カメラを片手に

漢國神社と境内の林神社

今朝も晴れ渡る朝の奈良、放射冷却もあり最低気温は9.0℃迄下がるも、日中
は21.3℃迄上がる。
しかし天候は下り坂で、東の春日奥山上空には、雲に覆われ始めている。 
      13時、19.9℃、62%

今日は日本のコンピュータ産業の父といわれる「池田 敏雄 」の忌日、
羽田空港でくも膜下出血のため51歳で急死。没後50年になる。合掌
日本の汎用機黄金期を築き、没後に“富士通の池田敏雄・NECの水野幸男”と
譬えられている。
こんな番組が放送されている。
・NHK番組『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』シリーズ 、2002年4月9日放映
 第83回 『国産コンピューター ゼロからの大逆転』
・テレビ朝日 戦後50年特別企画 田原総一朗の人間発掘SP1995年7月9日放送 
  『アメリカに勝った男! 日本コンピューター界の隠れた巨人 激動の生涯』

日進月歩のこの業界、スパコンだけがまだ頑張っていますね。
臨時国会に上程される補正予算案のなかに、総合経済対策として半導体とAI
に10兆円もの予算が割かれるとの報、これを起爆剤に頑張ってほしい。

さて昨日の続き、徳川家康に関与の4社寺、今回は「漢國神社かんごうじんじゃ」。
      

やすらぎの道沿いに一の鳥居、
右側に漢國神社、左側に饅頭の神・林神社との社号標も建つ。
      

参道の右側に社務所が有り、今年もカリンが実る

社殿を取り囲む塀に表門があり、開けられている。
      

社伝で漢國神社は593年2月3日、勅命により大神君白堤(オオミワノキミ シラツツミ)
が園神を祀ったのに始まり、717年11月28日、藤原不比等が韓神二座を相殿として合祀した。
社名は春日率川坂岡神社あるいは園韓神社と称すも、韓神の韓が漢に、園神の
園が國となり、「漢國神社」となったという。
1181年12月の平重衡による南都焼討で炎上するも1188年に興福寺一乗院覚昭
大僧正の奏聞により、率川・坂岡両所の造営があった。
慶長年間(1596年 - 1615年)になって、徳川家康より知行田5反余りを寄付、
社殿の修理が行われた。

入って左側に「源九郎稲荷社」 、祭神は「宇賀御魂神」、1924年に西側の
「山の寺」から勧請され、 「五穀豊穣」、「商売繁盛」。    

さらに本殿側に歩を進めば、

狛犬の横に?左右に石像が・・・不明です。
 

二の鳥居前に水屋舎と饅頭作りに欠かせない水の神様を祀る水神社かな

鳥居をくぐり、拝殿から参拝を。
主祭神は園神 に「大物主命」、韓神に「大己貴命」「少彦名命」
推古天皇元年(593年)2月3日、勅命により大神君白堤(オオミワノキミ シラツツミ)が園神を祀ったのに始まると伝える[1][注釈 1]。その後、養老元年(717年)11月28日、藤原不比等が韓神二座を相殿として合祀したという。かつては春日率川坂岡神社あるいは園韓神社と称していたが、韓神の韓が漢に、園神の園が國となり、「漢國神社」という社名になったと伝える[1]。
貞観元年(859年)1月27日、平安京内の宮内省に当社の祭神を勧請し、皇室の守護神としたと社伝では伝えているが、平安京の園神社・韓神社の社伝とは矛盾している。

お供え物に、「カリン」と「オガタマノキ・小賀玉木」でしょうか
      

本殿は桃山時代の建造で県指定有形文化財、三間社流造・桧皮葺で、屋根に
箱棟を載せる。桁行三間・梁行一間で、前方に一間の向拝がつき、本殿と拝殿
の隙間を埋めるための目隠しがある珍しい形式です。
立派な彫り物がありますね。 左側を呈示する。
      左側

右回りに境内を巡ると、どこかで見たことが有り、時計回りに・・・

境内社ですが、社名はない

その先、本殿横に「八王子社」がありました。
瓦葺き春日見世棚造りで、世界平和と書かれ、根付きの稲の穂が左右に。
ご祭神は八王子神で、伝に宗像正前大神とも、神屋楯姫命ともいう。
      

その先に「歌碑」がある。詠みは中西善五郎
      

本殿を裏側から見る

本殿右側奥に瓦葺き春日見世棚造の祠、「葵神社」で 祭神は「東照大権現」  
       

その隣は「饅頭塚」、なかなか見ませんね。その後ろのなまこ壁は
    

鎧蔵」は1614年の大坂冬の陣の際、徳川家康が奉納した鎧が納められた。
鎧は「茶糸威胴丸具足」、徳川家に仕えた奈良の甲冑師、岩井与左衛門の作と考えられ、現在は奈良国立博物館に保管されている。
当社、神楽殿にレプリカがある
これには「桶屋と徳川家康と真田幸村 」伝説がある。
 1614年の「大坂冬の陣」の緒戦、家康は 木津の戦いで、真田幸村に大敗を
 喫し、奈良まで逃げ込みます。
 このとき漢國神社の前の桶屋にかくまってもらい、九死に一生を得た。
 大坂の陣を終えた後、家康は命を助けてくれた桶屋に沢山の褒美を与え、
 漢國神社に自らの鎧と兜を奉納したとのこと。 
  

日本で唯一の饅頭・菓子の祖神の「林神社」、祭神は「林浄因」と1978年に
合祀された「田道間守」です。
林浄因は1349年に元から来日、漢國神社社頭に住居し日本初となる饅頭を作る
林浄因の命日(4月19日)に、菓子業界の繁栄を祈願する例祭「饅頭まつり」が
行われ、全国各地の菓子業者が銘菓を献上し、一般参拝者にも饅頭と抹茶が
無料でふるまわれます。 
左右の狛饅頭が面白いですね。 

林神社社殿、左横に大黒様と恵比須様の石碑 、
右横には句碑「まんじゅうの祖神 」は読めるが?
 

この辺りに磐座があったのだが・・・撮り忘れ

石舞台から神楽殿👇と     社務所でしょうか


鬼瓦が面白いですね。
      

神楽殿を回り込めば、林神社との境に「白雉塚」がある。
721年に百済より貢献された白雉が、723年に当社に納められ、
724年9月18日これを埋めたとされる塚だそうです。
       白雉塚

本殿を振り返る

再度頭を垂れて、後にしました。
      

家康と桶屋の伝説には先の話がありました。
しかし家康は、また真田幸村に追われ、次に、春日大社へ逃げ込みました。
幸村自ら先頭に立ち境内を探索し、気配から祠に槍を突き立てます。
次々と祠を突きさし、残ったのは家康が身を潜めた本殿の祠だけ、
幸村は、本殿の祠には流石に遠慮し、槍をおさめ引き揚げてた。

大坂の陣を終え、世の中は徳川の天下となり、先に述べたように家康は命を
助けてくれた桶屋に沢山の褒美を与え、漢國神社に自らの鎧を奉納した。
さらに春日大社には二万五千石の社領を与え、徳川家が保護することになる。 
 
さて次回は「山の寺念佛寺」、表通りから外れた路地奥、つまり、漢國神社の
西隣・真裏手にこの寺が有り、山門に葵の紋があります。
徳川家との関連性はいかなるものでしょうか。

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