【オデュッセウスとセイレーン】ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス
えーと、なんにしても今回で最終回ですm(_ _)m
書き上げたのが去年の11月くらいのことで、たぶんもし第三部あたりを書きはじめたのが翌年の1月以降だったとしたら……この第三部の最後のほうは特に書くことや書き方が変わってたんじゃないかなと思っています。
いえ、そもそもそれ以前に「地震」が起きたことがハムレット軍に優位に働き、戦争に勝つ――ということについては、第一部の最初のほうを書きはじめた時からある程度想定はしていたものの、「う゛~ん。でもちょっと地震ってどうかなあ」と思っていました。わたしの頭にあったのは、ヴェスヴィオ火山が噴火した時のような大噴火がいずれ起きる(そしてそれを精霊型人類たちが抑えている)……といったイメージだったのですが、惑星シェイクスピアに住む人々はまだ地球史でいえば中世くらいの時代に生きる、信心深いor迷信深い人たちばかりということで、ギベルネスやユベールが考えるように「それは神罰などでは決してない」という科学的立場に立って考えられる人というのが極めて少ないわけですよね。
ゆえに、惑星シェイクスピアの人々が歴史書に残したのは、「クローディアス王という拷問好きの悪しき王さまのことを神は罰したのだ」といったようなことだったでしょうし、このあたりは自分でも読んでいて「物足りない」というか「文章による説明が不足している」と言いますか、そうした印象を持ちます(^^;)
そうなんですよね……「わかっとるんなら書き直さんかーい!!」という話なのですが、当初わたしの頭にあったのが実は、最低でもクローディアス王が王州の州境まで軍隊を率いてやって来て、ハムレット軍と対峙するという場面でしたそれで、そのあたりで結局フォルトゥナ山を震源とする地震が起き、五万もの兵は戦う前に壊滅状態へ追い込まれるという……でも、そうなると他に書きたい選択肢としてあった拷問を加えていた囚人たちに仕返しされるという場面がなくなるということにもなり……その後命からがら逃げだし、少数の貴族や従者らとともにティンタジェル城へ戻るものの、そこにはクローディアス王を恨む民衆たちがおり、命の助かった囚人たちも含めた彼らに惨殺される――と、ここまで書くと「長いな~。面倒くさいな~」と思ったりもして、何か自分でもあまり良くなかったと思います
あ、そうでした。今回本文長めなので、ここの前文にあんまり文章使えないんですよね。なので、カヴァフィスの「イタケー」の詩のことについて取り急ぎ言い訳事項があるんでした(^^;)
カヴァフィスの「イタカ」(イタケー)の訳が本文のほうに出てくるのですが、実はこちらの訳が「サスキア」(ブライアン・ホールさん著、浅岡政子先生訳/角川書店)という小説の中に出てくるものの引用だったりします。詩の内容のほうは、ホメロスの「オデュッセイア」で有名なオデュッセウスの旅について語られたもので、わざわざ説明する必要ないかもしれないものの、オデュッセウスはトロイア戦争に出征し、予言されていたとおりこちらの戦争が終結するまで十年かかり、自分が治めているイタケー島まで戻ってくるのにさらに(なんやかや色々あって)十年かかってしまいました。
それで、オデュッセウスにはトロイア戦争へ出征する前に結婚した奥さんとの間にテレマコスという息子までいたのですが、この子が物心つく前に戦争へ赴き、奥さんのペネロペ(ペネロペイア)はこの二十年もの間、数いる求婚者(寄食者)のプロポーズも断り続け、夫のことをひたすら貞淑に待ち続けたのでした。まあ、この詩を引用したのは、単にギベルネスが帰りの宇宙船の中で暇つぶしとしてオデュッセイアを読んでいたからなのですが、「シンプルな豊かさ」の著者サラ・バン・ブラナックさんは、>>「現在では『オデッセイ』というと、困難だが歓喜に満ち、ときには苦難をともなう、人を変える長い旅の意味に用いられます」と書いておられます
そして、本来の予定ではここで、同じ本の中から「イタケー」の訳を引用させていただこうと思ったのですが……前文に使える文字数がそろそろなくなってきてしまいましたもので(汗)、意味は大体のところ同じでも訳し方によって出る「違い」について比較できればと思い、引用しようと思ってたものの――さっき調べたら、池澤直樹先生のカヴァフィスの詩の訳が出ていると知って驚きました
もうちょっと早くわかってたら、間違いなく注文してたのですが、そこまで最終回を引っ張るのもなんなので、とりあえず今回はこんなところで、あとのことはあとがきにでも何か書こうかなと思ったり思わなかったり(^^;)
いえ、わたし第二部の【29】のところにそもそもの最初に書こうと思った動機については書いてしまったので、何か他にっていうと、あとがきについてはそんなに書くことないんですよね。何分、登場人物が多いせいもあり、ひとりひとりについて書くのも「なんだかなー」という部分もあったり……まあ、これからちょっと考えて何かのんびり書こうかなと思います
それではまた~!!
