飯山線の歴史と切っても切れない関係にある施設が沿線にある。
飯山線の前身である飯山鉄道。その飯山鉄道に対する西大滝ダムと信濃川発電所の関係がそれだ。
私はたまたま長野市の図書館に行った時、たまたま手に取った奥信濃の昭和史的な本にそれは乗っていた。
その本には当時の電力会社がダム建設の資材運搬に利するとして飯山鉄道に投資し、飯山鉄道を飯山から西大滝の延伸を目指し、後に十日町まで全通したとあった。更に、当時の交通事情からも飯山鉄道が西大滝ダム建設に果たした役割は大きいと書かれていたとあっては、何事!?である。
すぐさま、Wikipediaの「西大滝ダム」の頁を見てみる
西大滝ダムは信濃川と並行して敷設されたJR飯山線・西大滝駅を下車、徒歩5分という至近にある。
建設にあたっては、この鉄道路線(当時飯山鉄道[5])を資材輸送の主力として用いたことで工事は順調に進み、工費も比較的安価に抑えることができたという。
5.^ 飯山鉄道総株数20万株うち152千株を東電が保有していた株式社債年鑑. 昭和7年度
「飯山鉄道」の項では
地元の有志により発起された飯山鉄道は1917年に鉄道免許状が下付されたが資本金50万円に対し建設費車両購入費などでおよそ135万円かかるとされ市町村の寄付を見込んでも50万円が不足していた。鉄道院監督局は不足分を借入金で賄うことに危惧していたという。ところが沿線の信濃川に流入する中津川に水力発電所を計画していた信越電力(東京電燈と鈴木商店の共同出資のちに東京電燈に合併)がその建設資材の輸送手段として飯山鉄道を利用するために出資することになり株式の大半を保有することとなった[13]。そして電源開発のため延長することになり資本金を300万円に増資した。1921年豊野 - 飯山間が開通してからは発電所建設資材運搬のため下流の新潟県境へ延伸していくことになった。
13.^ 総株数20万株うち152千株を東電が保有株式社債年鑑. 昭和7年度
私はざっくりだなぁ、おいと感じた。
しかし、飯山鉄道があのダム建設に大きく関わっていただろうということに興味がそそられた。確かに鉄道が物流の中心を担っていた時代であろうから、ありそうな話だ。鉱山や炭鉱などの資源開発に伴って鉄道が敷設されまくっていた時期とも重なるだろう。
その時代は鉄道交通の便利なことと鉄道による経済効果が高いことが示されていた時期だった。
当時の道路事情は現在からは想像できない程で未舗装な上に自動車も無い、つまりは鉄道が交通手段の最たるものとして鉄道が来ること=流動が生まれ活性化という図式が生まれやすかった時代。今のように国道も橋も無い、土木工事の力技で鉄道を通せば容易に外にも行けるし外からも人が来れるという、当時の状況が容易に想像できる。日本における鉄道信仰とも言える考え方というか、この当時に醸成された鉄道万能説が日本に巣食っているからだと思っている。
このようにして道路網が発達する前の陸上交通で鉄道が覇権を取っていた時期があったんだなぁと。
話は逸れたが、当時の千曲川流域の集落は川を渡ることも容易ではなく、渡船か浮橋や水運などが交通を担っており、当然ながら道路もダム建設資材を輸送するのに耐えられるものでも無かったらしい。今でこそ、国道と橋は快適なルートとして飯山線沿線に並行しているが、当時はそんなシロモノは無かった。
未だに飯山線の駅もある桑名川と対岸の七ケ巻の間には千曲川の渡舟の跡が残っているくらいに(昭和58年ごろまで営業していた)。
飯山鉄道が信越本線の豊野から飯山への鉄道敷設が計画され、更にその先の十日町や上越線の越後川口への接続を含む延伸には電力開発が少なからず関わっていたという事実を突きつけられた上に、その目的の一つが西大滝ダムであったというのだから黙ってはいられない
