さて、最終回……なのですが、今回も前文にあんまり文字数使えないっていうことで、どうしようかなと思ったり(^^;)
しかも最終回なのに、トップ画が「サリバン先生の書籍って」といったところかもしれないのですが、一応君貴が言及してるヘレン・ケラーの言葉は、こちらの本からの引用ということで
わたしも読んだの相当昔のことなんですけど、とにかく素晴らしい名著です♪
それで、この本にも色々素晴らしいことが書いてありますし、ヘレン・ケラーはどの本も感動的なものが多いと思うのですが、文字数の関係で長く引用したり出来ない……というわけで、どうしようかなと思ったり。。。
なので、中途半端ですが、文字数の許す限り、一部分だけコピペ☆させていただこうかなと思いますm(_ _)m
>>大分前に、彼女は私に、
「1600年も生きたいわ」
と言った。
天国と呼ばれる美しい国で<いつまでも>生きたいとは思わないかと聞かれた時の彼女の最初の質問は、
「天国はどこにあるのですか?」
だった。
私は私も知らないと白状せざるを得なかったが、それは星のひとつにあるかも知れないと暗示しておいた。
すぐあとで、彼女は、
「先生がどうぞ最初に行ってらっしゃって、私に話してくださいませんか」
と言い、さらに付け加えた。
「タスカンビアは小さな美しい町です」
(※タスカンビアはヘレンの出身地)
これは一年以上も前の話であったが、彼女が再びこの質問に戻ってきた時には、彼女の質問は数多く、より執拗になっていた。
彼女は、
「天国はどこにあって何に似ているのですか?なぜ私たちは外国を知るように天国を知ることはできないのですか?」
と尋ねた。
私は、非常にやさしい言葉で、天国と呼ばれる場所はいっぱいあるが、本質的にはそれは一つの状態――心の願望の充足、欲望の満足――であり、天国は<正義>が認識され、信仰され、愛されるところにはどこにでも存在する、ということを話してやった。
(「ヘレン・ケラーはどう教育されたか~サリバン先生の記録~」、槇恭子さん訳/明治図書刊)
ではでは、次回はたぶんあとがき。ということになるかな~と思いますm(_ _)m
それではまた~!!
ピアノと薔薇の日々。-【36】-
「わたしがあなたを想って一番泣いたのはね、たぶん、あのあと一週間くらいしてから……白いチューリップの花束が届いた時よ。胸が潰れそうなほど、本当に悲しかった」
そして、そのチューリップの花束のメッセージカードには、一言『ありがとう』とだけ書き記されていたのである。何故、白のチューリップだったのかも、マキにはよくわかっていた。
レオンとマキは、広いテラスのほうで花や野菜を育てていたわけだが――そのうち、レオンは花言葉を調べだすようになった。もちろん、花言葉というのは国ごとに違ったりするものなので、この場合は日本の、ということである。そして、十月頃、来年の春に花咲くようにと、チューリップの球根を植えていた時……彼はこの時も図鑑でチューリップの花言葉を調べていた。
『ふうん。薔薇と同じく、チューリップも色ごとに花言葉が違うんだねえ。チューリップ全体の花言葉は思いやりだって。それで赤だったら、「愛の告白」とか「真実の愛」、ピンクが「愛の芽生え」、「真実の愛」、黄色が……ええーっ!?「望みのない恋」だって。なんでっ!あ、でも他に「名声」っていう花言葉もある。それで、白いチューリップが、「わたしを許してください」、「純真」だって。あと、紫のチューリップが「不滅の愛」かあ。こういうのって、一体いつ誰が、どんなふうにして決めるんだろうねえ』
『そうね。それに、国によってまた花言葉って変わってきたりもするものね。それに、もらったほうでもそんなに、花言葉まで深く考えたりしないんじゃないかしら』
『でも、フランスあたりじゃ本数にも意味あったりするんだよ。12本だったら、「恋人になって」とか「愛人になって」とか「奥さんになって」とかね。99本だったら「永遠の愛」だし、108本だったら「結婚してください」とか。僕も、マキにプロポーズする時には、薔薇の花束でも108本贈ろうかな。それに、僕たちだってこれから喧嘩するかもしれないだろ?そういう時……もし僕が白いチューリップを持ってきたら、マキ、本当に心から僕が反省してるっていうことだって、覚えててくれないかな』
『わかったわ。じゃあ、わたしもレオンに対して何かあやまりたいことがあったら、同じようにしたらいいのね』
『そういうこと!』
――レオンと一緒に作りはじめた庭は、その頃よりもっと大きなものになった。レオンはトマトやチャイブやイチゴやハーブや……そうしたものが収穫できるようになると、子供のように大喜びしていたものだった。もちろん、最初から何もかもうまくいっていたわけではない。時には実が実っても味が美味しくなかったり、形が悪いこともよくあった。けれど、「何かを育てる」というプロセスが、レオンにとっては何より楽しいことであるようだった。
他に、クローゼットに残っていたレオンのヴァレンシアガのコートのポケットには、いつ購入したものかはわからないが、ティファニーのケースに入った指輪も入っていた。他に、「Happy Birthday Maki!!」と書いてあるカードも……それが何を意味していたのかは、マキにもはっきりとはわからない。