惑星シェイクスピア-第三部【41】(最終話)-
ユベールが本星情報諜報庁と非常緊急コードで連絡を取り合うと、その後、約半年ほどで迎えの宇宙船アントニーがやって来た。だが、この惑星シェイクスピアのように遠い宇宙の果てまでやって来るには、その艦船はあまり大きくもなく、必要最低限の設備や装備しか備えていないように見えたものである。
艦長は、ヴェガ・オルニダスという名の女性で、階級のほうは中将ということであった。乗船する前に事務官のひとりから、艦内で見聞きしたことについて他言しないこと、また、どういった仕組みで動いているのか、エンジン系統のことをエンジニアであるクルーに説明を求めてはいけないなど……とにかく、多くの禁則事項について了承し、電子サインしてからでないと宇宙船アントニーへは乗艦が許されなかったものである。
宇宙船アントニーは、見た目は艦船としては小ぶりだというだけで、ギべルネスが見たこともないような計器類で満ちていたものである。この宇宙の全体が生まれたというあのビッグバン――何もない、いわゆる<無>から<有る>という状態が生まれた瞬間のエネルギーの仕組みを地球発祥型人類が解明して以降、この人類は付近(といっても実際は気が遠くなるほど離れている)の星系すべてにおいて最強の種として知られるようになった。
すなわち、このエネルギーを用いれば、理論上、ほぼ無限に――互いに互いを完全に滅ぼし尽くすまで戦争することが可能となり、そうした悲惨な戦争が繰り返される中、地球と呼ばれた母星まで失い、地球人類ではなく、地球発祥型人類と呼ばれるようになった人々は、それまでに開発(あるいは征服)してきた各惑星などに散り散りになったまま留まるということになった。そして、それを再統合したのが現在本星エフェメラと呼ばれる場所に本部の置かれた、星府(スタリオン)と呼ばれる惑星統合政府である。
だが、ギべルネスにはその昔から不思議だったことがある。ここ惑星シェイクスピアがそうであるように、何か問題が起き、本部から艦隊を派遣しようにも、そんな遠くまで一体どうやって行くのだろうか、という問題である。無論、エフェメラからすべての宙域において連絡自体は可能であるから、その問題の起きた惑星に近いところから対処するための専門機関が派遣されてくる……ということにはなるのだろう。
実際、惑星ロッシーニと惑星ワーグナーの戦争においては、同じ星系にあるスタリオンの戦争仲裁機関が、このふたつの惑星を消滅させることの出来る兵器をちらつかせつつ、なるべく早い段階で戦争をやめるようにと、惑星ワーグナー側に働きかけていた。そしてロッシーニは一度は惑星名までニーベルングと変えざるを得なかったものの、その後独立を勝ち取ろうと民衆たちが何度となく立ち上がり、講和条約が結ばれてはワーグナー側の違反によって破棄されということが繰り返されてのち――最初の戦争から数えて百年以上が過ぎた今、ニーベルングからロッシーニへと惑星名も戻り、このふたつの惑星間にはようやくのことで平和な関係が樹立されていたのである。
ギべルネスはこの時、自分に与えられたキャビンに腰を落ち着けると(やはり、人間が心に『?』とクエスチョンマークを思い浮かべたことに対する答えというのは、宇宙のどこかにあるものなのだな……)と、妙に感慨深く感じたものだった。
たとえば、彼が今いる部屋は丸みを帯びた天井や壁に囲まれており、それ以外ではのっぺりとしていて何もない。だが、不可視センサーが人が入室した途端働き、ここの部屋の使い方についてガイドしてくれるのだ。そして、この彼/彼女はただのAIガイドにしか過ぎなかったにせよ、ユーザーが『?』と感じた疑問については、自分の知りうる限り、答えられる限りのことについてはすべて教えてくれる。もし、この限られた知能しかないAIではない、巨大な知識と知能を無限に有する最速の情報処理能力を持つ宇宙版AIのようなものがあったとすれば――地球発祥型人類にとっては人類の限界を超えた存在である「これ」が、もっとも<神>に近かったと言えたに違いない。だが、この宇宙版AIにさえ答えられない『?』(クエスチョン)について、精霊型人類たちは答えることの出来る霊的とさえ言える叡智があったのではあるまいか?
『入艦ID番号、358747158、ギべルネス・リジェッロさんですね?ガイドスピーカーは私で構いませんでしょうか?』
「ええと、ようするに可愛い女性の声であるとか、落ち着いた男性の声音であるとか、色々選べるということなんでしょうが……べつにあなたでも誰でも構いません」
『声だけのガイドで落ち着かなければ、可視モードにしてキャラクターがお話することも出来ますが、いかがでしょう?』
ナース姿の水色の髪の女性や、格闘家の筋骨逞しい男性や、小さな子供や老人や動物など……色々な姿が壁に現れてのち、すぐに消える。似たようなシステムについては本星エフェメラにもあったから、ギべルネスは「いや、そういうのはいいよ」と答えた。最初の頃こそ物珍しかったが、今ではすっかり飽きてしまったのだ。
『では、部屋のサイズについてはいかが致しますか?』
「ああ、部屋自体の広さは変わらないのに、立派な家具がある広い家に見せかけるとか、色々なパターンのあるやつだろう?そういうのもべつにいいよ。とにかくもう、普通がいい。たとえば、十八世紀くらいの地球の海賊船のキャビンとかさ、何かそういう感じで……」
『それでは、それっぽい二段ベッドでもご用意致しましょう』
