「一度きりの大泉の話」を読んで以来、萩尾望都先生のことですっかり脳が乗っとられてしまい……そんなわけで、今回もまた前回に引き続きそのお話だったりします(^^;)
いえ、「風と木の詩」を読んだことで、わたし的にかなり色々なことがわかってきました。そして、この件は萩尾先生にとって、すでに済んでいる、カタがついている、終わったお話なんだな……と、一読者としてはそんなふうに感じたというか
もちろん、「一度きりの大泉の話」の最後のほうには、全然そんなふうに書いてありません。>>「今回、この筆記を書くに当たって、封印していた冷凍庫の鍵を探し出して、開けて、記憶を解氷いたしましたが、その間は睡眠がうまく取れず、体調が思わしくありませんでした」――といったようにさえ書いてあります。
前回のところでわたし、萩尾先生は、竹宮・増山両先生の生み出した「風と木の詩」を、いくつか似通ったテーマ性を持つ「残酷な神が支配する」によって、遥かに凌駕した……といったように書きましたが、実は前回そう書いた時からこう思っていました。萩尾先生は「残酷な神が支配する」によって、「風と木の詩」及び、その作者である竹宮先生と増山法恵さんを木っ端微塵に叩き潰したのだと。
ですから、わたし的にはそのことがわかってスッキリしたので、心の曇りのほうはかなりのところ晴れて来ました→
萩尾先生は、竹宮先生から盗作疑惑をかけられ、その後この時のことは忘れて、と言われた。でもそのかわり、竹宮先生は手紙を置いていかれたそして、この手紙の内容を要約するとしたら、「近づくな」といったように萩尾先生には読めた。だからこののち、萩尾先生は竹宮先生と没交渉ということになった……時は流れて四十数年、竹宮先生が某新聞に連載中、ある新聞記者の方から電話が来た(この連載が『扉はひらく いくたびも』)。萩尾先生のことが出てくるので、萩尾先生の写真を掲載したい……もちろん、マネージャーである城章子さんは当たり前田のクラッカーとばかり断った(古いよ!)そして、大体この前くらい(2016年に竹宮先生が『少年の名はジルベール』を出版される前)から、「竹宮先生との対談」といった依頼や、大泉時代のことを美化するドラマの企画が持ちこまれたりと――はっきりした理由を言わないから、いつまでもこうした話が繰り返し持ち込まれるのだ……そう判断し、執筆されたのが萩尾先生の「一度きりの大泉の話」だったわけです。
>>大泉の2年間は本当に楽しかった。いい友達がたくさんできて、誰にも邪魔されず仕事ができて、編集者が原稿を買ってくれて、みんなと映画や本や大好きな漫画の話ができた。
でも、それは終わってしまった。あの夜と手紙とで、あの大泉の時代を思い出すことが苦しくなってしまった。考えることも辛くなってしまった。
この頃、鬱っぽかったのだと思います。たぶん、手紙を読んでから、ずっと悲しかった気がします。脳の中で何かが死んでいる。私は死体と暮らしている。誰の死体?それは人格ではない。たぶん、大泉の死体です。時間と記憶の死体です。
(「一度きりの大泉の話」萩尾望都先生著/河出書房新社より)
これはあくまでわたし個人の、一読者としての読みですが、「風と木の詩」を読んで、ほとんど確信しました。実は死体の入った棺が埋まっているのは、「風と木の詩」という、BLをテーマにした少女漫画のほうなのだと……。
萩尾先生は竹宮先生に盗作疑惑をかけられた時、「なぜ、男子寄宿舎ものを描いたのか?」、「なぜ、転入生がやって来るの?」、「なぜ、温室が出てくるのか?」、「温室で薔薇の栽培をしてるけど?」、「なぜ、学校が川のそばにあるのか?」……といった、萩尾先生にとっては意味不明のことをいくつも質問されたわけですよね。このあたり、それが何故だったのか、「風と木の詩」を読んでよくわかりました。物語のほうは、主人公ジルベールの相手役である、セルジュ・バトゥールが転入してくるところからはじまりますし、その他、温室も出てくれば、栽培されている薔薇の花も出てきますし、ラコンブラード学院の庭(?)には川も流れていたように思います。そしてこうしたことはすべて誤解だったのでしょうが、それを竹宮先生は「自分のクロッキーブックを見たか何かした」といったように思い込まれたのではないでしょうか。
けれど、萩尾先生はその後も竹宮先生から関係を絶たれたのは、漫画作品云々ではなく、自分の素行その他が気に障ったからではないか……といったように悩んだくらい、思い当たることが何もなかったわけですよね。だから余計に混乱した。でも、「少年の名はジルベール」や「扉はひらく いくたびも」に、関係を絶つことにしたのは萩尾先生への嫉妬が原因だとはっきり書いてあるわけです(^^;)
