以前は、書いたり書かなかったりだった読後感想。
今年に入ってからは、読書履歴として極力残そうと。
勿論、それは完璧ではないが。
そんな訳で重い指を上げてみたが、正直苦痛。
だって、ピンと来てないから。
なので、取り敢えずは、いつものように書き留めたセンテンスを挙げてみる。
p11 金色をした気配が寄せてくる
(夕景を表現した、なんとなく分かるセンテンス)
p12 神からの標識
(牧場が全焼して無一文になったこと。善良な市民が暮らす西部劇のよう)
p75 時間の流れの外にいたよう
p114 この世界に生きて果たせることは、ただ糞便を垂れるのみ
(所詮人間なんて糞製造器の糞ったれ。我が意を得たり由良之助)
次に疑問点を。
p83 「60年代の服装をしたような女」これは「60年代のような服装をした女」では?
p259 冒頭の部分が難解。もしかしたら、訳者もよく理解できないまま直訳したのでは?
全体を通して、有り得ない貧困家庭に育ったが為に受ける差別、性の問題、ベトナム戦争を背景とするPTSD、それらが複合的に絡む家族とそれを取り巻く他人の有り様、こうした人間関係が描かれている。
ただ、絶対的な暗さは無く、どこか飄々としている。
「皆、どこか鬱屈した感情を抱えながらも日々を生きている。人間は突き詰めれば独り、じゃあなんで生きてるんだろう?でも生きていくんだなぁ」
ワタクシメ的にまとめるとこんなことなのかな!?
それと、かなり深い部分まで突っ込んだ性のタブーも描かれている。
人の問題は、もしかするとそれに尽きるんじゃないか?
性欲というものが無ければ、ややこしいことは起こりづらくなる。
ただ、そうなると時代を継いでゆく子供が産まれなくなる。
それと、性には反対に喜びだってある。
だからやっぱり、人の永遠のテーマなのだろうと。
「ひび割れ」という章は、中でも倒錯した性が描かれている。
「ピンと来ない」のは、結句、私の中にはそこまで複雑な感情が存在しないからなのだろうと思う。
ここに登場する人たちのようなしんどい日々を送ってない。
アッケラカンとしたものだ。
それが是なのか非なのかは解らないが。
最後に言えること。
それは、「ルーシー・バートン」を取り巻く様々な人達が複雑に縦糸と横糸を紡いで1枚の布を織りあげたこの作品には、当然のことながら、たくさんのアメリカ人の名前が出てくる。
ロートルの頭には、その区別がつかない。
従ってしばしば「えっと、この人、どの章に出てきたっけ?どんな関係だっけ?」とページを繰り戻さなくてはならない。
しかし、そのリレーションの妙が、この作品の肝でもある。
そんな訳で、もう一度読みたいと思っている。
そして今度は、人物名と縁故をメモりながら読もうかと。
さすれば、もっと腑に落ちてくるんじゃないかな。
取り敢えずは昨日一旦図書館に返したけど、また予約を入れようと考えている・・・
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