福岡万葉散歩

街の様子や木々や草花を眺め乍ら、先人の俳句や和歌を織り込んで、今の季節を楽しみたい。たまには万葉散歩も楽しみたい。

2008.12.25(木) 長崎の浦上川界隈

2011-09-29 | 旅行記

今日の街角風景は、長崎の浦上川界隈である。長崎市竹の久保町の長崎西高の前を

    流れる浦上川とJR浦上駅を通る線路に囲まれた茂里町一帯である。この茂里町一帯

    は、戦前は三菱長崎製鋼所があったが原爆で灰燼と帰した。戦後汽車で長崎に戻って

    来た僕は、汽車の窓から見た国鉄浦上駅に隣接する工場群の灰燼に帰した残骸の連なる

    のを見たのだ。幼かった自分の目にも、この時の世にも恐ろしい光景は残像として今も存在

    し、消すことは出来ない。

長崎西高の下の浦上川沿いにある「江山楼(こうざんろう)」    長崎市竹の久保町

江山楼(こうざんろう)

江山楼で昼食をとる     やわらか麺の皿うどん、豚の角煮、春巻

江山楼から浦上川を挟んで対岸の茂里町を見る   右の方は南で長崎港となる

    

    左手の浦上地区と右手の稲佐地区を結ぶ梁川橋が中央に黒く影を落とす。

         向こうの山は長崎半島の山並で、右端に見えるのが八郎岳(標高590m)である。

     左の建物が長崎ブリックホール、右側の建物が長崎市クリーンセンターである。

    長崎市は三つの公会堂を有している。茂里町の長崎ブリックホールは2002席の大

    ホールと542席の国際会議場を持っている。魚町の長崎市公会堂は昭和37年の竣工

    ではあるが1922名収容の大ホールがある。また千歳町にはチトセピアホールがあって

    500席のホールを持つ。   

江山楼から見た対岸   右から長崎ブリックホール、長崎文化放送、長崎新聞社

     長崎新聞社の左奥に見える山は金比羅さんで、高射砲陣地があったあたりまで

     よく登ったものだ。

江山楼から浦上川のやや上流域を見る    中央に長崎原爆病院

江山楼から浦上川の上流域、北の方を見る 

中央の建物は長崎厚生年金会館、その前のつり橋は歩道橋

長崎自動車道今村PAから雲仙普賢岳を望む

今村PAから雲仙普賢岳を望む


2008.11.29(土) 新橋周辺と羽田空港

2011-09-29 | 旅行記

今日の街角風景は、宿泊した東京都港区新橋の第一ホテル東京とJR新橋駅周辺および

    新しいD滑走路(2500m)と国際線ターミナルビル等の建設が進む羽田空港である。

新橋の第一ホテル東京の正面入口ロビー

第一ホテル東京2F 「花山」

朝粥朝食

ホテルの部屋から銀座方面を見る

ホテルの部屋から内幸町、有楽町の方角を望む

第一ホテル東京正面玄関

JR新橋駅前広場付近から第一ホテル東京を見る

JR新橋駅前広場から汐留跡地の地上200mを越える高層ビル群を見る

JR新橋駅汐留口から正面に、ゆりかもめ(東京臨海新交通)新橋駅を見る

    高層ビル群は左から汐留シティセンター、パナソニック電工、ロイヤルパークホテル、

    日本テレビタワーであろう。

東京モノレール浜松町改札口近くから汐留跡地の高層ビル群を望む

東京モノレールが天空橋駅から地上部に出た辺りの羽田空港

    建設が進むD滑走路(2500m)新設に伴う国際線地区のタ-ミナルとエプロンの工事

    現場である。向こうの中央に巨大なコントロールタワーが新設中である。左側に現在運用

    中のコントロールタワーが見える。向こうの中央部に横たわるのは旅客ターミナルビルで

    JAL等が使用中の第1旅客ターミナルビル、その背部にANA等が使用中の第2旅客

    ターミナルビルがある。

    新しいD滑走路(2500m)は、この写真の右手の多摩川の流域と一部交差する海上に

    建設中である。

    第1旅客ターミナルビルと建設工事現場の間にあるのが運用中のA滑走路である。

第2旅客ターミナルビルからD滑走路建設工事が進む羽田空港南方沖合を見る

    新しいD滑走路(2500m)は、実績のある埋立構造に、異なる構造を一体化する

    接続部を介して、多摩川の流れを妨げないための桟橋構造を組合わせたものという。

    なお、この新滑走路と今の羽田空港は連絡誘導路で結ばれるという。

ビッグバード1

(第1旅客ターミナル)