(僕ひとりしかいないんだから、ベッドはひとつでいいんだよ)とギべルネスは言おうかとも思ったが、そんなことをコンピューター相手に言うのも今さら面倒だった。そこで、壁や床から組み立て式のベッドが出て来て、自動的に組み合わされるのを見、その布団の上にまずは腰かけた(言うまでもなく、こちらは見せかけではなく本物である)。ご丁寧に壁には丸窓まであって、そこからは遠く水平線が見え、三本マストの帆船が少しずつこちらへやって来るのが見える。
この、本星エフェメラへ帰るまでの旅は、ギべルネスにとって退屈なものだった。ユベールは知りあいや友人がいたり、あるいは所属が同じ情報諜報庁だからだろう。お互いの情報を交換したりなど、楽しくやっているようだったが――彼とは違い、艦内においても行動できるエリアが極めて狭いギべルネスは、ほとんど囚人として流刑星にでも移送中であるかのように、自分の部屋と食堂、それに体を動かすための体育館など……そのくらいしか往復できないのみならず、艦員たちのほぼ全員がよそよそしい態度であり、まったく友好的でなかったのだ。
そのことをユベールはしきりとすまながり、話相手として毎日訪問してくれたり、一緒に体育館でバスケットをしたりもしてくれたのだが、ギべルネスはやがてひとりで部屋にいるほうがよほど気楽だと感じるようになっていった。
ギべルネスは部屋でおもに読書して過ごすことが多かったかもしれない。あとは、もっぱら宇宙チャンネルを検索して、プラネット・テレビのどこかの局を流したり、あとは映画やドラマを見て時間を潰していた。そして、ある時ふと――極めて真面目でまともな神経を持つ、周囲からも「あいつはまったくタフな奴だぜ!!」と評されていた宇宙艦隊の乗組員のひとりが、ある任務で遠くの惑星へ旅する宇宙船内にて、その乗組員らの誰とも気が合わず、孤独を深めるうち頭がおかしくなっていく……という昔のドラマを偶然見てしまい、ギべルネスは笑い転げた。主人公の彼はなんと!乗組員の全員を些細な理由から順に殺していってしまうのである。ちなみに、タイトルのほうは『恐怖!!宇宙のシリアルキラー』という陳腐なものだった。
(だが、今回惑星シェイクスピアへやって来て僕が思うに……これに似たようなことは今もこの広い宇宙、地球発祥型人類が存在する銀河のどこかで起きていることなのかもしれないな……)
ギべルネスは今この瞬間まで、宇宙船カエサルで起きたあの出来事は、極めて特殊な出来事なのだとばかり思っていた。だが、たとえばアヴァン・ドゥ・アルダンのように、潜在的殺人者が一緒に宇宙船のような特殊な場所へ乗り込んだ場合、何かちょっとした精神的作用の積み重なりにより、頭がおかしくなる、判断力が正常でなくなっていくというのは、実際にはよくあることなのではないかとそんな気がしてならない。
(結局、人間はどこまでいっても人間なのだ……ここより遥か広い宙域をさらに征服し、仮に今かかる時間よりも遥かに速く惑星シェイクスピアより遠くの星々へ行けるようになっても、そこで何を発見しようとどうしようと……そこに待つものは、自分たちと同じ文明水準かそれ以上の存在がいても、あるのは戦争か破滅くらいのものだろう。だが、それでもさらに何かを求めて人間はより外の宇宙深遠部と呼ばれる場所を探索せずにはおられぬ本能を持っているのだろう)
地球発祥型人類を最初に<宇宙のゴキブリ>と呼んだのは、どの星系のなんという種族なのかは判然としない。だがこの時、ギべルネスはまったくその通りだと思った。地球から人類が実際に宇宙へ飛び出すそのずっと以前から、映画やドラマ、SF小説では、色々な種類の気味の悪いエイリアンの住む惑星や、あるいはそこから地球へ攻め込んできた彼らとの戦争などがよく描かれていたという。だが、地球人類がその後、気の遠くなるような長い時間をかけて宇宙を順に探査していった結果、わかったのは――彼らに侵略され、征服された惑星の住人たちにとっては、この地球人類こそが気味の悪い恐怖のエイリアン、怪物だったということである。
ギべルネスは宇宙図書ライブラリーを検索し、空中に本のページを出現させると、寝転がったまま、その日は『オデュッセイア』を読んで過ごした。それから、その巻末、訳者あとがきのところにあったコンスタンディノス・カヴァフィスの詩を読んだ。
>>イタカへ旅立つなら
祈れ、旅路が長くありますように、と。
冒険に満ちていますように、
新しいことにたくさん出会えますように、と。
ライストリュゴネス族や
一つ目のキュクロプス、海神ポセイドンの怒りを恐れるな。
志が高ければ、そんなものには出くわさない。
身も心も勇気にわきたっているならば。
ライストリュゴネス族も、
キュクロプスも、猛り狂ったポセイドンも出てこない。
出くわすとしたら、それはきみの心に棲んでいるから。
きみの心が、行く手にそいつらを呼び出すのだ。
祈れ、旅路が長くありますように、と。
初めての港に胸おどらせて着く
夏の朝に何度も恵まれますように、と。
フェニキアの市場に立ちよって
上等な品物を買い入れろ。
真珠母に、珊瑚、琥珀、黒檀、
それから、心地よい香料を
ありとあらゆる芳しき香料を
買えるだけ買うがいい。
エジプトの町のあちこちを訪れて、
知恵を持てる者からその知恵を学べ。
つねにイタカを忘れるな。
そこは最後の目的地。
だが急いで旅をするな。
旅は何年もかけたほうがよい。
この島に錨をおろすのは年老いてからのほうがよい。
旅の途中でさまざまなものを得て豊かになったのちに。
イタカが富をくれるとは思うな。
(カヴァフィス『イタカ』 浅岡政子さん訳)
