ケロの与太

「全力で与太話」
読んだら忘れてください(” ̄▽ ̄)ゞ  

親の施設利用を後ろめたく思わない

2023年10月01日 | ゆめゆめ笑うなゆく道だ(義母と施設と)


前回の記事の業平君の
「オヤジを施設に入れた」
という現状報告に
彼の後ろめたさを感じたと書きました
これは勝手に私が感じただけのことで
そう感じたという私の中に
後ろめたさがあるのでしょう

か?🤔

↑そこ疑問形かい



いろんな事情で面倒を見きれないと判断した親を
介護付き老人ホーム等に委ねるにあたって生じる
切なさや後ろめたさは
ある程度仕方のない感情だとしても
施設に入れてしまった
などという言い樣は
介護現場で働く方々に
大変失礼な話だと思います


「この家で、私の手で面倒を見るべきなのに」
という根拠なき前提など極めてナンセンス
少なくとも私は
介護スキル皆無の無能だったのだし

住み慣れた家でもなく
同居した事もない嫁が
恨みがましく面倒を見るより
(いや、見られなかったけど😓)
県外も含め何箇所も何箇所も足を運んで
直接話をさせてもらった末に縁を結んだ
気立ての良いプロの皆さんに
お任せ出来たことは
この上ない幸運だったと
心から喜んでいました

入所が許されたら、お世話になる皆さんとの風通しを保つ
毎日様子を見に行くなど現実的でないけど
週、月、ある程度の決まったスタンスで
預ける側の人間性と
継続的な感謝が細々と伝わるコミュニケーションを
利用者側から構築する心意気があると良いのかな
思っていました

ただ、義母の最期の3年に
コロナ禍があって
そこからは
どうすれば良いのか
全く分からなくなってしまいました

緊急事態宣言下も毎日出勤して接客業を続けた私と 
都内に通勤していた夫が
例えば 
何か差し入れに行くとか
防護服を着用しての特別面会に応募するのは考えられなかったし
電話で様子を聞くことも
聞いたところで・・
という思いから
憚られた


ただ手をこまねいた年月の果て
今生の別れが来て
その直前の特別措置として
やっと会えた時には
義母は
言葉を忘れた倒木のように固まってしまっていて

それはどうしょうもなく
本当に申し訳なく
残念でした



今日はそんな
補足的話



〜( ̄ー ̄)ノシ




🪽🪽🪽

その日を前に

2023年07月18日 | ゆめゆめ笑うなゆく道だ(義母と施設と)



いつかは自分の命日になる日も巡って来る
じゃあ具体的に
何月の何日になるのか
寒い季節はやだなとか
夏休みの最終日とかも落ち着かないな
とか
義母の今際の際に
そんな事をよく考えました

たとえ
今日元気に生きていても
長患いの果の危篤状態でさえも
その予測は難しい
それは
ルーレットの中で
勢いよく転がる白い球が
突然、もしくはとうとう
コロンとどこかに収まる
そんなイメージ


願わくば
花の下にて春死なん
その如月の望月の頃

すでに950年前に
このベストシーズンを上げている人がいました
この歌を知った時
まだ黒電話しかなかったけど、
全力で「いいね!」をしたいと思った中学生のワタシ
( ̄ー ̄)
実際に西行は
桜咲く如月の満月の
1日遅れでこの世を去ったんだそう


五島美術館2022年ポスターから拝借


さて
4月の末に身罷った義母でしたが
2月の頭から毎週決まって日曜の夜
「どうする家康」が終わる頃
危篤の知らせがありました

今すぐ来る必要はないが
覚悟はしておいて欲しい
まだ会えてない人はすぐにでも会いに来たほうがいい

毎週日曜の夜の知らせに
翌朝5時半に出勤する夫は
疲弊していました

しかし、世が世なら
毎日家族が病室に詰めるか
見舞いに通っていたはずで
それが二ヶ月半も続いていたら義母が逝くのが先か、
こっちが疲れ果てるのが先か、
そんな膠着状態に悶絶したに違いなく
コロナ禍に与えてもらったこれはゆとりであり
医療機関の皆様の尽力、心尽くしには
やっぱり今も感謝しています


義母が施設を出た理由は
吐血と下血でした
施設と病院を出たり入ったりの緊急入院は
3回ほど繰り返したでしょうか
最初に血が混じった時は内蔵にカメラを入れて検査もしたけれど
度重なるようになると
つまるところ老化劣化による多臓器出血ということになったようで
(嫁の私には知らされない)
少し遠くはなるけれど
コストが同じ位の病院に移るように言われたのでした

葬儀の手配のバタバタの最中覗き見た死亡届には
いくつかの病名の筆頭に
重篤性逆流性食道炎
とありました
癌には侵されなかったけれど
内臓が損傷していった
そんな感じ?

最低限の栄養と水分のみの点滴を受けながら
脳は認知機能を失い
言葉も出せない
肉体の生命活動の停止まで
ひたすら横たわる年月
誰も来ない
何もできない何もわからない
ただ仰臥する
傍目からはすでに〈屍〉と変わらないその状態
それが一体どんな時間になるのか
想像が出来ませんでした

なんかすごい看護師長は
私の左後ろから義母を眺め
私の左耳に語りかけます

「近い将来必ず旅立たれます」
「あの点滴には
水分と必要最低限の栄養しか入ってません」

義母の体は
内側から焼き尽くされるかのように
皮膚が骨に張り付き
硬く小さくなっていきました

「ちょっと痩せちゃったかな」

左から聞こえる優しい声は
〈もうすぐですよ〉
と言っているかのように
私には聞こえました


今日はそんな話です


( ̄ー ̄)


🌸🌸



なんかすごい看護師さん

2023年07月11日 | ゆめゆめ笑うなゆく道だ(義母と施設と)


今年のプチトマトは豊作
(人 ̄▽ ̄)🍅




義母が入院した病院には、シスターを思わせる婦長がいました
あらかじめ夫から
「なんかすごい看護師さんがいる」
とは聞いていて
それがこの人だと言うのはすぐにわかりました

まだその病院が<看取り病院>だったと解っておらず
三年会えなかった義母の
あまりの変わり様に呆然とする私に
特別許可された10分間が終わった事を告げに来たのが彼女でした
慌てて立ち上がった私の左耳の後ろにさりげなく立つと
同居は長かったのか、どれくらい会えてないのか
どう言う義母だったのか
などひとしきり私から語らせ
ゆっくり頷きながら
まだ風の冷たかった窓の外の桜の木々に目をやると
「見せてあげたいけれど桜の花は無理かもしれない・・」
「義妹さんにも、できるだけ早くとお伝えくださいね」
と言って
聖母の微笑みで送り出してくれました

私が婦長に話したことは、もはや看護に必要な情報ではないし
結局義母は新緑の季節まで生きていたけれど
窓の外を見ることもなかった
要は
「もうすぐお亡くなりになりますよ」
と言うだけの話だったのだけれど

彼女の白衣に反射する光は紗がかかった様で
その優しい光と
私の左後ろに位置取った彼女の柔らかな何かに大きく包まれた様な
不思議な体感だけが残りました
このなんとも言えないモノは何?
これが
「なんかすごい」か!

