【白紙委任状】ルネ・マグリット
その~、「幻覚剤は役に立つのか」、まだ全然読み終わってないものの……立花隆先生の思索ドキュメント「死ぬとき心はどうなるのか」をもう一度見ていて――自分的に物凄く驚いたことがありました
つまり、「幻覚剤は役に立つのか」で、サイロシビンやLSDなどによって自我の溶解や自分と他のものとを分けている障壁が溶け去ったのを感じた、とおっしゃる方の体験談と、臨死体験した方の言ってることが、ほとんど「異口同音」と言ってもいいくらい、同じだったということなんです(^^;)
「神を感じた」、「至高なる大いなる存在の深い愛に包まれた」、「そして、そのような深い愛に包まれ、自分は価値のある素晴らしい存在なのだと知った」……などなど、似通った言葉が驚くほど多いと感じたんですよね。
そこでその瞬間にわたし、あるひとつの疑問が心に生じたのです。立花隆先生の思索ドキュメント「死ぬとき心はどうなるのか」の最後のほうで、かなりこのことの核心に迫る場面があります。つまり、「人が死ぬというとき、脳の辺縁系はある不思議な働きをする」と。
その「不思議な働き」というのが、睡眠や夢に関して中心的な役割を持つ「辺縁系」が、眠りのスイッチを入れつつ、覚醒を促すスイッチも同時に入れ、その時神経伝達物質(たぶんエンドルフィンではないでしょうか)を大量に出す。このことによって、人は現実のような、夢のような幻を見る状態に置かれ――臨死体験をした人々が言うような、不思議な体験、神秘体験をすることになるわけです。
それで、今は救命救急医療によって、昔であれば助からなかったくらいの方が死ぬ間際まで行って助かった経験が増えたことにより……「臨死体験」についての報告が増加している、ということでした。
もちろん、こうした「理論」や「脳科学的証明」(に近いもの、と個人的には思います)によって、すべての神秘体験が完全に説明された――というわけでもないと思うんですよね。ただ、人間の脳は解剖してみると、その重さが成人で大体1200~1500グラムくらいで、それが一度体から取り出されるなり、「え?本当にこんなものがあんなに色々悲しんだり苦しんだり喜んだり、一度にたくさんの感情や記憶を有して生きていたの?」と愕然とするくらい、小さな灰色の、ただの物質にしか過ぎません(しかも、死んだあとには他の肉体の器官同様ひどい臭いを放ち、腐ってゆきます)。わたし自身、自分の脳がどのような形状をしているか知らなかったら、「何ソレ?そんな醜くて汚いもの、どっかやっちゃってよ。どうせゴミでしょ」くらいにしか感じない気がします。古代エジプトでミイラを作っていた人々が、まず真っ先に人間の脳の内容物を捨てていたのと同じ如く(彼らはそんなところに人の「心」が宿っているとは、考えてもみなかったらしい)。
でも、このゼリー状態で灰色の湿った「物質」が、わたしたち人間を「わたし」たらしめるもの、すなわち、意識とか心と呼ぶものを生む。そして、わたしたちは物質的動作主として、とにかく目の前にある「人生」と呼ばれるものを思索・行動とともに処理していかなくてはなりません。また、そんなふうに「人生」を送っているのは、「わたし」だけでなく、他にもそんな「ぼく」や「オレ」や「わたし」と呼ばれる人々が、地球上に今は八十億もいるらしい。そしてこの人々は大体のところ同じ「現実」という共通した意識世界を持っています。たとえば、太陽のことを大抵の人々が「赤い」と認識し、パンやごはんを見れば「食べ物」と考え、言語はそれぞれ違えど、大地や空や海といった自然を美しいとか綺麗だと認識するといったような……でも、幻覚剤によってこうした「ひとつしかない」とある意味思い込まされている現実の扉(物質界の扉)が溶解した時、臨死体験した人々が言うような世界が現れるということなのだと思います。宏大な宇宙の中に神を感じる人もいれば、神々しい大いなる存在の愛に包まれたり、またその愛に触れたことで、自己肯定感がこの上もなく高まり、「自分はなんて価値のある愛された存在なのか」と震えるほど感動したりという――このことの「正体」はなんなのかという、立花隆先生の思索ドキュメントは、現在の段階でこれ以上の解答は人間に与えられてないくらいのものだと思ったんですよね。いずれまた、科学の発展によって色々なことがわかってくるにしても、あくまで現段階においては。
