出石城は兵庫県豊岡市出石町内町にあります。東海古城研究会の一泊二日の特別見学会「丹波・但馬の古城を訪ねて」に参加して見学しました。出石城は山名氏の築いた有子山城の北麓にあり、有子山城の居館を小出氏が出石城として整備したとされます。今回の参考資料は (1)見学会資料 (2)パンフレット「有子山城跡 出石城跡」山名氏城跡保存会編 出石まちづくり公社発行 などです。
出石城 山名氏は此隅山城から、標高の高い有子山城に移り強固な城を築いた
山名氏の居館が在ったとされる山下の地に小出氏によって整備された出石城は、信濃上田城から仙谷氏が入り八代続いて明治維新を迎えました。 ※有子山城その1は→こちら
出石城 出石川と谷山川の(旧)流路を外堀とし、さらに内堀を設けていた
現在、城内を流れる谷山川は(旧)流路の度重なる水害のため新たに開削され、谷山川放水路とともに水害対策とされたようです。
出石城 曲輪は見事な石垣が築かれ近世城郭を堪能できる
今は開削された谷山川に架かる登城橋から登城門を通る見学路がメインになっていますが、登城門は埋門だったようですので、往時の登城路はどこだったのか?興味深いです。
出石城 登城橋と登城門 北から 奥上に有子山城のある城山
見学路のメインは登城橋→登城門(埋門)のルートですが、埋門は通常の登城路ではないとすれば、別に登城路が在ったと思われます。
出石城 稲荷参道入口① 枡形虎口に見える 往時の登城路か
稲荷参道は最上段の稲荷神社への参道とされますが、入口の折れを伴う道は枡形のように見え、往時はここから下の曲輪に入る登城路ではなかったかと想像してみましたがどうでしょう。資料(2)によると稲荷神社参道の157段の石段と37基の鳥居は明治期に入ってから整備されたもののようです。下の曲輪にも稲荷神社⑩がありますが、こちらは拝殿だそうです。
出石城 二の丸 西虎口② 右に本丸への通路石段 北西から
二の丸の西虎口②は規模が大きく二の丸が出石城のメインの曲輪だったのではないかと思わせるものでした。
出石城 二の曲輪 枡形虎口⑨ 左下に下の曲輪の稲荷神社拝殿⑩ 西から 見どころです
下の曲輪から二の丸へ登る枡形虎口の通路⑨があり、城郭遺構として興味深い見どころでした。写真の様に石段の幅は狭いものでした。
出石城 本丸 西隅櫓④ 見事な石垣の上に立つ櫓は模擬櫓だがカッコイイ!
出石城の櫓はどれも現存していないようで、 西隅櫓④は模擬櫓だそうですが高石垣の上にそびえる姿は、優美でカッコイイものでした。
出石城 本丸西虎口⑥の質素な石段 北西から 右手の稲荷曲輪の高石垣が見どころ
本丸の西虎口⑥は門が在ったようですが、二の丸の西虎口に比べると石段は簡素なものでした。ここでの見どころは稲荷曲輪のそびえたつ高石垣でした。
出石城 本丸には感応殿が祀られる 東から
二の丸から本丸に入る通路として渡り櫓⑤が在ったとされ、本丸北辺にその跡がありました。感応殿は藩祖仙石秀久を旧家臣が明治期に造営したものとされます。本丸への出入りは渡り櫓がメインだったとすれば、簡素な西虎口もうなずけますね。
出石城 山里丸 西から 北面石垣の奥に横矢の折れ⑦が見える
二の丸、本丸の稲荷参道を挟んだ東側に山里丸がありました。稲荷参道から山里丸に入る虎口はあまり厳重な遺構ではありませんでしたが、往時は門などが有ったのでしょうね。
出石城 山里丸北東隅下の出丸⑥ 南東から
山里丸の北東隅下には石垣造りの出丸がありました。出丸⑥東側の谷地形の東側には内堀から続く竪堀がありましたのでこの方面に備えての櫓などが在ったのかもしれません。
出石城 稲荷曲輪 北東隅 鬼門封じの折れを伴う 北下から
稲荷曲輪の石垣は高さ約13mで本丸背後にそびえていました。この石垣の北東隅は鬼門封じと思われる折れが設けられていました。
出石城 稲荷曲輪 奥に有子山稲荷 の社殿 東から 高石垣が見どころ
最上段には高石垣に囲まれた稲荷曲輪がありました。本丸の上段にある曲輪ですので普段は人が立ち入らない信仰の空間だったと思われますが、それにしても立派な高石垣でした。
出石城 辰鼓楼と内堀 東から
辰鼓楼は大手門脇に明治になって建てられたもので、往時は追手門を守る櫓が建っていたのではないでしょうか。後世の建築とはいえ、内堀とのコラボで景色としては出石城の見どころの一つと言えそうです。
出石城は近世城郭の石垣がたっぷり楽しめて、大満足の見学が出来ました。