福岡万葉散歩

街の様子や木々や草花を眺め乍ら、先人の俳句や和歌を織り込んで、今の季節を楽しみたい。たまには万葉散歩も楽しみたい。

2018.9.12(水) 二水会で天神へ出る

2018-12-04 | 街角風景

二水会で天神へ出た。ミャンマーのアウン・サン・スー・チーさんは何故にロヒンギャに冷たいのであろうか。それはロヒンギャがバングラディシュ側からミャンマーに流入しミャンマーの一部民族を蹂躙した歴史があると聞いて納得した。

以下にロヒンギャの歴史についてウキペディアの一部を転載する

歴史的経緯[編集]

先述のミャウー朝アラカン王国は15世紀前半から18世紀後半まで、現在のラカイン州にあたる地域で栄えていた。この時代、多数を占める仏教徒が少数のムスリムと共存していた。折しもムスリム商人全盛の時代であり、仏教徒の王もイスラーム教に対して融和的であった。王の臣下には従者や傭兵となったムスリムも含まれ、仏教徒とムスリムの間に宗教的対立は見られなかった。アラカン王国は1785年にコンバウン朝の攻撃により滅亡し、その後、旧アラカン王国の地は40年ほどコンバウン朝による統治がなされるが、それを嫌ったムスリムがベンガル側に逃げ、ラカイン人仏教徒も一部が避難した[35]

だが、このような状況は19世紀に一変した。コンバウン朝は第一次英緬戦争に敗北し、1826年にラカインは割譲され英国の植民地となった。すでに英領インドとなっていたベンガル側より、コンバウン朝の支配から逃避していた人々が回帰したことに加え、新しく移住を開始する者も増え、大勢のムスリムが定住していった。このような急激な移民の流入が、北部ラカインの仏教徒とムスリムとの共存関係を崩した。1886年、コンバウン朝は第三次英緬戦争に敗北して滅亡、ビルマ全土が英領インドに編入された。これにより多数のインド系移民(印僑)が流入するに至る。印僑には商工業経営や金融業、植民地軍将兵や下級公務員としてビルマに赴き、ラングーンなどに長期滞在したり定住するものも一定数いたが、多くの場合はヒンドゥー教徒やムスリムを問わず、下層労働者としての移住者であり、3-4年ほどでインドに戻る短期移民であった。だが、ラカイン北西部に移民したムスリムは、同じ下層労働者であっても定住移民となって土着化し、仏教徒との軋轢を強めていった[35]

このような流れのなか、20世紀初頭からインド系移民への排斥感情が強まり、1939年、英領ビルマでは、ビルマ人仏教徒女性を保護するという名目で、外国人との通婚にさまざまな制限を課す法律が植民地議会を通過して施行され、実質的にビルマ人仏教徒女性とインド系ムスリム男性の結婚を制限しようとした。ほぼ同時に、結婚によって仏教徒からムスリムに改宗した(させられた)ビルマ人女性が夫へ離婚申し出をおこなう権利を保持していることを認める法律も、施行された。また第二次世界大戦中、日本軍が英軍を放逐しビルマを占領すると、日本軍はラカイン人仏教徒の一部に対する武装化を行い、仏教徒の一部がラカイン奪還を目指す英軍との戦いに参加することになった。これに対して英軍もベンガルに避難したムスリムの一部を武装化するとラカインに侵入させ、日本軍との戦闘に利用しようとした。しかし、現実の戦闘はムスリムと仏教徒が血で血を洗う宗教戦争の状態となり、ラカインにおける両教徒の対立は取り返しのつかない地点にまで至る[35]。特に、ビルマの戦いにおける1942年の戦闘では、英軍側のムスリムによって2万人以上のラカイン人が殺されたといわれ、今日に至るまで、ミャンマー国内における反ロヒンギャの強い動機となっている[36][37]