また、何も生きるか死ぬかの経験をしたり、幻覚剤を使ったりしなくても、こうした神秘体験をする人々というのは、実は昔からいました。それがシャーマンといった人々や、あるいはキリスト教でも仏教でも、山や洞窟、修道院などに籠って祈りの生活を送ることで――「神に出会った」という神秘体験をする人々はたくさんいただろうと思います。また、そうした時に脳のどの部分が特に活性化するのかといった計測結果によれば、「幻覚剤は役に立つのか」には、fMRIなどによって調べてみたところ、脳の同じ部位が特に活性化することがわかった、ということでした。
こうした事柄から、「神はいない」であるとか、「人間の脳が生みだした偶像に過ぎない」とか、そんなふうに結論することは出来ないと思います。何故なら、そうした「体験を実際にした人々」が、「あなたが体験したことは、脳科学的に説明がつくことなんですよ」と言ったとしても……「自分の経験した神こそ神である」、「あなたはあの素晴らしい経験をしてないからわからないのだ」といったように、臨死体験や幻覚剤による神秘体験をした人々はおそらく認めないだろうからです。
また、その理由についても理解できる気がします。というのも、著者のマイケル・ポーランさんも同じ意味のことを書かれていますが、そうした幻覚剤によって「現実は今目の前にあるこれだけではなく、自分たちの脳の外側にこそ、本当の世界が存在する」といった体験をした人々にとって――「それこそが真実である」として、完全にコンビエンス(確信)してしまうという、まったく同一の証言と態度が見られるからなんですよね。
また、この本の中でポーランさんがお話を聞いた人々というのは……そもそも頭のいい科学寄りの方が多いのです(^^;)そして、もし人間に魂というものがなく、ただの作業動作主にしか過ぎないのだとすれば(科学というものはどうも、進歩すればするほど、こちらのほうが正しいと言ってるようにしか思えない)、人間とはなんなのか、こんなにも時間をかけて進化してきたことの意味は一体なんだったのか――そうとも!人間というのはただの孤独な作業動作主なんかじゃない。我々が普段現実と呼ぶものの外にも世界は存在する。いつかすべての人は死んで、この肉体という名の檻から出ていく時こそ、そのことがはっきりわかることだろう……こちらの意見を支持したい方のほうが、もし全人類から瞬時にして評決を取れたとすれば、おそらく多かろうとも思います。
でもやっぱり、こちら側にばかり、「そのほうが人間らしい考えだから」というので、偏りすぎるのも危険な気がします。ゆえに、思想としては多少危険かもしれませんが、わたし自身は結局のところ神を信じている人間だし、また人間には魂があるという立場から揺るぐことはないという前提に立った上で、ある仮説に立ちたいと思うんですよね。つまり、人間は結局のところこの地球という惑星上に偶然出現したただの物質動作主に過ぎないかもしれないのに、その人間が臨死体験や幻覚剤を使用した時に感じる体験をあんなにも絶対的にコンビエンス(確信)できる、あの共通して見せる態度というのは何か、ということです。
そもそも、人間の理性は脳が一番偉いと考えがちなわけですが、おそらくわたしたちの腎臓であれば、「腎臓の私こそが主人公」と思っている可能性が高く、腸であれば、やはり大腸あたりは「オレは第二の脳なんかじゃねえ。第一の脳だ!!」くらいに思ってそうですし(単に彼らにはそう考える思考能力がない)、体の各器官はおそらく、「自分こそが主人公」くらいに思って日々一生懸命それぞれの機能を最大限に活かそうとして生きている。こうしたところから考えていくと、脳というのは彼らにとって「便利な役立つ同僚、あるいは部下」くらいなものなんじゃないでしょうか。
わたしたちの考えでは、脳が一番偉くて、神経系その他を通して重要な指令を下してるといったイメージですが、肝臓や胃や心臓や肺といった各器官にしてみれば、「でも、おみゃーわ我々がいねえとそもそも生きてられんぞえ」くらいなもののような気がします。そして、その脳の中にある、我々人間が最重要と考える「わたしこそはわたしである。わたしが一番偉い。なんでって、きのうテストで百点取ったし、運動会でも一番だったから……でも明日、学芸会でセリフ間違わないかどうか心配だわ。ドキドキ……」なんてことは、進化上「なんかよくわかんないけど生まれた副産物にしか過ぎない」可能性もあるわけですよね(つまり、わたしたちが一番重要と考える「人間らしさ」を有した器官というのは、内臓や骨や神経それぞれにとっては、「べつにおまえ(意識)なんかなくても不都合ねえけど?」くらいの可能性がある^^;)。