自分が敵いそうにない天才がすぐそばにいることへの嫉妬や焦燥については、ある程度理解できるにしても――わたしが「風と木の詩」を読み、一読者として何より驚いたのは「こうした少年ポルノ作品のために、萩尾先生は傷つけられ、混乱の極致においやられたのか」という、そのことでした
「風と木の詩」は、BLが好きな方の間では、おそらくとても評価の高い作品でしょう。そのことはとてもよくわかります。ですが、当時読んで「こんな世界もあるのだと知り、禁断の世界に胸がときめいた」という読者の方は、おそらくもう一度読み返してみたほうがいいと思います。当時は「前例のない作品であったため」、バッシングされる一方、「よくぞ描いてくれた」といった少女・女性の意見のほうが多かったのかもしれません。
けれど、時代は一巡しました。「風と木の詩」は、今は青少年の有害図書に該当する、少年ポルノ作品だと思います(つまり、今一般の少女誌に掲載するのであれば、14禁であるとか、そのくらいに該当するのではないでしょうか。あるいは、そうしたBLの漫画専門誌に掲載されているのであれば理解できます)。そんなことを言うのは頭のカタイ人間だけだ……というのはむしろ、一昔前の価値観ですよね。試しに、アメリカやヨーロッパの12~13歳くらいのお子さんを持つ家庭の父親・母親に「風と木の詩」を読んでもらい、「息子さんや娘さんに読ませて問題ないと思いますか?」と聞いてみてはどうでしょうか。「この作品はもう少し彼らが大人になってからのほうがいい」とか、クリスチャン家庭であれば、「絶対読ませないほうがいい作品と思う」とすら答えるかもしれません。
そのですね、わたしが何より一番不思議なのが、竹宮先生が「風と木の詩」によって少女漫画革命(?)を成し遂げたことを、今もとても誇りに思っておられるらしい……ということなんですよね。それはもしかして、たくさんのファンの方の賞賛や、熱心な支持者の方の声があったという、そのせいなのでしょうか。
それで、「風と木の詩」という少女漫画作品には、萩尾望都先生という死体が埋まっているという話なのですが、もちろん萩尾先生は今も生きておられるので、その棺の中にあるのは<時間と記憶の死体>なのです。
萩尾先生の元に「少年の名はジルベール」が送られてきたということは、竹宮先生は間違いなく、「風と木の詩」という作品が生まれるに当たり、自分はある人にそのような「犠牲を強いた」ということを忘れておられるか、あるいは気づいておられないかのどちらかなのではないでしょうか(おそらく、「それはそれ」、「これはこれ」といったように、脳内でうまく棲み分けがなされているような気がします)。
また、わたし自身50年どころか、10年前に誰かに書いた手紙の内容についてなど、今はもうすっかり忘れてしまっています。ですから、手紙のコピーを取っていたわけでもない竹宮先生は、「確かこんなようなことを書いたけど、萩尾先生にとってはわけのわからないものだったろうな」という、今となってはそのくらいの感覚なのではないでしょうか。
そしてあれから半世紀も経った今――お互い、少女漫画家として時代の一翼を担った者同士、あの頃のことを少し話したい(もしかしたらここには、あの時のことを一度あやまりたいといった気持ちもあったのでしょうか)……そうしたお気持ちになられたのかもしれません。
けれど、要約すると「近づくな」と読める手紙を受けとり、約50年……萩尾先生はそのことを誰に他言するでもなく、守ってきたわけですよね。ところが、今度は「近づくな」と言われ、つきあいの一切なかった竹宮先生のほうから何故か近づいてきた。「50年も経ってるのに何故?」と萩尾先生は思い、一方竹宮先生は「もう50年も経ったのだから」という、そうした双方のお気持ちにズレがあったのではないかと推察します。
わたし、「風と木の詩」を読んで、他にもわかったことがありました。それは、文庫版の巻末で解説を書いておられる方の内容を読んで、です。つまり、萩尾先生・竹宮先生には、交友関係ですとか、漫画関係者・出版関係者などに、当たり前すぎるくらい当たり前ですが、重なる人間関係がいくつもあるわけですよね。そうしたこともわかってくると……これは萩尾先生にとって、本当におつらいことだったろうなと、あらためてそう思われてなりませんでした(つまり、誰かしらの口から竹宮先生のお名前はなんでもないことのように出たでしょうし、萩尾先生のほうではそのたびに大人の対応をし、相手の立場を気遣ったということです)。
