大正期の材料運搬線について少し紹介してきたが、実際のところはどうだったのだろうか。
私が現地の郷土史などで見つけた記述を紹介しよう。
中里村史
工事はまず、大正十一年、建設資材運搬のための鉄道敷設から始められた。鉄道は魚沼鉄道平沢新田駅を着点とし、川西通りを貝野村まで敷設するため、路線の土木工事を急いだ。
最後区となった吉田村・貝野村の間も十一月には開始された。工事局の想定では、大正十二年九月中には土木工事を完了し、その後直ちに軌道を敷設するべく工事は急ピッチで進められ、十二年には軌道敷設を終えた箇所も見られた。
川西町史
大正十年六月には信濃川電気事務所を東京の上野駅構内に設置して実施計画を進め、千手に仮事務所を置き、設計と併行して軽便鉄道の敷設や詰所・木島官舎の新設などの準備工事に着手した。
小千谷から橘・上野・千手を経て貝野村宮中に至る軽便鉄道が敷設されるという快調さであった。
川西町史 年表
大正十年六月 信濃川電気事務所が東京に設置され、小千谷町から橘村・上野村を経て千手町村に至る軽便鉄道の敷設始まる。
大正十二年十月 軽便鉄道の機関車が黒煙をあげて千手・上野・橘地内を走行
十日町市史 別紙市史リポート 手記わたしの証言
私の家では殆どが川原百姓でした。今の主要地方道小千谷・十日町・津南線の姿との村境の鉢沢に、私の田が一反五畝余りありました。南向きの斜面を大正四年に野上太吉区長の時切開きました。
大正五年頃、川に石積みコンクリートの橋が架けられた。高島では初めてのコンクリート使用で、誰もがやれる工事ではなく、権左衛門の大工棟梁が工事を行った。
今のように良い材料もなく、丸太や蔦を使って、設計して完成したが、高島の目鏡として名を残していた橋であったのを、今の第五期水路工事の土捨てで埋まってしまいました。
田の水口を川から取ってあり、夕立が来ると水止めに行かねばならず、私は雷が一番嫌いだったので、無我夢中で駆けていって来たものです。その東に暗渠があり、信濃川発電の千手宮中間の軽便鉄道掘割土砂埋立の為、川を暗渠にして水を流したわけです。
※上記証言の暗渠のくだりについて年代は明確に記述されていないが、鉢沢の水田と軽便の盛土に伴う暗渠は、おそらくここだと思われる。
鉢沢川と姿の集落との中間で、その前後の軽便の跡は以前紹介した通りに大規模な地山の切り取りや盛土が見られる。
十日町市史 別紙市史リポート 手記わたしの証言
当時の汽車は信越線の来迎寺駅から魚沼線の西小千谷駅までであった。これから先は小千谷ー仁田(※橘のあたり)ー上野ー千手間、千手から宮中間を資材運搬用軽便を走らせることだった。
大正十年軽便敷設工事に着手した。真人の現場に蒸気機関車が走っているというので見に行ったのを覚えている。「真人沢附近大正十一年」
十日町新聞 大正十二年六月十五日
廿世紀(20世紀)文明は電氣より 電氣の源は本郡より
工費正に一億圓を投ずる 信濃川發電工事着々進捗 先ず第一に鐵道を敷設する
工費一億円を投ずる鉄道省信濃川発電わ工事は取入口を本郡外丸村付近に設けて山腹に数マイルのトンネルを掘削し北魚沼郡小千谷町の上流でこれを放流するという大仕掛けなものである。
これが準備工事として同省は私設魚沼鉄道を買収して発電工事用材料運搬をなすべく同線の終点たる小千谷駅から更に二十三マイルを延長して本郡貝野村迄鉄道を敷設する。
この鉄道を二十三マイル延長すると言うだけでもこの工事が如何に大仕掛けのものであるかが想像することが出来る。
右工事視察のために出張した信濃川発電所長黒河内四郎氏は曰く