彼女との数分の邂逅は
病院を出て1人で帰る駅までの道を行く勇気と
怖がらずまた来よう・・
と決める勇気を私にくれました

彼女は私と同世代?
いやいや、あれは年下か
後2年で還暦の実年齢と
本能的に若くありたがるセルフイメージが本気で乖離して来て恥ずかしい

<どんな人生経験を積んだらあんな風になれるの?>
と言う憧れと
<いや、私には無理>と言う諦めがない交ぜになりながら

あの「物凄さ」を身につけた彼女の
きっと海千山千、決して平坦ではない看護師としての来し方を
想像しようとしたのでした
想像はつかなかったけど


今日はそんな話



〜( ̄一 ̄)ノシ





🌸






















義母とGoogle〜 願ってすらない世界

2023年05月18日 | ゆめゆめ笑うなゆく道だ(義母と施設と)

この十年
android(スマホ)ユーザーの私は、Googleが提供してくれる目くるめく便利に驚愕し
その導きについて行こうと務めて来たと思います
( ̄▽ ̄)←要は便利に使ってる

読書にもスマホ  ~OK google! 奥行きと楽しみを広げる呪文( ̄▽ ̄人”) - ケロの与太

読書にもスマホ  ~OK google! 奥行きと楽しみを広げる呪文( ̄▽ ̄人”) - ケロの与太

もちろん、小学生ではないので、読書の中で、知らない単語が出てきたとしても積み重ねてきた半世紀に渡る経験からよく分からないなりに、こんな感じかなあ~と想像出来るし...

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新幹線にあと一時間 - ケロの与太

新幹線にあと一時間 - ケロの与太

#linecamera例にょって新幹線の中でGoogleMapを開き自分の位置がすごい勢いで動いてゆくのを楽しんでみました私が河を渡ると、現在地マークの青い丸印も地図の上を渡ります...

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開会式でもOKGoogle! - ケロの与太

開会式でもOKGoogle! - ケロの与太

もう一ヵ月前の話になりますがこういうネタの芸人さんいましたよね・・( ̄▽ ̄)ゞこのブログには何度も登場しているGoogleマップですがとにかくお金のかかる海外旅行はしない...

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全く過去のブログは読み返すたび、
そのあまりの読みにくさに速攻削除したい衝動に駆られます
が、これも人生( ̄一 ̄”)←大きくまとめたな


Googleマップの便利さに一番助けられたのは
一人暮らしの果ての入院からの認知症で
<今がいつ><ここは何処>が認知できなくなっていた義母を預ける
特養探しの時だと思って来ました

この記事は我ながら
悪くなかったかも( ̄ー ̄)


この頃の私は
この先
義母を想う時はこの日の夕焼けとGoogleマップが一緒に刻まれるだろうなと思っていました
しかしあれから
さらに8年の月日が流れ
Googleマップがさらに進化したのはご存知ですか
( ̄▽ ̄)
今日の話の肝はココ!


Googleマップを開くと出ている
新しいマーク



コロナで失ったものは何か
と問われれば
義母に全く会えなくなった
3年間と答えます

全く会えない月日の中で
直近2年は体調が急変する度に
施設と近隣の大病院の間を移動する手続きに呼び出されました
慌てて駆けつけたところで
本人には全く会わないのです

それを5回ほど繰り返した果に
終末医療を施してくれる病院に転院となり
指定された病院に出向くことになりました
もはや義母の居場所を私が個人で探すこともなく
病院間の連携で義母は自動的に運ばれて行きました
そこでは
身体の清潔と
最低限の水分と栄養と
誰もそうだとは言わなかったけれど
死ぬまで寝ている寝床を提供してくれる場所なのだと
あとで理解しました

私達の顔を認知しない義母にはリモートの面会では意味がありません
3年の中で変わりゆく姿を見る機会を持てず
私は義母と血縁ではない為に
病状が知らされず
夫のフィルターを通すと悪い話が欠けてたりして
もはや子供のように
人の言う事だけを聞いて想像するしかありませんでした

今年の二月になって
この先は病状がいつどうなるかわからない
予約さえすれば
平日であれば
10分間会えることにします
特別ルールを婦長が作ってくれました

初めて出向くその病院は
電車に乗って
住宅街の入り組んだ道を登りきった丘の上にあって
タクシーよりは歩いたほうが早いと言われました

GoogleMapがあるからね!
怖いものはないさ😌
まあ
【北東に進みます】
って言われてもさ
北東がどっちか分からないのが困るんだけど!😂

そうつぶやく私が見つけた
小さな見慣れない印
そう!

大事なことなので2回目😌

ポチっとしてみて
驚きました
カメラ画面に変わったそれが言うのです
【周囲の様子をみせて?】

え?
こんな感じ?
私がアプリに周囲の様子をぐるりと見せると

【わかった。
さあ、案内するよ】←妄想



画面に大きな矢印が出てきて
私を誘うのです

【ついておいで】←妄想



なんと頼もしいことでしょう
嬉しくなって交差点を駆け出そうとしたら
サッと画面が変わります



この警告は
どんな小さな交差点でも
出てきました

GPS衛星ってすごいのね
私を見ているのね

【もう少しだよ】←妄想

この先に
この丘の上の病院に
怖いことが待ってるかもしれない

けれど
私はこの矢印について歩くのがとても好きでした




高齢者施設が併設された
中規模の古い病院の駐車場までついたところで
私はまた一人になります

裏口にひっそり設置されたインターホンを鳴らし
予約した者だと伝えると
解錠したドアの音と
しわがれた男性の、そのまま進むように言う声に従って
廊下の突き当りで
アルコール消毒とフェイスガード
エプロンと薄い手袋を装着し
病棟のエレベーターに乗ります
病棟は古い公立小学校のような広さと明るさで
婦長さんが
金の粉が零れるような笑顔で
声をかけてくれるのです

10分しかないけど
ごめんなさいね

そして
面会を終えてフラフラ出てきた私を天使のオーラで包みながら

冬が終わるのは
待てないかなぁ

桜が咲くのは
見られないかな

と言っては

ここがお母様の最期の場所です
ここから旅立ちます
遠いかもしれませんが
来られる人には
早く
来てもらってくださいね

毎回そう囁いて
送り出してくれるのでした



↑わざと間違えると怒られる
( ̄ー ̄人❤)

病院から出て駅まで帰る道も矢印についてもらいます
頼り切っていると
自分の記憶は定着しないので
ずっと頼り切りになります

それにしても
この矢印君が推しのアイコンだったりしたら
きっとたまらんよなあ😝

そのうちこの機能が 
メガネやコンタクトレンズに搭載されて
見える物が情報だらけになる世界が
平民に降りてくるかもしれないなあ

きっと
義母がいなかったら
知らなかった世界を


終末と近未来が交差する
静かな住宅街を
ひたすら歩いた



今日はそんな話




〜( ̄ー ̄)ノシ🗺



🗺🏥🌸











コロナ禍の禍と福

2022年10月18日 | ゆめゆめ笑うなゆく道だ(義母と施設と)


