こじらせ女子ですが、何か?

心臓外科医との婚約を解消して以後、恋愛に臆病になっていた理穂。そんな彼女の前に今度は耳鼻科医の先生が現れて!?

ピアノと薔薇の日々。-【13】-

2021年04月23日 | ピアノと薔薇の日々。

 

 さて、連載第13回目……ということで、今回は引用されてる本とかあるので、書こうと思えば結構書けることあるような気がするものの――まあ、そのあたりはスルーして、空前の(?)世界的シティ・ポップブームということで、松原みきさんの「真夜中のドア~Stay with me~」を貼って終わりにしようかな~なんて

 

 

 

 

 

 

 

 いえ、マキが聞いてるのは他の失恋の曲とかでもよくはあったんですけど……近ごろラジオでよく聴くもので、なんとなく(^^;)

 

 それではまた~!!

 

P.S.今回の【13】と次回の【14】とで元はひとつの章なんですけど、例によって「gooblogは30000文字以上……以下略☆」っていうことでよろしくですm(_ _)m

 

 

      ピアノと薔薇の日々。-【13】-

 

 フランスから帰国後、マキは君貴とつきあう以前の暮らしに、なんの苦もなく順応していった。むしろ、仕事があることがありがたいとすら思っていた。月曜から土曜まで、八時四十五分から五時三十分まで――大抵は六時くらいまで――働くという、単調な毎日。

 

 そんな中、その後マキは土曜の夜だけ、ジム通いするようになった。というのも、マキは自分の失恋話を最初はミナだけにしたのだが、彼女の呼びかけによりユキとムツキもジムへ集うということになっていたからである。

 

「でもさー、なんでマキ、そんな大切な話、わたしたちにしてくれなかったの!?」

 

「そうだよ!そんな素敵な人と半年も前からつきあってたっていうんなら、もっと早くに教えてほしかったな」

 

 ムツキとユキはヨガ教室で汗を流したあと、ジムの入っているビルの一階で、それぞれフレーバーの違うスムージーを注文していた。ミナとマキを含めた四人は、ジムへ集まったあと、それぞれ好きなコースで体を鍛え、そのあとこの一階のオーガニック・カフェのほうへやって来るのだった。

 

「だから、なんていうかほら……恥かしいなと思って。向こうは月に一回くらいしか日本に来ないし、わたしにはよくわからない事情で、それが二か月に一回になり、三か月に一回になり――気がついたら自然消滅的に終わっちゃうんじゃないかとは、最初から思ってたの。それなのに鼻息荒くして、『とうとうわたしにも初カレが出来たのよ!うふっ』なんて、別れた時のことを思うと言いだしにくかったっていうか」

 

「あー、でもわたしは、思ってたよ?」

 

 ミナは黒糖しょうが蜂蜜青汁を飲みながら言った。

 

「マキは絶対、もし誰かに恋をするとしたら、きっとびっくりするくらいすっごい人と恋愛して結婚するんだろうなって思ってたもん」

 

「わかる、わかるー!」

 

 ユキとムツキがほとんど同時に同意した。そして、今度はムツキが言う。

 

「だよねー。実際マキと結婚できる男、サイコーじゃん。料理できるし、やさしーし、話してて面白いし……最終的に実はゲイでしたって言っても、ちゃんとそういう関係だったわけだし。あ、でもその人、ゲイじゃなくて結果的にバイってことだったんじゃないの?」

 

「どうなのかな。今となってはよくわからないし、どーでもいいっていうか……」

 

 マキはしんみりしつつ、マルチビタミンプロテインスムージーをごくごく飲む。ミナとユキとムツキは、失恋したマキを慰めるために集まっているため、この時もなんとかして場を盛り上げようとした。実際、マキにしてみれば、高校時代のように四人で集まれているというだけで、十分嬉しいことではあったのだが。

 

「あっ、そうそう!ムツキ、もうあんたあの話、しちゃったほうがいいんじゃない?」

 

「ええっ!?この裏切り者の薄情もんっ!ぎりぎりまで黙っときたいって、わたし、きのうもあんたに言ったばっかしじゃんっ」

 

 高校時代、四人はいつもグループとして固まっていたが、それでもユキはムツキと、マキはミナと親しいといったような、少しばかりの差があったのだった。

 

「なによう、そこまで言ったんならもう言っちゃいなさいよ。マキは大体、自分の失恋のあらましについては、わたしたちに話してくれたんだし……わたしだって、結婚して子供がいるからって、幸せばっかってわけでもないんだからね。子育てって思った以上に大変だし、わたしもムツキたちみたいに、一度は社会に出て、働いたり、もっとひとりの時間を楽しみたかったって思うもん」

 