さて、くだらないおしゃべりが長くなりましたが(いつも!笑)、わたし先ほど、二回も「確信」という言葉についてわざわざ「コンビエンス」と書きました。単に偉そうに格好つけたかったのか?もちろん違います(笑)。つまり、立花隆先生のドキュメンタリーの中に、ノーベル生理学・医学賞を受賞された利根川先生のお話が出てくるのですが、先生は現在MITのほうで人間の記憶のことに関する研究をされているらしく……ネズミにショックを与えて嫌な思いをさせたのち、安全な場所に戻しても、安全な場所を「嫌な思いをした場所」と錯覚させることが出来れば、そのネズミは安全な場所でも怯え続ける――といったような実験のことが語られます。
それで、人間の記憶もこれと同じようなところがある、と。つまり、偽の記憶(フォールスメモリー)を真実の記憶として勘違いしやすく、人に、その人が行ったことのない場所にその方当人が写っている写真を見せ、たとえばそこが遊園地だったとします。すると、最初は「こんな場所、行ったことがないわ」と断言していたにも関わらず……七日くらいすると、「そうだったわ!この時、こんなことがあった」といったように語りはじめたりするっていうんですよね。
「そんなのウッソだあ」と思われそうなんですけど、でも人間の記憶というものがいかにあやふやで曖昧なものかについては、多くの方が「そうだよね。人間ってそんなもんだよね」と同意されると思います。わたしも昔、友人が本屋さんである本について、「この本、面白いって言ってたよね」と言ったら、その友人がふざけているわけでもなんでもなく、「ううん、読んだことない」と言ったことがあります。わたしは彼女がそう言った瞬間のことをはっきり覚えているため、「え?何言ってんの?わたしが嘘ついてるとか?」みたいになるわけですけど、でも、その友人はその種のことで意味もなく嘘をつく人でもなく、わたし、ふと思ったんですよね。もしかしたら、そういう夢を見たのかもしれないと……もちろん、その友人が彼女らしくもなく、本当は読んだことのある小説を「読んでない」と言った可能性もあります。どうでもいいようなくだらないことですが、こんな形で違う現実を互いが「確信(コンビエンス)」することはありうる。
で、またまた出てきたコンビエンス(笑)。つまり、何を言いたいかというと、わたし、最初に「死ぬとき心はどうなるのか」を見た時、利根川先生のこの時の言葉って、「ふう~ん。そんなものかしらね?」くらいな感じで見てました。でも、今はこう思います。科学的に突き詰めていうとすれば――人間はこの地球上を占める、ただひとつの現実しか見ることの出来ない作業動作主にしか過ぎない。でもこの現実しかないのではつらすぎる。また、人間の心はそんな科学的真実に耐えうるほど強くもない。そうだ!このつらい現実を少しくらい誤魔化すというのはどうだろう?あまりにつらく悲惨な自分の人生に起きたことについては、多少改竄して記憶するのだ。そして、時々は夢の中だけでなく、このつらい現実でも白昼夢のような夢を見よう……こうして虚実入り混じることになった記憶について、人間は実際にはなかった記憶をフォールスメモリーとして、「間違いなくそのような事実であった」と確信していることさえある、ということなのではないでしょうか。
立花隆先生は、「死ぬ間際に人間の脳が、眠りのスイッチとともに覚醒のスイッチも入れる、という不思議なことをするのは何故でしょうか?」と、こうした仕組みを明らかにしたケンタッキー大学医学部のケビン・ネルソン教授に質問するのですが、この優しそうで穏やかな脳神経学科の先生がおっしゃるには、「何故かはわかりません」ということなんですよね。そうした仕組みだということはわかったけれども、それが「何故か」まではわからない、と。そして、そうした夢の中にお母さんが出てきたとして、それがお母さんの魂である、とするか、その人の記憶の中のお母さんであるとするのか、それは科学が決められることではない、といったようにも……。
わたし自身は素人なので、「こういうことなのではないか」と憶測することしか出来ませんが、その人類が進化の初期段階から持っていたのだろう脳の機能は――「神さまからのプレゼントだった」ということにも出来るし、その答えがもし気に入らなかったとすれば、「進化の過程における過剰な自己防衛本能による発達」だったのではないだろうか、と。