『レオンはおまえにプロポーズするつもりだったんじゃないか?』と、それを見つけた君貴は言った。『それがマキの誕生日だったかどうかまではわからん。でも、口で結婚してくれって言うつもりだったのであれば、ハッピーバースデーのカードはいらない気もするしな』
一応、マキにも心当たりがないでもなかった。マキの誕生日は二月十四日で、その日は偶然、君貴が来ていて、彼女に花束とチョコレートを渡していた。例によって君貴はなんの前触れもなしにやって来たため、マキはレオンにしかチョコレートを用意していなかったのだ。
『いいよ。僕のチョコレートは君貴が食べれば?べつに、僕はチョコレートならいつでも、マキと日常的に食べてるしさ』
『そういうことなら、俺とおまえで半分ずつにすりゃいいんじゃないか?まあ、マキのことは半分に分けるわけにいかないというのは、なんとも悩ましいところだがな』
その時も、もしかしてそうだったのだろうかと、マキは思わないでもない。もちろん、マキもレオンが自分にプロポーズするつもりだったかどうかまではわからないにしても――ただ、君貴も自分も、レオンの望みを叶えてさえいたら良かったのではないかと、今も時々後悔することがある。つまり、重婚というのは多くの国で許されていないにせよ、単に結婚式を挙げるだけであれば、二人ずつ順に結婚すればいいわけである。そして、そんなふうに誓いあったあと、三人で一緒にいさえすれば……あんなことにはならなかったのではないかと、そんな気がして。
「ねえ、レオン。君貴さんがね、三人目を作らないかだなんて言うのよ。一体どうしちゃったのかと思うでしょ?だけど、わたしももう赤ちゃんを育てる元気なんてないわ。でも……もしあなたとあのままずっと一緒にいて、もう一人欲しいなんて言われたら――たぶん、そうしてたでしょうね。もちろんレオンの場合は子育てに協力的だったから話は別としても、なんといっても君貴さんの場合はねえ」
マキは時々、子供たちが学校へ行って誰もいない間、こんなふうにレオンに話しかけていることがある。もちろん、彼の霊の声が聞こえてきた……などということは一度もない。それでもマキは、(こんな時、レオンに相談したら彼はなんて言ったかしら)と思い、今のように話しかけていることがあるのだった。
「お兄ちゃん、ずるーいっ!パパに媚売って、何か買ってもらうつもりでいるんじゃないの!?」
「媚売ってるってなんだよっ!車をちょっと磨いてたってくらい、べつになんでもないことだろ」
廊下をドタバタ競うように走ってくる足音が聞こえ、マキはピアノの蓋を閉じると、リビングのほうへ戻ることにした。
「あらあら、ふたりとも一体どうしたのよ」
貴史も真子も、普段はそれほど兄妹喧嘩が多いほうではない。せいぜいが、お菓子を半分ずつ渡したつもりなのに、「お兄ちゃんのほうが多いっ!」と妹のほうで文句を言い、兄のほうで「わかったよ。じゃあ、やるよ」とブツブツ言いながら譲ってあげるといったところだろうか。
「ママ、聞いてっ。パパがねーえ、真子のバレエ終わるまで待っててくれたの。でもその間、お兄ちゃんったら車をピカピカにして待ってたのよ。だからわたし、アッタマおかしいんじゃないのって言ってやったの。そしたら、お兄ちゃんは『べつに僕は頭おかしくない』っていうの。どう思う!?」
マキはふたりの後ろにいた君貴のほうを見やったが、彼のほうでは(よくわからん)というように、しきりと首を捻っている。
「単に僕はただ黙って待ってるのも暇だなと思って、ちょっと車を磨いたってだけの話なんだって。それなのに何か買って欲しいものがあってお父さんに媚売ってるとかって言うんだよ。ほんと、アッタマくる。なんだコイツって感じ」
「はいはい。まず先に手を洗って、うがいしてらっしゃいね。お父さんは忙しいんだから、くだらないことで煩わせたりしないの」
貴史がバスルームへ行こうとすると、真子のほうで兄を押しのけて先に走っていこうとする。「こいつ!真子、待てっ!!」と叫ぶ貴史の声が廊下から響いてくる。
「……俺は、これだけは絶対認めたくなかったんだ」
君貴は(ああ、疲れた)といったような溜息を着き、食卓テーブルの椅子へ座った。
「俺は、真子のことはレオンの子だと信じたい。だが、あれは間違いなく阿藤家の女に顕著な血筋ってやつだ。気が強くて、他者を押しのけてまでも自分が上へ上へ行こうとする、というな。あの喧嘩も、まるで昔の自分と美夏を見ているようで、まったくもっていたたまれない」
「そう?わたしは貴史って、どっちかっていうと内気で、押しだしのいい君貴さんとはあんまり似てないかなーなんて思ってたけど……」
マキは、フライパンでチャーハンを作りながらそう言った。
「押しだしがいいだって?俺だってな、生まれた時から今のような性格だったわけじゃないぞ。昔は俺だって今の貴史みたいに、大勢いる他人の前で自分の意見なんかとても言えない……みたいな時期だってあったんだ。だが、事あるごとに美夏が横で『ぷぷーっ、ダッさ!!』だのなんだの言ってくるもんで、そのうちだんだんに性格のほうが変わっていったのさ」
この時、お互い競いあうようにして手を洗い、「がらがらがら、ぺっ!!」とうがいしたふたりは、これまた互いに体を押しのけあいながら、居間のほうまで戻ってきた。
「ママたち、なんのお話してたの?」
美味しそうなチャーハンの匂いをかいで、真子は上機嫌だった。しかも今日は大好きなペキンダックまである。
「お兄ちゃんがね、パパの小さかった頃に性格似てるっていう話よ」