>>私は二人から離れ、考えまいとしました。
その後お二人がどうなさったかも、聞かずにすませてきました。私が知りたくなくても、時々風の噂のように流れてきます。なるべく耳をふさいでいます。何も聞きたくもないし、何も言いたくもない。冷凍庫に入れて鍵をかけたのです。大泉も下井草も。鍵はなくしました。
(「一度きりの大泉の話」萩尾望都先生著/河出書房新社)
「何も聞きたくもないし、何も言いたくもない」……本当にその通りだと思います。誰にでも、大体二十代には嫉妬といったことでなくても、誰かを傷つけ、そして自分も誰かから傷つけられた――そんな経験を持っているものだと思います。わたしも、相手のことを今となっては憎んでいるわけでもなければ恨んでいるわけでもないし、嫌っているわけでもない……でも、連絡を取り合わないでいたほうが、自分の心に波風が立たなくて安全だ――という、そんな人がいます。
けれど、竹宮先生から近づいてこられると、おそらく萩尾先生は静かだった心の海が、だんだんに曇って空模様が怪しくなってくる……だから、今はきっと50年前のあの頃と、立場が逆転したのだと思います。今は、萩尾先生のほうが竹宮先生に対してこう言っているということなのではないでしょうか。「こちらに近づいてきて欲しくない」と……。
一読者としての憶測その他を色々書いてきましたが、わたし自身はもう大泉時代の<時間と記憶の死体>が埋まった「風と木の詩」を、萩尾先生が「残酷な神が支配する」によって木っ端微塵に叩き潰していると理解したので――心の曇りのほうが、すっかり晴れて良かったです(^^;)
いえ、わたしにとって萩尾先生の「一度きりの大泉の話」と竹宮先生の「扉はひらく いくたびも」を読んだことは、ある種の心理ミステリーを読み解くかのようで、本当に色々思ったり考えたりすることが多かったです。また、「一度きりの大泉の話」は、ひとりの天才少女漫画家の創作の秘密についてもわかるところがあり、一生の宝物にも等しい本となりました萩尾先生の性格の優しさ、あたたかさ、可愛らしさなどが感じられる、本当に素晴らしい一冊だと思います
それではまた~!!
今回名前の出てくるナツメロ2曲です♪(^^)
時代を感じますねえ(笑)
ピアノと薔薇の日々。-【28】-
三日の間、彼らは同じホテルの部屋でずっと一緒にいた。食事のほうは主にルームサービスを取るか、ホテルのそばにあるコンビニで何か買うかのいずれかだった。ふたりは他の時間の多くをベッドの中で過ごし――仕事に関して何か連絡が入るたび、君貴は裸のまま対応していたものだった(もちろん、リモート会議でパソコンの画面に収まらねばならない時には、きちんと服を着ていたが)。
「マキのお腹の子、たぶん君貴の子だよ」
君貴が明日の午前中には飛行機に乗らねばならない夜遅く……レオンはぽつりとそんなことを洩らした。
「どうしてそんなことがわかる?セックスの回数といった確率的なことでいったとしたら、たぶん98%くらいの確率で、マキの腹の子はおまえの子だ。というより、俺としては絶対そうあって欲しい。俺に娘が出来るだって?考えただけでゾッとするな。レオン、おまえは阿藤家の女の血筋ってのがどんなものか、まるでわかっちゃいないんだ。俺の言うことなんか絶対聞かない跳ねっ返りに育つのはまず間違いないぞ。『パパはたまにしかうちにいないのに、なんでそんなにエラそうなのー?』とか、こっちの急所をグサグサ刺してくるような、そりゃもう可愛げのない娘に育つことだろう」
「それならそれで、楽しそうじゃないか」
レオンはお腹がすいたので、ピザを食べた。ここで君貴とふたりでいると、世界には彼らしか存在しておらず、問題などどこにもないかのようだった。もちろん、そんなことは錯覚に過ぎないとわかっていても……。
「僕がそう言うのは、一応理由あってのことなんだ。日数を逆算したら、おまえがマキを抱いた日に当たるっていうことと、たぶん僕に子種がないんじゃないかっていう、簡単に言えばそういうことなんだけど……」
「なんだ?病院にでも行って調べたのか?」
君貴がどこか絶望的な顔をするのを見て、レオンはおかしくなった。彼は何がどうでも、マキのお腹の子は「とうたん」ではなく、「パパ」の子であって欲しいらしい。
