こじらせ女子ですが、何か?

心臓外科医との婚約を解消して以後、恋愛に臆病になっていた理穂。そんな彼女の前に今度は耳鼻科医の先生が現れて!?

ピアノと薔薇の日々。-【31】-

2021年06月04日 | ピアノと薔薇の日々。

 

 ええと、お話のほうも後半の、かなり佳境に入ってきてると思うのですが、今回本文に関して書きたいことが色々ないわけではなかったり(^^;)

 

 でも、そうしたことについて書くのはたぶん、あとがき。とか、そっちでのほうがいいと思うので……今回の前文はちょっと、エルヴェ・ギネールさん著の、『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』という本について、少し取り上げてみたいと思いました

 

 >>エルヴェ・ギネール。フランス文学の将来を担う気鋭の作家だったが、エイズに感染、絶望の中、残酷な病と闘う自分自身の姿、同性愛、M.フーコー、女優I.アジャーニとのスキャンダラスな関わり――一切合切をさらけ出して書き、フランス中に衝撃を与えたのがこの作品である。

 

 1991年12月、36歳の誕生日の直後にギベールは死去。翌92年本書は日本でも単行本として刊行、一大センセーションを巻き起こし、彼の死を悼む声が殺到した。

 

(『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』エルヴェ・ギネールさん著、佐宗鈴夫さん訳/集英社文庫より)

 

 タイトルがセンセーショナルなので、作中に偽名で出てくるミシェル・フーコーさんやイザベル・アジャー二さんといった友人が、エイズを宣告されてから離れていった……みたいに、実はわたし、本の帯のところを見て最初誤解してました(^^;)

 

 でも、内容のほうはそうした暴露本的なものではなく、エルヴェ・ギネールさんがエイズを宣告されて以降の告白体験記――といった趣きの本だと思います。また、文章や行間などから著者であるギネールさんの誠実さを感じるため、ミシェル・フーコー=ミュージル、イザベル・アジャー二=マリーンといったように偽名を使われているものの、ほとんど事実をそのまま書いておられるのだろうな……と強く感じる、そうした筆致で描かれた小説といっていいと思います。

 

 そのですね、今回ここの前文にあんまり文字数を使えないため(汗)、本編との関連について手短に書くとすると――本の中に、>>「十五の歳にヴェヴェー(スイス西部の都市)の<グランド・ホテル>で、ジェームズ・ボンド役を演じた俳優に力ずくで犯されたのが自慢だった」といった表現で、ギネールさんのかかっているお医者さんが描写されています。

 

 正直わたし、本の中で特に面白かったのは、(同じく同性愛者である)哲学者のミシェル・フーコーさんと、女優のイザベル・アジャー二さんに関しての箇所だったのですが、ミシェル・フーコーさんに関しては「ああ、そうした感じの人だったんだ」といった人柄の良さが感じられ、彼の難しそうな哲学の本について読んでみたいと思いましたし、イザベル・アジャー二さんについては――ギネールさんは彼女のことで金銭的に損害を被ることになってしまったため、「憎い」といったように表現されていたりします(^^;)

 

 文字制限のせいで詳しくは書けませんが、それはギネールさんが腹を立てるのはあまりに当然といった感じの問題で、わたし女優のイザベル・アジャー二さん大好きだったのですが、ギネールさんのこの本を読んで、あるひとつのことがわかった気がしました。

 

 つまり、これまで映画雑誌のインタビュー記事で、アジャー二さんと共演した俳優さんなどが、「ああ、イザベル・アジャー二ね(失笑)」みたいな感じだったのが何故なのか、このギネールさんの文章でよくわかったというか(^^;)

 

 それはさておき、>>「ジェームズ・ボンド役を演じた俳優に力ずくで犯されたのが自慢だった」って、ちょっとドキッ☆とする描写ですよね。もちろん、このことに関して、著者のギネールさんに対してどうこう言いたいわけではなく、おそらく事実ではあるのでしょうが、「そのハンサムなナシル医師が僕に語ったところによると、彼は十五の時にそんなことがあったらしい」といったくらいに読んでおくべきではあるのでしょう。

 

 ただ、わたしの小説の本編との関連でいうと、ヨウランちゃんが書いた例の「汚れたピアニスト、レオン・ウォンの真実」は、彼女なりになるべく事実に則して書いたのだとは思います。ただ、エルヴェ・ギネールさんと同じように、「ここにはすべて本当のことが書いてあるのだろう」といった誠実な筆致によって小説を書かれてしまうと――誰かひとりの人を本の中で貶めたいと思い、その部分だけが虚偽で、その前後においてはすべて真実が書いてある……みたいなノンフィクション的体裁の本を出版された場合、たとえばこの、>>「ジェームズ・ボンド役を演じた俳優に力ずくで犯されたのが自慢だった」というジェームズ・ボンドの部分を、自分が貶めたいと思っている人の名前にすればいいのではないだろうか……と、ふと思ったんですよね。たとえば、>>「彼女はその時、俳優の△□に強引にレイプされ、処女を奪われたと言って泣いていた」とか、そんなふうに表現したとしたら――ある意味、長く怨んでいた人間に復讐を果たすことが出来る、ということが可能なのではないでしょうか?(ちなみにナシル医師は男性です。念のため^^;)。

 

 いえ、ただ単にエルヴェ・ギネールさんの本を読んでいて、「そういうこともありうるし、やろうと思えば出来ないことはない」ということに気づき、「本って怖いな~」と思ったという、それだけのお話でしたm(_ _)m

 

 また、このテーマでミステリー小説を1本書いて書けないこともないかな~とも思ったり

 

 それではまた~!!