「ええ~っ!?ねえ、ママっ。じゃあ、真子は?真子は誰に似てるの!?ママの若かった頃に似てる?」
「そうねえ。ママは真子ちゃんみたいにあんまり活発な子じゃなかったから……そんなに似てないんじゃないかしらね」
(真子は親戚の美夏おばさんにそっくりだ)とは、君貴は口が裂けても言いたくないため、ただ黙っていた。実をいうと、携帯でゲームでもしていればいいのに、何故貴史が車を磨いていたのかは……君貴にもわからないでもなかった。阿藤家の実家へ行った時、貴史のピアノを少しばかり褒めたのだ。他に、「あのババアの特訓についていくのは大変だろ?」とか、「だが、あれでもまだ、父さんがおばあちゃんにピアノを習ってた頃よりは遥かにマシだ。ババアも年を取った分、多少は人間が丸くなったようだからな」といったようにも話していた。対する貴史のほうでは、「そうでもないよ」とか、「あれでも、練習が終わったあとは優しいんだ」とぽつぽつ答えるという、何かそんな感じだったかもしれない。
「ええ~っ!?真子も誰かに似たい~。ねえパパ、誰かいないの!?おばあちゃんの若かった頃とか……」
「おばあちゃんと真子は全然似てないよ」
貴史はにべもなく言った。
「おばあちゃんの若かった頃の写真、見たことあるだろ?物凄い美人なんだ。真子は可愛くないわけじゃないけど、大きくなってからもあそこまで美人にはならないよ、たぶん」
この兄の意見を聞くと、真子はぶっすーとして、黙り込んでしまった。マキは君貴に目くばせし、(やれやれ)といったようなサインを送る。
「まあ、十年後のことは誰にもわからんものな。そういえば、先生が褒めてたよ。真子ちゃんは向上心が強いからコンクール向きだって」
「ほんとっ!?でも、なんかちょっとアテにならないなあ。パパが真子のことお迎えにくると、女の先生たち、ちょっと目の色が変わるんだもの。真子がいるってことは、当然ご結婚してるってことでしょ?それなのになんでなのか、真子よくわかんなーい」
マキはどうしても堪え切れなくて、くすくす笑った。君貴の女嫌いというのは、今も継続されており、そのあたりの価値観は実は現在もあまり変わっていない。『世間話をするのも煩わしい』というのが君貴の本音ということだったが、マキとしては(それでも内心では悪い気はしないんじゃないかしら?)と思ったりもする。
「そうねえ。女の人は格好いい人が好きだからじゃないかしらね。男の人が美人を見ると目の色を変えるのと同じよ。それより早く、ごはんにしましょう」
けれど、チャーハンが行き渡り、スープが注がれてのちも、真子のおしゃべりは続いた。実をいうと彼女は兄の貴史が「ナンデ病」と呼ぶものを患っている。発症したのは確か、マキの記憶にある限り、四歳の頃だ。「ママー、なんで虹は虹っていうのー?」、「ええとね、昔の人は虹を天をまたぐ竜だと思ってたんですって。それで、この虫編っていうのは、元は蛇から来てるのね。だから虫編にアーチを意味する工っていう組み合わせで虹って書くみたいよ」、「ふーん。でも、どうして虹って出るの?」、「雨上がりだからじゃない?」、「どうして雨上がりだと虹が出るの?」、「…………………」――といったような具合で、だんだん説明するのが面倒くさくなってくるわけである。その他、庭で土いじりをしていれば、「ママー、土ってそもそも何?」、「土はなんで土っていうの?」、「土と砂ってどう違うの?」ということや、「花に色々な色があるのはどうして?」、「葉っぱの緑はなんで緑って決まってるの?」……などなど、とにかく例を挙げれば切りがない。
また、こうした子供らしい疑問であれば多少納得も出来ようし、パソコンでちょっと調べて教えてあげることも出来るかもしれない。だが、真子の場合、ほとんど疑問のための疑問を述べるということが多く、そうした時、マキは貴史とお互いに助けあうことにしている。すなわち、「しつこいな、おまえ!ママが困ってるだろ」と注意したり、「真子ちゃん、いいかげんにしなさい!お兄ちゃんが困ってるでしょ」と叱ったりと、適当なところで強制的に話を打ち切りにするのである。
「ねえ、パパ。なんで男の人は綺麗な女の人が好きなの?」
貴史はテレビのほうが気になるといったような振りをし、いつもと同じく、食事をしたらさっさと自分の部屋のほうへ行くつもりでいた。君貴自身が自覚しているとおり、彼らの間には心理的に距離があるのだが、貴史の場合はただ単に、特に話すこともない父親と一緒にいるのが苦痛とまでは言わないまでも――なんとなく居心地が悪いのだった。
「さあな。パパはあんまり女の人に興味がないから、よくわからんな」
ここで、マキが何故チャーハンを吹きそうなほど笑いだしたのか、真子にも貴史にもまるでわからなかったといえる。
「え~っ。でも、ママには興味あるでしょ?だって、ママはとっても綺麗だもの」
「そうだなあ。ママにはそりゃ興味があるさ。けどまあ、パパにはママ以外の女の人は基本的にどうでもいいんだ」
「ふう~ん。べつにいいけど、変なのー。そもそも、ママとパパはどうして結婚したのー?ようするに、橋本先生みたいに、パパに色目使ってくる女の人は他にもいたわけでしょ?パパはどうしてその中でママにしようって思ったの?」
「色目ってなあ。べつにただ普通に話してたってだけだろうが。ママはとにかく、パパにとってすべてにおいて特別だったのさ。親切だし、優しいし、真心があって人を裏切らない。あとはぺちゃくちゃ人の悪口も言わないしな。大抵の女はおしゃべりだし、簡単に男の心を踏みにじりもすれば、利用価値がなくなればぽいと捨てる。お母さんがその逆の人間だったから、お父さんはママと結婚したんじゃないのかね」