「いや、まだ病院には行ってないけど……もしあの時、マキの妊娠がわからなかったら、そろそろ一度行こうとは思ってたよ。君貴との間にはすでに貴史がいることを思えば――マキの体に何か妊娠しづらい理由があるとは考えにくいからね。じゃなかったら、最初の半年くらいでマキが妊娠してないほうがおかしいと思ってた。そのくらい……すごく愛しあってたから」
レオンが枕に突っ伏して、泣いているのに気づくと、君貴はそんな彼の肩に触れ、その髪の中に口接けた。
「君貴……僕はずるい、卑怯な人間だ。こういう困ったことになるとおまえに頼るのに……普段はずっとマキと一緒にいて、彼女のことをおまえから引き離した。それに、おまえが近ごろは貴史とも普通に遊んだりするのを見て、ほっとしてたっていうのは本当でも……特に貴史が赤ん坊だった頃は、君貴があんまり自分の息子に関心を示さないのに呆れつつも――心のどこかで喜んでる自分もいた。それであればこそ、あの家には僕の居場所があったっていう、そういうことだからね」
「そんなことはないさ。俺は……確かに、おまえの口からマキと寝たと聞いた時には、ショックを受けたよ。普通に考えたら、俺たち三人の中で弾き飛ばされるのは間違いなく俺だったからな。ずるくて卑怯といえば、俺のほうこそだろう。普段はレオンに育児その他任せきりなのに、自分の都合のいい時だけ幸せのつまみ食いをしようという、俺のポジションっていうのはそういうことだからな。だがまあ、そんな俺でも、近ごろは多少考えなくもなかった。レオンがパパで俺がとうたん……普通の家庭にはパパというやつはひとりしかいないのが通例だからな。今はまだ貴史は三歳だからいいにしても――四歳くらいになったら、他の家庭とうちを比べて、そのことを疑問に感じるに違いない。そしたら……貴史が健全に育つのに俺が邪魔なら、少し考えねばならんとは思ってたよ」
「そのことは、僕もマキと話したよ。でも結局、僕は見た目がコレだからね。僕が貴史の実の父親でないことは一目瞭然ということになる。そしたら、やっぱり君貴が実の父親として絶対必要ってことだよ。まあ、あとのことはね、貴史が「なんとかちゃんやなんとかくんの家にはパパはひとりしかいないのに、うちにふたりいるのはどうして?」って聞いてきたら――その時はその時で臨機応変に対応すりゃいいんじゃないかってね」
「臨機応変ねえ。そんな呑気なことでいいのか?一般によく聞く話じゃ、ガキってのは四歳くらいまでで親孝行を終えるっていうじゃないか。いわゆる知恵ってやつが出てきて、親が無条件で可愛いなんて思えるのもそのくらいまでで――以降は本人も、ちゃんと色々なことを覚えてて、のちにはそれを論理的に説明できるようにもなる。つまり、その時にはわからなくても「なんでお母さんはあの時、理由もなく自分をぶったのか。理不尽だ」とか、そんなことをいついつまでも覚えてるような領域に入るわけだよな。やれやれ、まったく厄介なことだ」
ここで、レオンは枕に突っ伏したまま、くすくす笑いだした。
「僕たちって、どう考えてもゲイのカップルらしくないよね。久しぶりにあんなに激しく抱きあったっていうのに……その締め括りが子育て論で終わるとはね」
「そうだな。それに、今は山のものとも野のものともなるかわからん貴史のことなんかより――レオン、俺はおまえのことのほうがよっぽど心配だぞ。どうする?俺には具体的になんともしてやれないが、それでも、一緒に来るか?世界のあちこちを飛行機で移動する間も、確かに俺は仕事のことが第一で、おまえには構ってやれないかもしれない。だが、もしそのほうが気が紛れていいなら……」
「いや、そんなことは出来ないよ。何より、マキは妊娠中で、いくら安定期に入ったとはいえ、今が一番大切な時だからね。僕も家に戻るさ。ここで三日間君貴と一緒にいて、思ったんだ……この三日、僕はテレビもネットも一切見なかった。たぶん、マキといる間も同じようにすればいいんだと思う。外では僕に関することで色々な人が色々なことを言い、嵐が吹き荒れているような状態ではある。だけど、台風の目の中にいるみたいに、ただじっとして、自分たちの世界の外は静止してるとでも思えばいいんだろうな。それで、貴史と外に散歩へ行く時には髪の毛を黒く染めるとか、今まで以上に気を遣うことにするよ。あの汚れたピアニストの息子だなんて後ろ指さされでもしたら、貴史が可哀想だものな」
「おまえ、本当に大丈夫か?」
君貴は、恋人の背中に触れながらそう聞いた。そばにいてやりたいのは山々だが、何分彼には明日以降、自分が直接顔を出す以外にない仕事がいくつも待ち構えているという、そのせいだった。