遅い昼食

ビッグバード2 (第2旅客ターミナル)

ANA福岡行きに乗り込み、東京を離れる。


2008.11.28(金) OB会出席のため東京・神田「ぼたん」へ行く

2011-09-29 | 旅行記

  今日の街角風景は、東京勤務時代のOB会に出席するため東京・神田須田町の「ぼたん」

   へ行った道すがらである。

福岡空港出発ロビー

ANA東京行きに乗る

眼下に明石海峡大橋を見る

眼下に関西国際空港を見る

浜松町プラットホームから芝離宮公園を見る

新橋駅前界隈

昼食をとる

年末ジャンボ宝くじが発売された当日の新橋駅前

内幸町交差点から日比谷公会堂と国会議事堂を望む

外堀通りの銀座西5丁目付近を通って神田の「ぼたん」へ向う

神田須田町界隈  

手前の食べもの屋の奥の路地を左に入ったところが、OB会の会場の鳥料理の「ぼたん」。

この一角に明治・大正のころから営業をつづけている{食べもの屋}が四軒もあるとのこと。

鳥料理 「ぼたん」     東京都千代田区神田須田町一丁目

     池波正太郎の食卓の情景(昭和55年刊、新潮文庫)のなかに「神田連雀町」と題して、

     次のような一文がある。

     

        太閤・豊臣秀吉が、徳川家康を関東に封じ、家康が江戸に本城をさだめたのは、

       天正十八年(1590)八月というから、約四百年もむかしのことになる。

        以来、家康は関東の経営に情熱をかたむけ、草深い海辺の村にすぎなかった

       江戸は年ごとに城下町として発展し、ついには、徳川幕府の「本拠」となるに至った。

        その江戸の、神田・連雀町は・・・秀吉が没し、家康が、ようやくに「天下人」としての

       実力をそなえてきた慶長年間に、商人たちの品物を背負う用具である連尺造りの

       職人たちが多くあつまっていたので「連雀町」と名付けられたものだそうな。

        神田・連雀町という町名は、昭和のはじめに、もう消えてしまっている。いまの千代田

       区神田須田町一丁目と神田淡路町二丁目の内が、むかしの連雀町であった。

        私どもの年配から上の人びとが、その一角を、いまだに「連雀町」と呼ぶのは、

       ひとえに、むかしの東京をなつかしむがゆえである。

        というのも、この一角に明治・大正のころから営業をつづけている「食べもの屋」が

       四軒もあるからだろう。

        この一角は、ふしぎに、太平洋戦争の空襲にも焼け残り、むかしの東京の町の

       香りを辛うじて残していることも、理由の一つになっているのだろう。

        先ず「藪蕎麦」である。

        東京が誇り得る数少ない名店の一つだ。

        すぐ近くに、あんこう鍋の「いせ源」と、鳥料理の「ぼたん」が、戦前のままの古びた

       姿で、客を待っている。この二店、連日のごとく、いまも大繁昌らしい。それに汁粉屋

       の「竹むら」の四軒である。

        神田の須田町の交差点から、この一角に入って行き、細い道を曲って「ぼたん」の

       前へでると、入口の軒先に「ぼたん」と書いた行燈がさがっているのだ。

        旧蝋。ふと、前を通りかかって、なつかしくなり、ぶらりと入って見た。

        それこそ三十年ぶりに、であった。

        入って、突き当りの廊下の奥の、庭に面した座敷へ通されたとき、

        (この座敷だったな・・・)

        はっきりと、おもい出した。

        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

     池波正太郎が書いてから、30年近く経った今も、この神田須田町の一角は変わらない

     ように見えた。     

  

