昭和11年生四月の生まれの父は85歳で
法隆寺の近くに
・・と言うと
聴く人は感動を持ってイメージして下さるのでそのように表現するんですが
古い住宅地と畑と田んぼを30分も歩けばお寺に着く
そのあたりに
夫婦で糖尿病と付き合いつつ
あちこちの痛みと不具合と付き合いつつ日々を暮らしているようです
私の実父と同い年だった義父は
7年前に他界してしまいました
友人と出かけたお寿司屋さんで口にした握りすしが
嚥下できず喉に詰まらせた事をきっかけに
胃ガンが発覚
そこから半年で逝ってしまい
残された義母は義父亡き後の一人暮らしの一年間で
あれよあれよと言う間にQOLが下がって特養暮らし
一年に渡る面会禁止期間の果て
唯一覚えていた息子の顔も忘れてしまいました
そう言う物語が
珍しいわけでもなく
普通に起こりうる高齢者の暮らし
薄氷の上で保っているように見える何事もない日々の均衡が
崩れてしまうのはいつになるのか
崩れるとしたら一気に来るのか
そんな思いが、実家メンバー全員の心の片隅にあって
実家に電話をかけるときは
ちょっとドキドキします
今日はあちこち痛くてすっかり弱ってしまったと言う父と
久しぶりに話しました
父のような80代以上の高齢者は、第二次世界大戦から新型コロナウィルス世界的パンデミックを生き抜く
日本の生き証人です
三年前に受けた傾聴ボランティア講座では
相手の方の年齢を聞き出したら
「終戦の時何歳だったか」を計算する癖をつけるように指導を受けました
父の終戦は9歳
子供盛りの小学三年生
でも
私が小学生時代
「戦争の話を家族の人から聞いて来ましょう」と言う宿題が出た時
父は何も教えてくれませんでした
だから
仙台に疎開した事があると言うし
空襲にはあってないのかな?
とさえ思ってた
ただ、父はメインのおかずを一口だけお皿に残す癖があって
なぜかと聞いたら
「次のご飯が無かった時のために取っておく子供の頃からの癖」と言う
それが父から見て取れた、戦時の苦労の片鱗でした
それでも確か
バブルの頃には完食してたけれど・・( ̄ー ̄”)
・・・コロナはいつ収束するかねえ
大変だねえ・・
そんな話から始まった思い出話は
いつもより圧巻でしたので
今日はここに覚え書きをします
「震災で二回家なくしてんねで」
・・・二回?
確かに、
私が中学卒業する頃まで毎年
お正月に訪ねた香櫨園の父方の実家は
阪神淡路大震災で倒壊したと聞きました
NHKの朝ドラのセットに使えそうな木造二階建て日本家屋
格子戸を開けるとカサつき電球、大きな直方体の石の上がり框
トイレから出て来たら、縁側の手水から柄杓で水をすくってすすぐような
昭和50年代当時でも
レトロを感じるその家屋が私は好きでした
あの明け方
天井が大きく三回ぐるぐると回ったかと思うと、そのまま家全体が捩れるように倒壊
寝ていた叔母は
仏壇から落ちた祖母の遺影が
まるで叔母を天井から守るかのように
自分と並んで床との間に挟まっていたのを見
ハリに挟まって動けなかったいとこは
近所の人に助け出されるまでの数時間を耐え抜いたと聞いていました
「香櫨園の家はなくなっちゃったもんねえ・・」
「いや、その前にや!」
父は言います
門真に二軒続きの家があったんや
片っぽが空き家でな
誰もおらへんかったからよかったけど
片側一軒全部台風に持ってかれたんや
門真の家・・?
その初耳は
いかに父と娘がじっくり話す機会を持たないかを示すとものなのか
実は親子ってそんなに身の上を語らないものなのか
弟2人の手え引いて逃げたんや、そしたら後ろでどーんと言う音がして
3人の体がな、1メートルくらいふわっと浮いてなそのまま小川に飛ばされてな
這い上がった先の家に助けてもらおうと駆け寄ったけど
入れてもらわれへんかった
「えええ?!
入れてもらえへんかったん?!」
そら、風がすごうてや!
扉開けたらその家も飛ばされるから開けるに開けられへん
窓越しにおばさんがな
<そこでしばらく踏ん張って!>て言うから
子供3人で軒下にうずくまるしかあらへん
もうな、も〜のすごい風がびゅうびゅう吹いて、どうなるかと思ってたら
どうなったん?