「ああ。君貴が僕のために三日も時間を作ってくれた上、僕のためにその時間を使ってくれたから……そのお陰で大分大丈夫にはなったよ。ただ、マキに対してだけどうしようとは思ってるんだ。君貴と違って、僕のヒステリーにマキは慣れてないからさ。一番いいのは、テレビもネットも見ないってことだけど……あの本、僕まだ三分の一も読んでないからね。だけど、読まないわけにもいかないだろ?それでまた僕が癇癪を起こして壁に穴を開けたりするんだとしたら――貴史にも、マキのお腹の子に対しても悪い影響を与えてしまうものな」
「あの本はな……もしかしたら、最後の章から読んでいくといいかもしれんぞ。レオンが読んでいて一番つらいのは、特に本の最初のほうだろうから……おまえ、前に言ってたよな?ルイ・ウォンに関してはヨウランとテレビで直接対決してもいいみたいに。だったら、その箇所については腹が立ったりなんだりするにしても――ある部分、おまえが今まで知りえなかった謎が解けるところもあると思うんだ。たとえば、義理の母親のウォン・イーランがヨウランや彼女の兄ハオランから見てどんな人間だったかとか、彼女がレオンに対してどういう考えを持っていたかとか……なんか、あのヨウランって子、母親が携帯で話すところを盗み聞きしたことがあったらしい。その頃、レオンは大体十三とかそのくらいだったらしいが、家にいる三人の子供の中で出来が一番いいのはレオンだって、彼女のほうでも認めてたって話だ。それで、レオンの頭脳がハオランに備わっていて、ピアノの腕前がヨウランにでもあったら良かったのに……なんて言ってたらしい。あとは、そこに続くウォン・ヨウランのストーカー日記に至っては――おまえも心に震えがくるかもな」
「どういう意味?」
本の続きを読むことに、気乗りはまったくしないものの……確かに君貴の言うとおり、本の後ろのほうから読めば――少しくらいは物を壊すリスクが減るだろうかと、レオンとしてもそのように考えなくもない。
「つまりさ、あのヨウランって娘は、レオンがショパン・コンクールで優勝し、ピアニストとしてデビューして以降……世界中で開催されるおまえのコンサートに出来る限り出席してるってことさ。で、そのことに関して書かれた当時の新聞や音楽雑誌その他の批評をすべて保管していたらしい。その中で、音楽雑誌の記事を書いた記者のことも随分攻撃してたよ。『この批評はまったくお門違いもいいところで……云々』なんてな。だが、それであればこそわかるのさ。本全体を通して、ヨウランはおまえに極めて同情的だ。ピアノの才能については手放しで褒め、客観的な他人の意見についてはそのまま書き記しているにしても――終始徹底して、わたしはレオン・ウォンの味方だといったような態度を崩していない。特段、本を読んだ人間が読了後に自分を攻撃するかもしれないといった保身のためではないだろう。俺の個人的な意見としてはな、『こんな本を出版してしまったけど、わたしを憎んだり恨んだりしないでね、レオン』といったメッセージを感じるというか、何かそんなふうに読める」
「ふざけるなよ」
レオンは突然にして、怒りを身体すべてに漲らせるように低い声で言った。だが、君貴としてはむしろ、そんな彼を見て少しばかりほっとした。三日前に会った時、彼はもっと精神的に弱っているように見えた。けれど、これだけの怒りが湧くということはむしろ――前向きに生きるための健全な力が甦ってきている証拠だと、そう思った。
「冗談じゃないぞっ!僕はもうヨウランのことなんか絶対許さないし、彼女が死ぬまで憎み続け、恨み続けてやる。批評家どもの言うことなんか、僕はもともとまともに読んでなんかいない。もちろん、音楽評論家の中には、僕も一目置く人物がいるし、そうした人に痛烈な意見を述べられたとすれば、がっかり肩を落とすということもあっただろう。だがそういうマトモな人たちに僕はお角違いのことを言われたことはないよ。むしろ、そうしたことっていうのはね、新聞にしろ雑誌にしろ、ある一定のスペースを締切日まで埋めなきゃならない連中の、個人的感想って場合が多いんだよ。便所のラクガキによく猥褻な言葉が書いてあるけど、あれと一緒さ。『こんなことをわざわざスプレーで書いたりする奴は欲求不満の、人生がうまくいってない奴だけだ』といったような手合いのね。僕はそんな奴らの意見にいちいち傷ついたりなんかしない。ゆえに、ヨウランに庇われなきゃならない必要性なんかまったく感じないね」
