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伊勢・上笠田城 用水路、鉄道で改変されたが奇跡的に遺構が残る多湖氏の城

2020-06-25 | 歴史

上笠田城は三重県いなべ市員弁町上笠田にあります。
 北勢四十八家に属し当地を中心に大きな勢力を持った多湖氏の城で、南東800mにも多湖氏の下笠田城があります。永禄年間に織田信長の伊勢侵攻によって滅ぼされたと伝わります。
 今回は、(1)「再発見 北伊勢国の城」伊藤徳也著2008、(2)「三重の中世城館」三重県教育委員会1976を資料としてでかけました。


上笠田城 用水の開削、鉄道の敷設によって遺構は改変を受けているが、残された部分もある
 資料(2)によれば寛永年間に用水路の掘割により分断されたとされますが、明治期の地図を見ると用水路の流路は上図の「旧流路」を流れているようで、大正期になって三岐鉄道北勢線が阿下喜まで延伸されたときに鉄路を確保するため流路を東側に開削し現流路に移され城域が分断されたと思われます。
 この鉄道敷設工事によって西側が削られたため遺構は全体に細く残されていました。
資料(2)には上笠田城の旧図(桑名領古城図考)が載っていましたので、往時の姿を想像しながら見学しました。 ※④:城山稲荷大明神の碑


上笠田城 遺構の真ん中を用水路が流れる。水路部分には曲輪の一部があったと思われる
 旧図と現況を照合してみると水路右側に土塁⑤があり、左側にも土塁①があって水路部分は曲輪の一部だったように想像できました。左側の土塁①には赤い鳥居が並んでいますが、奥に稲荷社が祀られていて、いまはその参道になっていました。


上笠田城 曲輪Ⅰ 南から。右に土塁①、左に土塁③、奥に稲荷社が見える
 曲輪Ⅰは原形をほぼ保った遺構です。ただし南端部は寛永の用水路の開削工事で削られた可能性があるようでした。稲荷社手前の土塁①に見える石積は土塁を参道として補強した後世のものと思われます。


上笠田城 土塁③上から土塁①の石積を見る 南から。 左側は鉄道敷設工事で削られている
 旧図によると土塁③は曲輪Ⅰと同じぐらいの幅広であったとされ、寛永の水路開削では残されていたようですが、鉄道敷設工事では大きく削られ現状の姿になったと思われます。
 

上笠田城 土塁② 中間点の西側に落ちる竪堀状地形 城郭遺構ではなさそう
 鉄道敷設工事と用水路工事によって両側を削り取られ、細くなった土塁②に竪堀状の地形があり、資料(1)の縄張図にも描かれていました。確かに竪堀城の地形ですが、成り立ちから考えると城郭遺構では無いと思いました。

 
上笠田城 土塁② 北端部の堀切状地形。 城郭遺構か?、工事に伴うものか?
 両側を細く削られた土塁②の北端部には、土塁を断切る堀切状の地形がありました。旧図には描かれていませんが往時の土塁もこのあたりでは細くなっていますので、ひょっとすると土塁を断切る堀切の可能性もあるかもしれません。工事に伴うものの可能性も考えらますので、表面観察だけでは断定は出来ませんでした。


上笠田城 用水路対岸の土塁⑤ 用水路工事で削られ、断続的に残る
 資料(1)によると用水路の対岸にも土塁がありましたので見学しました。土塁①からも水路越しに見えていましたが、水路工事でかなり削られて断続的な土塁となっていました。写真の土塁は削られるのを免れ、往時の姿をほぼ留めているようでしたが旧図のどの部分にあたるのかまでは確認できませんでした。

上笠田城は各種の改変にさらされ、削られてしまった部分もありますが、旧図に残された形状を想像力で無理やり補いながら見学し、楽しめました。中央を静かに流れる用水路と付近の景観が不思議にマッチしていました。


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