今日はリモート集合研修で自宅待機の日
昨夜、研修の説明ページにアクセスすると
リモートと言う名のアーカイブ動画視聴と解ったので
前日夜のうちに6時間講習分を2倍速で見終わって
今日は夕方、確認試験に解答すればいいだけ
一日のんべんだら〜り
ゴロゴロと過ごすつもりでした





なのに
私の悪巧みを神様はお見通しだったようで
午前11時
大学病院なう



朝の家事を終えてラジオを聴きながらお茶を飲んでいたら
施設から電話がありました
親を老人ホームに預けて手に入れた時間で、代わりにしておくべきこと。 - ケロの与太

親を老人ホームに預けて手に入れた時間で、代わりにしておくべきこと。 - ケロの与太

特別養護老人ホームでの暮らしは私には天国のようですが、義母には同じなのでしょう。「帰るって・・・どこに帰るんや?」「どこて・・ようわからんのやけどな・・。」夫は...

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義母が吐血をした
看取りの許諾を得てはいるが
このまま看取りに入ることはせず、病院に緊急搬送するとのこと

ああ!
とうとうその日が来るのか!

施設から電話があるたびに
【看取り】という言葉が出るようになりました
コロナ禍における想定外の事態・急変に際し
速やかに対応してもらうために
一切の判断をお任せするという事前の【看取り】許諾です


面会ができていた頃の義母は
車椅子に座りっぱなしの認知症ではあったけれど
看取りなんて言葉とは絶対無縁
天真爛漫、元気な人でした

コロナ禍で面会が制限されてしまって三年
誰とも触れ合わない刺激のない生活の中で
看取りが視野に入るほどに弱ってしまった様で
もう私が楽天で買った真っ赤な車椅子にも
乗ってないのだろうとは思っていました


入院や手術の手続きとなると、判断に必要なのは、嫁ではなく肉親です
でも、その義母の愛する息子(=夫)も本日
胃がん摘出1周年ということで
都内で造影CTとか視鏡とかのややこしい系の検査中
終わるのは午後3時
ああ、私が動かんと!

これでもし
私も例年通り市外の研修所に出かけて受講していたら
施設からの電話にも出ず
緊急搬送2時間後の昼休みに驚愕し
あたふた後手後手で駆けつける事になって 
施設の方に多大な迷惑をかけ
修了出来なくなった研修のフォローもなかなか面倒だったと思います
登録販売者は年に一度、規定の自前学習と6時間の外部研修を受けなければ
資格が継続されないの( ̄ー ̄)

事前に2倍速でやっつけて
今日が事実上の休日だったのはホント助かりました
コロナ禍のささやかな福

そういえば去年
コロナ禍中で胃の摘出手術に臨む夫は、仕事用のパソコンを持って入院しました
術後3日は高熱と痛みで動けなかったけど
体力が回復するにつれ、上げ膳据え膳の入院生活で
通常の数倍の生産性で業務をこなし(本人談)
退院間近になってはベッドの上で会議に参加し
退院後も自宅で仕事
無理なく復帰して行きました
現在も週2日は自宅勤務に振り替え
会議の合間に寝そべっては、ワイドショーに文句言を言ったりする働き方

胃半摘の予後は
半分になった胃袋には多すぎる胃液と
半分になった胃袋には多すぎる食欲との戦いで
見てる方も辛いことが多いですが
それでも私は密かに
夫の寿命はコロナ禍で
延ばされているのではないかと考えています

困るのは
私がワクチンの三回目を未接種ということで
病院内を自由に動けないことでしょうか
ここは特定疾患で4回目を接種済みの実の息子さんに
頑張ってもらおう
( ̄ー ̄)

コロナがもたらした禍は人それぞれでしょう

大人の表情を学べない乳幼児
たおやかな感性を持つうちに
得ておきたかった様々な経験の機会を奪われた子どもたち
仕事を失って生活設計が暗転した人々
交際の場や運動の機会を奪われてフレイルが進む高齢者

それでも
それぞれの立場から
禍に見えている部分を
福に転ずる
その視点、その道を模索するのが
生きてゆくと言うことなのでしょうか

病院に来て
5時間、何をするでもなく
ひたすら待っていると
思考が飛び始めます


義母の出血は食道の傷からでしたが、腫瘍や病によるものでは無いので
傷が治れば退院だそう

ものすごく元気な
義母の声だけが
病棟のガラスの向こうから聞こえてきました

今日はそんな話




〜( ̄ー ̄)ノシ




🏥





50代夫婦の危機の

2019年08月11日 | ゆめゆめ笑うなゆく道だ(義母と施設と)
         

熱中症からの三ヶ月の入院で認知症を発症した義母さんを大阪からこちらに呼びよせ、
同居は無理だと判断した夫の言葉をいいことに、渾身の施設探しに奔走したのはもう2年前の秋
私の住むエリアで
介護付き有料老人ホームに入ろうと思ったら
月々最低でも最低ランクの施設でも、23万はかかる
解った時は、
咄嗟に義母の事などすっ飛ばし
ああ、自分がそうなったら、生きる事は諦めなければならない
でも、認知症になったらそれすら選べないんだ・・
と我が身を想って途方に暮れた事を思い出します

義母の年金に義父が残してくれた財産から持ち出してでも
入居はしてもらわねば生活が立ち行かないので、とにかく入って頂いて
混乱する義母のご機嫌が少しでも良くなるように毎日通って様子を見に行くことを贖罪とし
しかしこの先100までも義母の寿命があったならまた路頭に迷ってしまうと考えた私は、
要介護3の認定が下りると同時に特別養護老人ホーム探しを開始
郵送で施設に申請書を送るとなっているところ、
ピックアップしたホームの担当者とアポイントを取って直談判
当時の私に山のようにあった義母への後ろめたさと情を切々と伝え、もとより情の深いこの業界の方々の同情を買いに行ったのでした

認知症で記憶も理解も手放してしまったけれど、気さくで朗らかで感謝を忘れなかった義母に徘徊と他害行為が無かったこと
要介護4と5の受け入れは不可能だけど、比較的手のかからない3なら欲しい・・となっていた当時の市の施設状況が追い風になって
5ヶ月で特養に入れて貰えたのは、神がかった流れだったと今でも思います

しかしいつまでたっても窓口はワタシ、最初はそれでいいと思っていましたが
有料ホームから特養への転居手続きにあたって
「俺、ここで待ってていい?」と車から降りようとしなかった夫に
「アンタのおかあさんがお世話になったんやんか・・」と言った時から、
手を引く事を考え始めました

どんなに毎日通って、話を聞いても義母が逢いたいのは息子だけ
義母がどんなに不安になって駄々をこねても
夫の名前を出せば何とかなってきた
私が逢いに行ったら、夫は自分はいかなくていいと思ってしまう
終の棲家のお膳立ては出来た。後は二人の交流でいいじゃない

