤島にて、曽根洲、後の曽根崎の地名はこの
御神名より起こる。

平安期、渡辺十郎源契来たりて入植せしより、渡辺氏一族を始め移植の民次第に増し、
曽根崎村へと発展し、当社も産土神「曽根崎天神」として、尊崇された。

現在も、梅田、曽根崎地区の鎮守として信仰を集めている。とのこと。


拝殿前の左手奥に立つ碑、曽根崎心中 お初 徳兵衛 ゆかりの地

お初天神社の案内板に云う

元禄十六年(1703年)四月七日堂島新地天満屋抱えの「お初」と、内本町
醤油屋平野屋の手代「徳兵衛」、当社「天神の森」にて情死し、日を置かず時の
戯曲作家「近松門左衛門」により「曽根崎心中」として劇化された。

以後上演の度、男女身分の差無く多数の民衆観劇し、挙がって当社に参詣慰霊に
訪れたという。
「お初天神」と通称される所以である。とのこと。


正面のポットが二つ置かれている奥に、曽根崎心中 お初 徳兵衛 ゆかりの地
の碑が建っている。その右側にお初、徳兵衛のブロンズ像が見えている。

「曽根崎心中」は近松門左衛門作の人形浄瑠璃で、元禄十六年(1703年)
大阪道頓堀の竹本座で初演

醤油屋の手代徳兵衛と遊女のお初が、義理に迫られ、恋を貫いて曽根崎天神の森
で心中するという世話物である。

次に掲げるのは、「曽根崎心中」の主人公お初と徳兵衛が、心中に向かうその道行
の冒頭部分である。

「曽根崎心中」道行の冒頭部分

   この夜の名残、夜も名残。 死(しに)に行く身をたとふれば、

   あだしが原の道の霜。 一足づつに消えて行く。 夢の夢こそあはれなれ。

   あれ数ふれば暁(あかつき)の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生

   (こんじょう)の、鐘(かね)の響(ひびき)の聞きをさめ。

   寂滅為楽(じゃくめつゐらく)と響くなり。

流れるような七五調の技巧的な美文に、叙景と叙情が一体となって盛り込まれ、
見る物・聞く者を陶然とさせる魅力を備えた名文となっている。とのことだ。


神泉露ノ井という井戸の上に御井神が祀られている。
案内板には次のように書かれている。

古くより露ノ井と称され、人々の暮らしを支え、信仰の対象でありしこの
御井に坐す神。
社殿直下の御井は、往時四天王寺の亀の井・清水寺の井・二つ井戸等と共に
浪速七名井の一つなりと称され、梅雨時期には清水が井戸縁より湧出せしと
いう。名井「露ノ井」として当社社名由来の一つともいわれ、周辺地域を始め、
社地前旧池田街道を行き通う人々の貴重な清水であった。現在では地下鉄各線や
高層ビル群の建設等により地下水脈が分断され、水位が著しく低下している。


名井「露ノ井」はこの絵馬掛場所の後ろに現存する。位置は社殿直下である。


境内につらなる路地は行って見たくなるような飲み屋さんが軒を接している