【光の帝国】ルネ・マグリット
さて、次回で最終回です♪(^^)
なので、流石に本文に関係あることを……と思ったんですけど、あんまりここの前文に文字数使えないってことで、どうしようかなと思ったりレオンが言ってる旧約聖書のヨブ記については書くと長くなるし、君貴の言ってる「悪の問題について」も補足するとしたら長くなるし――ということで、↓に出てくる聖書の引用箇所について、詩篇の65編全部は無理でも、文字数の許す限り引用して終わりにしたいと思いますm(_ _)m
>>あなたは、地を訪れ、水を注ぎ、
これを大いに豊かにされます。
神の川は水で満ちています。
あなたは、こうして地の下ごしらえをし、
彼らの穀物を作ってくださいます。
地のあぜみぞを水で満たし、そのうねをならし、
夕立で地を柔らかにし、
その生長を祝福されます。
あなたは、その年に、御恵みの冠をかぶらせ、
あなたの通られた跡には
あぶらがしたたっています。
荒野の牧場はしたたり、
もろもろの丘も喜びをまとっています。
牧草地は羊の群れを着、
もろもろの谷は穀物をおおいとしています。
人々は喜び叫んでいます。
まことに、歌を歌っています。
(詩篇、第65編9~13節)
>>まことに、あなたは喜びをもって出て行き、
安らかに導かれて行く。
山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、
野の木々もみな、手を打ち鳴らす。
いばらの代わりにもみの木が生え、
おどろの代わりにミルトスが生える。
これは主の記念となり、
絶えることのない永遠のしるしとなる。
(イザヤ書、弟55章12~13節)
それではまた~!!
ピアノと薔薇の日々。-【35】-
――あれから、八年の時が過ぎた。
その後、マキと君貴にわかったのは、レオンの死といったものは決して乗り越えられるものでもなければ、乗り越えてそこから再び立ち直る……といったものでもないということだった。むしろ、『自分たちはこれを決して乗り越えられもしなければ、再びそこから立ち直ろうなどと考えなくていいのだ』ということ、それがふたりの間の了解事項だった。
もちろん、レオンの壊したテレビに換えて新しいものを購入したし、彼の壊した壁は君貴がホームセンターで工具や材料類を買って修復したとはいえ(マキはそれまで知らなかった君貴の器用さに、驚いたものである)、マキと君貴の中でレオンが同じように残していった喪失感は、決して癒されるということがなかった。せいぜいのところを言って、八年経った今も――前は直径九センチだった穴が、8.5センチにはなったかという程度のものだったに違いない。
結局、マキがその後出産した二番目の子は、レオンの子ではなかった(ように、彼らには思われた)。君貴もマキも、出産直後から金の巻き毛だの、青い瞳といった間違いなくレオンの子だとの特徴を期待していたが、その女の子は黒い瞳に黒い髪をしていて、出産直後は特に、純日本産のお猿さん……といったようにしか見えなかったものである。だが、ふたりは決して希望を捨てなかった。大きくなるに従い、ハーフっぽい顔立ちをするようになるかもしれないし、「間違いなくレオンの子ではないか」との特徴を備える可能性だって――ないとは決して言えないではないか。
ふたりの間で、そのように口に出して取り決めたわけではなかったが、彼らは遺伝子検査をする気など毛頭なかったし、周囲の人々がその赤ん坊を見て「鼻筋と輪郭はどことなく君貴に似てるんじゃない?」とか、「あら、わたしは目のぱっちりしたところが赤ん坊の時の君貴そっくりだと思うけど」だのと語っていても――適当に相槌を打つだけで、あまり本気にしてなかったものである。
そして、その真子(マコ)と名づけられた子は、大きくなるに従い、時にマキと君貴の間で「斜め四十五度くらいの角度から見ると、ちょっとレオンに似ているな」と言われたり、「白人みたいに肌の白いところがレオンの遺伝子を受け継いでるんじゃないかしら」と言われつつ育っていくということになる。真子という古風な名前については、レオンがお腹の子が女の子とわかってから、一生懸命辞書などで調べ、そう決めていたものだった。
『ほら、マキのお母さんの名前が真知子だろ?それで、マキの名前が麻貴だから……麻子もいいかなって思ったりしたんだけど、僕とマキの間に生まれた真実の子っていう意味で、真子ってどうかなと思って』
レオンは、十七歳で日本へ初来日して以来、ずっと日本文化といったものに興味を持ってきたとはいえ――実際に暮らして日本人の一般的生活といったものを間近で見たのは、最後の三年くらいなものである。ゆえに、今時は~子とか~美、というのはだんだん名前として古くさいとされて来ている……といったことまでは当然わからなかったといえる。
マキにしても、(ちょっとダサいかな……)と一瞬思わないでもなかった。何より、子供が大きくなった時、『なんでパパとママは、もっとわたしにハイカラな名前をつけてくれなかったのよお』と文句を言われる可能性がないとは言えない。けれど、レオンがそう決めるまでに辞書を引き引き相当悩んだらしい――と知っている彼女としては、「いいんじゃない?」としか言えなかった。『わたしとレオンとの間の、真実の子……すごくいい名前だと思うわ』と。何より、レオンが自分の母親のことまで考えてくれたということが、マキには嬉しいことだったのである。