「んー……それがさあ。わたし、実はミナに一番言いにくいのよ」

 

 ムツキは、もごもご口ごもったが、マキが失恋のあらましを語る間、ずっと泣いていたことを思うと――思いきって告白してしまうことにした。

 

「ほら、ミナが最初につきあってた人……弘文さんとわたし、今つきあってるのっ!!」

 

 告白と同時に、ムツキは顔を真っ赤にした。ミナとしては、あまりに不意を突かれたためか――一瞬ぽかーんとしたような顔をした次の瞬間、爆笑していた。

 

「ええっ!?じゃあつまり、こういうこと?わたしはてっきり、こう思ってたんだよ。わたしだけ先に結婚しちゃったから、三人の輪から外されたのかなって……まあ、マキは違うけど、ムツキとユキはなんか急によそよそしくなって、わたしに電話もしてこなくなったじゃん」

 

「んー……ま、結婚しちゃったミナとはもうあんまし話合わないかな、みたいのはあったよ。わたしとユキの間では多少ね。で、マキにもよっぽどこのことは言おうかなと思ってた。けど、マキに言ったらさ、ミナに言うべきかどうかってことで悩むと思ったの。でも、今もう言っちゃったんだから、これで許してよ。わたしは結婚して幸せいっぱいのミナに嫉妬してました!それで、ミナのお下がりの男性と今つきあってまーすっていう、そんなとこ」

 

 ユキも、ピザを摘みながら、げらげら笑いだした。ちなみに、小麦粉ではなく、米粉を使ったピザである。

 

「ほら、ミナ昔言ってたじゃん!弘文さんが、デートのたびに体だけ求めてくる性欲モンキーみたいに。だから、その性欲モンキーと今自分がつきあってるだなんて、ムツキは言いづらかったんだって」

 

「そんなの……ずっと昔の話じゃないの。それに、実際のとこ、あいつはいい奴よ。ただ、お互い初めて同士だったから――そういう部分でうまくいかなかったってだけ。わたし、そのことで今複雑な気持ちになったりも全然しないし……あっ、そうそう!前にスーパーで会ったことあるんだった。結婚したあとだけど」

 

「聞いたよ、わたしもその話」

 

 ムツキは溜息を着いて言った。

 

「弘文さん、ミナと結婚することも考えてたんだって。で、わたしとつきあう前に、もうひとり女性が挟まってて――なんか、綺麗な人だけど、お金かかるみたいな感じの人だったとかって。それで、ちょっと無理していい車とか買っちゃったから、わたしとは車のローンを支払い終わらない限り、結婚とか考えられないって。これ、一体どう思う!?」

 

「あ~、優柔不断なあいつらしいわ……」

 

 ミナは、呆れたように笑った。

 

「あれからもう何年も経つし、弘文が、わたしとつきあってた頃と同じとは思わないよ。けど、もしムツキのほうであいつとの結婚を望んでるんだとしたら――かなり強く押していったほうがいいかもね。同じような男性はいっぱいいると思うけど、あいつも『責任とる』とか、そういうことになると及び腰になるタイプだから……たとえば、わたしがつきあってた頃に『妊娠したかもしれない』なんて言ったとしたら、マジでビビりまくってたんじゃないかと思う。そういう意味でもね、『車のローン終わるの、具体的にいつ?』とか、『ローン終わったら結婚する予定って考えていいのよね、わたしたち?』みたいに、そんなにあからさまじゃなくても、匂わせといたほうが絶対いいわ」

 

「そうなのよっ!あの人、前につきあってたその綺麗な人とやらとは、なんで別れたのって聞いたら――向こうの女性が、妊娠してもいないのに妊娠したって匂わせてきたからなんだって。『ようするに、俺に結婚する気があるかどうか、試そうとしたんだろうな。女ってなんでそういうことするんだろう。そのあと一気に気持ちが冷めて、別れることになった』って。ほんっとわたし、その前カノの気持ち、めっちゃわかるの!わたしもたまに思うもんね。『この人、ほんとにわたしと将来結婚することとか、考えてんのかな』って。あの人、車だけじゃなくて……結局オタクだから、色んな漫画とかアニメのフィギュアを毎月いっぱい買っててさあ。色んなこと知ってる頭いい人なんだけど、ある部分幼稚っていうか」

 

 ここで、ミナとユキとマキは三人ともどっと笑った。というのも、ミナがどういう男性とつきあっているのか知りたくて、女四人の集まりに、加納弘文だけ呼んだことがあったのだ。ゆえに、性格や容姿の雰囲気などについては、全員が知っていたのだった。

 

「先に釘さされちゃったね、ムツキ」と、ミナ。「それが別れた原因だなんて言われたら、『わたしだってこれから妊娠するかもしんないじゃんっ!そういうこと、ほんとにちゃんと考えてくれてる?』なんて、聞きづらいもんね」