徐々に手を引いた半年の間に
義母さんは私の事を忘れてしまいました。たまに顔を見せるだけではだめなのです
「もう、帰らはったほうがええんと違う?
私も食堂にいかなあかんで忙しいねん・・」
ドアを開けて5分
ああ、お義母さん、私の事が誰だかわからなくて怖いんだな・・
と思ったあの日から三ヶ月

今日は夏の2連休、
久しぶりに夫について施設に行きました ☜今ココ( ̄▽ ̄)

暑い真夏の10時半
空気は少しカラッとしていたけれど、やっぱり暑い炎天下
ここ1年、毎日欠かさず一日2万歩を歩いてきた夫の歩調はものすごく速く
私は膝が壊れるのが怖くてこの競歩に参加する事が出来ません
夫は元来やりたいようにやってしまう奔放人
私に合わせようという気持ちはほぼほぼないので、5mくらい離れて歩きます

         


たまに遠くから振り返って待つ気持ちがあるうちは
良いんでしょうか

夫の背中が謎めいて見えました

シニアエキスパートになるための情報収集だと言って
週末はワイン会で帰って来るのは夜の2時3時
その生活はもう何年くらい?
最近はその予定の前に温泉のサウナに行くスケジュールをくっつけるので
日中からいなくなる

施設を出たらウォーキングをして温泉に行きたという夫と別れて
私は帰宅しました

それが私にとってまたそこそこ快適なんだけれども

これで本当にいいのかな?
暑い路地を歩いていてそんなことを思いました

                  




私としてはこの半年、
転職がらみで生活リズムが乱れ
ほったらかしにした反省があるけれど修正をかけるのも面倒くさい

長い人生、いくつか弾けるのは仕方がないとして
押さえておくべきペグは
どれ?



今日はそんな話です
~( ̄▽ ̄)ノシ













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高齢の親のセルフネグレクト~ あれから一年。できなかった対策と後悔と( ̄一 ̄:)

2017年08月26日 | ゆめゆめ笑うなゆく道だ(義母と施設と)

暑すぎの夏・灼熱の夏
さあ、青空だ、夏の仕切り直しだ!
なんて思ってたら、今日から小学生は新学期だそうで
時の流れは容赦ないですね。

         2008年夏 お兄ちゃんのお古ばかり着ていた娘の証拠画像ありました。





時の流れと言えば
去年の今頃私は大阪にいました。
舅が亡くなって三年目の夏、一人暮らしを続けていた姑が救急搬送されたと聞かされ、
駆け付けたのでした
思えばあの時から
もっと言えばこの時から
私の生活の中に義母がいる日々が始まったといっていいような気がします。

この一年のうちに
認知症の何たるか、介護施設の現状を蚊帳の外から実感しました

2016
 8月 大阪の実家にて熱中症になっているところをヘルパーさんに発見してもらう
    熱中症・貧血・褥瘡治療のための入院

 9月 退院勧告

10月 最初の有料施設めぐり

11月 義母を大阪から神奈川へ~大阪→横浜8時間ドライブ
    初めてのおむつ替え
    初めての介護用品・楽天で車いす購入・自宅介護2日で断念
    有料老人ホームお試し入居大騒動
    有料老人ホーム正式入居
    毎日の施設通い
 
12月 要介護3の判定が下りるとともに、特養巡り

2017
1月  インフルエンザ施設内感染
2月  特養面接
4月  特養入所
6月  脳梗塞発見~入院
7月  ヨメ(私)施設通いストライキ→ ※後日また解説


私にとってはこの一年は「来るべき怒涛の」と表現されるような一年でありましたが、
本当に義母にとって一番過酷だったのは
義父が亡くなってから昨夏救急搬送されるまでの独居生活
膝の痛みで徐々に歩けなくなり
記憶がうまく繋がらなくなっていった
淡白な親子関係の果て「助けてくれ」とは最後まで言いだせず
言われないことをいいことに、
長男夫婦に見て見ぬふりをされ続けた孤独の二年間だったと思っています。


昨日美容院で読ませてもらった「週刊誌」のの読み物の中に
高齢者のセルフネグレクトと言う言葉を見つけました。
ネグレクトと言えば、一般的に育児放棄を思い浮かべますが
セルフネグレクトは「自分の世話の放棄」
特に、配偶者をなくした独居老人の気力の低下、
加齢伴う体力・筋力の低下による
セルフネグレクトへの移行を早期発見することの重要性が書かれてありました。

・極端に不衛生な居宅    
・長期間、入浴をしていない
・不潔な衣服、身なりの継続
・周りの支援を拒否する
・家族とは関わっていない
・経済的に苦しい状態である
(※義母の場合お金を極端に使いたがらない性格?)
・必要な医療サービスを受けない

思えば
全ての条件に当時の義母は見事に当てはまっていました。
医者嫌いで人見知り、掃除はしないが人にされるのも嫌、自分の食事はとても適当
それは私が嫁に来た時からそうだった、と言う一面も
その判断を遅らせました。

「何かおかしい・・」
と言いながら
介護サービスを増やしたり、
デイサービスへの参加を進めたりすると
義母本人から怒られ
断固拒否をされてしまう
の繰り返し。
結局、本人が入院、そこで完全な認知症となって
自分の意思を表現できなくなるまでずるずるした挙句
呼びよせて施設に送るという解決策しか
講じられませんでした。


この一年
何がいけなかったのか。



私は、生前の義父の悪口ばかり言っていた義母は、
義父がなくなったら、一人を満喫するものと信じて疑いませんでした。
でも、そうはならなかった。


昔、心理学で習ったストレス強度表でも、
配偶者の死を100として表されているように、
とにかく配偶者の死は
舐めてはいけなかった。

1 配偶者の死 100
2 離婚 73
3 夫婦別居 65
4 刑務所への収容 63
5 近親者の死亡 63
6 本人の大きなけがや病気 53
7 結婚 50
8 失業 47
9 夫婦の和解 45
10 退職・引退 45
 .
 .
 .
私の学生時代にもあった
かなり古いアメリカのデータですが( ̄ー ̄)

とにかく
高齢の親の配偶者の死とその孤独を舐めてはいけなかった。

そしてあの頃私は
サービス付き高齢者住宅の存在も知らなければ
老人介護保険施設の存在も知らなかった。

さらに
自動的に介護保険を払ってはいても
サービスの門戸は決して自動的には開かれない。
無知が最大のモッタイナイ。


知識をもち
有効利用を視野に入れ
「しばらくこちらに遊びに来ない?」
と言うような誘いをして、義母を孤独と絶望から遠ざけていれば
もしかしたら・・と言う思いが今でもあります。

それはあくまでも、こんなことになるらば
と言う結果論
当時は
この狭い戸建ての中に
長男を追い出して義母を呼び寄せる等という勇気は
ありませんでした。

義母に対する思いが、
全く本気じゃなかった。
出来ればいつまでも一人でやってて欲しかった

遠距離住まいで、会うのは年にあっても二回
問題ない大丈夫やと言い張り
余計な世話を嫌がる義母の
その言動が
断然好都合な嫁がいました。

さて、
遠くに高齢の親が住んでいて
本人は「まだまだ大丈夫だ」と言い張ってるけれど、なんだかどうにも心配だ。
と言う介護未踏の皆さまにおかれましてはぜひ
事が大きくなる前に
親御さんがお住まいの「地域包括支援センター」に電話一本相談してみてはいかがでしょう?
具体的なお悩みや相談がまだ無く
漠然とした不安のなかにいるだけならば
各自治体には
高齢者が利用できるサービスをまとめた冊子やホームページが必ず存在するので
後学のために一度
ザクッと読んでおいては
いかがでしょう?