「鉄道工事が第一、第二工区に区別してある。第一工区(北魚沼郡平沢村地内より中魚沼郡岩澤まで)は今年末までには土工の全部修了する。全線の完成は来る大正十五年か十六年になるであらう。昨今は諸機械軌条枕木等の運搬で戦場のやうなさわぎである。この工事に使役している人夫は約千人で内三分の一は鮮人である。なにぶん工事は二十三マイルのうち十二マイル程はトンネルであるから困難は非常なものである。発電事務所は上越北線東小千谷駅前にあるが近く北魚沼郡平沢新田に移転する。この鉄道は旧魚沼線を通ずれば約三十マイルになる。」
国鉄狭軌軽便線1 臼井茂信
大正12年(1923年)5月2日付達261号 ケ170(大正12年3月17日) ケ171、ケ172(3月22日)~~ 大正12年(1923年)8月8日付達537号 ケ179~ケ183(4月30日)
信濃川水力発電工事誌 (1952年) 日本国有鉄道信濃川工事事務所
軽便線は爾来1,2期工事材料運搬用として、既に千手まで5.806kmは敷設してあり(※これは十日町~千手間のことと思われる)、千手~小千谷間は大正11年、貝野~小千谷間,1段発電計画当時施工した路盤を補修して、小千谷まで軽便線を通す予定であったが市の沢より吉平間は路盤の荒廃甚だしく、相当の経費と日数を要し、又復旧しても雪崩等の損傷は、保守に非常な困難を予想されるので、計画を変更して軽便線は十日町~市の沢迄とした。(※これは三期工事以降の材料運搬線でのことである)
大正期の軽便について、敷設工事や試運転に関係する年代を纏めると
1921年(大正十年) 信濃川電気事務所設置 予算承認 準備工事として軽便の工事が開始される
1922年(大正十一年) 魚沼鐡道買収 真人沢まで軽便の機関車が来る(ただ、国鉄狭軌軽便線1 臼井茂信 によると、ケ170形機関車の発注が大正十一年十月なのであやしい。)
1923年(大正十二年) ケ170形(信濃川電気事務所の軽便蒸気機関車)使用開始 軽便の試運転列車が橘・上野・千手まで来る 関東大震災で工事中止
となる。これを見ても、大正期のほんの僅かな間の話であることが分かる。
※大正十一年中に本当に蒸気機関車で試運転をやっていたのだとしたら、当時上越線工事向けに製造されたケ160形でも信濃川に来ていたのかもしれない?
私が着目しているのは
>鉄道は魚沼鉄道平沢新田駅を着点とし、川西通りを貝野村まで敷設するため、路線の土木工事を急いだ。最後区となった吉田村・貝野村の間も十一月には開始された。 中里村史
>大正十年六月 信濃川電気事務所が東京に設置され、小千谷町から橘村・上野村を経て千手町村に至る軽便鉄道の敷設始まる。 川西町史
>その東に暗渠があり、信濃川発電の千手宮中間の軽便鉄道掘割土砂埋立の為、川を暗渠にして水を流したわけです。 十日町市史 別紙市史リポート 手記わたしの証言
>鉄道工事が第一、第二工区に区別してある。第一工区(北魚沼郡平沢村地内より中魚沼郡岩澤まで)は今年末までには土工の全部修了する。全線の完成は来る大正十五年か十六年になるであらう。昨今は諸機械軌条枕木等の運搬で戦場のやうなさわぎである 十日町新聞 大正十二年六月十五日
という上記4点である。
私は大正期の信濃川発電所工事材料運搬線はおおよそ小千谷~宮中まで敷設されたと考えていた。
そう書いてある資料も多いし、実際に計画としてはそうだったのだろう。
>鉄道は魚沼鉄道平沢新田駅を着点とし、川西通りを貝野村まで敷設するため、路線の土木工事を急いだ。最後区となった吉田村・貝野村の間も十一月には開始された。 中里村史
まず、中里村史の記述である。
最後区となった吉田(後の浅河原調整池附近)~貝野(宮中)間も十一月には土木工事が開始されたとある。
この記述から、あくまで吉田~宮中についても土木工事自体は開始されていたものと考えられる。