鳥料理 「ぼたん」   

朱塗りの箱火鉢で備長の炭を赤あかとおこし、鳥鍋で酒をのむ

「ぼたん」にて


2008.11.8(土) 山口県の萩のまちを行く

2011-09-29 | 旅行記

今日の街角風景は、山口県の萩のまちを行ったときのものである。萩のまちは江戸時代

    から明治維新にかけての街並みが今にマッチして生きているまちである。

    萩城跡(指月城跡)から旧厚狭毛利家萩屋敷長屋を見て、萩城城下町を通って萩博物館

    へ行き、松陰神社を周って、萩有料道路の萩市側入口傍の道の駅「萩往還公園」へ至る

    道筋であった。

萩城跡  別名指月城(しずきじょう)跡  国の史跡  慶長9年(1604)毛利輝元築城

   日本海に張り出した指月山(標高143m)の詰の丸と、その山麓に梯郭式に本丸、二の丸、

   三の丸を配し、三重の堀を巡らした平山城であるという。一方、平山城ではなく平城と山城

   であるといい、他方、海城であるという見解もあるという。

   今は無いかつての天守は複合式望楼型五層五階で赤瓦葺きであったという。明治7年

   (1874)、廃城令により、天守、櫓などの建物が破却されたという。

旧厚狭毛利家萩屋敷長屋

旧厚狭毛利家萩屋敷長屋

    この建物の前の通りにある土産物店で、旅の記念に萩焼の中皿5枚を求めた。

萩博物館

萩博物館の長屋門から萩の町並みを見る

萩博物館で昼食をとり、お土産に「夏みかん丸漬」を求めた。これがすこぶる美味。

松陰神社

明治23年(1890)創建

松陰神社境内にある吉田松陰幽囚の旧宅   国指定史跡  萩市大字椿東字新道

松陰神社境内にある吉田松陰幽囚の旧宅の案内板

松陰神社境内にある松下村塾   右手奥に少し見えるのが吉田松陰幽囚の旧宅

     吉田松陰が身分や階級にとらわれずに教育を行った松下村塾。わずか2年半の歳月

     であったが、久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など幕末から明治維新の原

     動力となった逸材を育てた場所だ。

     松陰の講義は門人の求めに応じて、一人一人を相手とする個別授業の形で行われて

     いたという。そしてその方法は、松陰自身が

       「余は穏かに人を諭し、自ら悟り、自ら省みる所あらしむる様にと心掛くる者なり」

     と述べているように、門人の自己教育を重視するものであったという。

     

     吉田松陰が、門弟たちに向けた辞世の歌の一つが

           身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魄

     である。

松陰神社境内にある松陰歌碑

親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん      寅次郎

    吉田松陰、通称寅次郎。

    安政6年(1859)幕府は安政の大獄により、長州藩に松陰の江戸送致を命ず。松陰は

    老中暗殺計画を自供して、自らの思想を語り、同年、江戸伝馬町の獄において斬首刑に

    処さる。享年30(満29才没)

    獄中にて家族に宛てた遺書に遺した辞世の歌が、この歌碑に刻まれている。

伊藤博文旧宅

萩有料道路の萩市側入口傍の道の駅「萩往還公園」    中央の道が復元された萩往還

   萩往還は、城下町萩と瀬戸内の港町、三田尻(防府)を結んだ街道で、萩藩主が参勤

   交代などで通ったため御成道(おなりみち)とも呼ばれ、山陰と山陽とを結ぶ萩藩内の

   主要な街道であった。

   道の駅「萩往還公園」には松陰記念館があって、松下村塾の講義室が復元展示されて

   いる。

萩往還公園

萩往還はトンネルの上を越えたであろう。


2008.11.7(金) 電気クラス会で長門湯本温泉に行く

2011-09-29 | 旅行記

今日の街角風景は、電気クラス会に出席のため、長門湯本温泉に行ったことである。

 

電気クラス会が開かれた、山村別館     山口県長門市湯本温泉

 

     43年前に、卒業謝恩会で訪れたことがあるホテルだ。当時は木造の山村本館で

     あったが、その後建て替えられて山村別館となったという。本館跡は駐車場となって

     いるとのことだ。

 

山村別館 宴会場

 

電気クラス会

 

昭和40年の卒業32名で、現在30名の会である。

今日の会には12名が集まった。

 

二次会はカラオケルームでカラオケ競演と談笑であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翌日の長門湯本温泉の朝    正面の道を行くと大寧寺、俵山温泉に至る

 