子供たちは、貴史が十一歳、真子が八歳と、随分大きくなった。貴史はそれほど親から強制されたということもなく、ばあばの元へ通い、ピアノを習い覚えるようになり……真子は六歳の頃からバレエをはじめた。というのも、マキがもともとバレエが好きで憧れを持っていたということもあるが、とにかく真子は元気な子で、意味もなくしょっちゅう飛び跳ねては、体のあちこちに痣まで作っているような子だったのである。そこでマキは(これは何か運動でもさせたほうがいいのだろう)と思い、体操教室とバレエ教室へ連れていったわけである。そして、このふたつの中で真子が一目惚れしたのが――言うまでもなく、バレエのほうだったというわけなのだ。
その後、君貴は確かに東京にも建築事務所を構えたわけだが、そちらがある程度落ち着くと、再び世界中を転々とするような生活をはじめ……二週間ほど、東京の事務所のほうに落ち着いていることもあるにはあるが、それより多いのはやはり、月に三度も帰ってくれば多いほう――といった、前と同じサイクルを繰り返すようになっていたといっていい。
マキのほうでそのことに不満はなかったし、何より彼は彼女や子供たちが必要とする時には家にいてくれるのだ。たとえば、夏休みや冬休みには必ず海外旅行やスキーなどに連れていってくれる。マキ自身は旅行もスキーもどうでも良かったが、子供たちの成長のために大切なことだと思い、一生懸命英会話のほうを習い覚えたりしていたものである。
実をいうと、君貴の生活が結局のところ前と同じように戻ってしまったのには、ある理由があった。中国に、レオン・ウォンの名前を冠した音楽ホールが出来ることになり――その依頼が君貴の元へ舞い込んできたのであった。
その依頼があった時、「あいつら、あの本読んでねえのかな」などと、君貴は岡田に呟いていたわけだが、君貴はその<レオン・ウォン・ホール>建設のため、一時的に中国に住むことさえしてこのプロジェクトに取り組んだ結果として――世界全体として見た場合、東京と北京は確かに近くはあるにせよ、なかなか日本へ帰ってくるという回数が減ってしまったのである。
とはいえ、<レオン・ウォン・ホール>を君貴の出来得る限り理想に近い形で建設するためには、すでに経験豊富なはずの彼をして、相当の骨折りが待っていたといえる。君貴が帰国のたびにこのあたりの愚痴をしつこいくらい聞かせた結果として……マキもまた家族で中国へ移住し、夫のことを支えようかと深刻に悩んだことさえあったほどである。
だが、君貴が悩み労し、苦しんだ歳月は結果として報われた。自身の意向を完全にとまではいかないまでも、ある程度押し通す、あるいは周囲を説得する術を身に着けたことで――その音楽ホールは君貴にとって<レオン・ウォン>の名を冠するに相応しい、世界有数の壮麗な音楽ホールとして完成した。
実をいうと、レオンが彼宛てに残した遺書を君貴が発見したのは、彼の死後、三か月以上もしてからのことだった。ロンドンのチェルシーの自邸は、君貴にとってレオンとふたりだけの思い出が詰まった場所であるため、彼にとってそこは今となっては訪れるのがつらい場所だった。だが、いつまでもそのように避け続けるわけにもいくまいと思い、ロンドンの事務所へ行った際、そちらへも寄ることにしたわけである。
レオンの自分宛ての遺書を大理石のマントルピースの上に発見した時……君貴は心と手が震えた。読む前から激しい動悸に襲われ、彼のために流すための涙は流し尽くした――そのように思われた双眸からは、再び涙が溢れだしてきたものである。
確かに、レオンが所属していたエージェンシーのロイ・シェパードから例の原稿の存在を聞かされた時から、君貴は(おかしいな)と感じてはいた。そのような原稿を残しておきながら、自分には手紙ひとつないというのは……いや、レオンもそのくらい精神的に切羽詰まっていたのだろう、結局のところそんなふうに考え、君貴は自身のことを納得させていた。
君貴は手紙の最初の数行を読んだだけで、目頭を押さえていた。レオンが自分に遺書さえ残さず死ぬなんてありえない――だが、自分は失念していたのだ。こここそは、自分と彼とが何度となく逢瀬を重ね、数え切れないほど深く愛し合った場所だというのに……。
そして、手紙に書かれた内容は君貴の心を押し潰してあまりあるものだった。また、涙で視界が曇るあまり、時々読むのを中断し、再び読みはじめる――ということを繰り返す中で、君貴にもレオンが死を選び取った理由、そのおぼろげな輪郭のようなものが見えてきた。だが無論、手紙にもあるとおり、彼の心の最奥にあったであろう深い暗闇についてまでは理解できなかった。仮にどんなに愛しあっていたにせよ、心のこの部分までは理解しきれない……そうした部分というのはどんな人間にも残る、という、その意味については理解できたにしても。
「おまえは本当に、見事な奴だったよ。そして、よく頑張っていい人生を生きた。そのことを否定する人間は、この地上に誰もいないよ……」
だが、ウォン・ヨウランがレオンの自殺を予見できなかったように(あるいは彼女は、予見してはいたが、それでも構わないと思っていたのだろうか?)、レオンもまた、ヨウランの自殺を予測してはいなかったらしい。自分の死を受けて、精神に病いを来たす可能性もある……といったようには予想していたにしても。
(確かに、レオンの死を受けて、わかっているだけで五人もの人間が後追い自殺をした。また、リストカットしたり睡眠薬を大量に飲んだが助かった……という女性であれば、軽く二十数人を越えるんだからな。だが、これから決死の覚悟で死のうとしている人間に、それ以上のことをあれこれ考えろなんていうこと自体、そもそも無理な話だ)