「したんじゃないのかねって、なんか人事みたい」
けれども、真子はいつもとは違い、大体のところこのパパの答えで納得したようである。このあとも真子はいつも通り、バレエ教室の友達のことなどをぺちゃくちゃしゃべっていたが、貴史は食事が済むと、「勉強する」と言って、すぐ部屋へ閉じこもってしまった。
一方真子はといえば、父親からなかなか離れようとしなかったため、君貴としても相手せざるをえないということになり――真子がようやく眠って解放されると、彼は心底「疲れた」といった顔をしていたものである。
「やれやれ。俺には修司さんが何故、家庭では口でもすぼめているのが一番だと考えるに至ったのか、まったくよくわかる気がするな」
「そう?君貴さんは全然、善戦してるようにわたしの目には見えるけど。それより、これでわかったでしょ?三人目なんてとても無理よ。何より、貴史はともかく、わたしと君貴さんとで赤ちゃんのことをちやほやしたりしてたら……真子ちゃんが嫉妬したり、面白くない顔をしていじけるかもしれないでしょう?今のままでいるのが、わたしはバランスが取れてて一番いいと思うの」
「そうだな」
仕事のための連絡メールを打ちながら、君貴はマキに返事した。
「さっき、貴史がバッハを弾いてた気がするが……あれはおまえが教えたのか?」
「ああ。<インベンションとシンフォニア>のこと?あとは<平均律クラヴィーア>とか?あの子、もともとバッハが物凄く好きなのよ。でもわたしが教えたってわけじゃないわ。ただ、レオンが貴史の小さかった頃……よく子守唄代わりに弾いてたのよ。だからわたし、ほんとびっくりしちゃって。レオンの弾いてた曲が無意識のうちにも脳裏に刷り込まれていたのかなって思ったら……感動しちゃって、最初の頃は涙が出てしまったくらい」
「かなり前のことになるが……おふくろに『あんた、貴史のピアノのこと、どう思ってるの?』って聞かれたんだ。で、俺はそれまでピアノのことでは貴史と関わりあいになりたくないと思ってたから、ろくにあいつの演奏も聴いたことがなかった。だが今日……ショパンを聴いててちょっと感心したよ。おふくろがさ、『タカくん、「お父さんは僕にピアノの才能がないと思ってる」って言ってたけど、あんたまさか、いつも通りおかしなことでも言ったんじゃないでしょうね?』なんて言ってたのも覚えてたもんでな、思ったことをそのまま言った。ようするに褒めたってことだが、俺は自分の息子にでも世辞を言うつもりはない。俺の言ってる意味、わかるか?」
「ようするに……貴史には才能があるってこと?」
マキ自身は自分の息子のピアノに耳を傾けるのは好きだったが、何分、まだ十一歳ということもあり、そのくらいの年頃の子としてはなかなかうまく弾けている――という以上のことを思うのは、親の欲目……いや、この場合は欲耳だろうか?何かそんなふうに思っていた。
「才能があるとまでは言わない。ただ、これからの伸び方次第によっては、すでに才能の片鱗くらいはある……とは言えただろうな。というより貴史が今十一歳であることを思うと、そのくらいのものは見せてもらわないと、俺としても困る。もし、これからも貴史がピアノを続けて、音楽学校のほうに進みたいとでも本気で思っているのであればな。レオンの奴は、ショパン・コンクールで優勝した時、『どうしたらあなたのようになれるのでしょう?』という馬鹿みたいな質問に対して、にっこり笑顔で『反復練習あるのみです』と答えてたもんだ。まったく、嫌味な奴だよ。毎日十時間以上、コンピューターみたいに反復練習だけ続けてれば、あいつみたいになれると思うか?もちろんそうじゃない。レオンにはレオンにしか出せない音があった。その点はあいつの弾くどの曲を聴いても明白だ。そしてその点だけは、同じように楽譜を暗譜しようと、レオンとまったく同じ時間ピアノと向き合ってようと――誰にも真似したりすることは出来ない。俺はな、そういうことを指して才能と言ってるんだ。貴史も同じように、あいつにしか出せない音をすでに持ってる。そしてそれを大切に育ててやるためには……いい教師というやつがどうしても必要になってくるってことなんだ」
「じゃあ、もしかして………」
マキは、パジャマの胸元のボタンを留める手を思わずとめた。ベッドの背もたれに広い背をもたせかけた君貴は、携帯をナイトテーブルに置き、溜息を着いている。
「まあ、まだババアが生きているうちはな、俺も憎まれ役を買ってでるつもりはない。だが、ババア自身が今から言ってるんだ。『わたしがもし脳梗塞やなんかでぽっくり逝ったとしたら、貴史のことはあんたが引き続き、心を鬼にしてピアノを教え込むのよ』って。最初は俺も『そんなの冗談じゃねえぞ』と思ってたが、どうやらあのヤマンバから衣装を譲ってもらうしかないらしい」
マキはベッドの、君貴の隣に体を滑り込ませると、彼の体をぎゅっと抱いてキスした。
「なんだ?昼間のだけじゃ足りないってのか?」
「違うわよ。わかってるでしょ?ただ、嬉しいのよ。貴史もあなたに教える気があるって知ったら、きっと喜ぶわ」
