今朝も24.8℃と3日連続熱帯夜を逃れたが、ぎらつく太陽で14時半には35.0℃
に達して一週間ぶりの猛暑日、残暑厳しい一日になりました。
14時、34.6℃、45%
この天候は今週も続き、太平洋上に発生した台風9号から11号と3つとも小型、
沖縄県を訪れ最後の夏を楽しまれる観光客には迷惑だが大きな影響はなさそう
60年前、1963年のこの日、「マーティン・ルーサー・キング・ジュニア」、
通称名「キング牧師」はリンカーンの奴隷解放宣言100年を記念する企画とし
て、ワシントンで職と自由を求め、人種差別撤廃・雇用拡大を求める市民集会
「ワシントン大行進」を開催し、リンカーン記念館の階段上で17分間にわたり
「I have a dream.」という一説を最後に刻んで演説された日です。
なお彼はプロテスタントバプテスト派の牧師で、ガンジーの非暴力的抵抗の
教えに共感し、アフリカ系アメリカ人公民権運動の穏健派の指導者として
非暴力差別抵抗活動を行われた。
1964年にノーベル平和賞を受賞されたが、1968年に暗殺されている。
日本では785年旧暦のこの日、奈良時代の歌人、『万葉集』撰者「大伴家持」
の数え68歳の忌日です。
小倉百人一首では中納言家持(6番) 『新古今集』冬・620
『かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける』
訳)七夕の日、牽牛と織姫を逢わせるために、かささぎが翼を連ねて渡したと
いう橋、天の川にちらばる霜のようにさえざえとした星の群れの白さを
見ていると、夜もふけたのだなあと感じてしまうよ。
小倉山荘HPより
先日、『百人一首四方山話』として「新田泰三」先生から90分の講座に。
前半は、飛鳥時代から鎌倉時代初期までの代表的な歌人百人の和歌を一人一首
ずつ集めて作られた秀歌撰で、多く選ばれているが、百人一首といえば一般的
には平安時代末期から鎌倉時代に藤原定家が選んだ最古の「小倉百人一首」を指す。
この呼び方は後世の後付で、古くは”小倉山荘色紙和歌”と呼ばれ「小倉山荘」
というのは、京都の小倉山にあった武将・歌人「宇都宮頼綱」の別荘のこと。
さらに「色紙和歌」とある通り、この百人一首は小倉山荘の襖を和歌の色紙で
さらに「色紙和歌」とある通り、この百人一首は小倉山荘の襖を和歌の色紙で
飾る為に藤原定家に選出させたもので、完成は1235年5月27日のことです。
百人一首は江戸時代になり大奥でカルタ取りとして盛んになり商人へ、そして
明治時代には庶民に流行る。
年代順に並べられ、古今和歌集 24首、後撰和歌集 7首、拾遺和歌集 11首
後拾遺和歌集 14首、金葉和歌集 5首、詞花和歌集 5首、千載和歌集 14首
新古今和歌集 14首、新勅撰和歌集 4首、新後撰和歌集 2首の100首です。
1番『秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ』天智天皇
天皇制を確立された天皇として五穀豊穣を祈られており、元は万葉集詠み
人知らずの「秋田刈る仮庵を作りわが居れば衣手寒く露ぞ置きにける」
また天智天皇は弟の大海人皇子から額田王を奪い、自分の皇女4人を大海
人皇子に嫁がせたと言われている話まで
その皇女の一人が詠むのが2番
2番『春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山』 持統天皇
teu
江戸時代へかけeuという結語は、母音が重なりみなyooとなりteu-teuが
tyoo-tyooになり、keuがkyooになり、euがyooとなって今の発音に。
最後の99番と100番、天皇制から武家の治世となり、逼塞する天皇家を示し
あの頃はよかったなーと、隠岐へ流された後鳥羽院と佐渡へ流された順徳院
99番『人もをし 人も恨めし あじきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は』
後鳥羽院
100番『ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり』順徳院
宮中のこと
17番『ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 唐紅に 水くくるとは』 在原業平
染め方
”くくる”は山口百恵さんの歌詞に出ており、この作詞家は凄いと
業平が伊勢物語(恋愛を中心とする一代記的物語)の主人公とされる
56番『あらざらむ この世のほかの 思い出に いまひとたびの 逢ふこともかな』
和泉式部
あの世へ行く前の思い出としてもい一度会いたいと、色っぽい歌
そしてその子供の小式部内侍が、お母さんに教えを請えばと嫌味を言わ
れ、顔を出して詠んだ歌だそうで、和歌の才能がにじみ出ている。
60番『大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天橋立』 小式部内侍
行くと地名をかける 踏むと文をかけ
自分で詠んだ歌ですよと
61番『いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな』伊勢大輔
昔の 今日京都宮中 色を指す
訳)昔の奈良の都の八重桜が、今日は九重の宮中で美しく咲き誇る
57番『めぐり逢ひて 見しやそれとも 分かぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな』
紫式部
紫式部と清少納言ライバル同士で煮たりの性格が現れた歌になる
紫式部は藤原道長系の中宮彰子の女房になり華やかさが
一方清少納言は中宮定子に仕えが亡くなる。博学で気が強い彼女は
今後の女性のフロンティアとされる。
62番『夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ』清少納言
一番鶏の鳴き声で開く中国「函谷関」、私の門はひらきませんよと
気の強さが出ていますね。
97番『来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身も焦がれつつ』
藤原定家
最後に定家の平凡な歌が選ばれている。
このように時代に即した歌が上手く配置されていることが良く判った。
最後に、あなたはどっち派として、二つの歌が
960年に村上天皇の主催で行われた「天徳内裏歌合」で競われたもの
40番『しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思うと 人の問ふまで』
逆説 過去 平 兼盛
41番『恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか』
さ行三段活用 き・過去形 已然形 始める
壬生忠見
判定は同数だったようで、最後に天皇に奏上されれば、しのぶれどの声が
聞こえ、もう一度全てを詠まれようとされたのを・・・しのぶれどで
平兼盛の勝ちと宣告してしまったようだと
その結果、壬生忠見は落ち込んで亡くなったと。
こんな楽しい百人一首のお話は初めてで、あっという間の90分でした。