人間が「生きる理由」について考えると、家族とか子供のためとか親のためとか、恋人のためとか、達成したい大きな目標があるからとか、人によって答えはおそらく複数あるだろうと思います。でも、生存本能ということについてのみ言うとすれば――今日から明日、そして明後日へと、自己というものをよりよく保存してバトンするというのが人間の生きる理由と思います。でも、人間の脳には「色々なことを複雑な組み合わせによって考える思考能力」があるため、他の動物ほどには「ただ生きている」だけの自分には耐えられない。何分、明日どころか、数時間後に起きることすら、人間には不確定の未来であり、その不確実性の連続の人生をよりよく快適に生きようとする時、邪魔になる感情というのが、個人的に思うに、恐怖や不安ではないでしょうか。
そのですね、なんでこんなこと書いてるかっていうと、サイロシビンによってトリップした方の中には(あ、これは医師といった方の指導下によってではなく、個人使用の中で、という意味です)、物凄く強い不安に襲われた――という方がいらっしゃって、サイロシビンがもし、大脳辺縁系のある部位にもし作用することで(現実と見分けのつかない)至高の幻を生じさせるのだとすれば、その一方、強い不安に見舞われた方が何故いたのかも、素人的にわかる気がしました。
つまり、大脳辺縁系って、いわゆる「四つのF」――闘争(fighting)、逃走(fleeing)、摂食(feeding)、性行動(sexual behavior)――といった、人間の原始的本能を司る部位でもあり、その部分が幻覚剤によって刺激された場合、発生した恐怖や不安は並みのものではない可能性があるのではないでしょうか。わたしが先に書いた「過剰なまでの自己防衛本能の発達」って、そういうことなんですよ。人間は本能的にどうしても、恐怖や不安を生じさせるものから逃げるか戦うかと、遥か昔の時代から繰り返しそんなことばかりずっとやってきた。また、そうした自分の幸福や快適性を壊すものから逃れたい、逃れたい、逃れたい、そんなこと考えることさえしなくていい、完全で安全な世界へ行きたい……という過剰なまでの本能が、「よし!幻を生むことで、それも現実と見分けのつかないほどの強い幻を生むことで――それさえあれば生きていけるというほどの世界を作りだそうじゃないか!!」と、わたしたちの原始のご先祖さまが進化した可能性があるのではないかと、個人的にはそんなふうに想像したというか(^^;)
立花隆先生が、「『我が思う』、『我が感覚する』、人間のそういうところに一番間違いが起こりやすい」という至言をドキュメンタリーの中で残しておられますが、本当にそうだと思います。「我思うというこの我の感覚こそ、間違いなく絶対正しい」と人はそう思い込む、人間は本質的にそうした生き物だという話です。また、「我感覚す、ゆえに我過つ」ともおっしゃっておられ、まあ並の人間には出てこない言葉として、まったく唸らされます。自分の感覚してることこそすべてで正しいのだ……だが、その正しさの中にもし過ちがあったらどうするのだ、ということでもあると思うわけです。
もっともこののち、立花先生はがんの手術をされ、手術後に見た夢が現実とも幻ともつかぬあまりに素晴らしいもので――「それは、フォールスメモリー(偽の記憶)だとか、脳の作りだした幻覚だったと言われても、決して自分の中から消すことの出来ない、確かな実感を伴っていました」――臨死体験をされた方があんなにも御自身の神秘体験を絶対的なものとしてコンビエンスされているのか、その気持ちがわかるようにもなり……この、コンビエンスという感覚については、幻覚剤によって自我と現実の扉が溶け去った経験者もまったく同じだと言います。
著者であるマイケル・ポーランさんも、「何かそんな体験をして素晴らしかったよ」程度の話ではなく、体験者が共通して見せるこの絶対的に確信している態度、これは特徴的なものだ――といったように書かれていました。つまり、「自我が溶け去った」、「自分のこの意識の外にこそ、素晴らしい本物の世界が広がっている」という悟りにも等しい境地(つまり、この場合の悟り、というのは仏陀もそうだったかどうかはわかりませんが、「悟った」ということは、他に疑問の入る余地はないということなのです。逆に少しでも疑問があるのであれば、それは悟りの境地とは程遠い)、こうした事柄というのは、臨死体験者の方もそうだと思うのですが、「こんなものは自分の脳がどんなに努力したって創りだせっこない超越的感覚世界」を経験したからこそ……その全員の態度が双子か三つ子か四つ子か五つ子のように――まったく同じコンビエンスした態度だという、そうしたことなのだと思います。
なんにしても、本のほう読み終わりましたら(まだかなりかかると思いますが)、また気になったことや考え直したことなどについて、あらためて感想を書きたいと思っていますm(_ _)m
それではまた~!!