「まあ、そのあたりについては読めばわかるさ。ただ俺は、本の後半あたりについては、レオンでも比較的穏やかに読める部分が多いってことを言いたかっただけなんだ。ヨウランはな……レオンに対して不当な評価を下した連中が許せなかったんだろう。『彼は得意の名人芸を今回も披露した。高い位置から指を叩きつける力強い演奏法……だが、だんだんに手の位置が低くなってきていると感じるのは私の気のせいだろうか?』という意見に対してはだな、『レオンは普段、練習している時からあの弾き方でミスをしたことはない』といったように書いてたよ。確かに、おまえの言うとおりだな。あの子がおまえに最後に直接会ったのなんか、もうかれこれ十数年も昔のことだろう?それなのに、あの子はその後もレオンの追っかけを続けることで、レオン・ウォンの専門家であり続けたのさ。そのことに対して俺は本を読みながら鳥肌が立ったという、これはそういう話だ」
「へえ……なるほどね。いわゆる花のレオン・ウォンブームというのかね。ショパン・コンクールで優勝して以降、何年かはそうした状況が続いた。だけどジュリアードに入学して以降、僕はかなり真面目な音大生ってのをやってたからね。大学在学中は少しずつコンサートの回数を減らしていったんだ。そしたら、なんでかわかんないけど批判評が一時期妙に多くなった。むしろ僕としてはね、大学で色々専門的に学んだり、コンサートの回数も減らしたことで――演奏する機会があるごとに、前以上にいい演奏が出来ているという充実した感覚があった。なのに、どこか見当違いのことを書かれるんだぜ?彼はショパン・コンクールで優勝したあの瞬間が、ピアニストとして絶頂だったのではあるまいか……といったようにね。僕にしてみたら、『おまえの耳は腐ってる』としか言いようのない意見もあった。で、そのうちだんだんわかってきたのさ。彼らはただ単にある一定の記事スペースを埋めるためだけにそんなお角違いの意見を述べ、それで金を稼いでるだけなんだってね。だけど、ちょっと時間が経つと自分がそんなことを書いたこと自体忘れてるような、罪のない連中なんだよ」
そんな奴らのことは十分許せるが、ウォン・ヨウランのことは絶対許さない――そんな凄みのある顔をレオンがしているのを見て、(それでこそ、俺が好きなおまえだ)と、君貴はそんなふうにも感じた。
「だが、その中にはおそらく……いわゆる近親憎悪系の感想や意見ってのもあったりしたんだろうな。ほら、そうした記事を書く連中の中には、音大を卒業したが、プロとしてオーケストラの席を得ることは出来なかった――そんな連中がたくさんいるものらしいぞ。そうした奴らにとって、レオン、おまえは『音楽家としてこうありたい』という理想そのものなんだ。それは、この俺自身がそうだからこそよくわかる。となると、相手がちょっと脇の甘さを見せたように感じたら批判せずにはいられないという、何かそうしたことになるんじゃないか?」
「君貴、次にロンドン行くのいつ?」
レオンはある程度のところ、一旦立ち直ったらしく――バスローブを着ながらそう聞いた。マキには電話連絡しておいたが、君貴がもう明日にはいなくなると思うと……彼女と貴史のことが急に恋しくなってきた。
「なんでだ?もしかして何かロンドンに用でもあるのか?」
「ううん。特にはないよ。ただ、今チェルシーにある君貴の屋敷で、無性にピアノの連弾がしたい。おまえのスタインウェイでね。ロンドンは僕にとって、昔は本当にただの灰色の街だったよ。幼少時に嫌なことがあったって意味で、コンサートでたまに行く以外は、全然足を踏み入れたいとは思えなかった。だけど、チェルシーの僕たちのあの家……あそこで君貴と愛しあううちに、考え方が百八十度変わったんだ。過去に起きたことは、もうただの過去だ。僕はもう乗り越えたんだってずっとそう思ってきた。人間の中で何よりも強いのはやっぱり憎しみよりも愛なんだよ。君貴、おまえさ、『愛のメモリー』なんて曲知ってる?」
「ああ。たぶんあれだな。マキのおっかさんの、懐メロシリーズの一曲だろ?日本の黒人代表、松崎しげるの名曲だ」
「えっ!?あの人、黒人と日本人のハーフかなんか?」
レオンは驚いて、ベッドの縁から君貴のことを振り返った。彼はスマートフォンで仕事に関するメールを打ちはじめている。だが、体のほうは素っ裸のままだった。
「違うよ。まあ、あまり俺の言ったことは気にするな。というより、どっちかというと、シゲル・マツザキは日本人のラテン代表といったほうがいいのかな。そんなことはどうでもいいとして、『愛のメモリー』がなんだって?」