 

「そうそ」と、フルーツミックス・スムージーを飲みながらムツキ。「堕ろすとか、絶対やだもんわたし。もしそうなったら、責任とってもらって、絶対結婚してもらいたい。とはいえ、あの人、結婚したあともそのことで色々ぶつぶつ言いそうではあるんだよね。ムツキじゃなくても、俺には他の女と結婚する道もないことはなかったのに、でも赤ん坊ができたから仕方なく……そういうことをなんか盾に取って、だから自分は浮気しても仕方ないとか、そういうふうに自分の行動を正当化しそうっていうか」

 

「でも、ムツキには別れるっていう選択肢はないんでしょ?」

 

 マキはそう聞いた。マキにとって君貴が初めての相手だったように、ムツキにとっても加納弘文が初めて交際した男性である。ゆえに、気持ちがよくわかった。相手の欠点や、どうしようもないところが見えてきたとしても――ケイ・ウンスクの『夢おんな』状態で、「それを愛だと信じて」いる以上、容易に別れる決断をするのは難しい。

 

「んー、わたしもマキと一緒だよ」と、ムツキは少し寂しそうに笑った。「わたしの場合は、自分のほうからつきあって欲しいみたいに言ったからっていうのもあるけど……ようするに、わたしのほうがあの人のこと好きっていう意味でね。簡単に言っちゃえば、一度やっちゃったらもう、『結婚してよね、もう!』っていうモードに入っちゃってるわけ。ちょっと怖い女かもしれないけどさあ、わたしのほうでコツコツお金も貯めてるし、将来的にそうなれたらいいなとは思うわけ」

 

「結婚式には呼んでよね。わたしと弘文の間にはもうなんのわだかまりもないんだから、わたしだけ仲間外れだなんて、絶対やだよ」

 

「わかってるって!あ、でも、あの人車のローン五年くらいあるらしいから、その間、どうなるのかなとはわたしも思ってたりね。同棲するとか、そういう方向に話持ってったほうがいいのかなってたまに思ったりもするんだけど……どう思う?会社の先輩に聞いたら、同棲はやめたほうがいいって言うんだよね。特にその男が優柔不断だったりしたら、ただずるずるべったりな関係が続いて、不満ばっかり溜まってくだけだよって」

 

「そりゃ、難しい微妙なとこかもね」

 

 ミナがそう言って、もうひとつピザをぺろりと食べると、ユキがそんなミナと隣のムツキを見比べて笑う。

 

「あ~あ。なんにしても良かったあ。これでもう、大体のとこみんな元通りだよね!だけど、みんなそれぞれ恋愛的事件があるのに、わたしだけほんとになんにもないや」

 

「ユキのところの新聞社、うちみたいな小さな花屋と違って、大会社じゃない。誰かいい人とかいないの?」

 

 マキがそう聞くと、ユキは「うんにゃ」と言って、首を振った。

 

「新聞社に勤めてるなんて言ったら、親戚とかもそうだったんだけど、「記者さんですか?」ってよく聞かれるのよね。でも実際はただのしがない経理事務員だもん。しかも、まわりはいい年した中年のおっさんばっか。で、その中で「ちょっといいな」って思う人は、大抵結婚してるしねえ。まあ、営業には若くて結婚してなくて、格好いいなって思う人はいるかな。でもわたし、営業の人っていうか、体育会系でハキハキしてて、口が巧い感じの人とか、絶対ダメなんだあ。それよりも、不器用で、自分の言いたいことを半分も表現できない、内気な人がタイプなの」

 

「ありゃ。そりゃあアレよ、ユキぽん。あんたは絶対注意したほうがいいわ。たとえば、物凄い何か芸術的なことで才能あるんだけど、芽がでなくて……っていう、ドリーム追ってる男には特に注意が必要よ。『彼のこと、わかってあげられるのはわたしだけ』なんてって、生活費の面倒まで見てあげちゃいそうだもん」

 

「わはは。結構当たってる、それ。ま、いーんだけどね。ひとり時間が充実してて楽しいし、職場に誰か嫌な人がいて意地悪されてるってこともないし……毎日忙しいけど、週に一回でもみんなでこうやって集まれたら、また来週も一週間がんばれそうだもん」

 

 んー、と言って、ユキは一週間の疲れを吹き飛ばすように、伸びをした。マキも彼女と同じ気持ちだった。再び高校時代の親友で集えるようになっただけでも――自分の失恋にも、少しは意味があったではないか?といったようにすら思える。

 