 

 

       ピアノと薔薇の日々。-【31】-

 

 レオンは、君貴に遺書を残したその二日後、ニューヨークにある自身のペントハウスで、心臓を拳銃によって撃ち抜き、自殺した。享年、三十七歳だった。

 

 天才ピアニスト、レオン・ウォンの自殺は、瞬時にして世界を駆け巡った。テレビショーも世界の新聞、雑誌各誌も、義理の妹であるウォン・ヨウランの暴露本が彼の自殺の原因だろうと語り――インターネットなどでは、本の不買運動が展開され、さらには出版元であるザザ・インターナショナル・パブリッシングには電話が殺到した。中には「人殺し!」と一言叫んで切られるといったことまで、繰り返し何度もあったようである。

 

 また、レオンと親しく交流のあった人々、あるいは仕事上でつきあいのあった人々は、次々弔意を表明した。>>「我々は類稀なる驚異の同時代人を失った」、>>「今もまだ信じられない。彼があの美神そのものの姿で、優しく微笑んでくれた時のことを思いだすと……本当に涙が止まらないよ」、>>「つらい。本当につらい。レオンのピアノを二度と聴けないことも、もう彼に会えないことも」、>>「あんな気違いの中国女の言うことなど、誰も信じていなかったのに……あの女は名誉毀損の罪によってでなく、殺人罪によって訴えられるべきだ」――こうしたツィート、あるいはなんらかのSNSによる発信には、あっという間に数千個、あるいは数万個、特に有名人のものでは数百万個の『like!』が次々ついていったものである。

 

 他に、レオン・ウォンのあとを追う後追い自殺も世界各地で起こり、『レオン自身もそのようなことは望んでいないことです。みなさん、彼のことを悲しませるのはやめてください』といったように、自殺防止のための呼びかけが、世界各国のテレビニュースでは流れるようになっていた。

 

 レオン・ウォンを死に追いやった張本人として、非難の的となっているウォン・ヨウラン当人は――愛する義理の兄の自殺に、この上もなく打ちのめされていた。世界中の人間の恨みを買う形となった彼女ではあるが、ヨウランはそうした意見についてはどうでも良かった。彼女はこの時、北京にある父親が残してくれたマンションの一室で、レオンが主人公のライバル役を演じた映画を見、特にお気に入りのシーンのところで何度も画面を止めていた。

 

「ふふっ。レオンったら、本当はもっとピアノうまいのに、主人公の男の実力に合わせて、あまりうまく見えないように工夫してるのよね」

 

 ヨウランの北京市内にあるマンションは六十階建てで、彼女はその最上階に住んでいた。240m2あり、リビングや寝室などが全部で十室以上もある、女の独り暮らしとしてはかなり贅沢な造りをしていたと言えるだろう。

 

 ヨウランは今、ふたつある寝室の片側、彼女が心の中で「レオン・ルーム」と呼んでいる場所にいたが、そこに足を踏み入れた人はその全員が、彼女の精神の異常性に驚いたことだろう。レオン・ウォンのピアノ・コンサートや、彼が出演した映画のDVDジャケット、雑誌のカバーその他、そうした印刷物のコラージュ作品によってその部屋は1ミリの隙間もなく埋め尽くされていたからである。また、回転式の書棚にはレオン・ウォンのピアノ全集といったCDコレクションのすべてが並べられ、彼がインタビューを受けた雑誌などは、それがどんなに小さな記事でも、必ずヨウランは買い求めていたのである。たとえそれが男性のファッション雑誌で、彼女にはさして読みどころのないものであったとしても。

 

 ヨウランはレオンが自殺した、と聞き、驚くとともに激しく動揺し、悲嘆に暮れもしたが――本の出版自体については後悔していなかった。世界が自分を敵となぞらえ憎み倒していたとしても、そんなことも本当の意味では気にならなかった。

 

「だって、あなたが悪いのよ、レオン。わたしというものがありながら、あんな男みたいな日本女と一緒に暮らしたりするから……」

 

 事の発端は、二年以上も昔のことに遡る。ヨウランは自分でも参加してよく投稿することのあるレオン・ウォンのファンが運営するサイトで、気になる写真を見つけたのである。>>「レオンさま発見!?超似てる~!!ヾ(*´∀`*)ノ キャッキャッ♪」とコメントのあるその写真を見て――(間違いない、レオンだわ)とヨウランは確信した。そのあと、その会員がリンクしているブログのほうへ移動し、彼女が東京在住の中国人であることがわかったのである。

 

(東京……東京の一体どこだろう)

 

 ヨウランは、このニャオルンというハンドルネームの、猫好きらしい女性のブログを過去に遡り、徹底的にチェックした。すると、コメント欄でのやりとり含めチェックするうち、彼女が東京にある有名なデパートに店員として勤務していることがわかった。デパート名のほうはイニシャル表記だったが、何分ヨウランは年に数度は日本へショッピングをしにいく。それでニャオルンの勤務先がわかると同時、彼女がそのデパート内のどこでレオンのことを目撃したのかもわかった。

 

(アトリウムのある、休憩所ね……)

 

 ヨウランは早速とばかり、日本へ発った。ニャオルンはその観葉植物や水槽に囲まれた休憩所の向かい側、紳士服売場で働いているとのことで――セーターやトレーナーを畳むといった作業の合間、彼がやって来ると見るとはなしにそちらを観察しているとのことだった。

 

 そして、ある時シャッターチャンスがやって来た。ニャオルンが擬似レオンさまと呼んでいる超格好いい男性が、彼女がちょうど休憩に入るという時にいつもの場所へやって来たのである。ニャオルンはさり気なくランチしつつ、ベビーカーの横でカフェラテを飲む彼を携帯に収めることに成功したのだった。

 

 擬似レオンさまは大体2~3週に1度くらいのペースでやって来られるとのことで、こうしてヨウランの興信所の人間を雇っての調査が開始された。不審に思われぬよう、何人かの人間を入れ替え、そこで携帯をいじったり本を読んだり……といった張り込みを連日させたわけである。

 

 その間、ヨウランはリッツホテルに泊まり、日本滞在を思う存分楽しんだ。彼女は大学卒業後、数年の間、映画配給会社で通訳の仕事をしていたことがある。ヨウランは中国語の他に広東語、台湾語、英語と日本語がしゃべれた。主に、プロモーションなどで中国へやって来た映画関係者の通訳を務めていたが、政府や大使館などから依頼があって各国の政治家や要人の通訳をすることもあるほど、彼女は通訳者として豊かな才能に恵まれていたといえる。