自分の反省のくせに
意味なく
上から目線になってきたところで



今日はそんな話




                      ~( ̄▽ ̄)ノシ














要介護状態への病~脳梗塞 ( ̄□ ̄;)

2017年07月03日 | ゆめゆめ笑うなゆく道だ(義母と施設と)
 


         




         




         




         




         




         




         




         




         




         



そして、この日の記事へと続くのでした。


アテローム脳梗塞は発症3時間以内に治療を始めると、マヒした部分の機能が戻ることもあるそうですが
それ以上経ってしまうともう助からないのだそうです。
義母の発症は朝だと思われるということ、
「今の状態から何かがよくなるということはありません。」
と速攻断言されました。


朝、義母は排せつ介助でものすごく頑張っていた。
とヘルパーさんから聞いたばかり。
その時もう脳梗塞の状態だったのかと思うと、
救急搬送の際170を超えていた血圧を思っても、辛かっただろうなあと思うのでした。
出されたご飯を食べなかったのも
つらかったからか、
右手が動かなかったからか。

施設からついてきてくれた若手のヘルパー君もほぼ頼りにならず。 
日ごろの状態は私が即答
救急車を待つ間のスタッフの動きとか、振る舞いに対してもいろいろ感じることがあり。
この時ばかりは介護を丸投げにすること、
されること
「有料」と「特養」の違い
いろいろ考えてしまいました。

主観を客観へと切り替えるために
一つの事象を多角的に眺めるために、時間をかけるということは大事だなあと思います。
先が見えない不安の中では、本質的に不必要なことを拡大解釈付きで妄想してしまいがちで。
あの時じっくりブログを書いていたら
結構な恨み言が並んだことかと思います。

右手の機能を失ったのは大きなことなのですが
元居た特養に迎えに来てもらって退院し、
誰に言われるでもないのに、左手でガンガンご飯を食べて完食を続けている様子を見ると
一連のことが
とてつもない不幸が最小限で済んだ幸いにも思えます。     
あの時義母が腕を舐めなければ
私はそのまま帰ってコメダへ直行し、ゆったり本を読んでいたはず。
幸運なことに、そうはならないで、最短で治療を始めることができた。
あのチャンスを逃していたら、発見される時がいつになったか、想像がつきません。
日ごろから揺蕩う金魚のように、車いすに植わった植物のように、
動きの少ない義母のさりげなく膝に置かれた右手が動かないことに気が付くのは
難しかったと思います。



診断が下りた後、入院病棟に案内されて
パジャマのレンタル(150円/日)の手続きをし
認知症である義母の錯乱時を想定し、対応しきれない行動を制御するための拘束を了承する書類にサインしてから
夫を呼び出し
入院に必要なものを買い出しに行き。
持っているものは施設に取りに行きました。

ポンプタイプのシャンプー・リンス・ボディソープ
履かせないおむつ40枚
尿取りパット60枚
おしりふき代わりに便利だということで指定された「リードクッきングペーパー」
口腔ケアスポンジと歯磨きセット
タオル3枚とバスタオル3枚
ボックスティッシュ



それらを揃えて明日に備え
ファミレスで夕食を食べたら
夜10時。


あの6月10日は長い一日になりました。

2017年の6月は病院通いの6月で

退院したらその年の
半分が終わっていた



そんな感じ


                 ~( ̄▽ ̄)ノシ


【追 記】
昨日
私の絵をひたすらごまかしてくれていたお絵かきソフトを搭載した「パソ吉君」
10数年の頑張りの果てに立ち上がれなくなりました・・

これからは鉛筆画の写メしかありません
ペン入れはおろか
ひさへ巨匠のように色を付けるマメさ
ありません

スマホから見づらくてすみません
そんな変わらない・・?


             










.





        

退院までの16日~不幸中の幸いの前編

2017年06月30日 | ゆめゆめ笑うなゆく道だ(義母と施設と)



         



家から自転車で40分の有料から、自転車で20分の特別養護老人ホームに
申し込み3ヶ月で入れたことは破格の幸いだったと今でも思うのですが
不幸中の幸いは続きます。
それは、望めるウチでの最上級の幸い。


私が土曜日に義母に会いにゆく事はしないのですが
この週は月曜日を最後に面会に行けていなかったので、爆睡の夫を尻目に一人で会いに行ったのでした。
本当は実の息子に行って欲しいけど、日々12時間勤務+飲みの夫は土日に行くことすらままならない。
方や物理的な子育ても終わり、
在宅介護を免除され
週20時間しか働いていない嫁が行くのは
まあ当然。

っていうか?
毎日来こないと在宅介護だ!と言われたなら、毎日でも行きます。
24時間を束縛される代わりのお役御免の2時間なんて屁のかっぱ 
ただ、
決してそう言われたわけでもないので。
施設に入れた親に会いにゆく頻度と言うのは
いつまでたっても正解がわかりません。
        


         



                  
                           

ホールに集まるみなさんの中から見つけた時、義母からは凄い負のオーラがでていました
本当に義母かな?と一瞬思うくらい。
背を丸め、顔は正面の
調子を崩した小鳥が、全身逆毛を立てて耐えているような。
額から漫画のような縦線が
蒼く入っている感じ。

週末のためか、見慣れないヘルパーさんがにこやかににやってきて
「今日はね、朝から元気が無いんですよ。
便秘気味だったんでね、排泄を頑張ってもらって解消したんですけど、
疲れちゃったみたいでね~」
と説明してくれました。
義母のような一人で立てない高齢者のオムツに頼らない排泄介助は
ヘルパーさんの重労働です。
私はこの方針には常々感謝していました。

でも、
この30分後には救急車に乗っているのです。
そして救急車の中で救急隊員さんに
「今日は、朝食も昼食も食べてないです」とサラッと説明したヘルパーさんの言葉には
(それ、早く言ってよ~!)