後日、どうにも詳しく知りたいという欲求を抑えきれずに私は再び図書館を訪れ、他の資料をも漁ることになる。
閲覧した資料の中で記述が多かったのは飯山市誌である。冗長に引用するのもあれなので、かいつまんで書いていきたい。
大正時代、首都圏の逼迫してきた電力需要をまかなうために電力会社は千曲川での水力発電を計画していた。
(現在のJR東日本の信濃川発電所も同時期の計画と操業 千曲川・信濃川の首都圏向けの電源開発はこの当時に)
飯山鉄道は豊野-飯山の鉄道敷設の計画から加えて十日町への延伸も地域の様々な要望なりで目指していたが、第一次世界大戦の影響を受けて建設費が二倍以上に膨れ上がり、当初の事業計画規模の予算では鉄道建設が不可能に陥った。その時、当時の信越電力株式会社(後に色々と吸収合併されたりして現在の東京電力)のお偉いさんが地方視察で訪れた際に、同社の企画する信濃川水力発電所工事関係の輸送に重大な役割を果たせるとして、飯山鉄道を豊野-飯山から西大滝まで延伸することと、建設費の増加分の2/3を負担するという投資の約束して、この飯山鉄道の延伸は一気に進展したらしい。大正8年に豊野-飯山の工事着手、大正9年に飯山-西大滝の工事認可申請、その一ヶ月後には西大滝-十日町の工事を増加申請していることから、目まぐるしい時系列である。
西大滝ダムの着工自体は戦時体制下の昭和11年まで持ち越されるが、その頃までに既に開通していた飯山鉄道はダム工事の資材運搬に大いに活躍したのだそうだ。
先にも言ったが道路交通は建設資材運搬に耐えられない程度のものだった。なお、直近には明治45年の信濃鉄道(大糸線)、大正元年の草軽軽便鉄道、大正3年の佐久鉄道(小海線)、大正5年の丸子鉄道、9年には筑摩鉄道(松電)、河東鉄道(長電屋代線)、上田温泉電軌(別所線)がある。
そんな時代の西大滝、工事関係の人夫が集まったことで西大滝の集落は2000人を超える人であふれ、宿泊所や食堂などが建てられ大いに賑わったそうだ。
資料には、建設当時の写真が載せられてあった。似たようなアングルからの現在の様子と合せて、当時の写真を引用しよう。
ダム建設当時の雰囲気が現在の集落にも残っていることに感動した。
余りにも容易に受け入れられる今昔にのまれる。そして、私の興味は更に深まる。飯山鉄道で資材を運んでダム建設工事が順調に進んだが、その輸送体系なり、当時の西大滝の配線はどのようなものだったのか。資材運搬が順調にいくようなレベルで現場近くで貨物を取り卸し、更に現場まで軌道が通っていたと予想している。上記の写真では分かりにくいが、ダム堤体のそばまで軌道が来ているのが見える。ただただ、当時の様子を知りたいがために、取材を継続中である。
個人的には飯山市誌を引用したいのだが、何しろ飯山鉄道発足から西大滝開業まででも長い経緯を引用せねばならず、正直、億劫だ。
どうしても原文を読みたい方は「飯山市誌 歴史編 下」を見てもらいたい。自分自身、興奮のままに書いているから時系列を簡潔明瞭に客観的に書けていないと自覚している。あくまで素人調査であるから、事実との不整合が出れば訂正するつもりだ。
西大滝ダムの建設 信濃川発電所が建設されるまで
信濃川発電所の水利権は、幾多の曲折を経て大正7年10月、長野・新潟両県から許可され「信越電力株式会社」が設立された。同社は中津川第一・第二発電所を建設しながら信濃川本流の電力開発について準備を進めていたが、時あたかも昭和大恐慌のさなかであって、電力需要は不振を極め、信越電力は経営上の理由から「東京電燈株式会社」(現東京電力)に吸収合併となった。