――今度のことは、ギべルネスにとってとても長い旅だった。トロイ戦争が終わり、オデュッセウスは美しい妻ペネロペの待つイタケー島へ、長い冒険ののち、ようやく帰り着く。悲しいことだが、ギべルネスにはオデュッセウスのように、なかなか戻らない父親を心配して探してくれる息子もいなければ、待っていてくれる愛しい妻や恋人が存在するわけでもない。だが、それでも思った。今回の惑星シェイクスピアへの旅は、こうして無事帰れることになってみると、やはり素晴らしい人生の旅そのものだったと……。
それと同時、ギべルネスは宇宙船アントニーが惑星シェイクスピアを離れ、もう二度とそちらへは戻れないのだと、心に深く実感を覚えた時、一度涙が溢れてとまらなくなったことがある。自分でも、そんな気持ちになるとまでは流石に想像していなかった。ハムレット王子……いや、ハムレット王はその後、キャメロン州に遷都することを決めたようで、そのことには心底ほっとし、彼らはきっと今後新しい王朝を開き、平和な良い治世を長く敷いていくことだろうともわかっている。精霊型人類たちの約束の言葉があるゆえに……。
(だが、もしもう一度私が彼らに会いたい、その様子を遠くからでいいから一目見たいと望んでも……本星エフェメラに戻ってから、もう一度こちらへどんなに急いでやって来ようとしても――この特殊光速艦船アントニーにでも乗船出来ない限り、彼らはすでに死んで墓へ葬られていることだろう。つまりは、本当にもう二度とは会えないということなんだ……)
そのことを自分のキャビンに閉じこもっている時、ふとはっきり実感したことがあって、ギべルネスは胸の苦しみを覚え、切ない涙を流して泣いた。もう自分にはこの広い宇宙のどこにも故郷などないのかもしれない。そのくらいの孤独に、急に感傷的な思いとともに悩まされたのである。
今ならば彼にもわかる。本当はあのまま――精霊型人類たちの招きを受け、死後は彼らの仲間となり、地球発祥型人類が今後も手が届かぬ遥か彼方の宇宙の果てへ旅立つ選択をしたほうが、よほど賢い選択だっただろうということが。だが、それでいてギべルネスは不思議と後悔だけはしていなかった。
(まずは、せめても私にとって故郷と思える場所、惑星ロッシーニへと帰ろう。すべてのことは、それからだ……)
こうして、ギべルネスは本星エフェメラへと帰還した。宇宙船アントニーの乗組員たちも本星へ戻って来れたのは久方ぶりとのことで、その前日には盛大なパーティが開かれ、ギべルネスもその時には仲間に入れてもらえたため、非常に楽しい夜(といっても、艦船の舷窓から見えるのは夜のような闇しかないにせよ)を過ごした。
彼が艦船専用の宇宙船離発着場である宙港へ辿り着いた時、驚いたことには迎えが来ていた。ユベール曰く、「サプラ~イズ!!」ということだったのである。軍専用の宙港エスタリオスには、ギべルネスの妹で、恋人ではないほうのクローディア・リジェッロが宙港のラウンジで待っていたのだった。だが、あれからここエフェメラでは116年ほどが過ぎているというのに、彼の妹のローディは彼より十歳ほど年上であるようにしか見えなかったものである。
「兄さん!!ギべルネス兄さん……!!」
妹が滂沱と涙を流し、自分に抱きつくのを見、ギべルネスはなんだか夢でも見ているような心持ちだった。もしや自分は惑星シェイクスピアで死に、精霊型人類たちと一体となり、都合のいい夢でもその後見せてもらっているのではないかと一瞬錯覚してしまったほどだ。
「どうしたんだい、おまえ……そんなに泣いたりなんかして……」
ギべルネスは自分も同じように泣いていながら、そんな言い方をした。熱い想いが胸に溢れるあまり、うまくしゃべることさえ出来ない。
「うん……兄さんのいない百年くらいの間に、色々あったのよ。わたし、兄さんが帰ってくるまであと百年以上もあると思ったら、生命維持装置に入って待とうかなって思ったほどだったけど、ほんとに嬉しい……こんなに早く帰って来れることになって……」
「それでも百年だよ。長かっただろ?……」
言いながら、ギべルネスは実質的な時間としてはコールドスリープ装置に入っていたから、自分はそんなに長い時を科学的計測としては過ごしていないはずなのに――やはり、同じようにあれから百年も経ったくらいの経験を自分はしたのだとしか思えなかったものである。
「ああ、兄さん。話したいことがたくさんあるわ。ありすぎてもう、何からしゃべっていいかもわからないくらい……」
ギべルネスはユベールに礼を言い、ハグして別れると、妹の所有するエア・カーへ乗り込み、クローディアの自宅まで戻るまでの間、その後部席で積もる話を順にした。背面にあるテレビが垂れ流す情報のことなど、ほとんど目にも耳にも入ってこない。
「今の軍の宙港のほうじゃないけど……おまえや母さんやみんなに見送ってもらった時のことが、つい何年か前のことみたいに思い浮かぶよ。もちろんわかってる。ローディ、おまえにとってはそうじゃないっていうことは……」
「そうね。兄さんなんてむしろ、あの時より若返ったようにさえ見えるもの。わたし、兄さんが惑星シェイクスピアっていうところに旅立つ前にクリストフと結婚したでしょ?それで、今ええっと、彼との間に子供がふたりいるの。姉のほうはロクシミーア、弟にはギべルネス、兄さんの名前をもらったの。ロクシーはね、隣の惑星ローゼリアってところで今は暮らしてるの。舞台芸術関係の仕事をしてて、その関係で知り合ったダンサーのパートナーがいるわ。ギべルネスのほうは今はお医者さんになって、宇宙船の船医としてあちこち旅して暮らしてるの。ボヘミアンなんていう言い方、今じゃ古いかも知れないけど、性格的にも医者っていう以外では兄さんとは共通点がないかもしれないわね」