 

 また、同じく通訳の仕事で、アメリカやヨーロッパ各地へ赴くこともあり、そうした中で一番出張の多かったのが日本と韓国である。ゆえに、ヨウランはこの時も遊びなれた日本での滞在を大いに楽しんでいたといっていい。

 

 張り込みが開始されて十日後――レオン・ウォンと思われる人物が、またしても紺色のベビーカーを押して現れた。だが、今度はすらりと背の高い、ショートカットの女性も一緒だった。その送信されてきた写真を見るなり、ヨウランはこう叫んでいたものである。

 

「そのまま、その人たちのあとを尾けていってちょうだいっ!!」

 

 前金をたっぷり受け取っている興信所側は、もちろん喜んでそうした。そして、幸福そうな親子三人の住む、<ピュリス東京>なるタワーマンションを突き止めたわけである。

 

 そのあとのことは簡単だった。先の夫婦のように見える男女を(もっとも、ヨウランはその事実を認めなかったが)徹底的にマークしてもらえばいいわけである。いや、簡単というのはヨウラン側の言い分であって――アルバイトを含む興信所の人間にとっては、なかなかに骨の折れることであった。何分、三十七階建てのタワーマンションには、何十人もの居住実績があったし、出入りがあるのは何もそこに住んでいる人間だけとは限らない。そんな中、金髪碧眼のレオンは目立ったし、大抵ベビーカーと一緒に外へ出てくるため、尾行すること自体は簡単ではあった。だが、問題はそれ以前のこと……マンションのほうは一定間隔で街路樹のある通りに面しており、姿を隠して見張る――といったことが非常に困難であった。また、オートロックのドア前では常に管理人が目を光らせてもいるのである。

 

「メールボックスのほうも見ましたが、名前が出ているのはほんの数件ですよ。今のところ、何階の何号室に住んでいるのかまではわかりません。ですが、女性のほうはあとを尾けて、花屋で働いているらしいことがわかっています。毎日花を買いに通ううち、『マキちゃん』と呼ばれていることまではわかりましたが、それ以上のことは今のところ……ところでこの花代、経費として請求させていただきますが、構いませんかね?」

 

『もちろんよ。花なんかいくらでもお買いなさいな。そのマキとかいう女を指名して、花束を作らせたらどう?そしたら何度も通ううち、世間話するくらいの仲になれるんじゃなくて?』

 

 ヨウランがなんとしても知りたかったのは、子供の父親が誰かということだった。ヨウランは、レオンが間違いなくゲイだと思っていた。ほとんど確信していたと言っていい。けれど、彼が女性と結婚する可能性もなくはないと思っていた。とはいえ、その場合は海外モデルの、レオンと同じブロンドに青い瞳の美女と――何かそのように想像していたのである。にも関わらず、自分と似たり寄ったりレベルの、花屋の店員なんかと……そう思っただけで、ヨウランは何かが許せなかった。

 

「それがですね。店員ではなく花屋で事務員をされている方なんですよ。毎日月曜から金曜の平日は、八時四十五分くらいまでに出社して、大体六時前くらいに退社し、電車で真っ直ぐ自宅のほうへ戻ります。途中、スーパーへ寄ったりすることもありますが、何かそんな程度ですね」

 

『そう……花屋の事務員、ね』

 

 ここには一体、どんな事情が絡んでいるのか、ヨウランには皆目見当もつきかねたが――やがて、長期に及ぶ張り込みの成果が出てきた。スーツを着ていてさえ、胸板の厚いのがわかる背の高い男が、例の花屋の事務員と映画館へ行ったのち、ホテルに入っていったことがわかったのである。

 

 その報告を受けたヨウランは、あのベビーカーの赤ん坊は、彼らふたりの間の子供だろうと直感した。おそらくレオンは、この男の友人として、赤ん坊の面倒を見るか何かしているのではないだろうか?

 

「ろくにコンサートを開きもしないで、一体何してるのよ、あなたは……」

 

 また、ヨウランは広い肩幅の上に乗った、そのハーフのような端整な顔立ちの男に見覚えがあった。有名な建築家の阿藤君貴だ、間違いない……ヨウランは送信されてきた男の顔と、インターネット検索で調べた結果とを比較して、そう確信した。

 

「でもたぶん、結婚はしていない……?」

 

 結婚している場合は、相手が一般人の場合、名前はないのが普通とはいえ、それでも大抵「配偶者あり」くらいのことは、ウィキぺディアに掲載されているものである。

 

 ヨウランは訳がわからなかった。もしかして、同じ階に住むか何かしていて、お互いの部屋を行ったり来たりする仲だという、そうしたことなのだろうか……。

 

 だが、このあともヨウランにとって腹の立つ事態は続いた。あの尾崎麻貴と名前の判明した女は、土曜や日曜に子供も含め三人でよく出かけることがあり――興信所の報告によれば、唇ではないとはいえ、時々キスしていることさえあって、恋人同士、あるいは夫婦であるようにしか見えないという。

 

 ここで一旦、ヨウランは中国のほうへ帰国した。毎日エステやスパへ通い、全身に美容術を施された彼女は、整形した上、豊胸手術も受けていたため、とても美しかった。帰国後も、ヨウランの頭からはレオンと尾崎麻貴という女性のことが離れなかった。そして、そんな嫉妬に苦しむ彼女の元に朗報が届く。ヨウランの金払いが非常に良かったため、興信所の社長が気を利かせ、その後も多少独自の調査を続けさせていたのである。

 

『例のピュリス東京っていうマンションですがね、どうやら管理人を募集しているようなんです。もちろん、普通に考えればプライヴァシーの侵害に当たり、よくないことではあります。ですが、費用のほうを弾んでもらえるのでしたら……うちから人を派遣して、面接を受けさせようと思うのですが、いかがでしょう?』

 