しかし、この記述の字面通り、土木工事が開始されていたに過ぎないのではないか。
これが大正十一年十一月なのだとしても、間もなくこの辺りは雪が積もり始める時期であろうから、いくらも工事が出来なかったのではと考えられる。
大正十二年九月中には土木工事を完了する計画で、十二年には軌道敷設を終えた箇所も見られたというから、
大正十二年の試運転を行っただろう小千谷~千手間は軌道の敷設も完了していたと考えられる。
そもそも、吉田~宮中間にはこれまで以上に深い沢が横たわっている。
特に鉢沢川は昭和7年に一期工事の材料運搬に向けて大規模なトラス橋が架橋されて、はじめて鉄道で越えることが出来るようになったと考えられる。
>大正十年六月 信濃川電気事務所が東京に設置され、小千谷町から橘村・上野村を経て千手町村に至る軽便鉄道の敷設始まる。 川西町史 年表
川西町史に至っては、小千谷町から橘村・上野村を経て千手町村に至る軽便鉄道の敷設始まる。
あたかも軌道は千手までですよと言いたげというか、後年に書かれた年表なので、千手までしか軌道が敷設されなかったことを知ったかのような記述である。
なにしろ、多くの資料では小千谷から貝野に至る軽便線と書かれている中で、千手に至ると書いてあるのは珍しい。
もっとも、これはあくまでその時に着工された工区の話なのかもしれないし、記述の根拠は見付けられていないのだけれども。
なお、年表には「大正十二年十月 軽便鉄道の機関車が黒煙をあげて千手・上野・橘地内を走行」とあるけれども、
関東大震災以降については何月何日ともとれない記述をしているので、実際の試運転は関東大震災より前の話だと思われる。
なお、関東大震災の三日後には信濃川発電所関連の作業は中止になったということである。
また、川西町史の信濃川発電所に関する記述では「小千谷から橘・上野・千手を経て貝野村宮中に至る軽便鉄道が敷設されるという快調さであった。」とも書いていて、
貝野(宮中)まで軽便が敷設されたともとれる記述もみられる。
川西町史の記述には私も翻弄されている。
>その東に暗渠があり、信濃川発電の千手宮中間の軽便鉄道掘割土砂埋立の為、川を暗渠にして水を流したわけです。 十日町市史 別紙市史リポート 手記わたしの証言
また、十日町市史 別紙市史リポート 手記わたしの証言 にあるように、
暗渠があり、信濃川発電の千手宮中間の軽便鉄道掘割土砂埋立の為、川を暗渠にして水を流したわけです。というのは、大正期にこの区間の土木工事が行われていたことをにおわせる。
ちなみに、この水田が鉢沢と姿の間だとすると、この辺りになろうと思われる空中写真を紹介する。
ちょうど左下の河岸段丘の上の方に水田が開かれているのが見える。
その信濃川寄り、つまり東側に軽便が通っており、ちょうど写真では見切れている下の方に先ほど紹介した暗渠があり、更に下に姿の集落がはじまる。
なお、コンクリート橋があったとされる高島と言うのもこの鉢沢川の附近で、橋は鉢沢川を越える橋のことらしいが、流石に軽便とは関係の無いものだろう。
五期工事に埋められたというのは、五期工事の水路隧道工事の斜坑が鉢沢川にあったようだから、そのためだろう。
>鉄道工事が第一、第二工区に区別してある。第一工区(北魚沼郡平沢村地内より中魚沼郡岩澤まで)は今年末までには土工の全部修了する。全線の完成は来る大正十五年か十六年になるであらう。昨今は諸機械軌条枕木等の運搬で戦場のやうなさわぎである 十日町新聞 大正十二年六月十五日
また、十日町新聞の記事における発電所所長の発言にあるように、材料運搬線は一期工区・二期工区として分割されており、一期工区が小千谷~岩沢とされている。
