青空も見えた朝の奈良、最低気温の-0.6℃から上がり、最高気温は10.8℃と
久しぶりの二ケタ台、気持ちの良い穏やかな早春の晴れ間の一日でした。
だが来週半ばから強い寒気が南下し、数日続き再び大雪になるという。
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NHKラジオ深夜便・今日の誕生日の花は「サンシュユ・山茱萸」
中国原産、ミズキ科の落葉小高木で、春に黄色い花と秋には赤い実と紅葉も
楽しめ、公園や庭木によく用いられている。
我が小庭のサンシュユは、総萼片が割れ始め、黄色い花芽が見えだした。
花芽が球形で総苞片に包まれ2枚の小さな芽鱗が基部につく。
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一方、12月に剪定した一部を水に漬けておけば、花が咲きだした。
花言葉は、実が生薬になり、滋養強壮や疲労回復などの効能に由来する
ことで 「持続」「耐久」と。
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ならまち社寺巡り、中将姫関連のお寺を巡っており、「誕生寺」と「徳融寺」
と回り、北隣には西山浄土宗の紫雲山「安養寺」がある。
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中将姫が実の母を5歳頃に亡くし、継母からひどい仕打ち(毒を盛られたり、
山に捨てられる)を受け続けられたが、父の藤原豊成公と再会し、内裏に入り
后に迎えられる直前に無常を悟り、ここ安養寺で出家を決意し、當麻寺へ
向かわれたと伝わり、開基は中将姫(法如禅尼)とされている。
門前の右側に安養寺観音堂がある。
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元は法相宗の寺との伝えがあるが、江戸時代以降は浄土宗になり、江戸時代に
一部改変された立派な本堂は、円柱(まるばしら)に舟肘木(ふなひじき)を置き妻を
扠首組(さすぐみ)とする構造形式で、屋根が厚板段葺(あついただんぶき)という古い
手法を用いていることから、建立年代は室町時代中期を降らないと考えられる
奈良市教育委員会
ご本尊は阿弥陀如来さまです。
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南に戻り東へ向かえば、大和北部八十八ヶ所霊場第16番「豊成山高坊高林寺」
中将姫ゆかりの尼寺で、融通念佛宗です。
奈良時代に中将姫の父、藤原豊成公の屋敷跡に建立されており、中将姫はここ
で成人されて當麻寺へ入り出家後、法如禅尼となる。
豊成公の亡き後は藤原南家の興隆を願い「豊成山高坊高林寺」と名付けられ、
豊成公の亡き後は藤原南家の興隆を願い「豊成山高坊高林寺」と名付けられ、
御本尊は阿弥陀如来です。
村井古道の1730年「奈良坊目拙解」にも「高坊」が記される
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小さいが門前の「中将姫修道霊場 豊成卿古墳之地」と刻まれた石碑が目印
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門を入ると、右手に茶室がある。
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扁額「高坊」と掛かる。
天王寺屋会記より宗及自筆の高坊・花押を採拾して作製掲額されています。
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安土桃山時代に、この場所に「高坊一族」又は地形を名とした「北の端」と
称する茶人・連歌師・医師竹田一族ら数寄者が住みつき、茶道・連歌等を大
いに興隆し、奈良南の下町町民文化の一大中心地として大いに発展した。
北の端宗棟(そうとう)・里村紹巴(じょうは)・高坊心前(しんぜん)らが住した。
特に徳融寺の歌碑「曳き残す花や秋咲く石の竹」、心前は松永久秀が多聞城築
城に際し、中将姫父子の碑を持ち去ろうとしたおりに詠まれた歌を久秀に差し
出し危うく難を免れたと伝えられている。
高坊は天正二年三月、堺の大宗匠津田宗及に招かれて「天王寺屋会記」に名を
残し、「松屋会記」や北野大茶会にも奈良茶人三十六人衆の一人として参加、
(文学博士永島福太郎先生の考証による)
これらを顕彰して、昭和63年「茶室高坊」が建立されている。
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境内には中将姫の父、右大臣・藤原豊成の菩提所で古墳もある。
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壁際の石塔に相対地蔵様でしょうか・・・
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建年は不明、奈良時代の宝亀年間に藤原魚名の娘が中将姫に仕え尼となり、
現高御門町の居室を尼寺となし、右大臣藤原豊成卿・中将姫 屋敷跡・元興寺
塔頭「高坊」として古墳を護ってきた。
1180年に平重衡の南都焼討によって焼失し、東大寺三昧堂旧本尊の千手観音像
(現在は東大寺ミュージアム蔵)は、かつて当寺の本尊であったとされる。
現在本堂には豊成と中将姫の木像が安置されている。
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時間は終了午後4時前だったので辞しました。
もう一度ゆっくり拝観したいお寺さんになりました。