 こうして、うまく管理人をひとり潜り込ませることに成功したヨウランは、さらにショックを受けることになる。レオンと尾崎麻貴が最上階に住んでおり、なおかつそこの名義は建築家の阿藤君貴だというのだからますます訳がわからない。共用部にそれと気づかれぬよう盗撮カメラを設置し、観察してみたところ――その部屋から出てくるのは、毎日主にレオンとマキという女のふたりだけである。だが、一月、あるいは三週間に一度くらいのペースで、持ち主が来訪することもあるようだということだった。

 

(レオンが……わたしのレオンが、女なんかと一緒に暮らしてる。でも、待って。レオンがゲイなら、女の人には何も感じないはずよ。だからこそ、一緒に暮らしているという可能性も……)

 

 だが、いくら現実認識の把握が苦手なヨウランでも、この場合逃げ場はなかった。ふたりは出先でもよく恋人同士のようにキスしているというし、建築家・阿藤君貴との関係は不明だが、ホテルへ行ったからとて、必ずしも肉体関係を持っているとは限らない(とはいえ、その前までデートしていたことを考えると、その可能性は限りなく低いように思われる)。

 

 ヨウランは訳がわからないなりに――この時、ひとつのことだけはわかっていた。ようするに、レオンは裏切ったのだ。あの楽壇の寵児として君臨することに至った、ピアノの才能、それが開花する手助けをしてやったこのわたしのことを……こののちの、ヨウランの怒りと嫉妬のパワーは物凄かった。

 

 彼女はまず、イギリスへ飛んで、レオンがいた児童養護施設について調べることにした。父親の元秘書に訊ねてもけんもほろろだったため、この先十万ポンドかかろうと二十万ポンドかかろうと構わないから、とにかくレオンの幼年時代からはじめ、彼の過去を洗いだすつもりでいた。とはいえ、この時点ではまだ、ヨウランもレオンが施設において組織的虐待を受けていたとまでは想像だにしていなかったのである。

 

 調査は長期間に渡り、ヨウランは優秀な探偵にこの件に関して任せると、再び中国のほうへ帰国した。おわかりいただけるだろうか?ヨウランは確かに、レオンの過去に同情はした。また、この時点ではまだ本を出版するといったことは念頭に置いておらず、ただ、自分が心から崇拝し、恋する男の過去について次から次へ知れるということが――純粋に興味深く、この上もなく激しく興奮することだったのである。

 

(あの女は、レオンのこうした過去について知っているのかしら?わたしは、それでも彼のことを愛せるわ。むしろそれであればこそ、ますますレオンのことが愛おしいくらいよ。でも、あなたはどう?ただ、レオンの見てくれの良さだの、天才的なピアニストとしての腕だの、そんな上っ面のことだけで夢中になってるだけなんじゃないの?……)

 

 思えば、ヨウランがレオンに対してはっきり自分の恋心を自覚したのは、彼が自分の父親に猥褻な行為を受けているその現場を目撃してからであった。君貴は「おかしい」と断じたが、ヨウランが実の父と外国生まれの義理の兄のまぐわいを見てしまったのは、本当にただの偶然による。彼女はレオンに辞書を貸しており、学校の宿題をするのにそれが必要だったため、彼の部屋まで取りに行こうとした。レオンのヨウランに対する態度はいつも素っ気ないものではあったが、彼女はあまり気にしていなかった。それでこの時も、ほんの二言三言でもレオンとおしゃべり出来たらと思い、胸をドキドキさせながら廊下を歩いていったのである。

 

 ところが、部屋をノックしようとした直前――「ああ……ッ!」という、彼女がそれまで聞いたこともないような、切なげが声が聞こえたかと思うと、何か鞭打つような音が聞こえた。「許してくださいィっ!」と言って跪いていたのは、ヨウランの父のほうであり、上半身裸のレオンのほうは、ベルトで丸裸のルイ・ウォンの尻を打ち叩いていたのだった。ヨウランはドアの隙間から見てはいけないものを見てしまった気がして、すぐ引き返していたが……それでも、レオンの美しい肉体については、彼女はその脳裏にはっきり焼きつけていたのである。

 

 こののち、ヨウランは父の帰宅について、妙に敏感になった。父はもしや、そうした方面のマニアなのだろうか……?当時ヨウランはまだ十三歳だったが、SMプレイのことくらいは知っていた。いや、この場合何よりヨウランが憑かれたように夢中なったのは――裸の義理の兄の、あやしい美しさのほうだったろうか。むしろ、ブタのように太ったハゲ親父のことなどは、視界に邪魔な存在だった。

 

 父とレオンの、はっきりとした関係性が知りたい……そう思い、ヨウランは父親の在宅時、こっそりレオンの部屋に隠れていたことが何度となくある。果たして、彼女の父は娘がクローゼットに隠れているとも知らず、のこのこやって来た。

 

『今日は、どういうのがいいの?』

 

『わたしに、奉仕させてくれ』

 

 それまでずっと勉強していたレオンは、溜息を着くと『わかった』と答え、服を脱ぎはじめていた。途中から、父のルイが手を貸すことさえして、美少年のシャツやズボンを脱がせてゆく。

 

 自分の父と義理の兄のまぐわいの間中、ヨウランは胸がドキドキして堪らなかった。この場合も――フォトショップで邪魔な人物を消す時のように、ヨウランは実の父の姿を消してしまいたいくらいだった。ベッドに横たわる全裸のレオン……時折、快楽のためだろうか?それとも醜いハゲ親父の猥褻行為に嫌悪感を覚えてか、微かに顔の表情が歪む。

 

(レオン……っ!ああ、レオンっ!!)