記述通りとすると当時は未だ測量途中の十日町線の岩沢となってしまうし、信濃川を越えることになるので可能性は低いと考えている。
おそらく、岩沢の対岸である真人あたりのことだろう。
また、「なにぶん工事は二十三マイルのうち十二マイル程はトンネルであるから困難は非常なものである。」という点がまったく腑に落ちない。
軽便線の半分超がトンネルだなんてことはあり得ないし、一方で発電所の水路隧道の事でも無さそうである。
更に、何故かこの発言中の記述だけ隧道にトンネルというルビではなく、「トンネル」と書いてある点も不可解である。
しかし、これを二十三マイルのうち十二マイル程が”切り取り”もしくは”盛土”とすると妙にしっくりくる。
再三ここでも紹介しているように、軽便は河岸段丘の克服のため大規模な工事の跡が残されており、そのことを指しているとすると確からしいと言えないだろうか。
大正十年着工から二年で小千谷~千手まで軌道が敷設されたとして、千手もしくは吉田から宮中までの工事が更に三年はかかる計画としても妥当と言えそうな日数だ。
どちらかと言うと、吉田から宮中までの方が鉄道にとって凶悪な地形多そうだし・・・。
以上の事から、大正期の信濃川発電所材料運搬線は、小千谷~千手(もしくは吉田)までは軌道が敷設された上で試運転も行われ、
千手(もしくは吉田)~宮中間は工事は着工されていたものの、軌道の敷設にまでは至っていなかったと言えるのではないか。というのが現時点での私の考えである。
もちろん、数少ない資料からの推測に過ぎない面もあるので、あくまで現時点での考えである。
今後も、時間を見付けては調査を進めて行きたい。
私が現地の郷土史などで見つけた記述を紹介しよう。
中里村史
工事はまず、大正十一年、建設資材運搬のための鉄道敷設から始められた。鉄道は魚沼鉄道平沢新田駅を着点とし、川西通りを貝野村まで敷設するため、路線の土木工事を急いだ。
最後区となった吉田村・貝野村の間も十一月には開始された。工事局の想定では、大正十二年九月中には土木工事を完了し、その後直ちに軌道を敷設するべく工事は急ピッチで進められ、十二年には軌道敷設を終えた箇所も見られた。
川西町史
大正十年六月には信濃川電気事務所を東京の上野駅構内に設置して実施計画を進め、千手に仮事務所を置き、設計と併行して軽便鉄道の敷設や詰所・木島官舎の新設などの準備工事に着手した。
小千谷から橘・上野・千手を経て貝野村宮中に至る軽便鉄道が敷設されるという快調さであった。
川西町史 年表
大正十年六月 信濃川電気事務所が東京に設置され、小千谷町から橘村・上野村を経て千手町村に至る軽便鉄道の敷設始まる。
大正十二年十月 軽便鉄道の機関車が黒煙をあげて千手・上野・橘地内を走行
十日町市史 別紙市史リポート 手記わたしの証言
私の家では殆どが川原百姓でした。今の主要地方道小千谷・十日町・津南線の姿との村境の鉢沢に、私の田が一反五畝余りありました。南向きの斜面を大正四年に野上太吉区長の時切開きました。
大正五年頃、川に石積みコンクリートの橋が架けられた。高島では初めてのコンクリート使用で、誰もがやれる工事ではなく、権左衛門の大工棟梁が工事を行った。
今のように良い材料もなく、丸太や蔦を使って、設計して完成したが、高島の目鏡として名を残していた橋であったのを、今の第五期水路工事の土捨てで埋まってしまいました。
田の水口を川から取ってあり、夕立が来ると水止めに行かねばならず、私は雷が一番嫌いだったので、無我夢中で駆けていって来たものです。その東に暗渠があり、信濃川発電の千手宮中間の軽便鉄道掘割土砂埋立の為、川を暗渠にして水を流したわけです。
※上記証言の暗渠のくだりについて年代は明確に記述されていないが、鉢沢の水田と軽便の盛土に伴う暗渠は、おそらくここだと思われる。