「それは何よりだ。僕みたいな性格が真面目なだけの退屈なつまらない奴、今の時代にはまったく嵌まらないだろうからね。若い世代の人間は、もっと自由に生きるべきだよ」
ギべルネスは自分が前以上に若く見えたとすれば、宇宙船アントニーで細胞を若返らせ、DNAを修復する装置に入ったからだろうと思っていたが、その説明はしなかった。だが、クローディアがギべルネスより十歳ほどしか年上でないように見えるのは、彼女がその後進行性の難病となり、病気によって肉体を新しくする必要性があったからだという。
「それが、わたしが七十歳くらいになって起きたことだったのよ。それで、夫のクリストフもその時肉体を新しくするっていうことになって……びっくりしないでね、兄さん。私は兄さんともう一度会える可能性のことも考慮して……ううん、それだけじゃないわね。やっぱりわたし、ミドルクラスの惑星出身者だから、感覚が古いんだわ。とにかくクリストフのほうでは、前とは全然違う肉体にオーダーメイドで生まれ変わるってことにしたのよ。だから姿はまったく前と別人だけど、中身はあんまり変わってないわ。それで、母さんのことなんだけど……」
「うん。そうだな……母さんはその後……?」
わかっていながら、ギべルネスはやはり聞くのが怖かった。また、直接死体を見て葬式を出したというのでない以上、彼にとって自分の母という人は、この宇宙のどこかで今も生きているのではないかとしか、やはり思えなかったのである。
「ええとね、わたしは本星永住権を持ってるクリストフと結婚したから、同じ権利があるのよ。でも、母さんは他星からやって来た難民ってことになってるから、生命再生権も保証されなくて……兄さん、おかしな言い方だけど、でも母さんは喜びながら死んでいったのよ。亡くなった理由のほうは老衰で、それでも百十八歳まで健康元気で長生きしたの。母星のロッシーニのほうにあのままいたら、経験できずに終わったこともたくさん体験したし、孫の顔も見ることが出来たから『人間らしい、一番素晴らしい死に方だわ。自然死だなんてね』って、よく言ってたくらいなの。ただ、兄さんのことだけずっと心残りだったみたい。ほら、兄さんがそんな遠くの惑星へ調査員として仕事しに行ったからこそ、毎月分割でたくさんのお金の支払いもあって、いい暮らしが出来たってことだもの。そのこと、わたしも心から感謝してるわ」
「いや、そんなことはどうでもいいんだよ。それより、僕が心配してたのは金のことなんかじゃないんだ。金があってもなくても、おまえや母さんが幸せに暮らしているかどうか、そのことだけがいつでも気がかかりだった」
兄さん、とつぶやいて、クローディアはぐいと身を前に乗り出すと、愛する兄の手を握りしめた。エアカーのほうは言うまでもなく、自動運転装置のほうが行なっているわけである。
「それでね、母さんが心残りだったことがもうひとつあるの。兄さんがもう一度クローディアと会って、その再会を喜びあうところを見れなくて残念だって、そのことだけ、唯一深く悲しんでいたわ」
「ああ。おまえじゃないほうのローディな」と、ギべルネスはくすりと笑った。母は百十八歳まで健康元気だったということだが、もしかしたら少し、ぼけはじめていたのかもしれない。「おまえに言われなくても、僕たちの幼なじみのクローディア・リメスはもうとっくの昔に死んでるだろうってことはわかってるよ。結婚相手は同じミドルクラス出身の男だったはずだから、おまえのように新しい肉体に生まれ変わってだの、そんな医療システム自体ないはずだから、すでに墓の中の人だってことはわかってるつもりだよ」
だから、どんなショックなことでも遠慮なく言ってくれ、というような顔をギべルネスがしていると、クローディアは再びみるみる瞳の縁に涙を溜めはじめたのだった。
「兄さん、驚かないでね……彼女、結婚しなかったのよ」
「なんだって!?」
ギべルネスは驚くあまり、言葉もなかった。自分が今までクローディア・リメスが幸せであるようにと、色々なシチュエーションを想定してきたあの妄想の数々は一体なんだったのだろう?――そう思い、暫し茫然としてしまう。
「だが、死んでることに変わりはないはずだ」これ以上ショックを受けぬようにと、ギべルネスは最悪な地点から話をはじめようとやっきになった。「難民として彷徨うことになって金に困り、ローディの両親が娘を意に染まぬ男と結婚させようとしたからって……あの時、僕には他にどうしようもなかったんだ。だって、その金というやつが十分なかったんだからね。何より、その手のことに関して誰より強情な娘が、両親の説得に応じて我を折ったんだぞ。それがどれほど苦しい決断だったか……誰よりわかっているのはこの僕なんだ。ローディの父親は不動産業を営んでいたとはいえ、戦争になった途端、預金を一切引き出せなくなってパニックになったんだよ。お母さんは保険の外交員だったけど、戦争で失ったものまで補償してくれるような保険はない。突然それまであった豊かな生活が失われて、愕然としたんだ。それで、僕たちと別々の難民船に別れて乗ることになったあと……そこでローディのことを見染めた金持ち男がいたってわけさ。もちろん僕たちはもう一度会う約束をしていたし、別の難民船に乗ることになったのも、政府のほうの振り分けで仕方なくだった。もしあの時あの瞬間に戦争になるとわかってたら……きっともっと早くに結婚してたろう。だけど、それは僕のほうの責任だ。十分医師として習熟した技術を身に着けてからって思ってたら、すっかり遅くなってずるずる婚約期間が長引いて……」