 

 汚らわしい父の手によってではなく、自分こそが彼の体に触れ、そして浄化するように舌でなめまわしてあげたいと思った。他の男のペニスなど、触ることさえ虫唾が走るが、唯一レオンのものであれば――聖遺物のように口に含んでいいとさえ、のちにヨウランは思うようになっていく。

 

 クローゼットになど隠れていて、出る時にはどうするつもりなのだと思われるに違いないが、ヨウランはふたりがトイレへ行くなりなんなりした時に、素早く廊下のほうへ出るのが常だった。だが、今にして思うと……もしかしたらレオンは気づいていたのかもしれないと、ヨウランは思わぬでもない。『おまえのこの変態のブタのような父親から、僕を救ってくれ』と、そう伝えたくて、本当は自分の存在に気づいていながら、あえて見逃していたのではないかと。

 

 だが、無論ヨウランは母イーランに父の痴態を密告するでもなく、見て見ぬ振りをし通した。けれど、のちのちこのことがまさか大きな恋愛的障壁として、自分の目の前に立ちはだかってくるとは――この頃のヨウランには想像だに出来ないことだった。

 

 ヨウランはレオンに恋していたし、ショパン・コンクールで優勝した義理の兄のことを、この上もなく誇りに感じてもいた。(これというのもわたしがまず最初に彼の才能を見抜き、しかるべき先生と出会えるよう橋渡ししたからだ……!)そう思うとヨウランは誇らしさで胸がはち切れそうになったものだ。もっともレオンのほうでは常に、自分に対するそうした恩をまったく忘れきっている態度であったにしても……。

 

 レオンがショパン・コンクールで優勝してのち、北京のウォン家を出ていくと、ヨウランもまた留学するための準備をはじめた。兄のハオランは高校卒業後、アメリカの大学へ進学する予定であったし、彼女は彼女で小さい頃から憧れていた日本へ留学しようと思い定めていたのである。

 

 義理の兄のその後の活躍については、テレビや雑誌といったメディアを通してしか知ることはなくなってしまったが、ヨウランはこの頃からすでに、集められる限りのレオン・ウォン情報についてはほとんど網羅するような形で、新しくレコーディングされたCDが出れば予約して買い、音楽雑誌の表紙を飾れば何冊も同じものを買って、自分の部屋中に飾った。この時点で、ヨウランは自分が報われない恋心を抱いているだけだということには気づいており、これからはただの一ファンとしてレオン・ウォンのことを応援していくのだという、何かそうした心構えだった。

 

 ところが――語学大学在学中、ヨウランは生まれて初めて異性とおつきあいしたのだが、相手からキスされそうになった時、奇妙な怖気が背筋に走るのを感じた。それで、一度相手を突き飛ばしたものの、相手はやめてくれようとせず、かなり強引な形で唇を奪われることになってしまったのである。

 

 このあと、ヨウランは自分の部屋で押し倒されたのだが、どうにかして拒んだ。つきあっていたのは違う科の、一つ年上の日本人学生だったのだが、彼は「どうあってもやれないらしい」と悟ると、途端に不機嫌になっていた。そして一言、「大して美人ってわけでもねえのに、気取ってんじゃねえよ!」と捨て台詞を残し、去っていったのである。

 

 普段優しく温厚な人物だっただけに、ヨウランは彼の豹変振りに驚いてしまった。この件に関して、他の友人たちに相談すると「部屋に上げてもらって、こりゃオッケーだ、イケるって何かの拍子に勘違いしちゃったんじゃない?」、「だからそんなにぽんぽん、当たり前みたいに男を部屋に上げちゃダメなんだよ」といったように忠告された。

 

(そうだったんだ……)と、ぼんやりヨウランは思った。部屋に上げるくらい、そう大したことじゃないとしか、彼女は思っていなかった。(むしろそんな基準で相手を部屋に上げるか上げないか考えるだなんて、そっちのほうがよほど気取ってやしないかしら)といったようにすら感じていた。

 

 とにかくその後、ヨウランは男性との交際といったことについては、かなりのところ慎重になり――結局、もともと相手がそんなに好きなタイプでなかったせいもあり、告白されてつきあっても長続きする、といったことは一度もなかったのである。

 

 ヨウランは大学院卒業後、中国へ帰国した。台湾や香港などで、映画スターの通訳をするといった仕事に数年従事したが、具体的な異性との交際といったことはその後なかった。といっても、彼女はこの頃すでに整形していたため、行く先々で「あの美人は何者か」といったようにはよく噂されたし、実際通訳を務めた俳優に口説かれたことも数え切れない。

 

 もしかしたら一度、思い切って誰でもいいから身を任せてさえしまえば、自分も楽になるのではないか……そう思うこともあった。けれどその度、昔、日本人の男に唇を奪われた時の感覚が甦ってくるのだった。ヨウランがその瞬間に思ったことは、(助けて、レオンっ!)ということであり、強引に男から舌をねじこまれたことは、ただの悲しい経験でしかなかった。

 

「わたしのファーストキスは、レオンに奪って欲しかったのに……」

 

 ヨウランはレオンがこれまでに二冊公式で出している写真集のページを捲りながら――ぽつり、とその上に涙を零した。ピアニストで写真集を二冊も出している人物など、世界中にレオンくらいのものではないかと、ヨウランはそう思う。この写真集の中で、一番露出度の高いのは、プールサイドで犬と戯れる海パン姿のレオンだったろうか。ゴールデン・レトリバーが彼の胸にのしかかり、レオンのほうは優しく微笑んでいる……といったような一場面だ。

 

 >>「う゛う゛~っ。ワンちゃんがどいてさえくれれば、レオンさまの貴重な部分があらわになるのにぃっ!! o(≧▽≦)o 」、>>「っていうより、わたしが犬になりたい!!((〃゚艸゚))ドキドキ♡」――といったツィートを、ヨウランは昔見たことがある。その点、彼女はレオンの完全な裸の姿を何度も見たことがあった……正確には覗き見、ということではあったにせよ。

 

 ヨウランは壁の一面を飾るレオン・ウォンの中で、もっとも大きく引き伸ばされたポスターの前に陣取ると、彼の唇に何度も熱心に口接けた。ちなみにこのポスターはこれまでの間に数度、レオンの唇の部分が破れて交換されている……ヨウランが舌で紙をなめすぎたという、そのせいだった。

 

