福岡万葉散歩

街の様子や木々や草花を眺め乍ら、先人の俳句や和歌を織り込んで、今の季節を楽しみたい。たまには万葉散歩も楽しみたい。

2008.3.25(火) 対馬紀行・厳原町お船江跡から万松院へ

2011-09-29 | 旅行記

今日の街角風景は、福岡から空路対馬を訪問し昨夜来の雨も上がった対馬市厳原町お船江跡

  から万松院へと続く風景である。

  厳原(いずはら)は鎌倉時代、宗氏が現在の対馬市峰町佐賀から文明18年(1486)に移館

  以来、明治維新まで約380年間の城下町で、府中、府内とよばれ、維新後、厳原(いずはら)

  と改称された。

  

  対馬藩の城下町は対馬国府中、現在の長崎県対馬市厳原町におかれ、金石屋形(かねいし

  やかた)と桟原屋形(さじきはらやかた)の居城があった。

  徳川時代初期の領地石高は、対馬国が無高、肥前基肄(きい)・養父(やぶ)郡が1万石(佐賀

  県田代領)の合計1万石であるが、幕府の朝鮮貿易を任されていたので、対馬藩宗家の格式は

  10万石であったとされるとのことである。文化14年(1817)に肥前松浦郡(佐賀県)、筑前

  怡土(いと)郡(福岡県)、下野安蘇(しもつけあそ)・都賀(つが)(栃木県)の2万石を加増され

  た。

対馬藩お船江跡  長崎県指定文化財  対馬市厳原町久田

対馬藩お船江跡は厳原の南方約2kmにある。久田浦にそそぐ久田川川口に5基の

船着場があり、対馬藩お船屋の跡である。現在の遺構は寛文3年(1663)の造成

という。築堤の石積みは当時の原形を保ち、往時の壮大な規模を窺うことができる。

江戸時代、水辺の藩はその藩船を格納するお船屋を設けていたが遺存例の乏しい

現在、日本近世史上貴重な遺構であるという。今も久田浦に往時の美しい姿を映す。

対馬藩お船江跡    往時の復元船が舫っていた

  対馬名物「かすまき」の菓子店   餡のカステラ巻といったところ

この料理屋で昼食をとる

昼食はサザエ刺身定食  さすが対馬の魚介類は美味しい

西山寺(せいざんじ)

天安元年(857)島分寺が炎上した翌年、国府嶽(こうだけ)の麓に大日堂

を建てたのが大日寺と号するようになり、これがこの寺の起源だといわれる。

永正9年(1512)宗 貞国夫人の菩提寺となったことから、その法号にちなん

で西山寺(せいざんじ)と改めたという。入口の石段、石垣も見事という外ない。

西山寺下の道路から清水山(206m)を望む   厳原中心部の西にある

   森が伐採されて地肌のように見えるところがある。頂上から清水山城の一の丸、二の丸、

   三の丸と通称される城壁や石塁が残る郭(くるわ)跡である。 これらは国の史跡に指定

   されている山城の遺構である。

   豊臣秀吉の朝鮮出兵時の、いわゆる文禄慶長の役の兵站城であった清水山城址である。

   本丸(一の丸)の規模は東西約50m、南北約40mで城内の跡および枡形が残っていると

   いう。二の丸、三の丸の規模もこれに準じるとのことである。

   

清水山城の二の丸、三の丸の遺構   万松院や金石城跡は清水山の麓にある

   朝鮮出兵に際し天正19年(1591)8月、築城令が発せられ肥前の名護屋城、壱岐の勝本

   城とここ対馬の清水山城が築かれた。当時の対馬領主・宗義智が主力となり築城したといわ

   れている。

   清水山城の遺構のなかに秀吉の御座所にあてられた建造物の形跡が判明しないのは真下

   にある金石城を御座所にあて、この清水山城は背後の要塞であったというのが通説とか。

万松院(ばんしょういん)    国指定史跡    対馬市厳原町西里・金石

   元和元年(1615)第20代対馬藩主、宗義成(そうよしなり)が父・義智(よしとし)の菩提を

   弔うために創建し、父の法号に因んで「万松院(ばんしょういん)」としたという。

   万松院の建物は数度の火災により焼失したが、桃山様式を残すこの山門と両側の仁王尊

   のみが、昔の面影を留めているという。

万松院(ばんしょういん) 仁王尊

万松院墓地  百雁木(ひゃくがんぎ)  132段の石段

   万松院の墓地である。桃山様式を残す山門の脇から、百雁木(ひゃくがんぎ)とよばれる

   132段の自然石の大石段を上ったところにある。

金石城(かねいしじょう)跡   清水山の麓、万松院の隣にある

   金石城は享禄元年(1528)宗家第14代将盛が、この地に屋形を造営したもので、桟原

   (さじきはら)に新たな居館ができるまでの約150年間にわたり宗家の居城であった。

   写真の遺構は平成2年に発見されたという。驚きだ。


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