君貴は、レオンの遺書をしっかり一読したあと、自分の涙の跡の残る空色の便箋を畳んだ。いつかまた、読むことは必ずあるにしても……とりあえず今暫くの間はもう一度読み返したいとは思えなかった。あれから三か月が過ぎたとはいえ、マキも君貴も、胸の奥に痛みを覚えずにレオンのことを思いだすということはない。ただ、涙の流れる回数だけは少しずつ自然と減っていったというそれだけだ。
「ごめん、レオン……マキはそろそろ出産時期なんだ。今この手紙を見せれば、かなりのところ動揺して、また色々考えはじめるだろう。もちろん、今も毎日あいつはおまえのことを想っているさ。マキと過ごした最後の三年もの時が、人生で一番幸せだったと……そのことは必ず伝えるよ。だが、手紙にそう書いてあったと知れば、マキは俺宛ての手紙にこそもっとも大事なことが書いてあったに違いないと思い、気にするだろう。だから、そんな手紙が存在するということを知らせるなら、俺はあいつにおまえの手紙を読ませなきゃならない。だから、もう少し待ってくれないか?」
君貴は、スーツの内ポケットにレオンの手紙をしまいこむと、誰にともなくそう話しかけていた。そして、この日の夜――君貴は久しぶりにレオンとの思い出の詰まったこの屋敷で眠った。何分、出産予定日はまだもう少し先とはいえ、早ければいつ生まれてもおかしくない時期でもある。君貴は貴史の時とは違い、今度はマキについていてやりたかったため、明日には日本へ戻るつもりであった。
そして、君貴がレオンのことを想いながら、ふたりで何度となく愛しあったベッドで眠りについたこの夜……彼は夢を見た。イメージとしては、イギリスのコッツウォルズあたりの田舎といった雰囲気で、丘陵を見下ろす小高い丘の上に、城が一軒建っている。城、といっても、ドイツにあるノイシュヴァンシュタイン城のような大きなものではなく、城壁に囲まれているわけでもなかった。
君貴が緑に囲まれた田園風景の中を歩いていくと、遠くに羊のような生き物がいて、草を食んでいるようだった。おそらく、丘の上の城に住む城主が、このあたり一帯の土地を治めているのではないだろうか。
牛乳のように白い壁の城は、広い庭に囲まれていた。ライオンのノッカーのついた深緑色の門扉を開き、中へ入っていくと、ピンクや白、黄色い薔薇が前庭には咲き乱れている。城のファザードは、ダンテの地獄の門を思わせるような精緻な彫刻によって出来ており――上品な青や白、金で構成されていて、君貴はとても強く聖なる印象のようなものを受けた。だが、その彫刻が何をモチーフにしたものなのかまではわからなかったし、これは君貴が目覚めたあとで思ったことなのだが、雨が降ったらあの見事な彫刻群はダメージを受けたりしないのだろうかと思ったりもした。
重厚な城の入口のほうは半分開いていて、まるで君貴のことを招いてでもいるかのようだった。もちろん、普通に考えた場合、城自体がなんらかの意思を持っているとは考えにくい。だが、その扉をくぐった時、君貴は確かに(誰かが喜んでいるらしい)といったような感情をはっきり胸に覚えたのである。
玄関ホールのところには、深い銀の水盤や鉢に恐ろしいばかりに透明な水が満々と満たされ、白いロータスの花がいくつも浮かんでいた。君貴が金の枝葉が巻きついた大理石の円柱が並ぶ廊下を歩いていくと、庭のほうへ通じるテラスの窓が開いている。そこを蝶のようにも蛾のようにも見える翅のある生き物がそよ風に乗って横切っていく。
そして、その窓の前には、大きな噴水があった。窓の外の庭に、ではなく、室内にである。君貴はその噴水の縁に腰かけると、玄関ホールの水盤や鉢に満たされている水と、それが同種のものであろうと認めた。噴水の上部では凛々しい顔立ちのライオンの像がこちらを見下ろし、その足許から水が流れてくるのであったが、かなりの量水が流れ落ちてきても、それは決して外のほうまで溢れでるということがなかった。
君貴は暫くの間そこで、ぼうっとしていた。何か大切なことを忘れている気がしたが、<水>というものの本質そのものに魅入られでもしたように――かなりのところ馬鹿らしいこと、「そもそも水とは一体何か」ということを考えていた。けれど、水の表面に手を触れようとしたその瞬間、ハッとしてその場から立ち上がっていた。
何故なのかはわからないが、君貴は(自分には他にやるべきことがある)とわかっていた。そこで、まるで外の庭から移してでも来たように生えるオリーブやミルトスの木の間を縫って、さらにその奥のほうへと進んでいった。風もないのにそれらの緑たちは揺れ、まるで君貴に挨拶でもしているようだったが、彼のほうでは特に何か声をかけたり、握手したいようには思わなかった。君貴にはただ、この城のどこかに、間違いなくレオンが存在しているとわかっていたのだ。だが、決して焦りはしない。それはそのくらいはっきりとした強い確信であり、魂に直接直感されるような事柄でもあった。
君貴は結局この時、何か目に見えない存在に導かれるように、城の奥まった場所にある部屋のほうへ入っていった。ここまでやって来るまでの間、君貴は似たようなドアであればいくつも見ていたが――半分開いていて、(どうやらあそこなら入ってもいいらしい)と理解できたのは、そこだけだったのである。