「兄さん、わかってるわ。ねえ、聞いて。わたしじゃないほうのローディは、今も生きてるのよ」
ギべルネスはさらに混乱した。「はあ!?」と、間の抜けた言葉さえ洩らしてしまう。
「いや、生きてるにしたって、しわくちゃのばあさんだ。いや、もちろんそれだっていい。ローディがローディでさえあるのなら……」
「違うのよ。兄さん……」と、クローディアは瞳の涙をぬぐって言った。「彼女、あのあと……兄さんが惑星シェイクスピアに旅立ってから、ほんの間もなくあとのことよ。本星エフェメラまで、わたしたちの消息を追ってやって来たの。クローディアはジャーナリストのIDを使ってここまで来たのよ!例の結婚話のほうはね、あのあと一時的にパニックになってたお父さんが、大学時代の友人が政府の役人になってたから、そのツテを頼って凍結された口座がどうなったかとか色々調べてもらって、全額は引き出せなくても、生活のほうはどうにかなりそうだってことがわかったみたい。ふたりとも正気に戻ると、金なんかのためにあんな中年のハゲに娘を売ろうとしてただなんてって、例の結婚話は流れることになったのよ!!」
「そ、それで、今ローディは……」
ギべルネスはまた別の最悪のシナリオを想定しはじめた。ジャーナリストとなった彼女は、作家や何かと知りあって結婚し、今はとっくの昔に曾孫までいる――といったような、時間的辻褄の合わない話がいくつか、彼の脳裏を急ぎ足でよぎっていく。
「何分、ほんの少し前に兄さんがそんな辺境惑星へ旅立ったばかりだと聞いて、彼女もわたしも母さんも、互いに抱き合って号泣したわ。もうほんのちょっとローディの来るのが早かったら、兄さんはそんな選択絶対しなかったのにって、そう言ってね……だけど彼女、別の運を持ってたのね。ローディがジャーナリストとしてエフェメラに来たのは、ロッシーニとワーグナーの戦争避難民のその後についての記事を書いてたからなのよ。だけどジャーナリストのIDじゃ、滞在できる期間はほんの短期間だけだもの。ローディはね、一度は泣きながら帰ったんだけど、彼女がロッシーニとワーグナーの戦争に関して書いた記事をまとめたものが一冊の本になって、ノンフィクション部門の惑星賞を取ったの。それで、その後も作家として少しずつ本を出していって、作家として有名になったわけ。兄さん、わたしの言ってることの意味、わかる?」
「あ、ああ……その昔、君にはものを書く才能はないと思う、みたいなことを言って悪かったなと思うよ。もし次に会ったらあやまらなきゃ……」
「兄さん……ローディはね、その後も結婚もしないで、ただ兄さんのためだけに生きたのよ。今、エフェメラじゃないけど、他のハイクラス惑星のリジェイラってところで、兄さんと昔別れた頃の年齢のまま、生命維持装置の中で眠ってるわ。彼女、戦争遺児に関する基金とか、そういうところにも随分寄付してたはずだけど、生活自体はいつも質素で、とにかくそのためのお金を貯めに貯めたのよ。わたしはね、その相談を受けたの。兄さんが帰ってきた時、どんなふうにしてそのことを知らせたらいいと思うかって……」
「そうか。悪かったね、よく考えたら僕が帰って来るのなんて、本来なら今からもう百五十年ばかりもあとだったんだから……それもそうだって話だ……」
ギべルネスは頭がくらくらしてきた。しかもなおこの上、彼は例のネガティヴな思考癖によって最悪の事態を想定していた。たとえば、今度こそ本当に会えると思っていたのに、何かの不具合によってクローディア・リメスの生命再生液に浸かった肉体は甦ることはなく終わった――といったようなことだ。
「ああ、兄さん!きっとこれも運命だわ!!」と、クローディアは感無量といったように、もう一度愛する兄の手をぎゅっと握りしめた。「もちろんわかってるわ――そんなこと言ったら、わたしたちの母星が戦争になったのも運命だってことになってしまいますものね。わたしも、そんなことは断固として運命だなどとは思わないわ。だけど、運命っていうのはやっぱりあくまで自分次第っていうことなのよ。だって、ローディは諦めなかったの。今はほら……政府に信頼できる遺言執行課があるでしょ?ローディは最初に、兄さんが会いに来なかったら生命維持装置のほうは外して欲しいって、そう遺言のほうを作成したみたい」
「どうしよう、ローディ。こんなことって……」
幸せすぎて頭がどうにかなりそうだ――とか、完全な幸せの予感を前に、体が総毛立って震える……などという経験は、ギべルネスはこれが生まれて初めてのことだった。
その後、ギべルネスは妹のクローディアと彼女の夫クリストフ・ランドルファーの住むマンションの一室に居候させてもらいながら、毎日そわそわして過ごした。すぐにも愛する恋人のいる惑星へ旅立ちたいのは山々だが、惑星シェイクスピア帰還後、しなければならないお役所での事務手続きなど、本星エフェメラでの永住権を得るためにはやるべきことがたくさんあった。また、宇宙船カエサルにおいて惑星学者が四名も不審な死を遂げていることから、ギべルネスは情報諜報庁へ一度召喚され、色々なことを調べられた。ユベールは「大体のところ俺の話と提出した書類のほうで問題ないし、上司も納得してんだ。だからこれはあくまで形式的なことだと思ってくれ」と言っていたが、ギべルネスにはどうもそうは思えなかった。ほとんど、彼自身がなんらかの形で殺害に関与していないか、あるいはなんらかの形で殺人者に協力したのではないかと、尋問されているにも等しい質問を約二時間半に渡って受けたからだ。
