私のお気に入りのひとつは、トイレの本棚。
用を足しながらそのときの気分に応じて1冊の本を手にする。
すると、往々にして、実際に必要な時間の数倍の時をそこで過ごすことになる。
昨日のそれは、死ぬための教養という本だった。
その中に登場するセンテンスのひとつが、今日のタイトルの「太陽と死は直視することができない」である。
なるほど、うまいこと言うなあ。
ちょっと調べてみた。
「太陽と死」というキーワードでyahoo検索。
トップ画面に上がってきたものだけでこれだけの言い回しがある。
・人間は太陽と死は正視できない。(ラ・ロシュフコー)
・「太陽と死はじっと見つめることができない」(ラ・ロシュフーコー)
・この世に正視できないものがふたつある。それは太陽と死だ……フランスの箴言家、ラ・ロシュフーコーの言葉である。
・「人がじっと見つめていることができないものが二つある。 それは太陽と死である」
行き着くところは同じでも、これほど言い回しが違うというのは、この格言だからなのか、それとも皆が適当に書くからなのか、いずれにしても、どれが一体オリジンなのかが判らない。
まあ、それを突き止める気力は今はないからほっぽっといて、と。
そう「死ぬということ」は、多分思考する生き物にとっての宿命であると同時に永遠のテーマなのだ。
私は、頭でっかちな高校生の頃、よく想定問答を考えた。
その究極の質問が、「何故生きてるの?」であった。
そして、当時の私が導き出した答えが、「死に方を見つけるため」だった。
勿論、人間の生の深淵を見据えた上でのことではなく、ケツの青い小僧の哲学遊びである。
ただ、その結論については未だに変わりはない。
そろそろ本気でそれを受け入れる準備をしなければ成らないこの歳になって、もう一度哲学小僧だったあの頃の心境に戻りつつある。
そんなこんなで「死ぬということ」というカテゴリーを増やしてみた。
今後折に触れ書いてみたいと思う。
放屁かゲップのようなものだろうけど。
上の行動で行き着いたサイトにこんなのもあった。
・死が真正面から自分を襲ってきた時、人から借り物の死生観では、これを 乗り越えることはできない。(岸本英夫)
正しくその通りだと思う。
きっかけとなった下の本は、どうやら酷評されているようだが、なに、人間、自分で考えられることは高が知れている。
ならば先人の知恵を拝借するのもひとつの手段だ。
そこから生まれる「気づき」が自己の潜在意識かも知れない。
要は、それらをよく咀嚼することだ。
「死」から逃げぬことだ。
すると、「身の回りに在る大概のことは大した問題ではない」
と、思えてくる・・・
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用を足しながらそのときの気分に応じて1冊の本を手にする。
すると、往々にして、実際に必要な時間の数倍の時をそこで過ごすことになる。
昨日のそれは、死ぬための教養という本だった。
その中に登場するセンテンスのひとつが、今日のタイトルの「太陽と死は直視することができない」である。
なるほど、うまいこと言うなあ。
ちょっと調べてみた。
「太陽と死」というキーワードでyahoo検索。
トップ画面に上がってきたものだけでこれだけの言い回しがある。
・人間は太陽と死は正視できない。(ラ・ロシュフコー)
・「太陽と死はじっと見つめることができない」(ラ・ロシュフーコー)
・この世に正視できないものがふたつある。それは太陽と死だ……フランスの箴言家、ラ・ロシュフーコーの言葉である。
・「人がじっと見つめていることができないものが二つある。 それは太陽と死である」
行き着くところは同じでも、これほど言い回しが違うというのは、この格言だからなのか、それとも皆が適当に書くからなのか、いずれにしても、どれが一体オリジンなのかが判らない。
まあ、それを突き止める気力は今はないからほっぽっといて、と。
そう「死ぬということ」は、多分思考する生き物にとっての宿命であると同時に永遠のテーマなのだ。
私は、頭でっかちな高校生の頃、よく想定問答を考えた。
その究極の質問が、「何故生きてるの?」であった。
そして、当時の私が導き出した答えが、「死に方を見つけるため」だった。
勿論、人間の生の深淵を見据えた上でのことではなく、ケツの青い小僧の哲学遊びである。
ただ、その結論については未だに変わりはない。
そろそろ本気でそれを受け入れる準備をしなければ成らないこの歳になって、もう一度哲学小僧だったあの頃の心境に戻りつつある。
そんなこんなで「死ぬということ」というカテゴリーを増やしてみた。
今後折に触れ書いてみたいと思う。
放屁かゲップのようなものだろうけど。
上の行動で行き着いたサイトにこんなのもあった。
・死が真正面から自分を襲ってきた時、人から借り物の死生観では、これを 乗り越えることはできない。(岸本英夫)
正しくその通りだと思う。
きっかけとなった下の本は、どうやら酷評されているようだが、なに、人間、自分で考えられることは高が知れている。
ならば先人の知恵を拝借するのもひとつの手段だ。
そこから生まれる「気づき」が自己の潜在意識かも知れない。
要は、それらをよく咀嚼することだ。
「死」から逃げぬことだ。
すると、「身の回りに在る大概のことは大した問題ではない」
と、思えてくる・・・
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そうですね。
確かに幸せでありたいし、身の回りの人たちみんながそう感じてくれれば喜ばしいことですね。
ただ、私にとって「幸せ」とはなんだろう?なんてことも思ったりするのです。
お金の心配がないレベルでいいのか、庭にプールがある家を持つことなのか。
家族が寄り添って生きることなのか。
夫婦仲良く共に白髪の生えるまで添い遂げることなのか。
幸せ=満足感
だとするならば、
孤高に生きられる人生への憧れがあったりします。
それは多分、自分というものがそれにほど遠い質の人間だという自覚があるからなのだろうと思っています。
だから焦ったり後悔したりして毎日を送っています。
そして、もし、自分がその求める高みに到達出来たと感じられれば、いつ死んでもいい覚悟が出来るのではないかとも想像しています。
私も折に触れ、そういう思いを持つようになりました。
特に桜は、そうした哀れや儚さを象徴するようなところがありますね。
桜にまつわる私の好きな言葉は、
「散る桜 残る桜も散る桜」 です。
世の無常と、潔さが滲み出たいい言葉だと感じています。
渥美清さんの件は初耳です。
自己への戒めやらエールともとれる言葉ですね。
ありがとう
職場でカラオケ大会が今年も有るので何を歌おうかと・・
氷川きよし、さんの桜を歌おうと練習してたのですが・・・
東北大震災の人たちの思いを詞にした歌と知りました。
歌っていると・・・・歌えなくなるのです。(´;Д;`)
なにを、僕は突然に・・・失礼いたしました。
確か以前に桜のことを書いたなって思い出しました。
チューさんのこと・・・宝島のチュー太郎と打つと
ユーチュウブに出て来てビックリ!
チューさんはしゃべり、上手ですね、ぼくには真似できないです。
でわまた突然に来ます。
凄いところにコメントをもらって感心してます。
しかし、過去に書いた自分の作文を読み直すというのもなかなか乙なものですね。
ただ、自分が進化してないことを再認識させられ、ちょっぽし心が痛いですが。
まあ、再度自分に叱咤激励ということです・・・