昭和6年、満州事変が起こり、翌7年満州国が建国されると日中関係は一気に緊迫し、軍需産業を中心に産業界は活況を呈するようになった。
将来の電力需要の増大を見越して、東京電燈株式会社では信濃川発電所の第一期工事に着手することにした。
石炭・石油等の資源が不足するわが国では、東洋第一の規模をめざす水力発電所の建設は国家の要請にこたえるものとして、熱い期待をもって迎えられたのである。
これより先、信越電力が設立されて間もない大正8年、この地方を視察した同社の青地雄太郎は、飯山鉄道の完成が自社の発電所建設にとってきわめて好都合であることを、同社社長神戸挙一に報告した。
飯山鉄道株式会社は大正6年に設立されていたが、同8年になっても、鉄道建設工事は着手されていなかった。
翌9年になって信越電力では、飯山鉄道に対し豊野ー飯山間の鉄道敷設を西大滝まで延長することを条件に、増資分の3分の2を同社で引き受けることにした。
同時に資本金も300万円にし、飯山鉄道社長に同社社長の神戸挙一が就任して、飯山ー豊野間の工事を開始した。
こうして、飯山鉄道は飯山町と信越本線とを結ぶ地方私鉄として設立されたが、信越電力が大株主となることにより信濃川水系の発電所建設の目的も帯びることになった。
飯山以北の鉄道建設に消極的だった一部株主の反対を押し切って次々と路線延長が強行され、昭和4年には越後田沢ー十日町が開通し、豊野ー越後川口間全通となった。
察しが良い人は感づいたかもしれないが、着工の時点で飯山鉄道が通じていたのならば、下流の発電所部分はどうだったのかと。
これまた発電所直近の越後鹿渡駅も発電所工事の資材輸送に大いに活躍したそうなのだ。越後鹿渡についても、これは津南か十日町での調査になろうと思うが、魅力的な題材である。
信濃川発電所工事と飯山鉄道
飯山鉄道の建設に大きく貢献した信越電力株式会社は昭和初期に東京電燈株式会社に吸収合併された。
東京電燈株式会社は昭和11年、信濃川発電所工事に着手することになった。
飯山鉄道ではその工事用機材を輸送するため、越後鹿渡駅に構外貨物車用の線路を設置することを申請し、10月認可を受けた。
この工事は飯山鉄道で施工し、建設費は東京電燈会社が負担した。
翌12年この発電所開発の資材運搬のために鉄道省から貨物10両を譲り受け、翌13年には機関車1両を借り入れることになった。
こうして、信濃川発電所の材料一切の運搬は飯山鉄道が引き受け、昭和16年5月30日の発電所工事完了まで、莫大な工事材料を運搬して、発電所建設に大きな役割を果たした。
同時にこの事業は飯山鉄道の経営にも大きく貢献した。
飯山鉄道の総株数20万株のうち15万株を東京電燈会社の子会社東電証券会社が所有していた経緯もあり、飯山鉄道は東京電燈会社の経済力によって支えられていた。
下水郡住民待望の飯山鉄道は、本格着工の翌年大正10年10月20日に飯山-豊野間が開通した。飯山鉄道が開通した日のようすを信濃毎日新聞はこう伝えた。
「人あり曰く、信州の地従来天然の恩恵に浴すること少なく、千曲川の如きは時に洪水氾濫するを以って、むしろこれを恐れたりと。然るに今や禍福その地を変え、千曲川はその巨大な水勢を以って、わが信越電力会社の経営によりて、東洋一の電力を起こさんとし、また河川改良のため岩石を破壊し、今や百そうの運送船はちく艫相衡みて、信越電力の材料運漕に供し、昔は徳川時代において、千曲川の舟運の便を図らんと当時の水利土木の学者がたびたび計画して、ついに失敗したる事跡を完成するに至れり。しかして我が飯山鉄道はその流域を走り、水陸相待って時勢はついによく天与の恩恵を獲得せしめたる也」
何となく、飯山鉄道が豊野から越後川口まで繋がることまでを見越したような、そんな物言いに感じてしまう。