P.S.その後、サイロシビンやLSDといった幻覚剤が脳内のどの部位でどういったように作用するのか、といった章によると、デフォルトモード・ネットワークという場所であり、それは特に後帯状皮質にある……といったことでした。そもそもサイロシビンやLSDは簡単にいえばトリプタミンという有機化合物であり、それがデフォルトモード・ネットワークで作用することにより、自我の消失や、例の愛に溢れた世界であるとか、神、あるいは大いなる存在に対する畏怖を強く感じたりする――という、そうしたことのようです。実際はもっと複雑というか、本のほうには詳細に書いてあるのですが、とりあえずざっくりですみませんでもこれでいくと、臨死体験者と幻覚剤使用者は語っていることはまったくと言っていいほど同じなのに、作用している脳の部位が違うという矛盾があるような気がしたのです。ただ、↑の文章に関しては、そうした間違い等訂正せず、このまますることにしようと思ったので(^^;)
惑星シェイクスピア。-【60】-
赤毛のディミートリアは、深夜帯の巫女たちと祈祷の任を交替するため、火種の皿と清めの水の入った鉢を受け取った。この日――聖ウルスラ祭のある月に入った九月一日――ようやく交替で断食せずに済むようになるため、そのことをどの巫女たちも喜んでいた。
もちろん、自分たちより目上の巫女の誰かが監督官よろしくいる場合においては、彼女たちも喜びをあからさまに表したりはしない。だが、深夜帯と早天祈祷においては、年嵩の巫女たちが入ることは少ないため、ディミートリアもまた、火皿と聖水鉢をロンダという名の若い巫女から受け取ると、「聖ウルスラ祭おめでとう!!」と挨拶を交わした。もう、聖ウルスラ祭までは一週間だったが、この惑星において一週間が八日なのは、自分たちの住む星を含め、他に七つの娘惑星があると一般に信じられているためであった(簡単にいえば、今はなき地球のあった太陽系に火星や水星、木星や金星、天王星や海王星などが存在しているのと同じである。そして、ギベルネスが驚いたことには、確かにここ惑星シェイクスピアの周囲には、この星に住む人々がそう信じているとおり、太陽と月を除いた他に、七つの惑星が同じ太陽系に存在していることだったに違いない)。
ゆえに、エルゼ海を渡ったところにある北王国と南王国にはまた別の文化・風習があったにせよ、西王朝の人々と東王朝の人々にとって、八という数字は聖数として大切な意味があり――祈祷室に入る巫女たちの数も必ず八人と決まっていた。深夜帯の巫女たちは大抵、零時から四時くらいまで祈りの担当をすることから、交替時間である四~五時頃には欠伸をしながら火皿と聖水鉢を次の祈祷時間を務める巫女に渡すことが多い。また、早天祈祷を担う巫女もまた、ほぼ夜明けとともに起きる関係性から、眠そうに目をこすりつつ、祈りの間へ入っていくことが多い。だが、時折抜き打ち検査とばかり巫女教育担当の年嵩の巫女のいることがあるため、そうした時には手厳しく注意を受けることもあった。
ディミートリアは、顔のない天使が翼を広げた祭壇の前で、火皿に香木を足すと、決して香木についた火が消えぬよう注意した。というのも、もし香木の火が消えてしまった場合、他のともに祈りを捧げる聖なる巫女たちから火を借りなければならないが、その際には彼女たちより位階が上の巫女たちに報告が上がることになっている。特に、聖ウルスラ祭のある前月のアルスの月は精進月と呼ばれ、この月と聖ウルスラ祭の行われる週まではいつも以上に注意が必要だった。というのも、この時期に巫女の誰かが火をたやしたとなれば、それは非常に縁起の悪いこととされていたからである。