「うん。すごくいい曲だねってテープを聴きながらマキに言ったんだ。僕がマキに対して思ってることそのものだって」
「そしたらあいつ、なんて言ってた?」
君貴はこの時点で笑いだしていた。部下を叱咤激励するメッセージを送らなければならないのに、言い回しのほうが若干緩くなってしまいそうだった。
「それだよ!マキも今の君貴みたいに笑ってた。『なんでっ!?』て僕が聞いたら、日本ではあんまり有名すぎて、物凄い名曲なのに軽くお笑いの対象になってるからだとかって……」
「残念なことに、実際そうなんだ。だがまあ、レオンが何を言いたいのかは俺にもよくわかる。照れくさかったにしても、マキにもまあ、大体のところおまえの言いたいことは伝わっていたろうしな」
「うん……あと、『空に太陽がある限り』の時も、なんか同じ調子で吹きだしてたよ。ひどいと思わない?僕のほうはあくまで真剣なのにさ」
「世界のアキラ・ニシキノの場合は衣装がな……だがまあ、レオンの言いたいことはわかるよ。マキにも十分おまえの気持ちは通じていたろうし、そうした意味では何も問題ないだろ」
「とにかくさ、僕が言いたいのは、マキが僕に僕がずっと欲しかったと思ってたものを全部くれたってことなんだよ。だからさ、これからまた僕に対して見当違いのことを言ってくる連中の嵐にあったとしても……おまえとマキが前と変わらず一緒にいてくれたらいいや。僕はさっき、ヨウランのことを一生許さないって言ったけど、あれは言葉のアヤみたいなものなんだ。そういう意味でこれからも、『あんな奴、これからも憎み倒して恨み続けてやるっ!』とは、口に出しては言うにしても――僕はやっぱりね、あの子のことは哀れんでる面のほうが強いね。たぶんヨウランは知らないんだ。本当に誰かを愛したり愛されたりするっていうことがどういうことか、それさえ知ってたら……他のことはほとんどどうでもよくなるとか、そういう領域があるってことをね」
「俺もまったく同感だ」
レオンがそのままバスルームに行ってしまうと、君貴はメールを送信し、ごろりとベッドの上へ横になった。彼も今、チェルシーの自邸や、レオンが所有しているニューヨークの見晴らしのいいペントハウス、あるいはローマ、リスボン、パリ、ベルリン、バルセロナ……などなど、世界中の高級ホテルで待ち合わせては、彼と愛しあった時のことを思い出していた。
(思えば、レオンとだけ三日もずっと一緒にいるなんて、俺も本当に久しぶりだ……)
君貴とレオンはこの翌日、ホテルの前で別れたわけだが――もちろん君貴は、最後にもう一度こう言って念押しするのを忘れなかった。
「まあ、家の大型テレビのほうは沈黙を守ってるわけだし、あとはネットでエゴサーチしたりなんだりしなければ、外で何が起こってようと……暫くの間はなるべく家にいるようにしてたら、嵐のほうは時間がかかってもやがて凪になるだろう。だが、あの本はレオンにとって本当に毒にしかならないからな……おまえ、この先何かあったらすぐ俺に電話してこいよ。俺はすぐこっちには来れないかもしれないが、その場合はレオンのほうで俺のいる場所まで来い。昔はよく、俺たちの間じゃそんなふうにしてただろ?」
「うん……ありがと、君貴。僕がもし精神的に荒れて、むしろ僕が一緒にいることがマキや貴史にとってよくないと感じたら、すぐそうするよ」
ふたりはこのあと、周囲に人目のないのを確認してから――熱烈にキスしあって別れた。そして、レオンのほうでは、君貴がタクシーを拾い、羽田のほうへ向かうのをずっと見送り、それから自宅のほうへ戻ったのだった。
「ただいまー!」
君貴との三日間の身体を通した精神的治療が効いて、この時レオンは一時的に気分が落ち着いていた。本当は、君貴があのまま一緒にいてくれることが、レオンにとって理想ではあった。これはあくまでたとえば、ということだが――本の中に虚偽が含まれていて、『僕はそんなこと言ってない!』、『そんなこと、絶対事実なんかじゃない!』といった箇所をレオンが発見したとしよう。その場合、レオンは『嘘つきの魔女め!』だの、『中国では実の母親にさえ相手にされないから、アメリカまで進出してきたんだろうが。ええっ!?』だのと叫びつつ、手当たり次第物を壁に投げつけたことだろう。けれど、こうした時君貴はまったく動じなかった。唯一、喧嘩の際にエミール・ガレのランプをレオンが壊した時だけ、『あ~あ……』と失意に沈んでいたが、大抵の場合、彼はレオンの感情の嵐が過ぎ去るまで、好きなようにさせておいてくれる。