そこは広くもなければ狭くもないような感じの部屋で、中世の王侯貴族の書斎といった雰囲気を備えていた。君貴はその部屋の中央にあったロイヤルブルーのソファに座り、なんとなく天井を見上げた。神や天使や鳥といったイメージの絵画が自分を見下ろしていたものの――君貴の目にはそれがあまりに高いところにあって、自分が果たしてそれを本当に『見て』いるのかも、よくわからなかったものである。
このあと、君貴は本の並ぶ書棚の横に、黄金の柱時計があるのに目を留めた。時計の針のほうは止まっていたが、夢の中の君貴はそのことを特に気にしなかった。ただ、彼にはこの時あるひとつのことだけがわかっていたのである。この城の<どこかに>レオンがいることだけは間違いない……その気配を君貴ははっきりと強く感じていた。そのことに疑いの余地はまったくなかった。だが、まだその<時>ではないので、彼には会えない――そのことに気づくと同時、君貴は夢から覚めていたのである。
君貴はキングサイズのベッドの上で、体をびくりとさせて目が覚めた。(夢か……)と思ったが、普段見ている夢よりも映像のほうがあまりに鮮明で、印象が綺麗すぎるあまり、何故か悲しくなる……といったような印象さえ、彼は胸に覚えていた。
けれど、夢のどこにもレオンの姿は見出せなかったにも関わらず、君貴は今自分の見た夢がレオンと――正確にはレオンの魂と、と言うべきだろうか?――間違いなく関係があるとわかっていた。何より、城の外部や中のあちこちに散見されたライオンのモチーフ……どうやらあれはレオンに関係したものらしいと君貴は直感してもいた。
『あ~あ。それにしてもレオン・ウォンって超ダサい名前だよね』
レオンがベートーヴェンのピアノソナタ全集を完成させた時、そのボックスの表紙は例に洩れず彼の顔のアップだった。しかもどこか挑戦的かつ、不敵な笑みを頬に刻んでもいる。そして、その顔の横には『Leon Wang』とあった。
『おまえにはレオン・キングって元の立派な名前があるんだろ?中国のウォン家に引き取られてくる前のさ。プロのピアニストになった時、改名すりゃ良かったのに』
『なんかさ、そんなことまで気が回らなかったんだよ。それに、財産をもらったらすぐに改名してウォン家とはもう一切何も関係ありません……って言ってるみたいで、なんとなく抵抗があったっていうのもある。あと、字面的にライオン・キングみたいだっていうのもあるしさ』
『ふうん。そんじゃ、こうすりゃいいだろ。レオン・ウォン・キングだ。これなら、ウォン家の義理にも応えつつ、元のおまえが所属するキング家の家系にも申し訳が立つだろ?』
『ええ~っ!?そんなの、ダサすぎてお話にもならないよ。なんにしてももう、ピアニスト、レオン・ウォンでここまでやって来ちゃった以上、仕方ないって話さ。ただ、CDが一枚出たりするたんびに、自分の顔の横にLeon Wangってあるのを見ては、「世の中ままならないな」と思って溜息が出るっていう、それだけの話だよ』
君貴は、ずっと昔にしたそんな会話のことを、この時不意に思いだしていた。そして、今自分が見た夢は、何か大切な意味があるのではないかと思い――まだ夜中の三時過ぎではあったが、ガバリと起きて夢の中で見たレオンの住まいらしき城の外観や内部で見たものについて、思いだせる限りなるべく細かく素描しておくことにしたのである。
そして、この夢を見た約二年後、自分を指名する形で<レオン・ウォン・ホール>の依頼が来たため……君貴はこの時夢の中で見たモチーフを使いたく思ったわけだが、実はこの点がもっとも君貴が政府の役人たちと粘り強く交渉しなければならない点でもあったわけである。
夢の記憶が薄れぬうちにと、設計用紙に鉛筆でレオンの住んでいる(と思しき)城館の外観のみならず、庭の様子や城の内部で見たものすべてについて事細かく描いていくうちに――君貴はふと、再びレオンとしたことのある会話が脳裏に思い出されてきた。確か、彼の記憶に間違いがなければ、出会って間もなく体の関係を持つようになり……お互いの過去についてもあれこれ話すようになった頃のことである。
『ふうん。じゃあ、君貴は神さま肯定派なんだね』
ベッドに横になったまま、ナイトテーブルの煙草を手にとると、レオンはベッドの背もたれに身をもたせかけ、煙草を吸いはじめた。
『いや、若干肯定派に近い無神論ってとこだな』
レオンが火を点けて一服した煙草を横から奪うと、君貴はそれを自分が吸っていた。そこでレオンは(仕方ないな)というように、もう一本箱から抜いてライターで火を点ける。
『俺が言ってるのは、人間は生きていくために必ず「神はいる」という仮定を必要とするってことなんだよ。で、そこに実際神はいるかいないかはあまり関係ない。なんでも、人間の脳の中には神モジュールとも言うべき回路があるらしいな。人間が祈ったり神のことを考えたりすると、その回路のあたりが活性化するとかいうやつさ。で、人間が何か神とか幽霊とかUFOといったことに関する神秘的な経験をする時……ゴッドスポットとかいうそこらへんの脳の回路が関係してると言われたりもする。そして、嘘かほんとかは知らんが、そのゴッドスポットとやらを通って人の意識は天国へ行ったりするんじゃないかと考える奴らもいる』
『面白いね。僕は、クラシック音楽なんてやってるから、どうしてもキリスト教と無縁じゃいられないんだ。それでいくと僕はゲイだから、一般的にいって天国へは行けないということになる……君貴はさ、そういうことで悩んだりすることってないの?』