鉢沢川と姿の集落との中間で、その前後の軽便の跡は以前紹介した通りに大規模な地山の切り取りや盛土が見られる。
十日町市史 別紙市史リポート 手記わたしの証言
当時の汽車は信越線の来迎寺駅から魚沼線の西小千谷駅までであった。これから先は小千谷ー仁田(※橘のあたり)ー上野ー千手間、千手から宮中間を資材運搬用軽便を走らせることだった。
大正十年軽便敷設工事に着手した。真人の現場に蒸気機関車が走っているというので見に行ったのを覚えている。「真人沢附近大正十一年」
十日町新聞 大正十二年六月十五日
廿世紀(20世紀)文明は電氣より 電氣の源は本郡より
工費正に一億圓を投ずる 信濃川發電工事着々進捗 先ず第一に鐵道を敷設する
工費一億円を投ずる鉄道省信濃川発電わ工事は取入口を本郡外丸村付近に設けて山腹に数マイルのトンネルを掘削し北魚沼郡小千谷町の上流でこれを放流するという大仕掛けなものである。
これが準備工事として同省は私設魚沼鉄道を買収して発電工事用材料運搬をなすべく同線の終点たる小千谷駅から更に二十三マイルを延長して本郡貝野村迄鉄道を敷設する。
この鉄道を二十三マイル延長すると言うだけでもこの工事が如何に大仕掛けのものであるかが想像することが出来る。
右工事視察のために出張した信濃川発電所長黒河内四郎氏は曰く
「鉄道工事が第一、第二工区に区別してある。第一工区(北魚沼郡平沢村地内より中魚沼郡岩澤まで)は今年末までには土工の全部修了する。全線の完成は来る大正十五年か十六年になるであらう。昨今は諸機械軌条枕木等の運搬で戦場のやうなさわぎである。この工事に使役している人夫は約千人で内三分の一は鮮人である。なにぶん工事は二十三マイルのうち十二マイル程はトンネルであるから困難は非常なものである。発電事務所は上越北線東小千谷駅前にあるが近く北魚沼郡平沢新田に移転する。この鉄道は旧魚沼線を通ずれば約三十マイルになる。」
国鉄狭軌軽便線1 臼井茂信
大正12年(1923年)5月2日付達261号 ケ170(大正12年3月17日) ケ171、ケ172(3月22日)~~ 大正12年(1923年)8月8日付達537号 ケ179~ケ183(4月30日)
信濃川水力発電工事誌 (1952年) 日本国有鉄道信濃川工事事務所
軽便線は爾来1,2期工事材料運搬用として、既に千手まで5.806kmは敷設してあり(※これは十日町~千手間のことと思われる)、千手~小千谷間は大正11年、貝野~小千谷間,1段発電計画当時施工した路盤を補修して、小千谷まで軽便線を通す予定であったが市の沢より吉平間は路盤の荒廃甚だしく、相当の経費と日数を要し、又復旧しても雪崩等の損傷は、保守に非常な困難を予想されるので、計画を変更して軽便線は十日町~市の沢迄とした。(※これは三期工事以降の材料運搬線でのことである)
大正期の軽便について、敷設工事や試運転に関係する年代を纏めると
1921年(大正十年) 信濃川電気事務所設置 予算承認 準備工事として軽便の工事が開始される
1922年(大正十一年) 魚沼鐡道買収 真人沢まで軽便の機関車が来る(ただ、国鉄狭軌軽便線1 臼井茂信 によると、ケ170形機関車の発注が大正十一年十月なのであやしい。)
1923年(大正十二年) ケ170形(信濃川電気事務所の軽便蒸気機関車)使用開始 軽便の試運転列車が橘・上野・千手まで来る 関東大震災で工事中止
となる。これを見ても、大正期のほんの僅かな間の話であることが分かる。
※大正十一年中に本当に蒸気機関車で試運転をやっていたのだとしたら、当時上越線工事向けに製造されたケ160形でも信濃川に来ていたのかもしれない?