無論、他のどのような時にも火はたやしてはならないとされてはいる。だが、特に深夜帯の場合に多かったが、ついうっかりというのは誰しもあるものである。そしてその際には、その場にいた他の巫女たちが、自分と比較的親しいか否かによって――上に報告されるかどうか、快く火種を貸してもらえるかどうかが決まると言ってよい。ディミートリアは今の今まで、地味で目立たないどうということもない子というのが神殿内における自分の立ち位置であると承知していたし、そのことに満足してもいた。ところが、巫女姫マリアローザにある日を境に敵視されるようになってから、そんな彼女の運命は変わってしまった。
聖ウルスラ神殿の巫女というのは、一度その道に選ばれ、神殿内において暮らすことが決まった者は、生涯ここから出ていくことは出来ないとされている。ゆえに、巫女同士には巫女同士の派閥に近いものが存在し、その中のどこかに所属することにより互いを家族のように労りあい、助けあう必要があるのだ。ところが、ディミートリアに味方したり庇ったりするとどうやら、巫女姫さまの御不興を買うことになるらしい……その噂が神殿内に広まって以来、ディミートリアは長く苦しい立場に置かれることになった。というのも、それまでどうということもなく親しくしていた巫女たちがパッと離れていったからだし、彼女が特別に親しくしているルドラとラヴィ二アの助けがなかったとしたら――ディミートリアはもしかしたら、聖ウルスラ神殿で首を括って死んだ、初めての巫女になったかもしれなかった。
『ディミ、デミにはボクだっているじゃないか』
金糸と銀糸の刺繍によって縫い取られ、四隅に房のついたブルーのサテンの座布団に膝をつき、ディミートリアが祈りと瞑想を捧げていると、彼女の巫女服の懐あたりから、もぞもぞ何かが動く気配がした。それは、タランチュラほどの大きさの、足先の毛がしっとりした黄色い縞模様の黒蜘蛛だった。
もしこのランペルシュツキィンと自ら名乗った蜘蛛が、ディミートリアの胸の間から「コンニチワ」しているのを見たとしたら――大抵の巫女は失神してしまったに違いない。だが、ディミートリアというこの娘には少々変わったところがあって、彼女は神殿内で時折見かけることのある蜘蛛が少しも怖くなどないのだった。無論、他の巫女たちにしても例のおとぎ話めいた聖女ウルスラ物語についてはよく知っている。だが、それとまた神殿内に時折出没する不気味な蜘蛛はまったく別というわけで、彼女たちはこのメレアガンス州に富と繁栄をもたらしているはずの蜘蛛を見かけると、やはり箒で外へ掃きだすか、誰も見ていないとすればなんらかの殺戮手段に訴えるというのが普通であった。
『そうね、ランペール。あなたがいなかったら、今ごろわたしはどうなっていたかわからないくらいだものね』
ディミートリアは赤みがかった美しいブロンド以外、特に見るべきところのない娘として扱われていたが、実をいうと彼女になんらかの嫌がらせ行為をした巫女たちには――ほとんど例外なくある種の罰が下っていたと言ってよい。とはいえ、それはディミートリアの与り知らぬところで起きていることであったが、彼女に意地悪をしたり、あるいはそこまでいかなくとも悪感情を抱いている者というのは、間違いなく部屋のどこかに蜘蛛や他の昆虫の群れが現れる。他にも、何もないところで転ぶなど、なんらかの不運がつきまとうことになるのだった。
もちろん、イコールそれがディミートリアに害を加えるか、あるいいは加えようとしていたからだとすぐさま悟る巫女というのは少ない。ただ、そんな彼女たちでもついには次のように考えるようにはなるらしい。すなわち、誰かを陥れることを考えてばかりいると、神さまが見ておられて、むしろその呪いが自分に降りかかって来るという、そうしたことなのではあるまいか、といったように……。