 マキは一番落ち込んでいた時期を乗り越えてからは、次第に元の自分に戻っていった。<ベルサイユのはなや>にフランスのお土産を持っていったところ、「なんでまた急におフランス~?」と驚かれはしたものの、「ちょっと友人に呼ばれて」と言って誤魔化しておいた。お茶の時間に、マリー・アントワネットの名前の入った紅茶を入れると、会社の休憩室には笑いが広がっていたものだった。「それにしても、<ベルサイユのはなや>なんて名乗ってる割に、うちらの中で誰もヴェルサイユ宮殿いったことないとか、マジ受ける~」と、柴田などは爆笑していたものだ。「でも、一応ひとり、マキちゃんが代表して行ってくれたんだから、もういいんじゃない?」と、正社員の磯村なつきがみんなのことを納得させていたものだった。

 

 仕事のほうは、新年早々忙しさのほうはまるで変わらなかった。表の花屋が閉まっている間も、新年会のパーティなど花の注文のほうはあり、マキはまず、事務所の机に積まれた各種伝票の整理から取りかかった。そのあとのことは、いつもの通常業務と何も変わりない。花の注文を電話やネット、あるいはファックスなどで受け……パソコンで伝票や帳簿をつけたり、請求書を発行したりと、大体のところ似たようなことを繰り返す毎日だった。

 

 ユキ同様、マキは自分の会社に、特に意地悪してくるような従業員もおらず、事務所にいるのはひとりでいることが多く、人間関係も概ね良好であることをあらためて感謝していた。手痛い失恋を経験したのみならず、仕事もうまくいかない――何かそんな悪いサイクルに自分が嵌まり込んでいないことを、心から感謝していた。

 

 もっとも、家に帰ってひとりきりになれば、マキはもちろん君貴のことを思い出した。彼のことを思ってのみならず、意味もなく、気がついたら泣いていたということも、何度となくある。そんな時、マキは君貴との思い出を、あえて思い出そうとしないよう努力するのではなく、むしろ逆に彼との思い出に浸り切って過ごすことにしていた。そして、そんな時期もようやく過ぎると、ふとゲイの人々の恋愛体験記などを読むようになった。正直、君貴がゲイだと聞かされても――マキはいまだにピンと来ていなかった。そんなに濃厚な描写ではないが、男同士が愛し合うシーンの出てくる小説を読んだりしてみても……やはりよくわからなかった。なんというのだろう。実感として、あの美貌の青年と君貴が激しく愛しあっているところというのが、どうしても具体的に想像できないのだった。

 

 マキの中・高生の頃から、いわゆる「やおい本」というのは、周囲の女の子たちが少女漫画と並んで、割と普通に読んでいるものだった。ムツキがやおい本のコレクターで、マキは時々貸してもらったりもしていたが、大抵は美少年同士の局所部分を隠したセックス・シーンが描かれているだけなので――その隠れた部分で何が行なわれているかについては、マキはあまり想像したことがなかったのである。

 

 これはマキが特にカマトトぶっているわけではなく、やおいというのはようするに、「女子が決して経験することのないシチュエーション」なわけである。その部分に萌えを感じる女性が数多くいても、マキはまるで不思議に思わない。何故ならそれは、深層心理的にいって、自分に直接関係のない性の世界を扱うことで、女でありつつ、男の性の世界を支配することであるからだ。もちろん、やおい本のリアルなものの中には、実際にゲイの男性が自分の体験をそのまま描いている場合もあるわけだが――一般に書店に出回っている売れ筋のやおい本というのは、少女漫画に出てきそうな美少年や美青年が愛し合うというシチュエーションである場合が圧倒的に多いだろう。

 

 マキは、高校時代、ハンバーガーショップで働いていたのだが、そこのひとつ年上の先輩も、よくやおい本を貸してくれたものだった。自身も同人活動を行なっており、同人誌の即売会でコスプレをするのが趣味という女性で、何故なのかはわからないのだが、「マキちゃんは絶対同じ趣味だと思ってた!」と思い込まれ、何冊も彼女所有の秘蔵やおい本を貸してくれたのである。

 

 この、ハキハキとよく通る大きな声で接客する先輩が、ある日突然店のほうをやめた。携帯も繋がらず、借りていた本をどうしたらいいかと困っていたのだが――結局そのやおい本たちは、処分できずに、今もマキのベッド下の隠れた空間に置かれたままになっている。

 

(日向先輩、元気かなあ……)

 

 そんなことをぼんやり思いつつ、マキは久しぶりにやおい本を開いた。マキのバイト先の先輩だった女性、日向ありさは美少年陵辱ものを特に好んでいたので――貸してくれた本も、そうしたものが多かった。けれど、それらの本を今読み返してみても……美少年の自由を鎖などで奪い、前のほう(はっきり言えばペニス)をしごきつつ、バックから後ろのほう(はっきり言えばアナル)を激しく突いて責めたてる……といったシーンを見ても、マキとしてはやはり、あまりピンと来ないのだった。