 ヨウランはこのあと、ベッドに横たわると、ブヨブヨの腹の父親の姿を消した、過去の記憶――レオンの引き締まった白い体のことを脳裏に思い浮かべ、自慰行為に耽った。彼の細い指や熱い舌が彼女の体中を這いまわり、最後には「いいよ。ヨウランのここ、ものすごくいいっ。おまえのここ、最高だっ……!!」などと、耳元に優しく囁いてくれる。ここに至るまで、ヨウランはありとあらゆるレオンとのデート・シチュエーションをシミュレートしており、そのヴァリエーションの中で、ヨウランがもっともお気に入りとしているのが――誰かが彼女を犯そうとするところへレオンがやって来、その男をレオンがぶん殴り、義理の妹に熱烈キスするという、まるで少女漫画を地でゆくような黄金パターンだった。

 

 現実に生きる男は誰も、ヨウランの頭の中の、この激しい妄想を超えることが出来なかった。やがて、ヨウランが映画会社の通訳の仕事を辞めてしまうと、再婚後、暫く会ってなかった母親が彼女の部屋を訪ねてやってきた。そしてこの時、「何故あんなにいい仕事を辞めたの?」と、詰問口調で問われた。「まあ、働かなくても一生困らないくらいの財産があるのはママもわかってるわ。だけど、それで何もせず、ただ部屋に閉じこもってるつもりなら、いい人を紹介するから結婚でもしてちょうだい」と。

 

 世界中で開かれるレオンのコンサートの追っかけで忙しく、仕事まで辞めてしまった……などと、本当のことは言えないヨウランではあったが、それでもお見合いなど、絶対嫌だと思っていた。結婚なぞしてしまったら、もう自由気ままにレオンの追っかけが出来なくなってしまうではないか。

 

「ママ!仕事さえしてたらいいんでしょ?だったら何か、ウォン家の一員として恥かしくないような、そうした仕事を見つけるわ。それにわたし、愛のない結婚はしたくないの。結婚相手くらい、誰か自分で見つけるから、それまで待ってちょうだい」

 

 けれど、このヨウランの言い分は、昔から自分だけの言い分を一方的に通す、イーランには通じなかった。彼女はこの時つかつか廊下を歩いていくと、「ママ、お願いだからやめてっ!」と叫ぶ娘の制止を振りほどき、例のあの部屋――レオン・ルームのドアを開き、さも頭が痛いといった顔をしてみせたのである。

 

 しかもこの時折悪しく、レオンのポスターにディープキスしすぎて、彼の唇のところが破れ、穴のあいた状態でもあったのである。ちなみにこうなったのは、ついきのうの夜のことだった。

 

「こんなことだろうと思ったわ。資産家で、身分も相応にある誰かをママが紹介してあげるから……とにかく、まずは会ってごらんなさい。あなたが面食いなのはよくわかったから、それで、性格も優しくて合いそうな誰かを、必ず見繕ってあげる」

 

 もしレオン・ルームさえ見られていなかったら――ヨウランは母のこの意見に強く抗弁することが出来ただろう。けれど結局、なし崩し的に母の要望を受け容れるしかなかった。この時もヨウランは、相手がこれ以上もない好男子の資産家であるのを知り……結婚に踏み切ることを考えなくもなかった。だが、彼女はやはり相手の男に抱かれている自分を想像することが出来なかった。彼に抱かれつつ、目を閉じてレオンにそうされているところを妄想するのはどうだろうかと思ってもみたが、やはりどう考えても無理がある。

 

(そうよ。この男だってやっぱり、パパと同じよ。っていうより、金のある男はみんなそう。結婚したって浮気するに決まってる。ママは単に、お父さんとの結婚生活が不幸だったから、娘のわたしにも同じものを背負わせたいだけなんじゃないの?冗談じゃない……わたしには結婚なんかしなくても困らないだけの資産がすでにあるのよ。それなのに二人くらい子供を生んで、あとは子育てして人生を終えるだなんて、真っ平ごめんだわ)

 

 ――この時、ヨウランは母のイーランとこの上もなく激しい喧嘩を演じ、これまで娘にほとんど言い逆らわれたことがないだけに、イーランは仰天してしまった。「ママはもう新しい男と再婚したんだから、わたしには構わないでちょうだいっ!」、「母親らしい愛情なんて、小さい頃から感じたこともないっ。それなのに、なんで今さらもっともらしいことを言って娘を苦しめようとするのよっ!」、「わたしはじ・ゆ・うっ。これからは自由で解放された女として生きてゆくのっ!自分の二の舞の失敗をわたしにさせようとしたって、そうはいかないんだからっ!」……自分にとっての正義をいくつも振り回す娘には勝てないと見たイーランは、最後、「もうわたしとあんたとは、母親でもなければ娘でもないっ!!」そう叫び、ガッチャリ電話を切っていたものである。

 

 といった次第により、ヨウランは自分の独身女としての自由を勝ち取った。誰に迷惑をかけているわけでもない。ただ、わたしはレオンを愛しているだけ……こうしてヨウランは、彼女の考えるレオンとのデートと結婚を繰り返した。すなわち、世界中で行われるレオン・ウォンのコンサート会場へ駆けつけることがデートであり、生レオンを見た興奮そのままに、その日の夜は高級ホテルで彼に抱かれるところを妄想するというのが、彼女にとっての結婚初夜というわけだった。

 

 結婚初夜を何度も繰り返す……というのは何やら言葉としておかしい気もするが、ヨウランはレオンのピアノの生音を聴きながら、足の間が濡れてくる感覚がこの上もなく好きだった。そうなると、もう他の男のことなど受け容れられなかった。どうして昔、自分はあんなくだらない日本の男に唇を奪われてしまったのだろう?結局こうなるなら、いっそのこと固く封印されたように、完全に純潔をレオンのために守りたかったのに……。

 

(もうわたしはあなた以外愛せない……仕事のキャリアも、幸福になれたかもしれない結婚も、何もかもすべてあなたに捧げたわ。それなのに、どうしてあなたはあんな大したことない日本の女なんかと暮らしてるのよ……)

 