「何を言ってる。これで尾崎家は完全にブッ壊れることになるんだぞ。たぶん、おまえも真子も、この先々嫌な思いをすることがたくさんあるだろう。俺と貴史が一言も口を聞かない上、どっかピリピリしてるとか、そんな理由によってな。だがまあ、それは何も今すぐってわけじゃない。俺としてはな、あいつが音楽学校にもし受かった際には……そっちに鬼か悪魔のようないい先生がいて、俺の出る幕はなかった――みたいになってくれるってことが一番いいとは思ってるんだ」
けれど、マキには君貴の横顔を見ているだけでわかった。彼はおそらく、折を見て、そのうち息子にピアノを教えはじめるだろう。そして、中途半端なことは出来ない彼のことだ。それは時に厳しいものとなるかもしれないが、何分貴史は頭のいい子だ。時々泣いてしまうくらい悔しいことがあっても……今のように食事中、あまり話もしないよりは、むしろふたりにとってそれは将来的に良い親子関係を築く一歩目となることかもしれない。
「真子は将来プロのバレエダンサーになるとしつこいくらい言ってたが、ありゃ本気なのか?」
「そうらしいわよ。今のバレエスタジオ、真子ちゃんがバレエをやりたいって言った時、お義母さんのお友達の先生がいらっしゃるところを紹介していただいたの。ローザンヌでスカラシップを取って、ロイヤルバレエとか、パリのオペラ座でバレエダンサーをしてる方を輩出してて、たまーに里帰りした時なんかに、生徒を指導してくださるらしいのね。その時に、なんかちょっと褒められて、すっかりその気になっちゃったみたい」
「ふうん。あんな股間のもっこりした男とくっついたり離れたり……ちょっと想像しただけでもムカつくが、まあ本人がどうしてもバレリーナになりたいってんなら、仕方ないんだろうな」
(ああ、そっち)と思い、マキは笑った。正直、彼女としてはこちらも荊の道と思ってはいるのだが、プロのバレエダンサーにはなれずとも、バレエで培ったものは生涯を通して真子の中で役立ち続けるに違いないと、そんなふうに思っている。
「真子ちゃんのナンデ病、結構重症でしょ?わたし、今も時々思っちゃう。もしレオンがいて、真子ちゃんになんでも『ナンデナンデ』って聞かれたら……一体どのくらいでレオンは怒りだしたかしら、なんてことをね」
「はははっ。確かにな。あいつも博識な奴ではあったが、真子が聞いてくるのは何かもっと根源的なことだものな。動物のドキュメンタリー番組で、珍しい鳥のことをやってたんだが、『パパー、なんで鳥さんはあんな細い足で歩いたりなんだりできるの?真子、スズメさんを見るたび不思議なの。なんで骨折しないのかなって』だとさ。『骨折しないから骨折しないんだろうよ』って言ったら、さも不満そうな顔をしてたっけ。『パパ、答えになってなーい』だと」
「そうなのよ。明日、日曜でしょ?もしサザエさんをあの子が見てたら、たぶんまた君貴さんにも同じこと言うわよ。『サザエさんやカツオやワカメって、どうやって服を着てるの?』って」
「どういう意味だ?」
「ほら、サザエさんのキャラクターって、体よりも頭のほうが大きい感じするじゃない。だから、服を頭からかぶったら、絶対やぶけるはずだっていうのよ」
君貴も笑った。ベッドの細長い枕に頭をつけ、隣のマキの額のあたりにキスする。
「まあ、なんにでも疑問を持つのはいいことだが、そんな疑問を持つなんて、我が子は天才か!?とまでは言えないかもしれんな。何分、ヘレン・ケラーなんかもっと凄いぞ。『地球は誰が創ったんですか?』、『子供はお母さんのところにやって来る前、どこにいるんですか?』、『他の外国へ行くみたいに、天国を訪ねることが出来ないのは何故?』なんてことを、かのサリバン先生に聞いてるんだからな。で、サリバン先生が『この世界は神さまがお造りになった』なんて答えると――今度はなんたることか!『神さまは誰が創ったの?』と、ヘレン・ケラーは先生に聞いたんだと。真子のナンデ病なんて、まだまだ可愛いもんだ」
「あの子はもしかしたら、バレリーナじゃなくて、科学者にでもなるべきなのかもしれないわね」
「将来はノーベル賞受賞者か。まったく、俺たちは親馬鹿すぎるな」
お互い、キスしあううちになんとなく興奮してきて、結局はそういうことになった翌朝のことだった。朝食を食べ終わったあと、君貴はいつものように何気なくマキのこめかみのあたりにキスした。それから、コーヒーのマグを片手に、書斎へ向かおうとした時のことだ。
「ねえ、なんでパパはママにキスするの?」
マキはこの時、新聞に目を落としていたのだが、ちらっと君貴のほうを見た。彼の顔の表情いかんによっては、「そんなくだらないことより、食器でも下げてちょうだい」と言うつもりでいた。
けれど、君貴がまた椅子に座り直していたため、そのまま黙って新聞を読み続けることにしたのである。
「う~ん。なんでパパがママにキスするか、か。考えてみたこともなかったな。まあ、そういう習慣だな。ほら、真子だって外国の映画なんかで見たことあるだろ?向こうではちょっとした挨拶みたいなもんだ」
「でも、パパはママほど真子にキスしないわ。それに、お兄ちゃんにはもっと全然キスしないし……」
貴史は、トーストにオムレツといった食事を終えたあと、友達とラインのやりとりをしているところだったが、(僕を巻き込むなよ)というように、露骨に嫌な顔をしている。
「そりゃ、ここが日本だからかもしれんな。パパも、ここがフランスかイタリア、あるいはアメリカでもイギリスでもいいが、とにかくそういうところだったら、おまえらにも毎日ブッチュブッチュキスして、ウザがられていたことだろう」