 

 どうにか、君貴とレオン・ウォンがそのように、男同士で激しく愛しあう関係なのだと想像することで、君貴への思いを断ち切ろうと思うのだが、やはり彼らがベッドルームでそのようなことを実際に行なっているといったようには――マキにはどうしても想像が難しかった。

 

 他に、マキは自分の本棚の中で、君貴が興味を示した作家や詩人のものは、再び読み返すようになっていた。その中でも特に慰めになったのが、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの著作だったかもしれない。彼女は哲学者のジャン=ポール・サルトルの生涯に渡るパートナーだった。ウィキぺディアには、シモーヌ・ド・ボーヴォワールは「内縁の妻」と書かれているようだが、それでいったとすればボーヴォワールにとってのサルトルもまた、「内縁の夫」であったということだろう。ふたりはお互いに対等であるという関係性を重視し、いってみれば彼らにとっての子供、「著作」を生み出すことにおいて、この上もなく最良にして最高のパートナーだった。サルトルのほうでは、ボーヴォワールほど自分を理解してくれる女性はいないとし、ボーヴォワールのほうでも、それはまったく同じだったようである。だが、それでいて彼らふたりはお互い以外の相手との自由恋愛を楽しみ、さらにはそれを是認しあうという仲でもあった。

 

 サルトルとボーヴォワールの関係性において、マキが何を重要として彼らについて書かれた本を読んでいたかといえば……サルトルがかなり明け透けに、自分が今恋している女性のことや、相手の女性との房事についてなどを、ボーヴォワールに話して聞かせていたということだった。ボーヴォワールはそのことで最初、相当苦しんだようだった。けれど、ある時期を過ぎて自分も男性と自由な恋愛を楽しむようになると――サルトルの浮気というのか、彼が<偶然の恋>と呼んでいるものに対して、どうとも思わなくなっていったようである。

 

 このあたり、マキは君貴がサルトルの立場に似ている気がした。それで、「この間うっかり処女と寝てしまった」といったようなことを、「俺が一番に愛しているのはおまえだけだ」という前提で、美貌の愛人に色々話して聞かせていたのではないだろうか。マキも、レオンの言った言葉を一言一句に至るまで覚えていたわけではないが、それでも彼が「男との一夜限りの行為については許してきた」、「でも、女ともだなんて、絶対許せないっ!」といった意味のことを言っていたのは覚えている。つまり、マキがサルトルとボーヴォワールについて書かれた本を読み、どの部分が一番重要だったかといえば、実にその点だったのである。

 

 ボーヴォワールはある時、アメリカの作家ネルソン・オルグレンと恋に落ちた。ふたりの間に残っている多くの手紙によれば、ふたりがあらゆる意味で相思相愛であったことは間違いない。だが、結婚を望むオルグレンに対し、ボーヴォワールはサルトルのいない人生は考えられないといったように答えている。もちろん、オルグレンには理解できなかった。何故といって、サルトルは多淫症だったのではないかというくらい、数多くの女性といつでも恋に落ちており、ボーヴォワールとはとっくの昔に男女の関係ではなくなっていたというのだから。だが、サルトルとボーヴォワールを結びつけていたのは、男女の絆さえも超えたような精神の絆だった。サルトルはボーヴォワールに対し、「彼女以上に僕を理解できる人間はいない」と言い、ボーヴォワールは「彼と出会ってから、二度と自分は孤独になることはないと知った」という、そのような関係性であったわけだから……。

 

 サルトルが自由恋愛したどの女性も、ボーヴォワールとの絆を断ち切ることは出来ず、ボーヴォワールが恋に落ちたどの男性も、彼女にサルトルを捨てさせることは出来なかった。それと同じ魂の絆のようなものを、君貴とレオン・ウォンは持っているに違いない……しかもふたりの場合、男性同士のセックスを通しての強い結びつきまであるのだ。

 

 マキはサルトルとボーヴォワールについて書かれた分厚い本を読み終わる頃には、ようやくのことで自分の失恋について気持ちに整理もつき、納得できるようになっていたかもしれない。他に、この頃偶然読んだ本に、『メイプルソープ』という本がある。ロバート・メイプルソープはゲイの写真家で、有名になることに対し、異常なほどの野心と執着を持つ男だった。彼の人生の中で、恋人としてもっとも大切だった女性は、パティ・スミスだったことは間違いない。彼女が去っていこうとすると彼は言った。『君がいなくなったら、僕は本当にゲイになってしまう』と。メイプルソープは、ゲイの男性の極めて際どい写真によって有名になった写真家だが、彼は結局のところエイズによって42歳という若さで亡くなってしまう。