私が着目しているのは
>鉄道は魚沼鉄道平沢新田駅を着点とし、川西通りを貝野村まで敷設するため、路線の土木工事を急いだ。最後区となった吉田村・貝野村の間も十一月には開始された。 中里村史
>大正十年六月 信濃川電気事務所が東京に設置され、小千谷町から橘村・上野村を経て千手町村に至る軽便鉄道の敷設始まる。 川西町史
>その東に暗渠があり、信濃川発電の千手宮中間の軽便鉄道掘割土砂埋立の為、川を暗渠にして水を流したわけです。 十日町市史 別紙市史リポート 手記わたしの証言
>鉄道工事が第一、第二工区に区別してある。第一工区(北魚沼郡平沢村地内より中魚沼郡岩澤まで)は今年末までには土工の全部修了する。全線の完成は来る大正十五年か十六年になるであらう。昨今は諸機械軌条枕木等の運搬で戦場のやうなさわぎである 十日町新聞 大正十二年六月十五日
という上記4点である。
私は大正期の信濃川発電所工事材料運搬線はおおよそ小千谷~宮中まで敷設されたと考えていた。
そう書いてある資料も多いし、実際に計画としてはそうだったのだろう。
>鉄道は魚沼鉄道平沢新田駅を着点とし、川西通りを貝野村まで敷設するため、路線の土木工事を急いだ。最後区となった吉田村・貝野村の間も十一月には開始された。 中里村史
まず、中里村史の記述である。
最後区となった吉田(後の浅河原調整池附近)~貝野(宮中)間も十一月には土木工事が開始されたとある。
この記述から、あくまで吉田~宮中についても土木工事自体は開始されていたものと考えられる。
しかし、この記述の字面通り、土木工事が開始されていたに過ぎないのではないか。
これが大正十一年十一月なのだとしても、間もなくこの辺りは雪が積もり始める時期であろうから、いくらも工事が出来なかったのではと考えられる。
大正十二年九月中には土木工事を完了する計画で、十二年には軌道敷設を終えた箇所も見られたというから、
大正十二年の試運転を行っただろう小千谷~千手間は軌道の敷設も完了していたと考えられる。
そもそも、吉田~宮中間にはこれまで以上に深い沢が横たわっている。
特に鉢沢川は昭和7年に一期工事の材料運搬に向けて大規模なトラス橋が架橋されて、はじめて鉄道で越えることが出来るようになったと考えられる。
>大正十年六月 信濃川電気事務所が東京に設置され、小千谷町から橘村・上野村を経て千手町村に至る軽便鉄道の敷設始まる。 川西町史 年表
川西町史に至っては、小千谷町から橘村・上野村を経て千手町村に至る軽便鉄道の敷設始まる。
あたかも軌道は千手までですよと言いたげというか、後年に書かれた年表なので、千手までしか軌道が敷設されなかったことを知ったかのような記述である。
なにしろ、多くの資料では小千谷から貝野に至る軽便線と書かれている中で、千手に至ると書いてあるのは珍しい。
もっとも、これはあくまでその時に着工された工区の話なのかもしれないし、記述の根拠は見付けられていないのだけれども。
なお、年表には「大正十二年十月 軽便鉄道の機関車が黒煙をあげて千手・上野・橘地内を走行」とあるけれども、
関東大震災以降については何月何日ともとれない記述をしているので、実際の試運転は関東大震災より前の話だと思われる。
なお、関東大震災の三日後には信濃川発電所関連の作業は中止になったということである。
また、川西町史の信濃川発電所に関する記述では「小千谷から橘・上野・千手を経て貝野村宮中に至る軽便鉄道が敷設されるという快調さであった。」とも書いていて、