長門湯本温泉の朝   右側にJR長門湯本駅  その前方の山裾の向こうに長門市街と日本海が広がる


2008.11.6(木) 長崎市立岩町の高台から城山町を眺望す

2011-09-29 | 旅行記

  今日の街角風景は、長崎市立岩町の高台から、僕の生まれ育った城山町界隈を眺望する。

長崎市の稲佐山の北端に位置する立岩    その下の高台のスーパーの駐車場

    ここから僕の生まれ育った城山町界隈を眺望する。長崎市城山町は長崎市街地の

    北部に展開する町であり、戦前の新興住宅街であり、原爆で壊滅し原子野と化した

    町である。

立岩町の高台から北の方を望む

    右側の赤い屋根は宝栄町の活水女学院高等部、中央の赤レンガ色の建物は平和町の

    国際文化会館、その斜め左前方の森が松山町の原爆落下中心地である。左側枠外に

    城山町がある。

立岩町の高台から北の方を望む

    中央やや左手の建物が九電長崎支店、この建物を含む前方および左方が城山町。

    右端のビルに囲まれた森が原爆落下中心地で、九電長崎支店との直線距離は

    300メートル位であろうか。原爆落下中心地と九電長崎支店の間の奥にレンガ色の

    二つのドームを持つ浦上天主堂が見える。僕は原爆で廃墟となった悲しくも美しい

    レンガ造りの、マリアや天使の像で守られた荘厳な浦上天主堂を、今でも瞼の奥に

    はっきりと見る。

僕の生まれ育った城山町界隈    中央白い建物は城山小学校

城栄町商店街    街路樹は南京ハゼ


2008.11.5(水) 「工業会」に出席のため長崎に行く

2011-09-29 | 旅行記

今日の街角風景は、長崎勤務時代のOB会「工業会」に出席のため長崎に行った時の

    ものである。「工業会」は年に一度開かれており、これに出ることが楽しみなのだ。

「工業会」が開かれる長崎市筑後町のホテルセントヒル長崎

   あはれあはれ ここは肥前の 長崎か 唐寺の甍(いらか)に ふる寒き雨  (斉藤茂吉)

   歌人斉藤茂吉は、長崎医学専門学校の教授に任ぜられて、大正6年12月18日、午後

   5時5分に長崎駅頭に降り立ったと云われている。前述の歌は、この日の感銘だといわれて

   いる。

   唐寺の甍(いらか)にふる寒き雨・・と詠った唐寺とは、長崎駅前の丘にある筑後町の福済寺

   であったであろうか。あるいは福済寺と玉園町の聖福寺の二つの唐寺であったろうか。

   「工業会」が開かれる長崎市筑後町のホテルセントヒル長崎のわずか丘上に福済寺がある。

筑後町のホテルセントヒル長崎の前から西坂町方面を見る   

中央に尖塔を持つ建物は日本26聖人記念聖堂

筑後町から坂下の中町あたりを見る

ホテルの宴会室で見た斉藤茂吉の歌を書いた掛軸

長崎の 昼しづかなる 唐寺や 思ひいづれば白き さるすべりの花   (斉藤茂吉)

     斉藤茂吉は37歳の晩春から大正10年3月までの丸3ヵ年、ホテルのすぐ近くの

     上町(当時は東中町)に住んだという。

     この「唐寺や」の唐寺は、これまたホテルから程近い聖福寺であろうか。

工業会

夜の思案橋通りを船大工町方向へ歩く

船大工町のバービルについた

ラウンジ シルク・ロード

ラウンジ シルク・ロード

ラウンジ シルク・ロード

ラウンジ シルク・ロード


2008.9.9(火) 長崎の城山町界隈を行く

2011-09-29 | 旅行記

今日の街角風景は、爆心地から直線距離で1キロメートル位にある長崎市の城山町界隈

    である。僕の人生の47年間を過ごした街である。

城山町二丁目市場の外観   店は建物の中央通路に沿ってある

    昭和30年ごろ建った当時の花形市場だった。今は魚や、肉や、野菜や、果物やなど

    6、7店が営業しているだけだ。かってはこの市場から御用聞きが来て、配達がなされて

    いた。周辺に数軒あった、このような市場は、今はこの一軒をのこすのみ。

    ここには中華菓子の「おひねり」などの製造所もあり、勿論販売もしている。これが美味い。

城山町二丁目市場からよく行った稲佐山をみる

長崎に行く途中に立ち寄った長崎自動車道金立(きんりゅう)SA


2008.6.22(日) 名古屋複合立体都市・JRセントラルタワーズ

2011-09-29 | 旅行記

今日の街角風景は、昨日に引き続き、JR名古屋ターミナル駅の直上に建つJRセントラル

   タワーズである。昨日は、新幹線のぞみ12号で博多を出てJRセントラルタワーズに入り、

   山本屋総本家の味噌煮込みうどんの昼食をとり、名古屋マリオットアソシアホテル52Fの

   フランス料理「ナゴヤミクニ」でディナーをとり、名古屋マリオットアソシアホテル25Fに宿泊

   した。

   今日は名古屋マリオットアソシアホテル18Fの日本料理「華雲」で朝食をとり、JRセントラル

   タワーズプラザ13Fの三田屋(さんだや)本店でビフテキの昼食をとり、太閤通口地下街で

   名古屋の土産を仕入れて、新幹線のぞみ35号で名古屋を発って博多に向った。

 