ココロで叫んでました
義母が出されたご飯を食べないなんて、
まず有り得ないのに。
ご飯食べた直後にお腹が空く人なのだから。


何にもしてない私が
何を思ったトコロで
施設に預ける、
人に託してしまうということは、この可能性を了承しているということ。
ヘルパーさんの尽力も、
老人施設の限界も
半年の間この眼で観てきました。
口の中がザラザラしました。


そんな怒涛の展開がもうすぐそこの時間に、私はのんびりしてました。

「疲れちゃうほど、頑張ったんですねえ?」
「ああ?ようわかあへんけおあ・・」

あれ?歯、抜けた?
そう思ったことも覚えています。

でも、
とにかく知らないものだから
高齢者が体力を使い果たすまで疲れてしまうというのは、
大変なことなのだな・・
と学習したつもりになって

お疲れのようだから、今日は早く失礼しよう・・
とか
これはコメダで少し長く本が読めそうだ・・
とか
そんなことを考えながら、
私は義母と一緒にテレビを観ているつもりで
刻々とすぎるおよそ15分間、
ただ
テレビを観ていたのでした。





とりあえず
そんな話。            


                  ~( ̄ー ̄)ノシ








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ことの顛末~去年の今日はまだ義母は一人暮らしだった( ̄ー ̄)

2017年06月30日 | ゆめゆめ笑うなゆく道だ(義母と施設と)



   


一年前、
義母はまだ、
義父と暮らしていた大阪で一人暮らしをしていました。
電話をするたびに、なんとなくおかしい気がする義母を診てもらえる病院をネットで探しつつ、
結婚して20年以上、歯医者以外の医者にかかったことのない人をなんといって連れ出そうと
嫁の立場で手をこまねいてました。

去年の今頃の記事を読み返しても
私すごくヒマそうです
去年の7月なんですね~ポケモンGOって。
大学生の子どもたちとのんびり暮らしてますよ。
子育ての手が離れた中で、
ボンヤリと遠い一人暮らしの姑の心配をしてる。
3週に一度くらい、夫が様子をに行ってました。


これもいつか書いたのですが
斜向かいに住む介護のプロの姐御を捕まえて
遠距離の姑のこれからを相談した事がありました。

「麦さんも同居はしたくないし、実際出来ないでしょ?
だったら覚悟決めて、心行くまで、一人暮らししてもらって
骨折るなり病気するなりして、嫌でも医療につながる時を待つのね
そんなに遠い将来じゃないわよ
その時に認知症の診断もでるから。

そのあとはプロに預けちゃいなさい。
そのためにも、引き取ったりしたら駄目よ?
独居のポイントは高いから。」

この
私のココロを思い切り見透かされたような割りきった回答に
素人の私はビビったものでした

独居のポイントと言うのは、特養入居の為条件を点数化したものというのはあとから知りました。
自治体によって基準や設定が違いますが、
介護する人の就業時間や、距離などで加点されてゆきます。


本当にこの一月半後
姐御の言うとおりになりました。


8月、熱中症からの緊急入院、酷い褥瘡が見つかる。当面熱中症と褥瘡の治療とリハビリ入院。
入院当時は要介護1

9月、退院を見据えた有料老人ホーム探しと見学 
グループホーム・老人ホームを埼玉千葉神奈川を巡って見学。

11月、退院からそのまま義母を載せて大阪から自宅まで東海道9時間ドライブ
11月、有料老人ホーム入居  3日に一度の面会生活始まる

12月、要介護3認定の声を聞くと同時に特養探しと見学  多くの現場スタッフの方々に会う

1月、インフルエンザ罹患救急診察

4月、特養から入居許可届く 一週間後転居

6月、脳梗塞発見と緊急入院~退院特養生活再スタート




10ヶ月間
ざっくりこんな感じ。

義母にとっては
この先の人生の、QOLがどん底まで落ちてしまった
悲惨な10ヶ月でした。
この改善についてはアイデアがありません。
どこで回避するべきであったか
これからどうすれば良いのか。
もう、このまま死ぬまでこうして日を暮らし
人生も暮らしてゆくのか。



そして
私にとっては
とても奥の深い
決して楽しくない世界を覗くことになって、
イチイチイチイチてんやわんやの大騒ぎでしたけれど
総じてこれまでの感想



在宅介護しないのだから
超 楽 ち ん





介護現場の方々
本当にありがとうございます


在宅介護をされているお嫁さま
あなたは誰がなんと言おうと、

たとえなにがどうであっても

慈愛の神! ~( ̄ー ̄~)


あるNPO法人の方とお話をして初めて知ったのですが
要介護状態で施設に入っている高齢者は
ほんの一握りなのだそう。


私は義母を山に連れてゆく代わりに、
施設に入れたんだな。


いい山があって、

本当によかったな。



そんなことを思ってます



とりあえず
そんな話。


                              ~( ̄ー ̄)ノシ







.  





病院なう 2 ~今を生きる ( ̄ー ̄)ゞ

2017年06月15日 | ゆめゆめ笑うなゆく道だ(義母と施設と)





         




病院に着いて面会手続きを済ませてもすぐには病棟に行かず
売店のセブンでカフェオレを買って、
義母モードに切り替えます。
昨日あれだけ痛がっていた義母が、今日どうなっているか。
望んで確かめたい訳ではないけれど
1日でも見に行かないのは 怖くてできない
ただ、どうしているか確かめるために
日参するのです。


動かないのは右腕だけで済むのか
昨夏の入院で転がるように悪くなった認知症、ココから更にひどくならないか
退院時に食事が口から摂れないようなら、
特養への再入居は難しいと言われて出てきて

場合によってはもう一度、
その時の状態に合わせて
施設探しのイチからやり直し〜なんて未来も
チラ見えするのですが

先のことを考えても面倒臭さがむやみに香り立つだけなので
今のことだけを考える。

そう
あれだけ
痛がっていた義母は



どうなっているのか・・





                






「お義母さんが今
どこも痛くなければ、いいんよ。」

「私が?そうかあ、痛かったらそれは大変でしたな!」

「今が痛くなければ、万々歳やね?」



この日はゴキゲンで
頭の中がかなりクリアーになっていったらしい義母は
そのうち
「どうして今、自分がこんなところにこんな状態で居るのか?」という大問題を思い出してしまって


段々と
不機嫌になっていきました。


過去へ過去へと、
この抗えない不本意の元凶を探す旅
義母の彷徨が本格的になる前に
また来るからねと
逃げ出すように帰ってきました。




今日はそんな話





                    ~( ̄ー ̄)ノシ







.

病院なう〜 年寄りの痛み無情

2017年06月13日 | ゆめゆめ笑うなゆく道だ(義母と施設と)


( ̄△ ̄)

どんなに崇高な志や美しい記憶や魂が
そこに内在しているとしても
その表現手段としての言葉や声、
明瞭な滑舌を失ってしまうと
その人がどうしようもなく
否応なく
なにやら獣のように見えてしまうのは私だけ
かもしれませんが、

とても残念で
残酷なとこだと思うのです。

記憶力、想像力を研ぎ澄ませ
真の姿を補完して対峙する

病室では何もできない立場なのに
勝手にその努力で疲れます。


いあーい
どおかわかあえん
あー、あー、いあーい

義母は痛みを訴えます
どこが痛いのか聞いても、
わからないのだと言います。

こういう時、
見舞った者はとりあえずどこか
とりあえず身体をさすってあげれば良いのではないか?
と思うのだけれど
下手に触ると
痛みがさらに増すらしく
声がさらに強くなる。