『ないな。確かあれは、旧約聖書に同性同士で愛しあってはいけないと書いてあって、あとは新約聖書でパウロは男同士で情欲に燃えるなと書いてるんだっけな。女性は女性同士で愛しあって、自然の用を不自然なものに変えてはいけない……みたいに書いてあるんだったか?ま、結局のところ聖書は編纂された書物だから、果たしてその編纂時省かれた箇所に、イエス・キリストが「同性愛はいかんぞ」と言った箇所があったかどうかまでは俺にもわからん。だが、現在の新約聖書には、イエスが直接同性愛について言及した箇所はない。キリストさまはただ、汝の隣人を自分のように愛せとおっしゃっておられるだけさ』
『僕はね……色々考える。ほら、前に話したろ?児童養護施設でそこの職員に組織的な虐待を受けたって話。まあ、人間の歴史がはじまって以来、僕のような目に遭った人間も、もっと悲惨な境遇にあった人だって、たくさんいたろう。簡単につづめて言えば、神はどうして彼らを適切な時に助けてくれないんだろうといったような話。僕は、もし神さまみたいな人がいるんなら――どうして助けてくれなかったのかと責めたい気持ちは今もある。でも、もし一言「神って奴も色々忙しくて大変なんだ。だが、おまえに起きたことに対しては大変すまなく思う」と謝ってくれたとしたら……償えっていうんじゃなく、そのあやまってくれたことに対しては正当に評価して受けとめたい気持ちはあるんだ。だけど、キリスト教では神は無罪で一度も罪を犯したことがないんだって。これだけ地上で悪を野放しにしているのに、それでも罪がないだなんておかしいじゃないか、みたいなことを、僕は昔高校の教師に問いただしてみたことがある。もちろん、相手から答えはなかったよ。僕の聖書解釈はおかしいから、ちゃんと教会で教えを受けろとか言われて終わり』
『もし、レオンの言いたいのが、何故この地上というところは悪に満ちているのか?という、そういうことであれば……まあ、やっぱりキリスト教を取っかかりにするのが、一番わかりやすいのかな。例の、聖書の最初のほうに書かれている失楽園とかいうやつ。アダムとイヴが楽園にいた蛇に騙されて、林檎をかっ食らっちまったことから――彼らは元は善のみで構成されていたにも関わらず、悪や罪や死といったもので汚されることになったわけだよな。つまり、神には罪がなく、善性のみの聖なる清い方であるから、人間は自らそのような道へ落ち込んでいったと。キリスト教的にはおそらく、神に罪のないのはこのあたりの理由からだろう。だが、レオンが言いたいのはこういうことだよな?そもそも、完璧な場所であるはずの楽園に、何故蛇などという存在がいたのか……それは全知全能であるはずの神の側の致命的なミスであり、アダムとイヴが罪を犯したのも、神のミスがそもそもの原因なのだから、神が責任を取ってしかるべきである。だが、アダムとイヴが善悪の知識の実を食ったことで、なんか色々うるさいことをごしゃごしゃ言い出したため――神の奴は「うっせえな!」と言って、ふたりのことを楽園から追いだすことにした』
『……聖書の失楽園って、そんな話だったっけ?』
煙草をふかしつつ、不敬な語り口調で話す恋人のことを、レオンは面白がって笑った。
『まあ、いいから最後まで聞けって。その後、アダムは汗して労働し、地から生えでたものやらなんやらで自分の口を養っていかなきゃならなくなった。それで、イヴのほうでは自分を神の前で庇いもしなかった男のために生みの苦しみをしつつ、ガキを何人も生んで育てていかなきゃならなくなったわけだ。『しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配する』だって?まったく恐ろしい言葉だ。それはさておき、アダムとイヴに子供が生まれた。長男がカインで次男がアベル。ところが、このカインが弟のアベルを殺してしまう。神に捧げた捧げ物のことで、神が『アベルは良かったけど、カインはそうでもない』と言ったのが原因だった。このことにアッタマに来たカインはアベルのことをぶっ殺してしまう。兄カインによる弟の殺害は、人類初めての殺人として有名なようだが、ここでも実は悪いのは神だった。『あいつはいいけど、こいつはそうでもない』……そんな評価、わざわざいるか?第一、カインが殺意を抱いてアベルを殺害するだろうことは、神が全知全能であるならば、あらかじめわかっていたはずだ。だが、カインが善良なアベルを殺すのを――神はただ黙って見ていた。たぶん、人間がテレビでドラマを見る時みたいに、オーストラリアの大地は今どうなってるかだの、アメリカあたりの自然はどんな感じかだの、環境ドキュメンタリー番組を見るのに忙しく、そんなのを観察してる内に可哀想なアベルはあっという間に殺られちまったんだろう』
『君貴のその話でいくと、神には慈愛なんてものはなく、自分が生みだした人間が生きようが死のうがどうでもいいと思ってるみたいに聞こえるけど……』
この時、レオンが心の中で何をどう思い考えていたかということまでは、もちろん君貴にもわからない。レオンは彼に「児童養護施設で組織的虐待にあった」とは話したが、そこには性的虐待も含まれていたとまでは言っていなかった。ただ、「そんな目に合った子もいる」と、他人のことのように語ったというそれだけだ。
『まったく、キリスト教ってやつはよく出来てるよ』
君貴は、肺の奥から溜息でも着くみたいに煙を吐きだした。