   名古屋一の高層ビルとなったミッドランドスクエア(地上247m)の見学を除けば、この旅行

   は博多から新幹線でJR名古屋駅に行き、そして新幹線で博多に帰ってきただけのことに

   なる。即ち、二日間にわたって名古屋のJRセントラルタワーズを一歩も動かなかったのだ。

 

   JR名古屋ターミナル駅の直上に建つJRセントラルタワーズは、都市生活にオフィスや駐車

   場、百貨店やホテル、レストラン街などの付加価値のある様々な機能を結合させた「複合

   立体都市」であるという。

 

   名古屋一の高さは、僅か2mの差で隣のミッドランドスクエア(247m)に譲ったが、中部

   地区・名古屋のランドマークであることには変わりない。

 

広小路口から見るJRセントラルタワーズ

 

   11F迄がJRタカシマヤで、その上2Fがレストラン街(タワーズプラザ)の箱型のビルで、

   この箱型のビルの上に円筒型の二つのビルを乗せたツイン構造である。

   中層階の張り出しは15Fがスカイストリートと呼ばれる二つの円筒型のビルへの通路で、

   16F、17Fは宴会場である。

   左が53Fのホテルタワー(226m)で名古屋マリオットアソシアホテルが入っている。右が

   51Fのオフィスタワー(245m)でJR東海本社等が入っている。   

 

広小路口から見るミッドランドスクエアとスパイラルタワーズ

 

   ミッドランドスクエア(豊田・毎日ビルディング)は2006年9月竣工とか。左側にオフィス棟

   (247m)があるが写真には殆ど写っていない。1Fにトヨタのレクサスギャラリーがあった。

   JRセントラルタワーズとは地下通路で結ばれている。

 

   右に見えるのはスパイラルタワーズで宇宙空間の建造物かと思えるほどの斬新さだ。

   竣工は2008年4月とか。

 

 

名古屋マリオットアソシアホテル側から見たミッドランドスクエア

 

名古屋マリオットアソシアホテル25Fの部屋から見た ミッドランドスクエア

   地下6F、地上47F、高さ247m、屋上緑化の様子が見える。B2F~B6Fは駐車場で

   450台収納とか。

 

名古屋マリオットアソシアホテル18Fの日本料理「華雲」の入口路地

 

名古屋マリオットアソシアホテル18Fの日本料理「華雲」の入口

 

名古屋マリオットアソシアホテル18Fの日本料理「華雲」から見た名古屋城

 

名古屋マリオットアソシアホテル18Fの日本料理「華雲」で朝食を摂る

 

JRセントラルタワーズプラザ13Fの三田屋(さんだや)本店

 

三田屋(さんだや)本店 オードブル

 

三田屋(さんだや)本店 メイン

 

新幹線側の太閤通口地下街で名古屋の土産を仕入れる

 

新幹線側の太閤通口地下街で名古屋の土産を仕入れる

 

15:53名古屋発のぞみ35号で博多に向う    博多着は19:13だった


2008.6.21(土) 「ミクニナゴヤ」で食事のため名古屋に行く

2011-09-29 | 旅行記

今日の街角風景は、「ミクニナゴヤ」で夕食をとるため、JR名古屋ターミナルの直上に位置

  する、JRセントラルタワーズのホテルタワー53階に行ったことである。

 

8:30博多発のぞみ12号で名古屋に向う

 

JR名古屋駅中央コンコース桜通口の「金の時計」広場

 

この直上に世界一背の高い駅ビル「JRセントラルタワーズ」がある

    

 

JR名古屋駅桜通口から駅前ロータリーを見る

 

JR名古屋ターミナルの直上に位置するJRセントラルタワーズ

 

   左がホテルタワーで地上53F、226m    右がオフィスタワーで地上51F、245m

   タワーズ駐車場は14F、約1,500台収納  

   

   ビルの構造は11FまでのJR名古屋タカシマヤの上に、2Fのレストラン街(タワーズプラザ)