私の手は
「風の谷のナウシカ」に出てくる控えめな王蟲の触手のように
伸びて触れては慌てて縮む
を繰り返すばかり。

居たたまれなくなって、ナースステーションまで行って看護師さんを連れてくるものの
若くて可愛らしく、気弱そうな微笑みを浮かべた優しい人しか来てくれず
「先生にお伝えしておきますね」
と気弱に笑って
姿を消してしまいます。

どこが痛いか言えない限り
解決は望めないし
もっと言えば、義母のような認知症であると言う立場の者は
本当に痛いのか?
も証明できないと駄目みたいで
忙しい中、とりあえずでも出向いてくれるだけ
感謝しなければと私も自分に言い聞かせるのですが
義母は救われないのです。

こちららで原因を究明すれば、対処はしてくれるスタンスなのだと理解して
何処が痛いのか探し回るうち、
骨と皮しかない右足のくるぶし、ガッツリ骨に沿うように入った点滴の針が
内側にL字型に拘縮した左足の膝小僧でゴリゴリと圧迫されているのを発見
お願いしてクッションをもらって
足の間に挟み込んでみたり

それで得られた15分ほどの安寧の後
今度はこれまでに聞いたこともない声で
痛みを叫ぶようになり

そのうちその義母の叫びに
向こう隣の病室から
義母の声に呼応するかのような
別の老婆の叫びまでが聞こえてきて
私の脳内には
冬のロシアの荒野が展開
そこに狼の群れが走り出すのです

ダレカアーキテチョウダイ〜
ネエハヤクぅ〜
どこからか聞こえる、甲高い知らない声と
義母の痛みの切実な叫び
年寄りの叫びが、
室を超えて呼応し続ける中
私は思うのです。


見知らぬ老婆のことは知りません
ウチの義母は違うと。


昨夏の入院時
手のひら大の床ずれが
骨に達しようかとしていた時でさえ
看護師さんに発見されるまで我慢して
余計な心配かけないように
痛いと言わなかった人なのだから。 
あの人が今
こんなに叫んでいるのだから
絶対に本当に痛いはず。

義母の叫びが最高潮に達し
私は、思い余って
人生初めての
ナースコール(代理)のボタンを押しました。
結果
「医師からの指示は全て行っていますので。」
とキツめの看護師さんにサラッと釘を刺され
義母の叫びは
受け止められることはありませんでした。

本当に認知症が見せる悪夢なのかもしれない
けれど

この現実に
私は震え上がってしまうのです。

認知症になってしまったら
こんなに痛くても
こんなに叫んでも
誰にも助けてもらえないのだと

どこが痛いか
ちゃんと言えない限り
その悪夢が
続くのだと


これまで見てきたヘルパーさんの激務っぷりとか
看護師さんの任務とか
増え続ける我が国の高齢者とか

嗚呼
ゆく道は
長く険しい・・・
 orz

義母がその茨の道を裸足で先に立ち
血を流しながら歩いて
見せてくれている。




いつの間にか狼達は
寝床に帰り
私は残された荒野から
逃げるように家路についたのでした



今日はそんな







       〜( ̄▽ ̄)ノシ





救急なう

2017年06月10日 | ゆめゆめ笑うなゆく道だ(義母と施設と)



人生何があるかわからない


萩姉様がコメントにて
まさかのコメダ推しを明かしてくださったので
今日は義母に会いに行ったら
帰りにコメダに寄って
昨日図書館から借りた本を読みつつ
「コメダにて」
とか?
記事をあげれば
並びが面白いかな〜とか
目論んでいたのに


病院なう。
( ̄ー ̄;)


人生何があるかわからない

それはもはや高齢の家族をもつ
私達の日常。


救急車に乗せられても
病院に着いても
そんな風に冷静でいられるのは

こんな時のために普段から読んでいる
加藤諦三先生の本

お陰なのか


普通に
実家の母
じゃないからか



折角特養に
入れたのにね

※↑せめてここは
「はいれた」
と読んでください( ̄ー ̄')ゝ



この先
どうなるのかな。



検査待ち時間に
そんな話




( ̄ー ̄丨)






親を老人ホームに預けて手に入れた時間で、代わりにしておくべきこと。

2017年04月22日 | ゆめゆめ笑うなゆく道だ(義母と施設と)
         




         




         




別養護老人ホームでの暮らしは
私には天国のようですが、義母には同じなのでしょう。
「帰るって・・・どこに帰るんや?」
「どこて・・ようわからんのやけどな・・。」
夫は、子供の気安さか男性の無頓着なのか
いとも簡単に聞き返して、義母が答えられないことで話を終わりに出来るのですが、
私にはそれが出来ません。
誘拐犯が誘拐した子供に「帰りたい」と懇願されている
そんな罪悪感でのらりくらり
気分を反らせてごまかすのです。

それまでいた介護付き有料老人ホームは、企業が手放した独身寮を居抜きで老人施設に仕立てたものだったので
精一杯の工夫が施されてはありましたが、何かと手狭でその付け焼き刃感は否めず
「ご利用者様、ご入居者様」と声をかけてくださっては気持ちの良い挨拶に努め理解に努め
私達家族や義母に対して、常に失礼のないように振る舞ってくださっていた従業員の方々の向こうに
なんとなくのブラックな職場環境がすけて見えるような
そんな淀みがあったのですが。
転居した特養には
最初から老人介護施設として設計された、木調の、たっぷりとしたゆとりある空間と採光
ゆとりある人員配置、その体力が感じられました。


なのに半額!

夢のようです・・・(” ̄ー ̄)ゞ
病気しないで暮らして欲しいです。※万一ガンなど入院治療の必要な病気を発症した場合は、退去しなければなりません←だからかい!( ̄▽ ̄:)ゞ


日会いに行ったら、義母は共用のトイレで排泄介助を受けていました。
汗だくのヘルパーさんが、
「お義母さんは頑張ればトイレで排泄できるので、頑張ってもらいました!」
とニコニコ笑顔で報告してくださって、
わたしはびっくりしてひれ伏さんばかりにお礼を言いました。
半年前の入院時にすでに排泄全介助(24時間オムツ装着)と判断されている義母の
僅かに残って見えるそのポテンシャルを潰さずに、
自らの広背筋と脊柱起立筋に鞭打って、全力で維持させてくださろうとしているその姿勢には
感謝しかありません。
もう、「慈愛の使徒」とでも呼ばせていただきたい。  ( ̄一 ̄”)


そうしてトイレでの排泄を終えた義母との会話は
普段の会話とは全く違うのです。

毎回、おやつに大好物のおまんじゅうを必ず2つ
用意していくのですが
「2つあるわ、半分こしようか。食べる?」
そこには相手を想う優しい義母がいました。
懐かしさから涙がでそうでした   ←実際は出てないですが(” ̄▽ ̄)ゞ

去年娘と尋ねたあの一人暮らしの義母の夏
持って行ったお菓子を分けようともせず
汗水たらして部屋に入ってきた私たちにむとんちゃくで
娘の気配など感じてもいないかのように振る舞ったあの義母の違和感は
間違いなく認知症によるものだったと今ならわかります。


頬を紅潮させ一仕事終えた義母は
全く違っていて。

生き返ってる。
蘇っているのです。


私は確信します。

きっと
ヘルパーさんの排泄介助で
スクワットを二回したからだと。



身体の中で大腿が一番大きな筋肉であり
ふくらはぎは第二の心臓と呼ばれているのはもう周知のことですが
コレらが本気で機能しなくなった時は頭の血流もきっと滞る。(ハズ)
湯船で頭皮をマッサージした時、感覚を研ぎ澄ますと、足の血流が勝手に増しているのがわかります。
私自身、冬季鬱でやばくなると、気力が尽きる前に頑張って筋トレに努めます。
間違いなく、
脳と脚はつはとてつもなく密接な関係にある!