『つまり、神の奴は放任主義なのさ。まず、聖書ってやつは天地創造からはじまる。で、たったの六日で宇宙を含めたこの地上のすべてが創造できるわけなんかない――科学者どもはそう喚くがな、問題はそんなことじゃない。とにかく、人間が生きていくのに必要最低限必要なものについては自分は備えてやったぞ、おまえら感謝しろよと神の奴は言いたいわけだ。で、そこを舞台にして、自由意志という名の元に、いいことでも悪いことでもやってみろと。そのかわり悪いことした奴は悔い改めなきゃ地獄行き、いいことした奴も、神の子であるイエス・キリストを信じてなけりゃ地獄行き……キリスト教の教義では、何かそんなことなわけだろう?ここで、神は驚くほど自分は平等だと言いたいらしい。この地上のどんな人種・民族・国の人間として生まれようとも、自分の息子であるイエス・キリストさえ信じていれば、死んだあとに天国へ行けるという意味でな。それはさておき、悪の話だ。俺にもレオンにも、悪を行う可能性というのは、今この瞬間も十分にある……まあ、悪という奴の定義にもよるが、同性同士で愛しあうことを悪と考える奴もいる。そして、この悪を行うことについては――生まれた時代や環境なんかに相当左右されるってことは、レオンにも理解できるよな?』
『そりゃそうじゃない?金持ちの家に生まれて、食べるのに困るでもなく十分な教育も受けてたら……基本的に、悪を行う機会は少なくなるだろうし、明日食べるのにも困ってるのに、富んでいる家から物を盗むなっていうのは無理な話だろうし』
『神って奴は、そういうありとあらゆるヴァリエーションを見るのが好きだってことなんじゃないかね。人が悪を行っても仕方ない状況下において、いかに耐えうるか、あるいはいい家に生まれて贅沢な暮らしをしているのに――人間が悪に堕落するということもありうる。この地上の全人類が心のどこかに悪を内包しつつ、それでも出来ることならなるべく善の実が成るほうへ手を伸ばそうとすることこそ、神の御旨に適ってるってことなんじゃないのか?汚いものに手を突っ込んで汚れてみないと、本当の善だの愛だのいうものはわからないし、深いドブの底に落っことされて這い上がった人間にしかわからない世界というやつが、この世界にはあるってことなんだろう。ゆえに、神は楽園に蛇がいることを許容したし、真実価値あるものを人間が見出すために、この世界に悪が存在することも許容した……そんなところか?』
ここでレオンはくすくす笑いだした。実際にはただの煙草なのに、まるで大麻でも吸っている時のように。
『ふうん。でもそれでいくと君貴は、今自分のことを神と同列に置いて考えてるってことになるよ。それは流石に不敬なことなんじゃないの?』
『いや、俺は信者になろうとは思わないだけで、キリスト教というやつには感謝してるのさ。俺がなんで若干肯定寄りの無心論者かといえば、この世界で一番美しいものは何かといえば、大抵がまあ、神からきたものだからだ。クラシック音楽の起源を遡ってもそうだし、西洋の教会群といったものがなければ、俺が建築家になろうなんて気違いじみたことを思いつくこともなかっただろう。キリスト教だけじゃない。古今東西、世界のどの場所においても――人間が心をこめて何かしようということには、大体この神って奴が関わってる。文字の成り立ちってことにしてもそうだし、その他、絵画や彫刻や、最初に<神>ってことがあって、この至高の存在に精魂込めて最上のものを捧げようという時……それが人間の中でもっとも美しい行為だということは、無神論の俺にも否定は出来ない。その中でも俺はキリスト教に関係した建物・音楽・美術というやつに、ほとんど生まれつきといってもいいくらい惹きつけられるところがあった。だから、その<美>という感覚のために、聖書の矛盾なんかについては容易に許容してもいいという用意が俺のほうにはあるわけだ』
この時、レオンは君貴のこの言葉から、あることに気づいた。自分も、彼と同じようにキリスト教における<神概念>なるものを利用することを考えればいいのだ。君貴とレオンの神に対する態度の違いについては――レオンのほうがより実践的だったということだろう。つまり、レオンの場合には十代という多感な時期に周囲に本物のキリスト教徒がおり、彼らは日曜には必ず礼拝を守り、その上人格的にも素晴らしく、その人生においても祝福されているような人々だった。
そして、彼らの考える『悪』とは……親に嘘をついたとか、なんの値打ちもないものに熱中してお金を無駄にしてしまっただの、もしレオンが神であるなら、十分笑って許せてしまえるようなものばかりだったといえる。だが、そんな神に祝福されたが如き人々に囲まれて、レオンは本物の悪というものをすでに十分知っていればこそ、そこに深いジレンマが存在していたわけだった。
自分の存在を神よりも上におき、思想においてのみ、キリスト教の神というものを利用する――そして、当然のように男とも愛しあう。だが、レオンの目には、阿藤君貴という男もまた、毎週欠かさず日曜礼拝を守っている人々と同じように、祝福されているようにしか見えなかった。これは、レオンにとってはとても興味深いことだったといえる。話において聞く限り(そして彼自身も自分でそうと認めているとおり)、君貴はレオンがインターナショナル・スクールで出会ったお坊ちゃま・お嬢さんと大体同じような恵まれた出自だった。にも関わらず、自分のように苦悩のゆえに神学や哲学を独自に学ぼうというのではなく、彼の場合はただ「自分の興味を引くものだから」という理由だけで、馬鹿みたいに分厚い哲学の本を何冊となく読めてしまえるのだ!