   を乗せ、その上に円筒形のビル、オフィスタワーとホテルタワーを乗せたツイン構造である。

   二つのタワーのエントランスストリートは15階にあり、スカイストリートと呼ばれ、眼下に

   名古屋の街とお城の眺望が拡がる。JR名古屋タカシマヤには東急ハンズ、三省堂書店

   なども入っている。オフィスタワーには勿論、JR東海本社も入っている。ホテルタワーには

   名古屋マリオットアソシアホテルが入っており、今日の夕食はこのホテルの53Fにある

   「ナゴヤミクニ」でとることにしている。

   

   駅ビルとしては、世界最高の245mの高さで「世界一背の高い駅ビル」といわれる。

   延べ面積も 416,565㎡ で、日本一広いビルだそうだ。

 

   1999年竣工、2000年にJR名古屋タカシマヤと名古屋マリオットアソシアホテルが

   オープンし、「複合立体都市」といわれるJRセントラルタワーズが機能を開始したと。

                                                                

                                                                                                    

   JRセントラルタワーズの対面に位置するミッドランドスクエアから太閤通口を見る

  左がJRセントラルタワーズのホテルタワー、 地上53F、226m

  右がJRセントラルタワーズのオフィスタワー、地上51F、245m

 

JRセントラルタワーズの対面に位置するミッドランドスクエアから名古屋城を見る

 

JRセントラルタワーズ案内板

 

JRセントラルタワーズのタワーズプラザの山本屋総本家で味噌煮込みうどんの昼食をとる

 

JRセントラルタワーズ15F   名古屋マリオットアソシアホテルのロビー入口

 

JRセントラルタワーズ15F   名古屋マリオットアソシアホテルのロビーで

 

名古屋マリオットアソシアホテルの25Fの部屋からミッドランドスクエアを見る

 

      ミッドランドスクエア(豊田・毎日ビルディング)は地下6階、地上47階、高さ247mで

      ミッドランドスクエアの竣工は2006年9月で、1999年竣工のJRセントラルタワーズの

      オフィスタワーの高さ245mを抜いて名古屋一高いビルとなった。

 

                                                                                      

名古屋マリオットアソシアホテル53Fの「ミクニナゴヤ」

 

   オードブルを盛る大きな皿のなんと豪華で美しいことか。調理していない食べられるか

   食べられないか分からない装飾モノは皿の上に一切出なかったことには感心した。 

   十数種のチーズとケーキのワゴンサービスを受けたが、かってに遠慮してか、少なめに

   チョイスしたことが悔やまれる。それだけチーズとケーキと紅茶も美味しかったということか。

 

今夜の「ミクニナゴヤ」のメニュー

 

「ミクニナゴヤ」で

 

「ミクニナゴヤ」で


2008.6.14(土) 佐賀県有田のチャイナオンザパーク

2011-09-29 | 旅行記

  今日の街角風景は、孫に会いに行く途中に立ち寄った、佐賀県西有田町の深川製磁の

   工場内にあるチャイナオンザパークである。チャイナオンザパークは深川製磁の展示館、

   アウトレット館、レストラン、ラベンダーガーデン等から成っている。

深川製磁作品展示館  「忠次館」

    深川製磁の初代、深川忠次は1900年のパリ万国博に大花瓶を出品し、金賞を受賞。

    忠次の作品から現在までの作品を同時に展示している。

    深川製磁の磁器は山マーク(富士に雲)のブランドマークで知られている。透きとおる

    ような青色の染付けは「フカガワブルー」と呼ばれ有名だ。

レストラン 究林登(クリント)

