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三河・吉田城  池田輝政時代の遺構、遺物の発掘結果にワクワク!

2019-04-08 | 歴史
吉田城は愛知県豊橋市にあります。近年「続日本100名城」に選定された事もあって活発に発掘調査が行われています。さる3月23日に行われた発掘現場の見学会に行ってきました。今回は、発掘調査現地説明会ではなくて現場見学会でした。『まだ発掘調査の途中で、結果をまとめるまでの調査が進んでいないが、一旦埋め戻すのでその前に見てください』という趣旨で現場見学会となったようです。


明日にも埋め戻しをするようで、現場で学芸員さんが說明をしているのも構わずに調査活動・図面採りがおこなわれていました。


吉田城 鉄櫓 南東隅石垣の発掘調査 図面採りは巻尺、手書き

吉田城鉄櫓は昭和の再建ですが、江戸期の絵図や明治の古写真が残されているので、外観は復原と行っても良さそうです。徳川家康の関東移封に伴って、豊臣の有力武将の池田輝政が吉田城に入り、石垣の城を築いたとされ、鉄櫓の櫓台はその当時の石垣が残っているとされます。今回の発掘調査は櫓台の南東隅の地下を掘って、石垣の下端を確認する調査です。
 鉄櫓のある本丸は、江戸初期には将軍上洛の際に使われる本丸御殿が建てられたので、池田輝政時代の遺構がどの程度残っているかも興味のあるところでした。石垣の下端に補強の丸太とか、大きな石とかはなく、地盤の転圧程度の地業の上に石垣が積まれていました。
 本丸御殿の建築のときに鉄櫓が縮小されたという説もあるそうで、南東隅が江戸初期に積み直しされた可能性もあり、今後のさらなる発掘調査に期待と言うことでした。


吉田城 本丸南側の内堀 規模の大きさを実感
吉田城は江戸初期に本丸御殿を建築する際に大きく改修された可能性があり、今見る姿がどこまで池田輝政時代の遺構かは不明な点が多くあるようです。本丸の内堀も御殿建築の際に拡張された可能性があるようですが、今回はじめて堀底まで降りてみて、その規模の大きさを実感しました。写真左手が本丸の土塁の法面ですが、下端部には土留の「腰巻石垣」がぐるっと取巻いて築かれています。


吉田城 内堀の腰巻石垣の下端を発掘調査
内堀の土塁下部の腰巻石垣の下端を掘って、調べていました。丸太などの補強は無いそうです。内堀は元々空堀だったので、丸太などの材木だと腐ってしまうそうで、胴木丸太を使うのは水堀の場合だと説明がありました。
 腰巻石垣は高さが無いので、あまり厳重な基礎工事がされていないということのようです。


吉田城 二の丸御殿 遺構は江戸から昭和まで何層にも重なっている
吉田城は明治まで存続しましたが、その後に軍隊が入り戦後には公園化され、博覧会が開かれ、動物園もありました。そのため発掘調査で出土する遺構・遺物の年代に注意が必要とのこと。現場ではかなり深いところでもビニール片が出てきていました。


吉田城 千貫櫓 櫓台から池田輝政時代の瓦がザクザク! 学芸員の說明もワクワク感がいっぱい!!
本丸南西隅の千貫櫓の上面の土を薄く剥いでみると、探し求めていた池田輝政時代の瓦がザクザクと大量に見つかりました。ここからは江戸期の瓦も大量に出土したので、時代の異なる櫓が立っていたことは、ほぼ間違いなさそうです。池田輝政時代の櫓台、建物跡などが今後の調査で発見されることが大いに期待できると、学芸員さんの說明も力が入りワクワク感が伝わってきました。楽しみですね!


吉田城は豊橋公園でもある ポケモンプレーヤーがいっぱい
来場者が多いと思ってみると、殆どがポケモンゴーのプレイヤーらしく、スマホ片手に歩き回っている。最近各地で見られる風景だが、城郭には全く興味を示さないのは残念ですね。

吉田城は熱心な学芸員さんのおかげで次々に新しい発見がなされているので、今後も注目していきたい。

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