『君貴ってさ、ほんと面白いよね』
レオンは、この屋敷の書斎にある、トマス・アクィナスの『神学大全』や『アウグスティヌス著作集』といった本のことを思いだし、笑いを禁じえなかった。
『僕はね……今この瞬間も、この世界のどこかで惨めに泣いている子供たちのことを、神の奴はどう考えているのだろう――ずっと、何かそんなことばかり考えていたんだ。神の奴はそうした子供たちひとりひとりに心をこめて謝罪すべきだと……今まで、こうした事柄に関する答えで一番近かったのは、僕の中では旧約聖書のヨブ記だった。あと、このヨブ記について心理学者のユングが書いた「ヨブへの答え」ってやつ。けど、僕の中で今、何かわかった気がする。僕も君貴みたいに考えることさえ出来れば――たぶん、生きるのが今よりずっと楽になるかもしれない』
君貴は、神学や哲学についてのみならず、レオンと色々なことを語りあった居間のほうまで下りてきて、そこのソファで煙草を一本吸った。無用の喫煙はガンリスクを高める……これからもうひとり子供が生まれ、レオンの遺言通り彼らが無事成長するのを見届けなくてはならない身としては、こうした悪癖は一切やめにしなくてはと、君貴にしてもそうは思っていた。
(果たして、俺が適当にくっちゃべっていたろくでもない哲学なんてものは、本当にレオンに役立っていたんだろうか……)
君貴にはわからなかった。聖書の詩篇には、『牧草地は羊の群れを着ている』という美しい表現があるが、夢の中で君貴はレオンの城へ向かう途中、美しい緑したたる牧場に、羊の群れがいるのを見た。そして羊といえば、イエス・キリストの象徴でもある。レオンが今いるのは、キリスト教における天国ということなのかどうなのか……だが、彼が今は悩みもなく苦しみもない安らかな世界にいることだけは、君貴にも妙にはっきり確信できていた。そして、それが君貴にとっての心の救いでもあった。
(あの夢の中には、俺が『レオンにこんな世界にいて欲しい』といった願望的なものは含まれていなかった。ただ、すべてがあまりに神聖な印象で……もし俺が死んだあと、魂だけの存在になって、再びレオンが住んでいるらしいあの城を訪ねていくことが出来るといいんだが……)
そしてこの日以降――君貴の建築デザインにはある変化が起きてくるということになる。彼自身、(こうした発想は今までの俺にはなかった)といったインスピレーションが次から次へと湧いてくるようになったのである。そのことを君貴自身、自分で不思議に感じていたわけだが……その後ハッと気づいたことには、そうした変化が起きたのは、レオンの手紙を読んで以降、あの夢を見て以降のことだったのである。
確かに、レオンの遺産的なものはすべて、レオン・ウォン基金のほうへ寄付され、慈善活動及びレオン・ウォン・ピアノコンクールなど、芸術活動において拠出されることになっていた。けれど、君貴はある意味――それ以上の大きなものを、レオン・ウォンから霊的な贈り物として貰ったということになるのかもしれなかった。
* * * * * * *
「ガキどもはどうしてるんだ?」
珍しく家にいて仕事をしていた君貴は、マドレーヌを食べながら読書していたマキに向かってそう聞いた。この日は土曜日で、彼女が今もパートで勤めている花屋のほうは休みだった。
「貴史は耀子さんのところに行ってるし、真子はバレエ教室よ。だから、電話がかかってきたら迎えにいかなきゃ」
「そうか」
不意に、どすんとソファの隣に座ったかと思うと、急に君貴が意味ありげに、いつもとは違うキスをしてきたため――「ちょっと!」とマキは露骨に眉をしかめていた。「今、本がすごくいいところなの!」
「だって、ガキめらは暫く帰ってこないわけだろ?俺が家にいてこんなこと、滅多にないからな。それで、夫の相手をするより本が大事ってことは、よっぽどためになる素晴らしい本を読んでるんだろうな?」
「マルセル・プルーストよ。『失われた時を求めて』」
「ああ、それじゃ問題ない。どうせいつまでたっても読み終わらんだろ?それはな、老後の楽しみにでも取っとけ。登場人物が途中で誰が誰やらわからなくなってくるだろうから、『えっと、コイツ誰だっけな?』なんて調べるのがたぶん、非常にボケ防止に役立つ。ふうん、なるほど。それでマドレーヌか」
君貴はそう言って、ピンクやグリーンや黄色といったカラフルなマドレーヌのひとつを口の中へ放り込んだ。それから、マキの飲んでいたティーカップから紅茶をがぶ飲みする。
「仕様のないひと」
そう言うと、マキは矢車菊のワンピースの後ろを君貴のほうへ向けた。彼はそれを妻の同意と受けとめ、背中の下のほうまでファスナーを下げる。
子供たちは帰ってこないはずではあったが、念のため、夫婦の寝室の鍵のほうはかけておいた。自分たちの関係がこんなに長く続いているのは……たぶん、君貴が家を留守にしている時間のほうが遥かに長いそのせいだろうと、マキとしてはそんなふうに感じている。
「もうひとり、子供を作らないか?」
妻の手首から紐をほどきつつ、君貴はそう聞いた。彼らふたりの間で性的な関係に変化が起きたのは――明らかにレオンの影響だったといえる。彼がマキに君貴が本当はどんなプレイが好きか、教え込んだのだ。
「ええっ?あなたいつも言ってるじゃない!ガキなんかふたりもいればたくさんだって」
「そうなんだ。もちろん俺も、おまえの言いたいことはわかってる……だが、自分が悪いこととはいえ、本質的にあの子たちは俺に懐いてない。でも今度は、俺もきちんと子育てってやつに参加するよ。もう若手も随分育ってきたし、今度こそ家にいる時間のほうも増やすから」
「アテにならないわね」
マキは溜息を着いて下着を着はじめた。急いでシャワーを浴びて、食事の仕度をし、それから子供たちから電話がきたら車で迎えにいってやらなくてはならない。
「わたし、今の落ち着いた生活が気に入ってるのよ。ようやく貴史も真子も手がかからなくなってきたし……手がかからないなんて言っても、まだまだこれから魔の思春期ってやつが控えてるしね。もうひとり赤ん坊を育てるなんて、今度こそ育児ノイローゼになっちゃうかもしれないわ」
君貴は反論しなかった。そこでマキは、ワンピースを着ると、夫のほうを振り返った。彼はこういう時――というより、何かを自分の思い通りにしたい時、こちらが反論できない言葉を連ねるのが常だった。それがないことを、マキは不思議に感じたのだ。
「どうしたの?何かあった?」
「この家の中では、俺だけほんとの家族じゃない」
マキはまだ服も着ようとしない君貴の隣に、もう一度座り直すことにした。そんなこと、彼は気にしてないように思っていたが、実はそうでもなかったのだろうか?