また、ディミートリアはこのことで、(自分は頭がおかしいのではないか)と疑ったこともある。つまり、ランペルシュツキィンが彼女の前に姿を現した四歳の頃から、ディミートリアは彼に心の中で話しかけ、その言葉に彼もまた答えてくれるのだったが――他の巫女たちはこっそりにでもそんなことはしていないことがはっきりした時、結局のところ自分は自分の頭の中でこの蜘蛛の言葉をも考えだし、孤独を紛らせているだけなのではないかと疑ったのだ。
だが、そんな時にもランペルシュツキィンは『悲しいよ、ディミ。そして蜘蛛は悲しいと自分の涙に溺れて死んじゃうんだ』とつぶやき、なんと驚いたことには、本当に次の日に死んでしまったのである!ところが、ディミートリアが自分はなんてことをしてしまったのだろうと滝のように涙を流していると……彼はまたどこかからひょっこり姿を現し、『やあ!これでボクのありがたみがわかったかな?』などと前脚(でいいのだろう、たぶん)をちょっと上げて挨拶してきたものである。その前日に死んだ丸々太った縞柄の蜘蛛のほうは、最早ピクリとも動かなくなっていたが――彼は『こんなもの、もうポイさ!』などと言って、自分の古巣をバリバリ食べて始末していたものである。
この時、ディミートリアはランペルシュツキィンから『ボクはある一定の周期で死ぬ必要があるんだ』と教えられていた。『肉体のある者は、どんな者だって永遠じゃない。だけど、ボクはこれからもずっとディミートリア、キミのことを守り続けるよ。それというのも、今聖ウルスラ神殿の巫女姫として祭り上げられているマリアローザは本当の巫女姫じゃない。いずれキミが本当の巫女姫として、この神殿に立つことになるんだからさ!』……ディミートリアはこの時も、やはり自分の頭がどうかしたのかとしか思えなかった。けれど、その後ランペルシュツキィンが語ったことの内には、ずっとこの神殿に閉じこもって暮らしてきた彼女が、決して知りえない情報が含まれてもいた。すなわち、『現在の巫女姫マリアローザは、セスラン=ウリエール卿が宮廷内で実権を握ろうとしたことから作られた<偽の巫女姫>であること、そのことを巫女姫教育に関わった側近巫女たちは知っていること、だが、いずれは本物の巫女姫であるディミートリア、キミが巫女姫として立つ日がやって来る』……といったようなことである。
『そんなこと、絶対ありえないわ』
そう言われた最初の頃も、ディミートリアは溜息とともに否定したものだった。けれど、それから数年して、マリアローザの陰湿ないじめがはじまった時……『あんな娘、殺してやることなんか簡単なんだけどね』とランペルシュツキィンが憤慨して言うのを聞き、彼女はハッとして泣くのをやめた。
『馬鹿な子だなあ、まったくキミは。今でもまだ、ボクの言うことはキミの深層心理における、自分の作りだした会話だとでも思ってるのかい?ボクはね――こんな醜い蜘蛛の姿をしているけれど、まあ大抵のことはやってのけられるのだよ。ディミートリア、キミに完全にアリバイがある時に、マリアローザのことを毒殺してやることなんて朝メシ前なのさ。けどまあ、今あの娘はこちらもまた偽の騎士団長と面白いことになってるようだから、もう暫く様子を見ようと思ってるんだ。いずれあの娘は墓穴を掘る形で、自ら滅びを招くのじゃないかと、そんな気がするからね』
『偽の騎士団長……?』
何故今の騎士団長が偽なのだろうかと、ディミートリアは不思議に思った。というのも、毎年聖ウルスラ祭の時にある馬上試合トーナメントの際には、巫女たちは最前列かそれに近い場所で見ることが許されている。他に、巫女たちがメルガレス城へ上がる時など、聖ウルスラ騎士団の騎士たちは巫女の護衛につくため――心密かに彼らに憧れる巫女というのは実に数多いのである。
『あいつは、騎士団長を決めるという試合の時に不正をして今の座に就いた不届き者なのさ。何故ボクがそんなことを知っているのか不思議かい?ボクにはね……簡単に言えば仲間がいる。その仲間が、ボクと同じような蜘蛛だと考えるのも、今ボクが蜘蛛に憑依しているように、他の動物や昆虫なんかに憑依していると考えてくれてもいい。とにかくね、そんな情報網がボクにはあるってことなんだよ。そして、ディミートリア、キミが次の巫女姫になるってことは、ボクたちの総意だってことなんだ。ボクの言ってる意味、わかるかな?』
