城と歴史歩きを楽しむ

専門的でも学術的でもなく、気楽に
山城中心に城巡りと歴史歩きを楽しみましょう!

伊勢・ 渋見城 信長の伊勢侵攻に抵抗した城郭 失われた遺構を現況地図と照合して楽しむ

2021-02-14 | 歴史

 渋見城は三重県津市渋見町字城にあります。
  渋見城の東南東2.6kmにある平城の乙部城の城主乙部氏が、信長の伊勢侵攻に備えて築城したと伝わる山城で、城郭遺構は土地開発によって失われました。縄張り図は開発以前に遺構配置概要図として資料に残されています。今回の資料は(1)「三重の中世城城館」三重県教育委員会1976 と(2)改訂版改訂版 津の城跡50選2016  です。
  信長の伊勢侵攻では周囲の峯治城などが攻略された後も渋見城はしばらく持ちこたえていたようで、堅固な縄張だったと思われます。


 渋見城 平城の乙部城から山城を築いて信長の侵攻に備えた  崖地形と長大な空堀を要害とした城郭
 土地開発で住宅地となり往時を想像するのは難しいのですが、美濃屋川の河岸の崖の上に築かれ、三方は谷地形となっていたようです。信長の伊勢侵攻で峯治城、上津部田城は落ちたものの 渋見城は持ちこたえて戦ったようです。※美濃屋川は改修されていますが、かつては地形に沿って流れていた模様です。


 渋見城 昭和24年の空中写真に概略遺構図を重ねる 
 資料によると、Aは高い土塁に囲まれた曲輪で主郭と考えらています。Bは一段高く約30m四方の土壇状の遺構があったようです。Bは櫓台としては大きすぎるように思いますが用途はわかっていないようです。土地開発前の発掘調査で、北側の帯曲輪に沿って大きな空堀C (図3参照)が検出されたそうです。城域西側は谷地形で大きな高低差がありました。
 北側の幹線道路はこの時点ではまだ無く、遺構は山地の中に殆ど残っていたのでしょうね。
概略遺構図:資料の「城跡遺構配置概要図」を概略トレース したものです。


 渋見城 現在の地図に概略遺構図を重ね合わせ
 現在は土地開発で城域は削平され、新たに道路も付けられ遺構は姿を消していました。a付近の細い道、泰応寺付近の道が古くからの道の名残を留めていました。道bは舗装道路になっていましたが、資料によると、かつての大手道だった可能性がありそうです。南側の崖地形、西側の谷地形は残されていて高低差を見ることが出来ました。


 渋見城 渋見砦跡公園と城址碑  碑は平成四年建立
 遺構は失われたましたが、土地開発に先立って平成2~3年の発掘調査の後に設けられた城域内の公園の一角に「渋見砦跡」の石碑が津市教育委員会によって立てられていました。


 渋見城 西側の谷地形 城域東端部から
 城域の東側には自然地形の谷があり、自然の要害として利用されていたようです。後世には水田となっていたようで、往時の谷はもっと深かった可能性がありそうですね。


 渋見城 城域東端部の残存地形 わずかに残る地形が貴重だ  中央奥の茂み 北から
 城域の東端部は谷地形の崖になっていましたが、道沿いにわずかに土壇状の地形が削り残されていました。開発で、全てが失われてしまった中で、なんだか貴重でした。


 渋見城 城域中心部 住宅地となり痕跡はない
 この辺りが城域の中心部だった場所ですが、住宅地となり全く痕跡がありませんでした。


 渋見城 図3のa付近   西から 直進の細い道は古そう
  渋見城の城郭遺構は残されていませんでしたが、古い道が部分的に残っていました。城の稼働時の道かどうかはわかりませんでしたが、いい雰囲気の道がところどころにありました


 渋見城 南側の崖地形 住宅が迫り擁壁などがあるが高低差は往時とあまり変わらないようだ
 城域南側は崖地形が続いていました。住宅のために擁壁があったりしますが、高低差は屋根の高さほどありました。南側の美濃屋川と崖地形が要害として働き、強力な防御施設となっていたのではないでしょうか。

 渋見城は土地開発により消滅していましたが、資料(1)、(2)を参考に、現地見学を元に遺構を現況の地図に再現してみました。
 断片的な資料しかありませんでしたが、往時を勝手に想像しながらの見学を楽しむことが出来ました。











最新の画像もっと見る