1948年1月、ビルマは共和制の連邦国家として英国からの独立を達成した。しかし、ビルマは独立直後から、民族対立・宗教対立・イデオロギー対立などにみまわれて、混乱は収束することなくそのまま内戦に突入した(ビルマ内戦)。ラカイン州も例外ではなく、当時の東パキスタン(現バングラデシュ)と国境を接する北西部は、1950年代初頭まで中央政府の力が充分に及ばない地域として残された。東パキスタンで食糧不足に苦しんだベンガル人(ムスリム)がラカインに流入し、そのことが仏教徒との対立をさらに強めた。流入したムスリムのなかには、1960年代初頭に政府軍によって鎮圧された、ムジャヒディンを名乗るパキスタン人の率いた武装反乱勢力も存在した。この混乱期において、ラカイン北西部に住むムスリムの「総称」として「名乗り」を挙げたのがロヒンギャだった[35]。 現在、ロヒンギャの名前を付した文書として最も古く遡れるものは、1950年に彼らがウー・ヌ首相に宛てた公式の手紙である。これ以前にもロヒンギャ名が使われた可能性は否定されていないが、使用したとする確実な史料はみつかっていない。宗主国英国側の行政文書には、チッタゴン人(Chittagonians)という表記が圧倒的に多く、ロヒンギャないしはそれに近い発音(スペル)の名称はいっさい登場しない[35]

ビルマ人の歴史学者によれば、アラカン王国を形成していた人々[注釈 2]が代々継承してきた農地が、英領時代に植民地政策のひとつである「ザミーンダール(またはザミーンダーリー)制度」によって奪われ、チッタゴンからのベンガル系イスラーム教徒の労働移民にあてがわれたという。この頃より、「アラカン仏教徒」対「移民イスラーム教徒」という対立構造が、この国境地帯で熟成していったと説明している。

日本軍の進軍によって英領行政が破綻すると、失地回復したアラカン人はビルマ軍に協力し、ロヒンギャの迫害と追放を開始[注釈 3]した。1982年市民権法でロヒンギャは正式に非国民であるとし、国籍が剥奪された。そのため、ロヒンギャの多くは無国籍者である。市民権法はロヒンギャに限らず、1948年1月の独立時点で、ビルマ国内に居住していない、あるいは居住が確認されていないとした者の国籍を全て剥奪した法律だった[38]

現在のミャンマーは、新規の帰化についても原則として政府の認めた135民族に限っているため[39][40][注釈 4]、ロヒンギャが改めてミャンマーへの帰化を申請しても、認められることは無い。ただし、みずからロヒンギャであることを否定し、「ベンガル人」であることを認めた者については、帰化が認められた例がある[41]。根本敬によると、ミャンマーではリベラル派など「ベンガル人」への国籍付与を容認する論者であっても、「不法移民のベンガル人」が、ロヒンギャを名乗り、ミャンマー土着民族を「騙る」ことを止めるならば考慮してもよいという見解である[41]。このように、ロヒンギャの存在自体の否定が、ミャンマー国内では主流となっている。

一方で参政権は、公的には無国籍であっても行使できた時期もあったが、2015年の総選挙では名実ともに剥奪された[42]

なお、ロヒンギャのように国籍を剥奪された住民には、仮の身分証明書として「臨時証明書」が発行された。2015年6月1日より、これに代わって「帰化権審査カード」が交付されている。1982年の市民権法に基づいて再審査を行うという意味だが[43][44]、前述の理由でロヒンギャのミャンマー国籍は認められない。

1988年、ロヒンギャがアウンサンスーチーらの民主化運動を支持したため、軍事政権はアラカン州(現ラカイン州)のマユ国境地帯に軍隊を派遣し、財産は差し押さえられ、インフラ建設の強制労働に従事させるなど、ロヒンギャに対して強烈な弾圧を行った。ネウィン政権下では「ナーガミン作戦」が決行され、約30万人のロヒンギャが難民としてバングラデシュ領に亡命したが、国際的な救援活動が届かず1万人ものロヒンギャが死亡したとされる。結果、1991年 - 1992年と1996年 - 1997年の二度、大規模な数のロヒンギャが再び国境を超えてバングラデシュへ流出して難民化したが、同国政府はこれを歓迎せず、国際連合難民高等弁務官事務所(UNHCR)の仲介事業によってミャンマーに再帰還させられている。

2017年現在、ロヒンギャの国外流出と難民化の問題は解決していない。

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天神益正にて

冗談倶楽部にて

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