 

 この本を読むうちにマキは、君貴が同じゲイであるにしても、ロバート・メイプルソープほど自己本位でもなく、自分の名声のためにはどんなことでもする……といった人間でないことに、なんだか妙に感謝できるような気さえしてきたものである(ちなみにこの翌日、マキは某レコード店にて、パティ・スミスのCDまで買ってきてしまったほどである)。

 

 とはいえ、マキが何かの拍子に彼のことを思い、不意に涙がこぼれる生活を送っていたというのも、また同時に真実だった。あれから三か月が過ぎ、桜が咲き、冬も過ぎ去ろうという頃……マキは(いつまでもくよくよ悩んでいないで、わたしもそろそろ前を向かなくちゃ)と思い、気持ちを切り換えようとあらためて思った。けれど、どこかで恋の歌が流れ、曲のすべてでなくても、歌詞のほんの一節が彼を思い出すようなものであったりすると――たったそれだけのことで、マキの失恋の傷はやはり疼いた。

 

 四月に入った第一週目の日曜日にも、こんなことがあった。洗濯機を回しつつ、なんとなくエミリー・ディキンスンについて書かれた本を読んでいた時のことだ。「最良のものがなくなってしまえば、他のものはどうでも良くなる。心は、それが欲しいものが欲しい。でなければ、どうでもよい」と書いてあるのが目に留まり、マキは再び激しく涙が溢れてくるのを止められなかった。そのディキンスンの手紙の引用文が問題だったというよりも――「彼こそがこの世で最良の男性。その男がいなくなってしまえば、他のものはどうでもいい。彼以外に、他に男はいらない」といったように読めた、そのせいである。

 

 そうなのだった。マキは阿藤君貴以外に、今後とも恋をするつもりはなかった。そして、週に一度、土曜の夜のみならず、週に三度ばかりもジムへ行くことがあった。そうやって自分を鍛えるというのか、ある種マゾ的にいじめ抜くことで、もしかしたらマキは生まれて初めての失恋を乗り越えようとしていたのかもしれない。

 

 そして、マキの体の腕や太腿がすっかり逞しくなり、彼女が(こうなったらもういっそのこと、腹筋を割ってやろうかしら)と思っていた時のこと――隣のランニング・マシンで走っていたミナが、ふとこんなことを言った。

 

「マキ、わたし旦那と別れて、あんたと結婚しようかな」

 

「ええ!?一体何言ってるのよ」

 

 マキは片耳にだけイヤフォンをつけて音楽を聴いていたが、ミナの言っている言葉ははっきり聞こえた。ちなみに聞いていたのは、松原みきの『真夜中のドア』という曲だった。

 

「だってうちの旦那、家のこと色々やってくれるのは嬉しいけど、あんまり出かけたりもしないから、最近太ってきちゃってさあ。本人は幸せ太りだなんて言ってひとりで納得してるんだけど、マキくらい体を鍛えてくれたら、絶対惚れ直しちゃいそう」

 

「司郎さんみたいな家庭的で妻にぞっこんなんて人、ちょっといないんだから、太ってるくらいべつにいいじゃない。それに、そのくらいのほうがよその女の人に走らなくていいんじゃない?」

 

「そうねえ。まあ、物は考えようか。そういやこの間、わたしがマキのこと『グラップラー・マキって改名したほうがいいんじゃないかってくらい、あの子しゃにむに体鍛えてるのよ』って言ったら、あの人、ツボに嵌まったらしくてやたら笑ってたわ」

 

 マキも喉をのけぞらせて笑った。『グラップラー刃牙』について、マキは実はよく知らなかったが、格闘漫画らしいということくらいは知っていたからである。

 

「それで、女を泣かせる男どもを次々締め上げて、天誅を加えていくってわけね」

 

「いいわね、それ!マキも前までつきあってた人のこと、肋骨でもへし折って縄かなんかで吊るしてやったら?あとはアッパーカットで天井のコンクリートにめりこませてやるとか……」

 

 マキはおかしくなるあまり、一度ランニング・マシンから下りた。別の意味で腹筋が鍛えられそうだった。

 

 けれど、ミナがマキの失恋の傷が少しずつ癒えつつあるように感じたこの日――四月も半ばのこと、マキはピザの匂いを嗅いだ瞬間、「うっ」と突然吐き気に襲われていた。

 

 急いでテーブルを離れ、化粧室まで駆けていき、なんとか事なきをえたものの――追いかけてきたミナに、「マキ、あんたもしかして……」と言われても、マキ自身は全然ピンと来ていなかった。

 

「あんた、別れるつもりでいたんなら、なんでパリに来たその日の夜からセックスなんてって言ってたわよね?その時の子なんじゃない?」

 