「でも、ママだってずっと日本で暮らしてるわ。そんなの、変じゃない?」
真子は特段、娘の自分のほうにキスが少ないことに対し、変に嫉妬しているとか、そういうわけではないらしい。ただ、友達の家のママやパパがそんなことをしているのを見たことがない……そうした意味で純粋に不思議らしかった。
「まあ、日本じゃな、あんまりない習慣かもしれない。ほら、真子だってどんなに仲のいい友達とだって、キスまではしないだろう?でも、向こうは親愛の情としてほっぺにキスすることくらいは普通のことなんだ。パパのそれもおんなじだよ。ママに対する親愛の情ってやつだな」
「馬鹿だな、真子は」
まるで納得してない妹に対し、貴史はイライラしたように言った。彼は妹のナンデ病には敏感なのである。何故といって長引けば長引くほど、沼に嵌まってゆくのをよく知っているからだ。
「向こうじゃ、愛しあってる恋人たちは同じようにキスしあうものなんだよ。パパとママも結婚する前は恋人同士だった。言ってみれば、結婚した今もその頃の習慣が残ってるってことだろ」
「ああ、そっか。なーる……」
このあと、貴史は誰も何も言わないを見て、何か気恥かしくなったのだろう。そのまま携帯だけ手にして、自分の部屋のほうへ引きこもってしまった。
「じゃあ、恋人同士だった頃から数えると、パパとママは数えきれないくらいたくさんキスしてるってこと?」
「そういうことになるな」
「やっだー!やっらしー。っていうか、イミわかんなーい。真子、外国に生まれなくて良かった。キライな奴にもたまに挨拶で、イヤでもキスしなきゃならないこともあるんでしょ?」
「そうだなあ。男はともかくとして、女の人のほうにはそういうこともあるだろうな。『こいつ、口臭くっさ!』とか、そういうことだが。まあ、パパも親父臭には気をつけねばなるまいよ」
――ここで、マキは堪えきれなくなって笑いだした。ずっと顔を隠すようにして新聞を読む振りをしていたのだが、最後にはお腹を抱えて笑いだしてしまう。
「マキ、おまえ、笑いすぎだぞ」
「だって……あなた……わかるでしょ?ほんともう、腹筋壊れちゃうっ……」
けれど、真子のほうではぽかーんとして、真顔のままでいた。そして言う。
「ねえ、なんでママは笑ってるの?ねえ、なんでなんで?」
もう、君貴のほうでは答えなかった。ただ、可愛い娘の頭のてっぺんあたりにキスするだけだ。そして、「いつまでもそのままでいてくれ」とつぶやき、今度こそ本当に書斎のほうへ行ってしまう。
「ママー、なんでそんなにおかしいの?真子、変なこと言った?」
「はいはい。ママも真子ちゃんに、パパがしてるみたいに毎日キスしてたら良かったわね。これはママの責任だわ」
マキが食卓の上のものを片付けはじめると、真子も手伝った。『なんでママばっかり家事をして、パパはあまりしなくてもいいの?』という疑問は、今のところ彼女の脳裏に思い浮かばないらしい。
それからマキは、こうも思った。もしここにレオンがいたら……自分だけでなく、貴史にも真子にも毎日キスしていたことだろう。けれど、確かにそれならそれで問題も残る。「真子はパパの子なのに、似てないのはなんで?」と聞かれたとしたら――自分たちは果たして、どんなふうに答えるのが正解だったのだろう。
マキはレオンのことでは、今でも埋めようのない喪失感を感じていた。けれど、今のように子育てを通して幸せな瞬間というのも、数多くあった。そして思う。普通で平凡な幸せ……それをレオンともっともっと一緒に共有しあっていたかったと願うのは――流石に贅沢すぎる願望だったのだろうか、といったように。
マキは今でも、最低でも年に一度は、レオンに手紙を書いていた。きっかけは、貴史を妊娠した時に購入した、育児日記だった。マキはその日記に、最初の頃こそ少しくらいは息子の成長記録を書き記していたが、何分、再び職場へ復帰してからは白紙の日々が続いていた。レオンはその日記を書棚で発見すると、彼がやって来てからの日々、貴史の成長に関して、毎日最低でも数行は何かを書き残していたのである。
何分、その育児日記は英語で書かれていたため――マキは辞書を引き引き訳さなければならなかったが、時に涙が出てくるという以外、その作業を苦痛と感じたことはない。お陰で今、マキは貴史が断乳した日がいつだったか、どんな味の離乳食が好きだったか、初めてハイハイした日がいつだったか……そうしたはっきりした日付を知ることが出来ている。他に、貴史の成長に関すること以外でも、今年初めてヒヤシンスが咲いたとか、マキと初めて結ばれたとか、自分の誕生日にプレゼントをくれて嬉しかったということや――そうしたことについて、随分細々と書かれていたものだった。
マキは今でも、レオンの筆跡を見ているだけで瞳に涙が滲んでくることがある。けれど、もう誰にも伝えようのない自分の想いをレオンに伝えたくて……天国にいる彼に対して手紙を書く、ということが時々あるのだった。
――レオンへ。
三人目の子供が生まれました。きっとあなたも天国で、びっくりしているでしょうね。わたしはあなたに、いつだったか……いつか、あなたも君貴さんも自分から離れていって、貴史も大きくなって、いずれ親の手を離れていったとしたら、ひとりぼっちになるかもしれない――といったように話したことがありました。その時レオンは、『君貴と貴史はわからないけど、僕はずっとマキのそばにいるよ』と言ってくれましたね。覚えていますか?