カレーライスの昼食をとる   ここで使われていた楕円形の中皿を記念に求めた

忠次館前からチャイナオンザパークを見る

前方に有田の歴史と文化の森公園と、ほのお博記念堂が見える


2008.4.27(日) 諫早に本明川を見る

2011-09-29 | 旅行記

   今日の街角風景は、親戚の法事の会食をした料理屋「魚莊」から見た長崎県諌早市を流れる

   本明川(ほんみょうがわ)の風景である。

   諫早市(いさはやし)は長崎県の中央部にあって、人口は14万人を越える長崎県第3の人口

   を有する都市である。

   2005年3月1日に北高木郡飯盛町、森山町、高木町、小長井町および西彼杵郡多良見町

   と合併し、人口14万都市となった。これによって、かって諫早市も属していた北高木郡は所

   属する自治体がなくなり、消滅した。

長崎県の多良山系に源を発する本明川(ほんみょうがわ)が諫早の市街地に入ってきた。

右岸(写真で左側)側は永昌(えいしょう)東町、左岸側は天満町、直近の橋は四面橋だ。

     昭和32年7月25日にこの地を襲った集中豪雨により起こった、本明川の大洪水は

     諫早大水害と呼ばれ、539名の人命を奪った。僕はこのとき高校1年で長崎にいて、

     忘れることのできない諫早大水害を知ったのだ。     

     この時の現地情報はアマチュア無線に頼るしかなかったといわれる。

JR諫早駅は右岸(写真の左側)にあって、それと並行する形で本明川は南下する

本明川が左にカーブして東行する辺り

  カーブしている向こう岸は天満町で旧諫早街道が通る歓楽街

諫早の市街地を東に流れ下る本明川   左岸側が城見町、右岸側が高城町

   右岸側の小山は高城址で今は諫早公園となっている。この諫早公園に、国指定重要文化

   財の眼鏡橋(天保9年(1838)5月起工、翌年8月完工の石橋)が移築、保存されている。

   かっては向こうの方の橋の近くに天保10年(1839)架橋の石橋・眼鏡橋があった。諫早

   大水害の時、本明川に架かるこの眼鏡橋が頑丈であったため、流失せず、流木等をせき

   止めて洪水の被害を拡大したのではないかとも言われている。

諫早の市街地を東に流れ下る本明川はやがて有明海にでる。

右岸側の小山は高城址(あるいは亀城址)で諫早公園となっている。

   諫早家の始祖 龍造寺家晴は諫早2万6200石で召抱えられた佐賀鍋島藩(37万7千石)

   の陪臣である。家督を継いだ龍造寺直孝は本藩に従属し、御親類同格とされていることに

   鑑み、龍造寺の姓を改め、伊佐早の地名からこれを縮めたを諫早とし、地名も諫早とした。

   諫早家は本藩より命ぜられた諸役の他に、長崎の警備を分担し、長崎街道を往来する長崎

   奉行などの公用の旅行者に宿舎や人馬を提供した。


2008.3.28(金) 対馬紀行・対馬空港から浅茅(あそう)湾を見て福岡に向う

2011-09-29 | 旅行記

  今日の街角風景は、対馬空港から浅茅(あそう)湾を見て福岡に向う風景である。

  魏志倭人伝に記された対馬の地名が21世紀の今でも毎日使用されている。平成16年3月に

  対馬は島全体が一つになって対馬市が誕生した。そして厳原、美津島、豊玉、峰、上県、

  上対馬などの島の地名も安易に改変されることはなかった。

  民族学者の谷川健一氏は次のように言っておられる。

    地名は単なる記号ではない。日本人の情緒を触発する媒体である。歌枕の多くは地名

    である。この歌枕をたどって芭蕉の「おくのほそ道」の旅はつづけられた。地名はまた、

    「大地に刻まれた百科事典の索引」である。地名は更に「時間の化石」である。・・・と。

万関橋を渡って対馬空港に近づく

       万関橋(まんぜきばし)は、明治33年、日本海軍が艦船の航路として人工的に開削した

   瀬戸に架かる橋で、現在三代目となる。

  対馬空港前から白嶽(しらたけ 519m)を遠望す

対馬空港   ヤブツバキの花が咲いている   対馬は「つばきの島」である

対馬空港売店  さざえと真珠のブローチをお土産に求める

福岡行きのB-737が入ってきた   懐かしいドルフィン号だ

空港を飛び立ち浅茅湾(あそうわん)上空へと上昇する

浅茅湾(あそうわん)

浅茅湾(あそうわん)

   魏志倭人伝のレポーターは、この浅茅湾(あそうわん)に入港し、対馬国を紹介したのでは

   ないかと思えてくる。波静かな浅茅湾(あそうわん)に入れば、安泰であったに相違ない。

浅茅湾(あそうわん)を見て、眼下の対馬空港をあとにする

機は福岡市の大濠公園を見て、福岡空港に着陸する。

これで対馬紀行を終える


2008.3.28(金) 対馬紀行・玄海つつじと豊玉町

2011-09-29 | 旅行記

  今日の街角風景は、豊玉町仁位から対馬空港寄りの国道382号線脇の玄海つつじの花と

  豊玉町仁位の中心部の風景である。

  魏志倭人伝に対馬国のことが記載されている。

  始度一海 千余里 至対馬(対海)国 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離 所居絶島 方可四百

 