「まさか……これがつわりだってこと?」

 

 確かに、君貴が自ら進んで避妊していたことは一度もない。あとから思い返してみると、そうしたことについてもどう考えていたのだろうとマキは思ったものだった。けれど、マキは今の不意に襲われた吐き気は、ただジムで体をいじめすぎたせいだと思っていたのである。

 

「とりあえず、一度調べてみたほうがいいわ。妊娠してなかったらしてなかったでいいんだし、でももしそうなら……これからもあんなに運動したりしたら、お腹の子によくないと思うもの」

 

「…………………」

 

 結局、ジムからの帰り道、マキはドラッグストアで妊娠判定薬を買って帰った。そして、トイレでそれにおしっこをかけ――見事陽性であるのを見て、思わず笑ってしまった。

 

(人が失恋ソングばっかり聞いて、ようやく最近ハッピーソングも聞けるくらい心が回復してきたっていうのに、今度はこれなわけ?)

 

 とりあえずマキはこの翌日、会社のほうを早退きして、産婦人科のほうへ行くことにした。妊娠判定薬の結果はほぼほぼビンゴである場合が多いとはいえ、稀に間違いということもありうる……といったように、前もってミナから聞いていたからだ。

 

 マキは産婦人科の待合室で待っている時から、すでにもう「生む」ということに決めていた。父親はまだ生きているとはいえ、すでに他に家庭があり、そちらにふたりの子供までいるのだ。何かあっても父に頼ることは出来ないことから――マキは自分の味方が欲しかった。その点、自分の子なら……それも、心から愛した人との間に出来た子供なら、きっと大切に慈しんで育てていくことが出来るだろうと思った。

 

(もちろん、そんなことわかんないんだけどね……自分では一生懸命育てたつもりでも、将来刑務所に入るような子に育ってしまったとか、可能性としてありえなくないわけだし……)

 

「ご懐妊ですよ」と、年嵩の女性医師に伝えられても、マキは嬉しさがこみ上げるでもなく、「そうですか」と、淡々とした口調で答えていた。超音波検査によって、自分のお腹に生命が宿っていると思しき黒と白と灰色の映像を見ても――何か、それが本当に自分のお腹の中を映しているのだとは思えなかった。なんでもこれで十五週目ということだったが、何か潰れた灰色のネズミのようなものがいるとしか思えない。

 

 このあとマキは、妊娠初期~安定期の過ごし方について説明を受けた。仕事については、花屋の事務員だと話すと、力仕事は避けたほうがよいこと、長時間の立ち仕事などは人に代わってもらったほうがいいでしょう……といったように言われた。また、マキはこの時までまったく知らなかったが、労働基準法によって産前は六週間、産後は原則として八週間は就業することは出来ない、といったように法律で決められているらしい。そして、マキはこの時点で(働けるギリギリまで働いて、産後は八週間後に復帰できれば、きっと十分だわ)といったように計算していた。何かよほど、不測の事態でも起きない限りは。

 

 産婦人科病院からの帰り道、マキはとにかくひたすらに、仕事の心配だけをしていた。もちろん、妊娠したことで(本当に、自分ひとりだけで育てていけるのだろうか……)という不安もあったが、そうした不安よりも喜びのほうが遥かに勝っていた。けれど、このお腹の中の子を育てていくためにも、これからも<ベルサイユのはなや>で事務員として働き続けたかった。だがそれはもちろん社長や専務に話してみないことには、なんとも言えないことだった。「そういうことであれば、辞めてほしい」と言われる可能性というのも、ないわけではない。

 

 マキは、妊娠のことがはっきりわかった翌日、まずは専務にこのことを話した。「シングルマザーになる予定なので、仕事のほうは出来ればこのまま続けたい」といったように伝えると、専務の佐藤日出美は何故か顔をほころばせていたものである。

 

「うちも、そのほうが助かるわ。それと、従業員たちにもあとでそのこと、伝えておくわね。ほら、花の水揚げとか、結構重労働だし……忙しい時でも、そういう手伝いとかさせないようにってしっかり伝えておくし、マキちゃんのほうでも遠慮しないで、『わたし妊娠してるので、そういうことは今ちょっとできません』ってはっきり言わなきゃダメよ」

 

「はい。ありがとうございます……!」

 

 妊娠のせいで、情緒のほうが少し不安定になっているせいだろうか。マキは職を失わなくて済むと思うと、ただそれだけで、瞳に涙が滲んできたほどだった。

 