 ヨウランは幾度となく泣きながら、例の本を執筆した。レオンの生い立ちが気の毒すぎたからではない。自分と彼との運命的な出会い、他でもないこのわたしこそが彼をピアノへ導いたのだという自負、過去にレオンと交わした会話のあれこれなど……思いだすにつけ、何故かとめどもなく涙が溢れてきた。

 

 そうなのである。ヨウランの復讐対象はレオンではなかった。こんな本が出版され、世に出て騒ぎになれば、相手の女が絶対に読まないはずがない。彼らの生活の平和はおそらく根底から覆されるだろう……とにかく、ヨウランの目的はレオンが尾崎麻貴という女性から離れ別れるという、その一事だったといっていい。そのためには、彼女が心から愛する男であるレオン・ウォンが苦しむのも――元はといえば彼のせいでもあるのだから――やむをえないことなのである。

 

 こうして、ヨウランはいくつかの出版社を当たり、最終的にニューヨークに本社のあるザザ・インターナショナル・パブリッシングという中堅どころの出版社と契約することになった。もちろんヨウランは自分の弁護士に事に当たらせたため、交渉事は基本的に間接的なものではある。また、この場合彼女にとって金は問題でなかった。センセーショナルの渦中にいて、人から注目されたいというわけでもない。ただ、レオンが再び自分という存在を思いだすこと、そして苦しみもがきつつ、過去にわたしを抱かなかったことを後悔するがいい……そうも思っていた。

 

 ヨウランは一度だけ、レオンのニューヨークにあるペントハウスを訪ねたことがある。入口にアメフトのセンターのようなドアマンがいたが、身に着けている物など、彼女にはもともとセレブとしての威厳があったためだろう。他の居住者の後を自然についていくと、特段あやしまれるでもなく、オートロックを通過できた。最上階のドアのほうは、ネットで勉強したピッキングの成果を試して成功した。何分、彼女はレオンの義理の妹でもあるのだ。誰かに何か問い詰められてもなんとかなるだろうとしか思っていなかった(いくらレオンでも、警察に突き出したりはすまい)。

 

 この時、ヨウランは日本の男に危うく自分の純潔を汚されるところだったのを恐れ――駄目元でもう何年も会っていない義理の兄の元を訪れたのである。彼女はレオンがゲイだと思っていたし、ゆえに拒まれたにせよ、その事実を突きつけさえすれば真の恥辱とはなるまいと考えていた。また、何かレオンとの間に新しい展開が開かれるかもしれないと、そのことを期待する気持ちもあった。それに、ずっと自分の頭の中にしか存在しなかった妄想が、現実になるかもしれない可能性だって、数パーセントくらいはあるかもしれないのだから……。

 

 だが、ヨウランの夢は破れた。処女膜は破られなかったが、夢のほうは完膚なきまでに破られたのである。彼女はレオンが裸の自分の体にむしゃぶりつき、レイプでもするように激しく、自分の処女を奪ってくれることを望んでいた。そう――ヨウランは少女時代から、美形の義兄が自分の部屋を訪れ、レイプしてくれることを願っていた。それが長年に渡る彼女の美しい夢だったのである。

 

『そんなこと出来ないよ。ヨウランは僕にとって……大恩ある人の大切な娘さんなんだから』

 

 自分の裸から、何か悪いものでも見たように目を背けられ、ヨウランは狼狽した。もちろん、予測していなかったわけではない。そしてその際には、彼に対して『やっぱりね。あなた、ゲイなんでしょ?』とでも言えばいいと思っていた。だが、あまりにショックで、ヨウランの口調は冷静とは遥かかけ離れたものとなった。

 

『大恩ですって!?あんな、薄汚い汚れたブタ……本当は、あなたに指一本触れる権利さえなかったわ。それとも、あんなハゲ親父を相手に、時折は本気で悶えることがあったってわけ?』

 

『随分な言いようだね。君は、いつもお父さんとお母さんの前では小さくなって縮こまってるだけだったじゃないか。なんにしても、早く服を着てくれ。そんな君のことは見たくない』

 

 ――そんな君のことは見たくない……その一言は、この上もなくヨウランのことを打ちのめした。そしてここへ来てようやく、彼女の唇からあらかじめ用意してきた科白が洩れた。

 

『あなた、ゲイなんでしょ?やっぱりね。そうだと思ってたわ……わたし、ただあなたのこと試そうと思ってたの。お生憎さま!仮にあなたが襲いかかってきても、拒むつもりでいたわっ!!』

 

 過去に現実にあったこの記憶を、フォトショップで都合の悪い人物を消す時のように、ヨウランは消去した。それから少しずつ、顔と体に手を入れはじめた。母のイーランはそのことを快く思わず、『ありのままのあなたがお母さんは好きよ』と言ったが、ヨウランはそんな言葉、信じなかった。彼女の母、イーランはいつでも美しかった。整形はしていなかったが、週に二回はエステに通い、シミひとつない肌、アイロンをかけたばかりのような、皺ひとつない顔を保っていたお陰で――彼女は六十を過ぎた今も、三十代くらいにしか見えなかったものである。

 

 最初のうち、ヨウランは変装してレオンのコンサートへ行き、その後、元の姿とはまったくの別人になるに至ってからは(韓国へ足しげく通ってこの顔になるのに、軽く2億ウォンは使った)、堂々と前の席のほうで足を組むに至っていたのである。

 

 本が出版になる前の五日ほどの間、ヨウランはプロモーション活動に励んだが、脳裏にあるのはいつでも、愛するレオンのことだけだった。今、もしかしたらテレビで自分のことを見て驚いているかもしれない……そう思うとヨウランは興奮した。きっと、美しくなった自分を見て、どうしてあの時抱いておかなかったのだろうと後悔しているに違いない。

 

 ヨウランとしては、あの本で唯一不満な点は――タイトルのほうは最初、「私だけが知るレオン・ウォン」というものだったのに、出版社の意向で「汚れたピアニスト」といったように変更されてしまったことだったろうか。あの表紙で、タイトルにレオン・ウォンとつけば、本のほうは必ず売れるとヨウランは主張したが、出版社のほうでは「もう少し強いインパクトが欲しい」とのことで、結局彼女はマーケティング戦略云々と説得され、譲歩せざるを得なかったのである。

