福岡万葉散歩

街の様子や木々や草花を眺め乍ら、先人の俳句や和歌を織り込んで、今の季節を楽しみたい。たまには万葉散歩も楽しみたい。

2008.3.25(火) 対馬紀行・城下町厳原を行く

2011-09-29 | 旅行記

今日の街角風景は、長崎県対馬市厳原町の武家屋敷跡が残る城下町の風景である。

   12世紀には対馬藩主、宗(そう)氏の始祖・惟宗(これむね)氏が筑前の宗像(むなかた)郡

   から対馬に入国する。対馬守護、地頭であった大宰府の小弐氏の代官として、次第に対馬

   での実権を握って、宗(そう)家の始祖となったという。建久6年(1196)宗家の始祖・惟宗氏

   の名前が対馬の在庁官人のなかに初めて見られるという。

金石(かねいし)城跡    対馬市厳原町金石   清水山の麓

    金石城は享禄元年(1528)宗家第14代将盛が、この地に屋形を造営したもので、桟原

    (さじきはら)に新たな居館ができるまでの約150年間にわたって、宗家の居城であった。

    写真の遺構は、平成2年に発見されたものという。

対馬歴史民族資料館の前庭に建つ朝鮮国通信使之碑   右側にヤブツバキの花

   対馬歴史民族資料館は厳原町の中心、今屋敷にある。このすぐ奥に金石城跡の櫓門が

   ある。

韓国旅行団が対馬歴史民族資料館見学に訪れた

朝鮮国通信使之碑の横に建つ珠丸遭難者慰霊塔    厳原町今屋敷

   先の大戦を生き延びた九州郵船の珠丸(たままる)(800トン)(博多~対馬~釜山航路)は

   昭和20年(1945)10月14日、連合軍の航行差止めが解かれて、戦後はじめて対馬から

   博多への航海に出発した。船が壱岐・勝本の北方約16マイルにさしかかった午前9時ごろ

   機雷に触れ爆沈した。乗船名簿によると730名乗船ということであった。

   今なお対馬海峡の海底深く珠丸とともに眠っている方々の慰霊のため建立された。

武家屋敷塀の残る道を行く

 武家屋敷塀の残る道を行く

半井桃水生誕の地

   半井桃水(なからいとうすい)は樋口一葉の小説の師ではあるが、一葉の想われ人として

   知られている。

   半井桃水は万延元年(1860)対馬厳原の生まれ。藩主宗家の御典医の家の長男。東京

   朝日新聞入社、小説記者、代表作に朝鮮半島を舞台にした「胡砂(こざ)吹く風」、「春香伝」

   などがある。大正15年没、享年65

   

   樋口一葉(明治5年(1872)~明治29年(1896)

   一葉日記の明治24年(1891)4月15日の項に、初めて桃水を訪ねた記述に「色いと白く

   面ておだやかに少し笑み給えるさま誠に三才の童子もなつくべくこそ覚ゆれ。丈けは世の人

   にすぐれて高く肉豊かにこえ給えばまことに見上る様になん」とあるという。

   

   焼き捨てよと妹くにに手渡された一葉の日記は、死後15年を経て公開され、そこに記された

   桃水への尽きぬ思いは多くの人々に衝撃を与えたという。

八幡宮神社

藩校・日新館門    長崎県指定有形文化財・建造物    対馬市厳原町桟原

    元対馬藩主宗氏の中屋敷門であったが、幕末には藩校・日新館に用いられた。江戸末期

    における大名家の格式を備えた武家屋敷門としては長崎県唯一のものである。

    日新館は幕末、対馬勤王党の拠点であったが、藩の内紛によりその多くが憤死して、痛恨

    の歴史を遺したといわれる。

    昭和45年、長崎地裁厳原支部の改築工事に伴い解体・保存していたものを平成4年に

    復元したとのこと。   

藩校・日新館門の前の国道382号線


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