カメラを片手に

京都二条「妙傳寺」は西美延とも

予報は曇りなのに弱い雨が降る朝、最低気温は未明の2.9℃だった。
この雨も午前10時半過ぎには止み、昼前から春の陽差しがやってきた。
東の春日奥山上空は雲は多いが、上空からの陽射しで気温も12.7℃にも。
また一歩春へと歩み、明るさも溢れている。
      13時、9.2℃、66%

さてNHKラジオ深夜便・今日の誕生日の花はモクセイ科「オウバイ・黄梅
原産国中国では「迎春花」 と呼ばれ、ほかの花に先駆けて咲き、あたかも
春を迎えているかのごとく思わせることからと。 
葉に先立って2㎝大の鮮黄色で五端六裂した合弁花を咲かせる。
花言葉は「恩恵
      

日本には、江戸中期1695年伊藤伊兵衛 著 「花壇地錦抄」には
「黄梅、花形梅花のごとく黄色なり」、さらに下記の栽培法も記載される。
       国会図書館デジタルコレクション より
      

2月17日に京都コンサートホールでの京都市交響楽団・定期演奏会の前に
出向いたのは日蓮宗の京都八本山、西身延 本山 法鏡山「妙傳寺」で、岡崎
公園の西、東山二条の交差点角から夕闇が迫るなか、日蓮上人像とお題目
の石碑も。そも手前には「東山二条の雨庭」が設けられている。
春にばれば、枝垂れ桜もきれいでしょうね。

実は2月16日、今日は何の日の検索で「日蓮大聖人」の命日だと知った。
そして御真骨が分骨され、奈良から一番近いお寺が妙傳寺で、HPにより
由緒は室町期1477年、円教院日意が薬屋・妙善の帰依を受けて京都一条尻
切屋町の地に創建したのが始まりと。
さらに関西の信者が山梨の身延山まで参詣する不便を思い、師の日朝と計り
身延より宗祖・日蓮の御真骨を分骨奉安し、同時に身延七面山に勧請される
七面天女と同木同体の霊体も安置され、「西美延」とも通称される。
      

1536年の法華一揆で全山灰燼に帰すも、5年後西洞院に再興(第二の妙傳寺)
だが1591年に豊臣秀吉の命で京極二条に移転させられ第三の妙傳寺として
日恵上人が興隆を図れば、一条家・四条家の菩提寺となり、日恵上人は妙傳寺
の中興の祖と仰がれる。
歴史は繰り返し、1708年の「宝永の大火」で全山再び灰燼に帰すことに。
日義上人は、現在の東大路二条にて再興し、第四の妙傳寺となる。
第35世日勤上人は説法で浄財を勧募し、1764年に現在の本堂が建立された。
      

門をくぐり境内に。いろんな車が停まり、駐車場にされているようだ。
誰もいない、立派な本堂に参り、お賽銭そしてお題目を唱えました。
それが見えていたのか、ひとりの青年もひこっとお参りに。
なお堂内には御本尊、錐揉みの祖師像、七面大明神、開山・日意上人像が
安置されている。

本堂裏に客殿があり、醍醐寺三宝院から移築、年末恒例の「顔見世興行」で
掲げられるまねきを書く「まねき書き」が行われている。
なお客殿前に「浄行菩薩」がおられるというが・・・
      

さらに東側に事務所(総受付等)、南側には塔頭が五院並び、お墓へと続く。
古い歴史の墓地は、一条家・四条家の墓以外に、江戸時代の俳人・成田蒼、
片岡仁左衛門、「七卿落ち」で知られる澤宣嘉・四条隆謌の墓、近藤勇や
中岡慎太郎の写真の写真師・堀與兵衛などの墓もあるという。
      

塔頭は西から妙釈院、円立院、龍嶽院、本光院、玉樹院と順に並ぶ。

さて本堂左側に回れば、「鐘付堂」と「御真骨堂」が並ぶ。
御真骨堂は宗祖・日蓮大聖人の御真骨を奉安する廟堂ですが、一条家、四条家
の位牌をはじめ、徳川家や寺院開創以来の外護檀信徒の位牌も祀られる。


その他にこのような石碑がある。
「日蓮上人御分骨之道場」の石碑は山門手前左にある。
「片岡仁左衛門碑」山門横・本堂前に第11代片岡仁左衛門の碑で、東京の
      池上本門寺とともに松嶋屋・片岡仁左衛門家の菩提寺のため。

次回は本堂へ上がり、参らせてもらわねば。

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