・・・台風の目が来たんや
さあああっと風が静まってな、青い空が見えた。台風の目えや
その隙をついておばさんがさっと扉開いて中に入れてくれて
やれやれと思ったらまたこれすごい風が吹き出してなあ
台風が行ってしもてから家見たら
西向きやった家が北向いてて
お餅みたいにぺしゃんこになって
2メートルもあらへん
父が見たのはジェーン台風の目で
父は14歳
災害で二回家をなくした
と言いたかったのかもしれません
【ジェーン台風】1950 Jane Typhoon
電話の始め方では
長いとこ歩かれへん、
ゴルフもできへん、
足が痛うて、
糖尿病の薬が胃腸に合わへん、
ほんまはステロイド打ちたいんや・・
そんな思うにまかせぬ日々の不調の話の中で
沈んでいたように思われた父の声に
少し張りが出て来たように思えました
燃え盛る火の間をな
弟たちの手を引いて逃げてなあ
(・・燃え盛る火・・台風で?・・)
すみよしがわて言う川があってな、そこに飛び込んでな
山の方からB29が何百機もな、飛んできたんや
高射砲の迎撃で撃ち落とされんように高度一万メートル以上で飛んどるから
一つ一つが小さくて、
それが塊になって雲みたいに見えてな
ほんでジュウタンバクゲキや
わかるか
ジュウタンバクゲキ
「絨毯爆撃?
絨毯を敷いてゆくみたいに爆撃するってこと?」
雨あられのように焼夷弾と爆弾がわーっと降って来た
今日みたいにいい天気の青空の日やった
けどな
燃え上がる火と煙で真っ暗で
夜みたいなった
ほんでその後しばらくしたら雨が降って来た
黒い雨や
「原爆じゃなくても降るものなん?」
せやで
川から空見上げたらな
真っ黒の雨が降って来た
爆撃が終わって、風が吹いて、陽が差して来て見たら
みんなの顔が真っ黒や。昭和の資料とかにあるやろ
あれ、煙でなるんちゃうねん、雨に濡れてああなるんや
家に帰ったら、家は姿形もあらへん
大きなごおっついクスノキがいっぱいあったんやけど
枝も葉も全部焼けてもうて
大木の太い幹が爆撃で裂けて
そこから水蒸気がもうもうと立ちのぼっててなあ・・
家がないから仙台に疎開したんやけどな
大阪から乗った列車の中で、浜松でも絨毯爆撃や
満員の列車が止まってしもうてな
「お前、子供だから行って見てこい」と周囲の大人に客車の窓から放り出されて
線路伝いに先頭車両まで行ったらな
機関車が真っ二つになって止まっとったんや
ーーーー9歳の少年が見た
爆撃で降る雨
無くなった帰る家
毎日のうように登って遊んだであろう大木
見る影もなくなって上がる水蒸気
真っ二つの機関車
これらの光景は
どんな心の土台に
どのように刻まれるんだろうか
と思うと
この時は胸が苦しくなりました
ともすればすぐに老害呼ばわりされる人々の
生きて来た記憶を
今一度生々しく思い知ってもいいのではないか
いや、もはやどんなに語っても、
絵空事になってしまうのか
ーーーー
・・そのまま1日半、次の列車が来るまで待ってな
子供は網棚に寝かされてなあ
三日かけて仙台に着いてなあ・・
父がその時見た空
風とか雲
木、家、機関車の様子は語られても
そこで絶対見たはずの
人にはほとんど触れられない
8人いた兄弟は「薬がなくて」6人になり
6人揃って平成までは生きてこられた
けれど兄も
手を繋いで空襲や台風を逃げた弟たちも死んでしもうて
男兄弟
俺1人になってしもうた
「コロナの先に、何が待っとるんやろうなあ・・」
我が国のワクチン接種が上手くいって
私が伝染させないようになれたら
会いにも行けるんやけどねえ
「ところでお前、英語は喋れんのか」
へ? Σ( ̄ー ̄💧)
これからの世界は
英語わからんかったらもう生きていかれへんぞ
俺は中学時代にそう思った
西部の英語なんてな、聞き取られへんあれは、鹿児島の方言のレベルや
だいたいあれだけ言うたのに勉強せんかってからに
お前もゆきちゃん(娘)も今からでええ!
5年もあればなんとかなるやろ
英語マスターせい!
ひぃぃ〜
世間一般的に<高齢者>と一括りにされる80代の脳裏には膨大な記憶が眠っています
「世界大戦から新型コロナウィルスまで」
「二回の東京オリンピック」を生きる人々の脳裏の残る日本の記憶を
引き出せるうちに聞き出したいと言うのは
私の夢の一つなのですが
今日は長い長い父の話を聞くことができて
壮大な回顧録で終わろうとしたのに
戦後の家の没落で
大学はアルバイトで出たけれど、英会話を学ぶ機会は逸して
度重なる海外出張で苦労した分
子孫には
英語を使って世界と対等に渡り合える日本人になってほしい
と言う父の望みは
潰えてなかった
というか
忘れてなかった
ようで
こうなると
遺言にならないうちにマスターするのが
親孝行なのでしょうか・・
今から?!Σ( ̄ー ̄)
今日はそんな話で
〜( ̄ー ̄)ノシ
📚🖋📖