でも実際には……誰よりも一番に、あなたがわたしのそばからいなくなってしまいました。貴史も、留学するかどうかという話が出ていて、もし家族で移住するとか、そういうことにならなかったとしたら――母親として、とても寂しいことになると思っています。君貴さんは自分が十六歳でウィーンに留学しているので、『男の子はそのくらいのほうがいい』とか言っています。レオンならきっと、『いかにも君貴の言いそうなことだ』と、そう思ったかも知れません。でも、君貴さんもあれから……随分変わったと思います。貴史のピアノのレッスンには一切関わりたくないと言っていたのに、今では時間のある時に自分でも弾いてみせたりして、色々教えているみたいです。
貴史がピアニスト、レオン・ウォンのことを崇拝しだした――という話は、前にも手紙でお伝えしたとおりですが、わたしも君貴さんも、そのことを今もとても不思議に感じています。もし貴史に三歳くらいの頃の記憶が少しでも残っていたとしたら……「あの金髪のお兄ちゃんは誰だったの?」と聞かれていたとしたら、わたしたちもあなたのことを話していたでしょう。でも、本人は何も覚えていないようなので、「貴史の偶像のレオン・ウォンとお父さんは大親友だったんだ。それで、おまえの小さい頃うちに遊びにきて、オムツを替えてくれたこともあるんだぞ」と話すべきかどうか――悩んでいるようです。「将来、金髪の女にしか興味を示さなくなるかもしれないと思ったら、まさかレオン本人をピアニストとして崇拝しだすとはな」と、君貴さんは時々、嬉しそうに言ったりしています。
おかしいでしょう?天国にいらっしゃるあなたには、きっとなんでもお見通しのことと思いますが、わたしと君貴さんがレオンの子だと、どんなにあなたに似ていなくてもあなたの子だと信じようとしてきた真子よりも……やはり、貴史のほうがどことなくあなたに似ているのです。そして、レオンが子守唄代わりにと、よく弾いていたバッハの曲を、とても丁寧に心を込めて弾くところまで似ています。わたしは今でも、あの子が時々バッハを弾いているのを聞くと、瞳に涙が滲んでくることがあるほどです。
真子は正直、わたしにも君貴さんにも似ていませんが、君貴さんの話によると、彼の長年の天敵だった姉の美夏さんによく似ているそうです。「あいつも、ピアノなんかじゃなく、絶対スポーツをやったほうが適性のあるような、エネルギーのあり余った子供だった」と、時々憎々しげに言っています。でも、やっぱり女の子は可愛いですね。おしゃべりで性格の明るい真子ちゃんがいてくれるお陰で、我が家はいつも光り輝いているような、そんな感じがします。
そして三人目……男の子だったので、わたしと君貴さんは迷うことなく、あなたの名前をつけました。でも、尾崎レオンというのは、学校へ上がった時に、尾崎メロンとか色々言われたりすると可哀想だということで、玲音、と書いてレオンと読ませることにしました。もちろん、わたしと君貴さんはふたりとも、貴史のことも、真子ちゃんのことも、自分たちの子供としてとっても可愛いのです。ただ、今わたしたちはレオン、いえ、玲音にすっかり夢中になっています。実をいうとそれは貴史にしても真子ちゃんにしてもおんなじで、こんなにちやほやされてばかりいたら、将来この子は駄目な子になってしまうのではないか……そんなふうに心配してしまうくらいです。
それと、あれからもう十年以上にもなるのに、君貴さんが「忘れていた」と言って、わたしに君貴さん宛ての、あなたの手紙をようやく読ませてくれました。たぶん、「忘れていた」ということではないのだと思います。ただ、わたしの精神の状態を見て――必要な時に渡そうと思っていたのではないかと、そんな気がしています。ほら、あなたの名前をつけた赤ちゃんが生まれたでしょう?だから、君貴さんももう大丈夫だと、そんなふうに思ったのかもしれません。
手紙を読んで、とても泣きました。物凄くたくさん泣きました。なんていう人なの、レオン……あなたっていう人はって思いました。そして、ひとしきり泣いてから、ハッとしました。あれからもう十年以上にもなるだなんて、とても信じられなかったのです。レオン、あなたのことを思うと、わたしの心はいつでも、あなたと暮らした三年もの日々に戻っていってしまいます。そして、今でも本当に――あなたがドアを開けて帰ってきたり、カーテンの陰からひょいと姿を現してくれないのが何故なのか、あまりにも不思議で、ただ呆然としてしまいます。おかしいでしょう?君貴さんもそうだと思いますが、あなたのことでは彼の中でもわたしの中でも、時間が停まってしまっているのです。
