OB会に集まった仲間は40名になりました。
この人たちは、嘗て東京千代田区にあった「東京中央電報局」で日本全国の電報送受信に携わっていた人たちです。
歴史を振り返ってみましょう。
日本の電報は、明治2年(1069)東京~横浜間の電信柱架設から始りました。
古文書を開くと、慶應2年(1866)福沢諭吉が西洋事情に「伝信」と記したのが電信の語源と書いてありました。
当時は「針金で遠くのことがわかるのはキリシタンの魔術だとの噂が流布された」とも書かれています。
写真の建物は、大正9年日本史上に残る建築家「山田守 氏」が建設した「東京中央電信局」です。
途中から「東京中央電報局」と変わりましたが、戦中には満州や南洋群島内の郵便局とも無線通信をしていました。
サイパンが玉砕したときには、逸早くサイパン回線の上に玉砕の電文を額に入れ、黒リボンを巻いて供えたと、OB会の席上で先輩に聞かされました。
白爺も、逓信講習所を卒業した当時は、福井県小浜市の局に配属され、モールス通信で電報の送受信を担当していました。
当時の思い出です。
舞鶴の港に引揚船が入港すると、引揚者の方が家族に無料で連絡電報を発信していました。
その数が多いので舞鶴局では捌ききれないため、電報は小浜の局に汽車で運ばれて臨時中継をしていました。
一日中休みなく電鍵をたたいてモールス通信をしていたら、白爺は「手クズレ」になってしまいました。
「手クズレ」とは今で言う腱鞘炎だと思うのですが、特定の文字を見ると手が動かなくなる職業病です。
1分間に100文字以上送受信していた白爺は、半分以下の速度に落ちた悲しい時代です。
暫らくすると、幸運が舞い込みました。
小浜局の電報は、日本で二番目に早く「全国自動中継システム」に変更されました。
このシステムは、小浜局にあるこの機械で電報を送信すると、自動的に配達を担当する局の受信機に文字で印刷されるシステムです。
白爺の幸運はこれだけでは納まりません。
転勤の希望が叶えられないこの時代に、急に親兄弟が住む東京に転勤出来ることが決まりました。
話は横道にずれてしまいましたが、数回の転勤を経て白爺は「東京中央電報局」に席を置くことになり、OB会にも参加できるようになった次第です。
宴会場では、ホテルの女将さんがわざわざ挨拶に来てくれました。
数十年続くOB会ですから、女将さんも我々と通じるものがあり、無理な注文も気持ちよく聞いてくれました。
感謝!感謝!です。
丁度この日が「東日本大震災」の日に当たったので、慰霊の黙祷を捧げた後宴会が始りました。
「あの人が好きだった」「この人に振られてしまった」等と、青春時代の思い出話が席上を飛んで、楽しいひと時は続きました。
山田守の孫にあたる者ですが、祖父の人生を調べて漫画にする活動をしております
もしよろしかったら「50年めの大きな玉ねぎ」で検索すると出てきますので、お時間ある時にでもご笑覧頂けたら光栄に存じます
Y田Y子というヘンてこりんなペンネームで
執筆しております
皆さまのご健勝を心よりお祈りいたします