『いいえ、わからないわ』
頭というのか、心に直接話しかけてくるランペルシュツキィンの声が、本当にいっそのこと自分の深層心理の幻なら良かったのにと、この時ディミートリアはそう思いかけたほどだった。
『まあ、なんにしても待っておいで。いずれ、星母神書に「神の御前にへりくだれ。さすればあなたは、神がちょうどよい時にあなたを上げてくださるのを見るだろう」とあるように、キミはその瞬間がやって来るのを目にすることになるだろうからね』
『…………………』
ランペルシュツキィンにそう言われても、ディミートリアにはそれが本当に自分にとって幸いなことなのかどうか、よくわからなかった。彼女の希望としては、このままただの巫女のひとりとして静かに生涯をまっとうしたいように考えていた。彼女は内気な恥かしがり屋だったので、他の巫女たちのように宮廷で伯爵さまや伯爵夫人、あるいは貴族といった高貴な人々と交流したいとも思わなかったし、元老院議員たちの食卓に招かれて、政治的な意見を交わしたいといったようにもまるきり考えなかった。ディミートリアはただ、聖ウルスラ神殿という場所と、そこで巫女たちに囲まれて祈りに専念する生活というのが好きだった。また彼女には、ルドラやラヴィニアのように、『普通の娘の生活みたいなものに憧れるわ』という気持ちもよくわからなかった。もちろん、ディミートリアにしても、両親や兄弟姉妹のいる生活というのには憧れる。けれど、今の自分の生活が一般庶民のそれに比べ、遥かに恵まれたものであるということは、重々承知しているつもりだったのである。
ディミートリアは、ランペルシュツキィンの言ったことが(我が身に実現しますように)と願ったことは一度もなかったにせよ、彼の言葉が彼女にとって強い励ましになったというのは事実だった。巫女姫マリアローザにいじめられている間、ディミートリアは他の巫女たちからも避けられたり、巫女姫に同調する者たちからも意地悪されたりと、悲しく苦しい、散々な日々を送っていたけれど……そんな時、ランペルシュツキィンの慰めの言葉というのは、確かに彼女にとって強い力となった。いざとなったらこの自分には、マリアローザなんかけちょんけちょんにのしてやることの出来る力があるのだ――といったことではなく、そんな時には自分こそがマリアローザに代わる、聖ウルスラ神殿の本当の巫女姫なのだと想像すると、なんとなく心が晴れた、といったような意味合いにおいて。
その後、巫女姫マリアローザのディミートリアに対するいじめというのがすっかりやむと、彼女は大体のところ以前と同じ目立たぬ地味な存在へ戻っていった。けれど、彼女は再びマリアローザにとってはその目の中にも入ってこないような数多くいる巫女のひとりになったことで、心底ほっとしたものである。ただ、ディミートリアは前以上に用心深くはなっていた。たとえば、祈祷の間に入っている時、うっかりして火種を絶やしてしまった場合、他の巫女たちが香木に火を移させてくれたとしても――自分がぼんやりしていてそんなことになったということは、必ず側近巫女たちに報告されるはずだと思っていた。他にも、自分に少しでも何かおかしなところがあれば、目敏い巫女の誰かしらがそのように密告するだろうと。
とはいえ、ディミートリアはこの時、祈祷の間にて(今年もつつがなく聖ウルスラ祭が祝福されますように)と祈りながら……まさか、とうとう蜘蛛のランペルシュツキィンが小さな頃から自分に語って来たことが実現するその瞬間がやって来ようとは、その日が間近に迫りつつあるのだとは――彼女は夢にすら思ってもみなかったのである。
>>続く。