巷で言われていることは本当だと
実感でわかる。


義母を大阪から呼び寄せて横流しするかのように施設に送ったことに関しては
もう、罪悪感を持たないと決めました。
当面のお金が払えてプロに頼めるなら、
さして愛情のない嫁が恨みや愚痴にまみれながらこねくり回すより絶対に良い。
大切なのは、
そうすることで得られた時間でしておくべきは
 蓄財










(ちょきん)
\( ̄▽ ̄”)






30歳を過ぎたら、年に1%筋肉が減っていくのだそうです。
増やす努力をしないと、減り続ける
年をとると「代謝が落ちて」痩せにくくなる。
とよく言いますが
何故「筋肉量が落ちて」、ともっとわかりやすく言わないのか不思議に思います。
脂肪を代謝するのは筋肉なので、
ランやウォークやスポーツなどの有酸素運動で消費する前段階として、その代謝器官である筋肉を獲得しておくのが手順。
筋肉が無いままに運動をしてヒザや腰を傷め、以降その痛みで動かせないようにしてしまっては、
運動不足が招く恐ろしい負のスパイラルが始まってしまう。
もっと言えば
慢性となった体の痛みの半分くらいは
筋トレで改善する。


私が筋トレに誘うと
スポーツをしていたから、仕事で歩いているから、
ウォーキングをしているから、走ってるから、
筋トレまでは大丈夫!という方がおられるのですが

筋トレとそれらは違う。のです
多分。\( ̄▽ ̄”)

という訳で私は
蓄財のための仕事は増やしてないのですが
貯筋のために火曜のヨガの教室に筋トレ講座を増やしました。

筋トレで脳にせっせと血流を送って、行きたいところにスタスタ歩いて行ける
自分のことは自分で出来る。
これまでの記憶をいつまでも好きなときに思い出す。


そういう自分を保って


子供にできるだけ
迷惑をかけない。


そうあれたらいいなと思うのです。


先のことはわかりませんが。


今日はそんな話   ~( ̄ー ̄)ノシ












.















義母と特養入居 ~おばあちゃんといっしょ耐久12時間( ̄▽ ̄:)ゞ

2017年04月15日 | ゆめゆめ笑うなゆく道だ(義母と施設と)
         








         








         








         








         


         

         
         
         













         


ペーパードライバーの私が義母を連れて転居するにあたり
思いの外困ることになったのは
当日二日前に予約をしようとしても介護タクシーの予約が取れない事でした。
特に予定していた午前11時は、検索して最初のページに出てくるすべてのタクシー会社に断られてしまい
朝9時なら出せると言ってくれた会社に予約をお願いして
転出する有料と、転入する特養双方に準備を間に合わせてもらうように交渉して引っ越ししました。

一番心配したのは義母の脳内で
この転居が受け入れられるものとして処理されるかどうか・・
でしたが
私は敢えてその日の朝突然、
「お義母さん!すごくいいところが見つかったの、お天気いいし!今から行こう!桜も咲いてるかも!」と
誘いました。
短期記憶が機能しなくなって
常に今を生きる人に
予告は意味が無い
ことを学習したつもりの作戦でしたが
コレは大成功

( ̄▽ ̄”人)

半年間、車椅子の籠の鳥だった義母は
ものすごく喜んでくれて
それはそれは
ものすごく喜んでくれて
別れを惜しんでくれるヘルパーさんや看護師さん達に

「あああ、もう、
一生ココから出られんもんやと思ってた!
嬉しいわあ♥」


と全力で喜びを表現してました・・・orz

手が離せるスタッフの方全員が玄関に集まってくれて私達が見えなくなるまで見送ってくれて。
タクシーの運転手さんはゆっくり走りだしてくれて
私は一生懸命手を振って
義母は
いつもより少し前倒しのスケジュールに疲れたのか
居眠りをしていました。


思えば
義父が亡くなってから限界までの一人暮らし
熱中症をヘルパーさんに発見されての緊急入院~90日での退院
認知症・短期記憶障害
自力歩行不可・排泄全介助
おさなごのように変貌してしまった義母をもはや大阪には置いておけない
さあその先を
どうすればいいか
右も左も分からない中を案内してくれた人
見学させてくれた沢山の有料老人ホーム
特別養護老人ホーム
受け入れて、全力で理解して、介護してくださる方々
今も本当に
感動と
感謝しかないのです

ああ、どうか
たくさん報われて欲しい


「地域で一番リーズナブルな施設を」

目を皿のようにして探しだしたくせに、
そんなことを思いました。



次なる扉が開き
義母を迎えてくれた特養は

今まで住んでいた有料の四倍の規模


ものすごく綺麗でピカピカで
明るくて
ベッドサイドにはダウンライトまである新築のマンションの一室のよう
夜になってやってきた夫も
びっくりしていました。
「これで、
タオル・オムツ・光熱費込み込みの
半額???
もうね、
考えることは先立つ物
なんですね
( ̄ー ̄")ゝ


結局その日私は
朝の九時から夜の九時まで義母のそばを片時も離れませんでした。
お義母さんと一緒
12時間耐久レース←おい!

幼い頃に父親をなくし
母親から姉妹格差、自分だけネグレクトを受けて来た義母の人生は孤独で。
今も
自身のコアに抱える怒りと常に戦っていて
納得の行かない恐怖や孤独は
その怒りの爆発の導火線になることを
私は学習したのです。

「えええ?お嫁さんなんですか!?」
若くて可愛いヘルパーさん達の中には、
昼食も夕食も持ち込みでいつまでたっても義母から離れず帰らない私を娘だと思い込む人が続出し

夜7時を過ぎてとうとう
私達の恩人のケアマネさんに心配して咎められました。
「麦さん、お気持ちわかりますがこのままでは
頼むからココで大人しくしていて欲しい!

って言う気持ちの足元を
お義母さまに見られてしまいます。
距離を置かないと、
この先麦さんが大変なことになるのでは?」

私は心配をかけたことを謝りながら
笑顔で請け合いました。

「今日だけです。
私、手を抜くことには
抜かりはないんです。」 
   ( ̄ー ̄”)v




結局義母は
夜になって現れた夫の顔を見て一安心
どんなに記憶が曖昧になっても
嫁がどんなに親身なフリをしても
息子が、
唯一のこの世の縁


私はその「息子」に寿司を奢らせて
家路についたのでした。



今日はそんな話です

( ̄▽ ̄)ノシ












.