ずっと前、君貴さんがチェルシーの屋敷で見た夢のことは、わたしも彼がロンドンから帰って来た時に聞きました。そして、その時も、ただ涙を流しながら君貴さんの話を聞いていました。レオン、あなたがそのように崇高で、美しくて清らかな世界にいると信じられること……天国、楽園、スイッツァランド、とにかく呼び名はなんでもいいのです。そのようなところにあなたが今いらっしゃるということが、いずれはわたしたちもそこへ行ってあなたと暮らせるということ、そのことは、今もわたしの中で、大きな心の支えになっています。
レオンは覚えていますか?いつだったかあなたは、『いつかマキとふたりきりになれる時が楽しみだ』と言っていたことがありました。わたしは『どうして?』って聞き返しましたね。そしたら、『今はマキと僕と貴史と三人で暮らしてて、貴史が大きくなるまでにはまだ十何年もあって……その頃には僕らにはきっとまた子供が生まれてる。そしてその子も大きくなって家から出ていくまでは、僕はマキとふたりきりにはなれない。マキは気づいてる?僕たちにはふたりっきりの恋人同士だった時代がないんだよ。だから、子供が自立して家から出ていったら――その時、僕たちはふたりきりになって、恋人同士としての時間を初めて過ごすことが出来るんだ』って。わたしはあんまりあなたがロマンティックなことを言ったので、咄嗟になんて答えていいかわからず、黙り込んでしまいました。そしたら……『ああ、そういえば君貴もいるっけ』って。『でもたぶん、その頃もあいつは今と同じく、足腰立たなくなるまでは仕事仕事で忙しくしてるよ。だから、あいつも時々やってくるにしても、それ以外ではふたりっきりって意味だよ。それでね、その後さらに時が経って、君貴もどっかで男なんか引っかけようもないくらいの老人になったとするよね。そしたら三人で一緒に楽しく暮らせばいいよ。君貴は僕らより年上だから、ボケるとしたら一番早いのは絶対あいつだよな』――この話をふと思い出して、ついこの間、君貴さんにしました。そしたら君貴さん、なんて言ったと思いますか?『もしマキが俺より十四も年下なのに、俺より先にボケて、俺のことをレオンと間違えるようだったら……金髪のカツラでも被って、俺はその後終生に渡って自分はレオン・ウォンだという振りをし続けてやるよ』ですって。なんとも君貴さんらしい言い種ではありませんか。
レオンの本を読んだ感想については、前にも手紙に書きましたが、あなたの手紙を読んで、最近、再び読み返しました。泣いてしまうとわかっているので、なるべく手を伸ばさないようにしているのです……でも、やっぱりまた泣いてしまいました。あなたのこの本は、実は今ではすでに、貴史の愛読書になっています。真子ちゃんはまだ読んでいませんが、もう少し大きくなったら薦めてみようと思っています……それからもちろん、あなたから名前をいただいた、次男の玲音が大きくなった時にも。わたしは、パレスチナの人々がどんなに抑圧された苦しい環境下にあるかといったことや、あなたの書いていたウイグル自治区やチベット自治区の人々のことや……正直、あなたの本の原稿を読むまで、そうしたことを深く考えたことがありませんでした。
でも、レオン、あなたがどんなに深くて大きい愛を持っていた人だったのかが、本を読んでいて本当によくわかりました。そして、君貴さんに残した手紙を読み、形や大きさ、深さは人によってそれぞれ違っても――レオン、あなたにも同じ苦しみや悩みがあったからこそ、他の人を自分のことのように考え、そして実際に愛の行動をとることが出来たということ……今では、そんなあなたのことを、世界中の人々が賞賛しています。けれど、そんなレオンでも、やはり天国への確信であるとか、そうしたことでは疑いを持ったりしていたのだと思うと――本当に、胸が苦しくなってしまいます。こちらの地上では、あなたを愛するすべての人が、レオン・ウォンは間違いなく天国にいると、すっかり確信しているくらいなのですから!
あなたが旅立たれた、こちらの世界というのは……時に悲しみが支配することのある、ただの影の帝国です。そして、今レオンがいる世界こそが、本来あなたがいるべき魂の王国なのだと思います。少なくとも、子供たちが大きくなってしっかり生きてゆかれるようになるまでは――わたしも君貴さんも、こちらで影のようにゆらめく人生というのを生きていかなくてはなりません。でも、待っていてください。そちらではきっともう……百年なんて時間もあっという間でしょう?いつかその時が訪れた時には、再び、必ずあなたにお目にかかりたいと思っています。そして、その時が実際に訪れるその瞬間まで――レオン、これからもずっと、あなたのことを心から愛しています。
あなたのマキより
終わり