「べつに、貴史も真子もあなたに感謝してるわよ。わたしも、こんないいところに暮らして、何不自由なく毎日食べたり色々買ったり出来るのは、お父さんが一生懸命働いてるからなのよーなんて言い聞かせてるし」
「まあ、俺はたまにしか帰ってこないし、帰ってきても、仕事だなんだで特段親子らしい会話もない。俺はここに帰ってくると、ほとんどマキとばっかりしゃべってる。あの子たちと話すのも、おまえが間に入ってうまいこと翻訳してくれるから会話が成り立つのであって――俺にとってここは、マキがいなかったら自分の家とは思えない感じだな」
「んーと……じゃあ、こういうこと?わたしがまた妊娠して赤ちゃんを生むとするわよね?で、今度はあなたもなるべく家にいて、赤ちゃんの面倒を見るようにする……すると、自然親子の会話も増えるみたいな?だったら、犬でも飼ったほうがよくない?お父さんがワンちゃん飼ってもいいって言ったら、あの子たちきっと喜ぶわ。そしたら、犬の面倒を見る傍ら、父と子の会話も自然と増えるわよ」
「犬か……」
君貴がふーと溜息を着くのを聞きつつ、とりあえずマキはシャワーを浴びにバスルームへ向かった。マキにも、彼の言いたいことがわからぬでもない。貴史は父親がたまに家に帰ってくると、明らかに避けていた。べつに、父親に対して反抗的な態度を取るということはなく、茶の間でも至って普通ではある。けれど、食事が終わった途端、すぐ自分の部屋のほうへ引っ込んで、あとはもう必要最低限そこから出てこない。いつも、マキと彼と真子の三人の時には、そういうことはないだけに――マキは母親として、(そういうことなのかな……)とぼんやり理解するのみだった。
一方、妹の真子はといえば、「パパとなんて、べつに話すことなーい!」とはっきり言うタイプだった。とはいえ、時々気まぐれ的に話しかけては、「パパ、シェネって知ってるー?」などと聞きつつ、くるくる回ってみたり……だがこちらも、君貴は普段大人を相手にしている時とは違い、娘とは会話があまり長続きしないのだった。
(でもだからって、もうひとり子供なんて……流石に今度ばっかりは君貴さんに諦めてもらわなきゃ)
マキはこの日、四人分の夕食の仕度をしながら――寝室を見ると、君貴は裸のまま寝ていた――子供たちから携帯に電話がかかってくるのを待った。チャーハンにスープ、それに貰い物のペキンダック……献立はそんなところだった。
そして、君貴が起きてくるのと同時、携帯が鳴った。すると、「俺が迎えにいくよ」と、欠伸しつつ彼は言った。
「真子のバレエ教室なら、前にも行ったことがあるからな」
「そういえばそうだったわよね。真子ちゃん言ってたわ。若いバレエの先生なんかがキャーキャー騒いでたって。『パパもう五十のおっさんでしょお?』って不思議がってたわ。でも、自分のパパが格好よくてモテるタイプだっていうことくらいは、一応わかってるみたいよ」
「俺はまだ五十じゃないっ!よんじゅーはちだ、四十八っ!!」
君貴が車のキィを片手に怒ったように出ていくのを見て――マキは笑った。そして、普段はあまり意識しない自分の年齢……今自分が三十五歳であることを思いだし、マキは少しばかり胸の奥が痛みだす。レオンの亡くなったのが三十七歳……いつか来ることとわかっていたとはいえ、彼が生きていた時の年齢をいずれ自分は越え、さらに歳を重ねていくことになるのだろう。
マキは夕食の仕度がすむと、『失われた時を求めて』の続きを読むのはやめ、ピアノのある部屋のほうへ入っていった。そこで、手慰み程度の気持ちで、バッハの<インベンションとシンフォニア>を弾く。レオンがその昔、よくここで赤ん坊の貴史に向かって弾いていた曲だ。
「あの子ね……むしろ真子よりも貴史のほうが、あなたに似てる気がするのよ。不思議な感じがしない?」
ピアノの上には、レオンの写真、それにその横には白いチューリップのドライフラワーが置いてある。以前は、写真で顔を見るのさえつらくて、レオンの写真を部屋のどこか、目につく場所に飾ることさえ……マキには考えられないことだった。けれど、確か貴史が六歳くらいの頃だっただろうか。家のCDの中で、繰り返しレオンのピアノ曲ばかり聴いていた貴史が――ピアノの上に自分の崇拝対象を飾り「大きくなったら、レオン・ウォンみたいなピアニストになる!」と、突然宣言したのだった。
もっとも貴史は、レオンのことを覚えてはいない。あんなに「パパ、パパ」と言って懐いていたことも、最後の悲しい別れのことも何もかも……そして、マキも君貴も、レオンが「パパ」としてこの家にいた時のことを、話して聞かせたようなことも一度としてない。けれど、純粋に一人のピアニスト、今世紀最高の、至高のピアニストであるレオン・ウォンのことを何かの偶像のように崇拝しはじめたわけである。
こうして、息子の手によって飾られたレオンの写真をピアノの上にいつでも目にするようになると――彼のことを見ても、今は涙を流さずにすむ自分のことが、マキは何か不思議だった。
>>続く。