 

 ヨウランは、この本が出版されれば、どんな未来が自分を待っているかは一応理解していた。世界中のレオン・ウォンのファンから激しく罵られ、インターネットのほうは荒れに荒れるだろう。けれど、それで良かった。その代わり、自分は彼女たちが真に憎むべき、尾崎麻貴とレオン・ウォンを別れさせることが出来るのだから……。

 

「レオン、どうして死んだりなんかしちゃったのよ?わたしと同じように、自分にとって都合の悪いことは――CDロムにデータを上書きする時みたいに、単に消してしまえばいいだけじゃないの。みんなそうしてるわ。そしてそんなふうにして生きていくしかないのよ……」

 

 レオンの死に打ちのめされ、涙を流して茫然自失としているヨウランの元に、こちらも数年以上連絡など取り合ってない兄のハオランから電話が来た。実は、例の本の出版後から何度となく電話が来てはいたのだが、ヨウランは説教されるだけだと思い、一度も出ようとしなかったのである。

 

『おまえ、一体何してんだっ!?』

 

 それが随分長く会ってない兄・ハオランの、第一声であった。彼は今、元は父親のものである巨大複合企業(コングロマリット)の総帥といった立場であり、ゆえに決して暇人ではない。この時彼はビジネスのためにマカオへ来ており、タワーホテルの高層階から妹に電話していた。ハオランが声を荒げて、ヨウランのことを怒鳴ったのも無理はない。もう一時間後には得意先とディナーの予定があるというのに――彼は妹に対して言いたいことがあまりに多すぎたからである。

 

「何って……レオンのニュースを聞いて泣いてたところよ」

 

『ばっ、馬鹿じゃないのか、おまえはっ。何が泣いてただっ!そもそも、レオンが死んだのはおまえのせいだろうが!おまえがあんなおかしな本を出版したりするから……レオンから、あいつが拳銃自殺なんてする前に、電話が来てたよ』

 

 ここでハオランは、「チッ」と舌打ちして、話を続けた。

 

『「妹のヨウランのことを許してやってくれ」だと。「インターネットやなんかでこれからますますバッシングされて、ヨウランが妙な気を起こすかもしれないから、兄貴として助けてやって欲しい」ってことだったよ。他にも、なんかお互い、初めて腹を割って話したな。俺も、もっとレオンと打ちとけて話してたら良かったとか、そのことはおふくろも後悔してるみたいだとか、色々な。だけどまあ、そんなことあいつだってわかってるのさ。「突然、イギリスなんかから金髪の孤児がやってきたら、自分がおまえの立場でも同じような態度しか取れなかっただろう」だと。俺だってもう二児の父ってやつだからな。親父がレオンにしたこと自体、絶対許せないよ。だが、今さら故人に代わって息子の俺があやまるなんてのもおかしな話だし……とにかくあいつはな、俺に電話をかけてきた時にはもう死ぬつもりでいたんだ。おそらくだからだろう。本当に死ぬという直前、もうそうと決めたらこの上もなく寛容な広い心持ちというやつになったんじゃないのか?それで、十代の頃、同じ屋敷内にいながら終始冷たい態度だった俺を許し、さらにはその許しがたい妹のことも「許してやって欲しい」と言って、レオンは死んでいったのさ』

 

 このあとも、言い足りぬとばかり、ハオランの説教は続いた。

 

『だかな、おまえがあんな馬鹿みたいな真似さえしなけりゃ、レオンは絶対死ぬことはなかったんだ。言ってみりゃおまえがあいつを殺したも同然なんだぞ。レオンがおまえに一体何をした!?せいぜいのところを言って、ろくに振り向いてももらえなかったとか、そんな程度のことだろ?それなのに……』

 

 ――ヨウランはもう、昔と同じく、せっかちでキツく聞こえる兄の声に耳を傾けてなどいなかった。携帯の通話を切ると「レオンが、わたしを許してる……」そうつぶやき、本当は明日、決行するつもりだった身じまいを開始した。

 

 レオン・ルームを入ったすぐ右には、ヨウランがうまく合成した、アルマーニのスーツを着たレオンとの結婚写真が飾ってある。それと同じウェディングドレスを着ると、ヨウランは手に薔薇の花を握りしめ、部屋のベランダのほうへ出た。

 

 彼女はいつも、レオンのコンサートへ行くたび、真っ赤な薔薇の花束を贈った。もちろん、名前のカードなどはない。ただ彼が「いつも百本もの薔薇を贈ってくれるのは誰だろう」と、そう不思議に感じてくれさえすれば十分だった。

 

「レオン、今いくわ……わたしのこと、今度こそ受けとめて……」

 

 ――こうして、ウォン・ヨウランはマンションの六十階から飛び降り自殺した。彼女の、軽く二億ウォンはかかった顔は潰れ、一体誰なのか、判別することさえ出来ないくらいだったという。

 

 そして、この北京市在住の女性がウォン・ヨウランであることがわかると、世界中に再び激震が走った。天才ピアニスト、レオン・ウォンの死、彼のあとを追おうとする相次ぐファンの自殺、それからその元凶であった『汚れたピアニスト~レオン・ウォンの真実~』の著者、ウォン・ヨウランの飛び降り自殺……特に最後の、ウォン・ヨウランに関しては、ネット民の批判は痛烈なものだったといえる。

 

 >>「だったら最初からあんな本なんか出版するなよ!」、>>「おまえなんか死んで当然だ。むしろ、死んだ程度のことで許されると思うな!!」、>>「嗚呼、元凶である馬鹿女が死んでも、レオンさまは戻って来ない……(号泣)」など、ある意味当然のこととはいえ、ヨウランに対する容赦ない制裁は死後もやむことはなかったのである。

 

 

 

 >>続く。

 

 

 

 

 


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