あのあと、ロルカ・クォネスカは本星の医療施設にて、無事植物状態の意識を治療され甦ることが出来ていたが、彼は過去の記憶を一切失っていたという。だが、ロルカの記憶領域にニディアに殺されかかった場面が確かに残っており、そこにアクセス出来たことで、ユベールの報告書は真実性を増したようである。結局ロルカは、自分が移住した惑星のことも、そこを出てバウンティハンターになったことも、その動機についても……何もかも忘れていた。たとえば、母星であるネメシスの名前を聞けば「なんだかどこかで聞いたことがあるよう気がする。不思議に懐かしい名だ」という懐かしさについては覚えていても、それ以上のことは何も思い出せないのだ。それと同様に、マルタン・マルジェロの名を聞くと反射的に怒りを燃やす割に、それが何故なのかまでは理解できないといったふうだという。
結局ロルカは政府の保護下に置かれ、終生住居や生活費などには困らぬかわり、生命再生権はない、一度きりの残りの人生を生きることになった。ギべルネスはマルジェロというテロ組織に対する深い憎しみを彼が忘れることが出来て良かったのではないかと思う反面――憎しみを忘れるために、他の多くの大切な記憶まで失われてしまうのは悲しいことだと思い、なんとも複雑な感情を味わったものである。
辺境惑星シェイクスピアから帰還後、すぐに他の惑星へ出かけたのでは不審に思われるだろうかと、ギべルネスはユベールに相談したのだが「いや、もうあの一件は片付いたよ。だから、好きにどこへでも行って大丈夫だ」ということであった。彼はこれから情報諜報庁の指示で、再びまた惑星シェイクスピアほどではないにせよ、遠い星のどこかへ――派遣されていく予定だという。「よくあんなことがあって散々苦労したのみならず、命の危険すらあったのに、また似たようなケースでどこかへ行こうという気になれるね」とギべルネスは聞いたが、「喉元過ぎればなんとやらってな」と、ユベールはまったく悪びれない態度だったものである。「これも、情報諜報庁調査員のサガってやつさ」……そう言って彼は笑っていた。
こうしていよいよ、ギべルネスが恋人クローディア・リメスの眠る惑星リジェイラへと、妹のローディとともに旅立つ日がやって来た。クローディアは、彼女と同じようにAIによってコンピューター管理された、白い棺桶が何百と並ぶ部屋の一室で眠っていた。立ち会ったのが人間そっくりとはいえアンドロイドだったことで、ギべルネスはその最新鋭の科学的墓地のような場所で、何やら薄ら寒いものすら感じたものである。
しかも、装置の解除のほうも極あっさりしたものだった。クローディアは隣接する医療施設のほうへ移されると、いくつかの事務手続きののち(この場合、身元引受人のいることが一番重要なことであったらしい)、いくつかの段階を経て、その一か月後に無事甦ることが出来たのだから……。
いきなり食事をすることも出来なければ(最初は流動食だった)、うまく言葉をしゃべることも出来ず、落ちた筋力を甦らせるのにリハビリも必要だった。しかも、彼も妹のローディもその間面会を禁じられていた。蘇生後、すぐに激しい感情を覚えるのは脳に危険が及ぶ可能性があるというのがその理由だった。それでも、ワンサイドミラーとなっている部屋からクローディアがリハビリする様子を見て、ギべルネスも彼の妹も涙を流して彼女の復活を喜んだ。
ギべルネスは、毎日時の流れるのが遅く感じられて堪らなかった。けれど、愛する恋人が、リハビリ専門のアンドロイドに対して笑いかけたり何かをしゃべったりする姿を見ているだけでも幸せだった。それと同時に、ギべルネスはこの世界のすべてを祝福した。いや、全宇宙をも祝福した。クローディア・リメスが生きて存在する世界!!そこに自分が生きて共にいられる奇跡に、心の奥底から感謝したのだ。
とうとう医者(彼も医療用アンドロイドだった)の許可が下り、クローディアと再会することが叶った瞬間のことを――ギべルネスは今後も生涯決して忘れることはないだろう。クローディアは涙で顔をぐしゃぐしゃにしており、それはギべルネスにしても一緒だった。そして言葉もないままに抱きあい、暫くの間、ただお互いの存在が現実かどうかと確かめあうように見つめあったままでいた。
「君に文才がないなんて言ってごめんよ……」
何を言っていいかもわからず、ギべルネスは最初に頭に浮かんだ言葉をただそう口にした。
「あら、そんなことはもうどうだっていいのよ」と、リハビリ用のベッドの上で、クローディアはギべルネスの肩に頭をもたせかけたまま言った。「実際、あなたの言ったことは当たってたわ。わたしがジャーナリストなんていうものになれたのも、ロッシーニで戦争なんていうものが起きたそのせいよ。だけど、作家にもなれず、夫からは『まだそんな駄文を綴ってるのかい』とでも言われて、三日も口を聞かない……とか、そんな生活のほうがよほど幸せだったでしょうね」
「愛してるよ」と、ギべルネスはなんの前触れもなく突然そう言った。これは、まったく昔の彼らしからぬことだった。
「どうしたの?もしかしてわたしが長く眠ってる間、浮気でもした?……」
「いや、なかったよ」と、ギべルネスは笑った。「でも、まったくチャンスがなかったというわけじゃない。ただ……どうしてだろう。そんなことをすればおまえと本当に細い一本の糸で繋がれている運命の糸が、その瞬間ぷつりと切れてしまうような、そんな気のするのが怖かったんだ」