  余里 土地山険多深林 道路如禽鹿径 有千余戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴

  ( 始めて一海を渡り千余里で対馬国に至る。その大官は卑狗(ヒコウ、ひこ、ひく)といい、

   副官は卑奴母離(ヒドボリ、ひなもり)という。居する所は絶島で、およそ四百余里四方で

   ある。土地は山が険しく、深い森が多く、道路は鳥や鹿の道のようである。千戸余りの家

   がある。良田は無く、海産物を食べて自活している。船に乗って南北に行き、商いをして

   穀物を買い入れている。 )

  魏志倭人伝にいう対馬国とは、この地、豊玉町一帯ではなかったろうかと思えてきた。

玄海つつじ

玄海つつじ

玄海つつじ

つつじいけて 其陰に干鱈(ひだら) さく女        芭蕉

ホテルから見た霧立ち昇る豊玉町仁位の森

ホテルから見た豊玉町文化の郷

  公会堂、郷土館、文化会館をもつ公園である。豊玉姫の大きな白い像も建っている。

対馬市豊玉支所庁舎   対馬市議会も入っている

対馬市議会議場の前にあるスーパー

対馬市議会議場の前にあるスーパー

対馬市議会議場の前にあるスーパー    水槽には魚が泳いでいるのだが・・・

長崎県立豊玉高等学校


2008.3.27(木) 対馬紀行・海幸彦、山幸彦の地、豊玉町を行く

2011-09-29 | 旅行記

  今日の街角風景は、海幸彦、山幸彦の伝承をもつ対馬豊玉町仁位の和多都美(わたづみ)

  神社である。

  山幸彦(やまさちひこ)である弟の彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)が、海幸彦(うみ

  さちひこ)である兄の火闌降命(ほのすそりのみこと)の釣針を借りてこれを失い、海岸をさま

  よい歩くうちに塩土老翁(しおつちのおじ)(場所を教える神)に逢い、籠の中にいれられて

  海に沈められる。たちまちに海神宮(わたつみのみや)に至る。と日本書紀にあるという。

  和多都美(わたづみ)神社の主神は山幸彦である彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と

  かれが通じて一児を生ませたという豊玉姫命(とよたまひめのみこと)であるという。

  この地を訪れ、一見して厳島神社の原型がここ和多都美(わたづみ)神社にあると思った。

和多都美(わたづみ)神社の海中の鳥居   対馬市豊玉町仁位・浅茅湾(あそうわん)

和多都美(わたづみ)神社の海岸ぎわの鳥居は先の台風で損壊し、新調された

海中の鳥居を背に和多都美(わたづみ)神社正面を見る

  鳥居の先の本殿の左脇まで潮が入ってくる。左に三柱鳥居に祀られた磯良恵比須(いそら

  えびす)が見える。

和多都美(わたづみ)神社本殿に向って右側を流れる川     潮があがってくるはずだ

和多都美(わたづみ)神社本殿参道

和多都美(わたづみ)神社本殿      対馬市豊玉町仁位・宇和宮

和多都美(わたづみ)神社本殿に向って左側にある三柱鳥居と細石(さざれいし)

  この奥に豊玉姫(とよたまひめ)の墳墓といわれるものがあるが、磐座(いわくら)とはこういう

  ものだと思われるような神秘的な場所である。

和多都美(わたづみ)神社   三柱鳥居に祀られた磯良恵比須(いそらえびす)

   海とつながっており、潮の干満がある、一つの神社に二つの三柱鳥居があるのは極めて

   珍しいというより、全国で唯一ではなかろうか。 

和多都美(わたづみ)神社   三柱鳥居に祀られた磯良恵比須(いそらえびす)

   三柱鳥居に祀られたこの岩は磯良恵比須(いそらえびす)といわれている。背面に鱗状の

   亀裂が見られるこの岩は、今もなお神聖な霊場として祭られている。これを磯良(いそら)の

   墓とした伝説があるが、これは社殿が営まれる以前の古い祭祀における霊座か、それとも

   御神体石だったのではないかと思われる。というようなことが白い案内板にみえる。

   この地は海から社務所のところまで潮が満ちてくる中間にある。いま潮が引いている。

   磯良(いそら)は安曇(あずみ)氏の祖神で神功皇后三韓征途に際し、水先案内をしたという。

   安曇(あずみ)、阿曇(あずみ)、海人(あま)、海部(あまべ)などとさまざまに表記される古代

   の海人族は、古代日本を両分するほどの巨族であったという。 

 

豊玉町仁位(にい)のホテル   ここで念願の対馬名物「いりやき」を食す