「というか、うちはもうマキちゃんなしじゃ店自体が回っていかないような状態だものねえ。産前産後については、状況を見ていつから休みに入るか、復帰するかを決めましょう。その間は、マキちゃんがやってた分の事務仕事はわたしがやるから。そうそう、恥かしくてはっきりそう言えてなかったんだけど……今、うちに娘が出戻りで帰ってきてるのよ。あの子も今子供が五歳になったばかりだから、子育てでわからないこととか不安なことがあったら、相談するといいわ。マキちゃんと割と年も近いから、いい相談相手になるといいんだけど……」

 

「はい。よろしくお願いします!」

 

 佐藤家は、花屋の、裏庭を挟んだ向こう側にあり、そこは二世帯住宅になっている。ちょうど、専務の両親が建物の片側に住んでいたのだが、今はふたりとも老人福祉施設のほうへ入所しているらしい。もっとも、そちらの空き家になったほうへ社長がひとりで住んでおり、専務は娘と孫と三人で暮らしている……といった佐藤家の事情を、マキはのちになって知るということになるのだが。

 

 こうしてマキは、<ベルサイユのはなや>の従業員たちの支援を受けつつ、経済的なことに関していえば、今までコツコツ貯蓄してきた蓄えもあり、なんとかなりそうであった。妊娠についていえばもちろん驚かれたし、結婚の予定はなく、シングルマザーになる予定であることを知ると――「そりゃ大変ねえ!」、「あたしたちも、一応子供いるから、わかんないことあったらなんでも聞いてよ!」といったように言われた。もっとも、マキは休憩室の前を通りかかった時、偶然次のようなパート社員の噂話を耳にしてしまうのだが。

 

「前までマキちゃん、夜のバーみたいなとこでピアノ弾いてたっていうじゃない?だから、そういう時に知りあった男が相手なんじゃないかしら」

 

「そうそう!あの子、一度ホストみたいな男が会いに来てたことあるのよお。それがまた、すっごい格好いい男なわけ!相手、その人っぽい気がするな」

 

 柴田晴香と前田芳江がそんなふうに話しているのが耳に入ってきた瞬間、マキは吹きだしそうになってしまった。だが、単にトイレに行って休憩室の前を通りかかっただけなのに、盗み聞きしていたなどと誤解されてはいけない。そう思い、必死で笑いを堪えつつ、マキは足早に廊下を去っていった。

 

 そして、マキが最後の最後まで迷っていたのがそのホスト――阿藤君貴に、この妊娠を知らせるべきか否かということだった。いや、正確には、君貴本人には知る権利があるとか、そんなことよりも……マキはレオン・ウォンのことを考えると、何も話すべきでないのではないかという気がしていた。

 

(そうなのよね。問題は、相手が同性か異性かってことじゃないのよ。言ってみれば、レオンさんがこの場合、本妻の立場ってことなわけだから……そう考えた場合、わたしが彼の立場で、愛人だった女が妊娠したなんて知ったら――あの時以上に腹を立てるに違いないものね……)

 

 マキはそう考え、君貴には知らせないことに決めたのだが、ミナにそのことを話すと、彼女はマキのこの決断に対し、断固反対だと言った。

 

「いい?問題はマキとその君貴さんって相手の人のことだけじゃないのよ。お腹の子がいずれ生まれてきたら、絶対自分のお父さんのことについて、説明しなきゃいけない時がくるんだからね。あと、仮に認知してくれなかったとしても――そういうことも、一応話すだけ話しておくべきよ。たとえば、数か月に一回くらいでもいいから、父親として子供と過ごすつもりが向こうにあるんだとしたら、それだってマキの子にとって、ものすごーくものすごーく成長の上で大切なことなんだからね!いくら母親だからって、その機会をあんたに奪う権利はないのよ、マキ」

 

「あたしもそう思うな」

 

 と、今度はムツキが言った。いつものオーガニックカフェに集まっていた時、マキは他の三人から、反対意見をそれぞれ言われる結果となっていたのである。

 

「だってその人、結構お金持ってる人なんでしょ?だったら、出産費用とか育児費用とか、ある程度出してもらって当然なんじゃない?」

 

「そうだよ!」

 

 ユキもまた、ムツキやミナと同意見だった。

 

「っていうより、そのくらいのこと、向こうがして当然なんじゃない?マキは優しいからさあ、『お金なんていりません。この子のことはわたしが責任を持って育てあげます』みたいな感じなのかもしれないけど……その人、ゲイなんでしょ?だったら、その君貴さんっていう人にとってだって、子供を持つっていうのはマキが今考えてる以上に大切なことなのかもしれないよ」

 

「…………………」

 

 三人の女友達に説き伏せられて、マキは迷いに迷った挙句、ようやくのことで君貴に連絡した。もっとも、携帯自体繋がらない可能性もあるとマキは思っていたが、彼はたったの3コールで彼女の電話に出ていたのである。

 

 

 >>続く。

 

 

 

 

 


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