「わたしも……浮気する機会がなかったってわけじゃないのよ?だけど、わたしも一生あなただけだったの。そんなふうにふらっと一度でも流されたら、二度とあなたに会うことが出来ないんじゃないかって、そんなことが怖かったの」
ギべルネスとクローディアはキスを交わすと、もう一度泣きながらしっかりと抱きあった。「愛してる、愛してる、愛してる……!!」、「わたしも、わたしも、わたしも……!!」――愛しあう恋人たちは、この日以降、片時も離れることなく過ごした。それはもしかしたら、不安神経症の一種ですらあったかもしれない。相手の姿が視界から見えなくなるとすぐに落ち着かなくなり、互いの存在を確かめあわずにはいられなかったのだ。
その後、ギべルネスとクローディアは母星ロッシーニへ帰ると、かつてふたりが暮らしていた頃の面影のない故郷へ戻り、そこで暮らした。クローディアは、ギべルネスのいないその後の人生の中で何が起きたかを長い時間かけて語り、ギべルネスも惑星シェイクスピアで遭難して苦労したことなどを、彼女に語って聞かせたものだった。
彼らはその後もふと、ただふたりでいられるだけで幸せだという幸福の発作に襲われることがあるたび、「なんだか夢みたいだ」とか、「幸せすぎて怖いくらい」といった言葉を口にしては笑いあった。その上ギべルネスが驚いたことには、クローディアは料理が上手くなっていた。彼女は彼が思うにいわゆる天然の<料理オンチ>というやつで、ここまで下手だと上達するのは完全に不可能だとして、きっぱり諦められるほどだったのである。
「ローディ、おまえさ、あの時もしかしてまったく別の人間に入れ替わってたんじゃないのか?」
彼女の作った美味しい料理を食べるたび、ギべルネスはそう冗談を言わずにはいられなかった。
「イーッだ!!わたしだってあれから、色々あって進歩したのよ。ほら、あの生命維持装置に入るのにも、目玉が飛び出るような馬鹿高いお金がかかったんだからっ。費用を捻出するのに節約するには、手作りの食事が一番だったわけ。まあ言うなれば、わたしの料理の腕前が上達したのは節約料理の賜物ってことね」
「ほら、前にも話しただろ?惑星シェイクスピアで、肉のくさみを消すのににんにくやショウガや香草がいかに役立つかって話。僕はね、そういう料理を口にするたび、おまえの作ったまずい料理のことをよく思い出したものだったよ。まあ、あれよりは食えるなと思って、大抵のものは胃が受けつける限り食べたものさ。舌のほうは時々拒絶することがあったけどね」
「ひっどーいっ!!」と、クローディアは、いつでも怒った振りをして言う。「でも、そんな形でもわたしの激まず料理が役立ったと聞いて嬉しいわ。今ね、あなたの話してくれたことを文章にしてまとめてるところなのよ。だからあとでチェックしてね」
「うん、いいよ。わかった」
ギべルネスはローディの作ってくれた牛フィレ肉の香草添えを食べつつ、妻とワインを飲んだ。ギべルネスは以前はそれほど酒を嗜むほうではなかったのに、よくワインを飲むようになった。そうすると何故だか、惑星シェイクスピアにおける記憶がもう一度鮮明に甦るような錯覚を覚えることがよくあるからだ。
砂漠で眠って目覚めると、沈黙の音がするような気のすることがよくあったこと、ルパルカの毛に身を寄せた時にした匂いのこと、井戸を見つけ、水があると思って喜んでいたら塩辛くて飲めなかったこと……またその時ギべルネスは非常に喉が渇いていたから、水一杯のために殺人が起きる理由を身を持って理解したものだった。砂漠を隣人として育ってきたハムレットたちにしてみれば、そうした事柄については経験済みであったにせよ、自分などより彼らのほうが遥かに忍耐強く、見習うべき点がたくさんあったこと……ひとつずつ思い出していけば、まったく切りがない。
ギべルネスは今も惑星シェイクスピアであったことを思い出すのに、当地で食べたものをこちらの食材を使って作ってみることがある。すると、何故だか記憶が鮮明に甦り、時間が経つごとに「あれは本当にあったことなのだろうか?夢だったのではないか?」とふと感じた時にも、その味を味わいながら「いや、あれは確かにあったことなのだ」と、はっきり思い出すことが出来る。
そしてギべルネスは夜空を見上げるごと、考える。ハムレット王子たちはもうすでに死んでいるかもしれなくとも、彼にとっては今も遠いどこか、宇宙の片隅のような場所で生きているようにしか感じられないのだ。幸い、クローディアが夫から事細かく話を聞いてくれ、彼とそのなんとも言えないやるせない思いを分かち合ってくれたものである。
そのせいか、ギべルネスがどこか遠い目をして考えごとに耽っていると、クローディアはいつでも彼の手を握って言った。「きっと、彼らは今も生きてるわ。ほら、精霊型人類たちにとってはたぶん空間も時間もあまり意味なんてないんじゃないかしら。それと同じで、わたしたちの生命の終わりも星の一生の終わりみたいなものなのよ。もう一度星屑に戻って、みんなひとつになって一緒になる……そんな形で、もう一度出会える瞬間がきっとあるわ」と。
そうであったらいいと、ギべルネスは妻の肩に寄りかかりながら願う。精霊型人類たちがその数も十分となり、再び宇宙の遥か遠く、彼らが「神かも知れない」と感じた存在と出会い、その優しくあたたかい波動とひとつになり、ここへ至るためにこそ自分たちは存在し続けてきたのだと――いつかの遠い未来、時間も空間すらも意味をなさぬ永遠のような場所で、そのことが叶っていて欲しいと祈らずにはいられない。惑星シェイクスピアのことを思いだすたび彼が感じる、たぎるほどの熱い想いとともに……。
終わり