貝野(宮中)まで軽便が敷設されたともとれる記述もみられる。
川西町史の記述には私も翻弄されている。
>その東に暗渠があり、信濃川発電の千手宮中間の軽便鉄道掘割土砂埋立の為、川を暗渠にして水を流したわけです。 十日町市史 別紙市史リポート 手記わたしの証言
また、十日町市史 別紙市史リポート 手記わたしの証言 にあるように、
暗渠があり、信濃川発電の千手宮中間の軽便鉄道掘割土砂埋立の為、川を暗渠にして水を流したわけです。というのは、大正期にこの区間の土木工事が行われていたことをにおわせる。
ちなみに、この水田が鉢沢と姿の間だとすると、この辺りになろうと思われる空中写真を紹介する。
ちょうど左下の河岸段丘の上の方に水田が開かれているのが見える。
その信濃川寄り、つまり東側に軽便が通っており、ちょうど写真では見切れている下の方に先ほど紹介した暗渠があり、更に下に姿の集落がはじまる。
なお、コンクリート橋があったとされる高島と言うのもこの鉢沢川の附近で、橋は鉢沢川を越える橋のことらしいが、流石に軽便とは関係の無いものだろう。
五期工事に埋められたというのは、五期工事の水路隧道工事の斜坑が鉢沢川にあったようだから、そのためだろう。
>鉄道工事が第一、第二工区に区別してある。第一工区(北魚沼郡平沢村地内より中魚沼郡岩澤まで)は今年末までには土工の全部修了する。全線の完成は来る大正十五年か十六年になるであらう。昨今は諸機械軌条枕木等の運搬で戦場のやうなさわぎである 十日町新聞 大正十二年六月十五日
また、十日町新聞の記事における発電所所長の発言にあるように、材料運搬線は一期工区・二期工区として分割されており、一期工区が小千谷~岩沢とされている。
記述通りとすると当時は未だ測量途中の十日町線の岩沢となってしまうし、信濃川を越えることになるので可能性は低いと考えている。
おそらく、岩沢の対岸である真人あたりのことだろう。
また、「なにぶん工事は二十三マイルのうち十二マイル程はトンネルであるから困難は非常なものである。」という点がまったく腑に落ちない。
軽便線の半分超がトンネルだなんてことはあり得ないし、一方で発電所の水路隧道の事でも無さそうである。
更に、何故かこの発言中の記述だけ隧道にトンネルというルビではなく、「トンネル」と書いてある点も不可解である。
しかし、これを二十三マイルのうち十二マイル程が”切り取り”もしくは”盛土”とすると妙にしっくりくる。
再三ここでも紹介しているように、軽便は河岸段丘の克服のため大規模な工事の跡が残されており、そのことを指しているとすると確からしいと言えないだろうか。
大正十年着工から二年で小千谷~千手まで軌道が敷設されたとして、千手もしくは吉田から宮中までの工事が更に三年はかかる計画としても妥当と言えそうな日数だ。
どちらかと言うと、吉田から宮中までの方が鉄道にとって凶悪な地形多そうだし・・・。
以上の事から、大正期の信濃川発電所材料運搬線は、小千谷~千手(もしくは吉田)までは軌道が敷設された上で試運転も行われ、
千手(もしくは吉田)~宮中間は工事は着工されていたものの、軌道の敷設にまでは至っていなかったと言えるのではないか。というのが現時点での私の考えである。
もちろん、数少ない資料からの推測に過ぎない面もあるので、あくまで現時点での考えである。
今後も、時間を見付けては調査を進めて行きたい。