今朝も良く晴れ、放射冷却で5日ぶりの一桁台8.7℃迄冷え込んだ奈良です。
植木屋さんが8時にはこられ、伸びきった木々もさっぱりしだしている。
10時のお茶で話をしていると陽に照らされ暑ささえ、12時半には20.4℃に。
朝晩の気温差が大きくなり、体調管理が大変ですね。
10時、15.4℃、56%
昨日は朝から大和文華館で観覧して、昼からは西ノ京へ用事で出かければ
唐招提寺付近から南を眺めれば、薬師寺の立派になった伽藍から東西の三重塔
が存在感を現している。
北を向けば、唐招提寺南門から金堂が見えている。
南大門から直ぐ左脇に1998年12月「古都奈良の文化財」として、世界遺産
リストに登録された施設の一つ「唐招提寺」世界文化遺産記念碑が見える。
2021.10.28、午後1時頃
10月22日の西ノ京から西大寺そして秋篠寺迄歩いた。
経路)
南大門・・・金堂・・・戒壇・・・鐘楼・・・講堂・・・鼓楼・・・礼堂・
東堂・・・開山堂・・・御影堂(解体修理中)・・・鑑真和上御廟・・・
宝蔵・経蔵・・・南大門
『唐招提寺』は「鑑真和上」が朝廷から授かった新田部(にいたべ)親王の旧宅
に、「唐律招堤」と名付け律宗の道場を開いたことに始まり、のちに孝謙天皇
から「唐招提寺」の名を授かりました。
鑑真は朝廷から伝戒の師として招請を受け渡航を決断され、5度の失敗の後、
やっと日本の地を踏まれ、翌年東大寺で聖武天皇をはじめ400人に受戒した。
創建時は平城京朝集殿を改造した講堂などのみだったが、鑑真の死後、弟子の
如宝(にょほう)らが遺志を継ぎ、金堂、五重塔を建立し伽藍が整いました。
後に衰退したが、鎌倉時代に覚盛(かくじょう)上人と、跡を継いだ証玄和尚に
より再興された。しかし江戸時代には大地震で多くの堂塔がまたしても崩れて
いたが、徳川綱吉とその母の桂昌院の援助により再興されている。
真っ青な空に、秋の陽に照らされた優美な金堂の大屋根が目に飛び込む。
国宝「金堂」は奈良時代に建立され現存する金堂としては唯一。
天平様式の正面のエンタシスの列柱が、遠くギリシャを思わせ、真ん中の4本
の間隔は広く4.7m、左右の二本の間隔3.3mと狭い。
それは内部の仏様を柱の間から拝めるように造られている。
この柱を見た会津八一は歌を詠み、歌碑が左隅に建てられている。
『大寺のまろき柱の月かげを土に踏みつつものこそ思え』八一
四隅の上に屋根を支える隅鬼が見えませんか。
この南西の隅鬼さんだけいなくなって・・・新しいものです。
場所が鬼門だけに・・・役割を果たされたのでしょうか?。
外からの拝観ですが、連子窓からの光が差し込んでいる。国宝の9体の仏様
中尊は「毘盧遮那仏坐像」約3mで5.15mの光背に864体の化仏をもつ天平の作
向かって左に「千手観音立像」5.36mの天平の作で953本の大小の手を持つ
右には「薬師如来立像」3.36m、平安初期で薬壺を持たれない初期の作風です
その横、左右に古代インドの護法神、国宝の右に梵天、左が帝釈天です。
おおらかで、柔和な表情の仏さな、ほっとさせられますよ。
さらに四隅に奈良時代の作で国宝の四天王像です。
パンフレットから
続いて「戒壇」へ
正式な戒律を授ける地区別な場所で、中世に廃されたが、再建も火災で建物が焼失し、鎌倉時代の3段の石壇のみが残る。
その上に1978年にインド・サンチーの古塔を模した宝塔が築かれている。
金堂の裏側へ回り込み国宝の「講堂」へ仏典の講義を行う場所です。
奈良時代・8世紀後半の建物で入母屋造・本瓦葺、実は平城宮の東朝集殿を
移築・改造したもので、開放的な空間となる。
内部にはよく見えないが、本尊「弥勒如来坐像」重文、鎌倉時代と
持国天、増長天立像(重文、奈良時代)の他、多くの仏像が安置されている。
金堂と講堂の間、左端には鐘楼と、
右端に「鼓楼・ころう」鎌倉時代1240年の再建で国宝に指定されている。
5月19日の「うちわまき」行事で有名ですね。
礼堂と東室の前を行けば、石垣の前に松尾場所の句碑がある。
その横の石段の上の建物が「開山堂」で、元禄時代に徳川家歴代の御霊殿と
して建立され、もとは鑑真和上像が安置されていたが・・・
1250年忌にその摸刻の身代わり像がおられる。
回り込めば、「御影堂(みえどう)」、興福寺の一乗院宸殿の遺構で、廃仏毀釈で
明治以降、県庁や裁判所として使われ、1964年に移築復元された。
2022年3月までは現在修理中で、建物を移動し、発掘されたがほぼ元に戻る。
昭和46年から57年にかけて東山魁夷画伯の鑑真和上坐像厨子扉絵、ふすま絵、
障壁画が収められている。 月見には開け放たれ見れますよ。
そのまま「開山御廟」へ東へ進む。
鑑真和上の墓所、八角墳で判明した奈良時代の高僧の数すくない墳墓の一つ。小さな門から入ると、苔むした林の一本道、
橋を渡ればお墓に・・・
御廟前に和上の故郷・揚州(趙紫陽 )から贈られた瓊花(右下)が植えられ
初夏にその可憐な花を咲かせると。
そして新宝蔵を通り、「経蔵」へと
経蔵は経典を納める建物、新田部新王の旧宅の米倉を改造したものといわれ、
唐招提寺最古の建物で、日本最古の校倉造りといわれる。
月見に伺った以来、数年ぶりかな、穏やかな気持ちにさせていただけました。