(でも、マキの前でそんな荒れたところを見せるわけにいかないからな……だけどまあ、たぶんきっと大丈夫だ。この三日の間、君貴と話したことを思い出したりなんだりして、どうにか気持ちを静めよう。君貴も、必ず毎日連絡するって約束してくれたし……)
「おかえりなさい」
マキはレオンが身を屈めると、彼の頬にチュッチュッとフランス式に二度キスした。そのあと、レオンはさらに跪き、レモン柄のマタニティウェアを着た彼女のお腹あたりに耳をあてた。そして、服の上からキスして、「ただいま」と、お腹の赤ちゃんにも挨拶する。
君貴は今回も、レオンが「本当に蹴ってくるんだよ!」と興奮したように言っても――「いや、俺にそういうことを強制するのはやめてくれ」と仏頂面で言っていたものだ。「それに、どうせ確率的に考えて、絶対レオンの子だろ?」とも……。
このあと、レオンは貴史にも挨拶したが、彼はぷいと横を向いて返事をしなかった。三日前の別れ時のことを、いまだに根に持っているらしい。
「とうたんも、貴史によろしくって言ってたよ。また今度、プラレールでインディアンごっこしようって」
「今日、朝からちょっと機嫌が悪いのよ。ただ、びっくりしたことにはね……君貴さんとあなたが行ってしまったあと、『とうたんはぼくのことなんかどうでもいいんだ!』なんて言うものだから、わたしも慌てちゃった」
もちろん、マキにはわかっている。君貴が貴史に「よろしく」などと言うはずがない。何しろ、電話がかかってくるたびに、実の息子の顔をまず真っ先に見せようとすると――『ガキの顔をまず真っ先に見せて、俺に嫌がらせするのはやめてくれないか?』などと真顔で言ってくるような男なのだ。対するレオンはといえば、『おまえ、それ絶対冗談だよね?』と言い、さも面白い冗談を聞いたというように、白々しく笑いだすのだった。そのやりとりがあんまりおかしくて、彼らの後ろでマキも大声で笑ってしまったほどだ。
けれど、マキはそのことをあまり深刻に受けとめていなかった。あのあと一度だけ、阿藤家の集まりに連れていかれたが、姉・美夏の息子ふたりに対し、君貴は『今からすでに、将来ろくなものにしかならなそうな顔をしているな』などと言っていたものである。ところがこのふたりの甥は、何故か君貴によく懐いていた。「おじちゃん、ピアノ弾いてよ」だとか、「今もまだ世界中旅してるの?」だのと質問しては、纏わりついて離れなかったものである。
「それで、どうしたの?」
「『そんなことないわよ~』とか、『とうたんはタカくんのことを愛してるのよ~』とか言っちゃった。君貴さんがいたらたぶん、『そんな白々しい嘘を言うのはよせ』とかって言ったかもしれないけど……まあ、いいわ。そのうち『とうたんからのプレゼント』とか言って、新しい電車でも買ってこようかと思うの」
「いつものおもちゃ屋だね。もちろん僕もつきあうよ」
レオンは着替えるために、自分のクローゼットのあるピアノのある部屋のほうへ行った。部屋のほうは掃除がしてあり、穴のあいた壁紙からこぼれた漆喰のカケラや白っぽい粉といったものは綺麗に拭いてあったものである。そして、例の本のほうは――楽譜の並んだ書棚のほうに立てかけてあった。
この時、レオンは不幸の元凶を眺めるような目で、ウォン・ヨウランが著者である本を眺め、溜息とともにそれを手に取り、ぱらぱらと捲った。一番最初にあった手の震えは今はもうない。それから、君貴の忠告通り、後ろのほうから少しだけ読んでみることにした。今は貴史の機嫌も取らなくてはならないし、ほんのちょっと読むだけだ、とレオンは思っていた。また、そうすることで、『こんな本は自分に本当の意味ではなんの影響も与えはしない』ということを証明したくもあった。
>>『わたしはその後、義理の兄であるレオン・ウォンのコンサートへ幾たびとなく足を運びました。彼のピアノを聴くと、いつもわたしは泣いてしまう……九歳からピアノをはじめて、その後、中国国内・国外のピアノ・コンクールに出場するレオンのことを、わたしはいつも誇りに思ってきました』
(おえっ!)とレオンは思った。ピアノの才能もあまりないとは思っていたが、ここまで文才がないのに、よく出版社がこの本の発行を踏み切ったものだと、まったく感嘆してしまう。ただそのかわり、ゴーストライターは雇ってないらしい……そのようにはっきり確信できてしまうほど、稚拙極まりない文章だとしか思えない。
そしてその後、2~3ページ読み進めていくうち、(確かに、君貴の言うとおりだな……)とレオンは思いはじめていた。ただし、別の意味で薄気味悪くはあった。レオン自身はまったく気づかなかったが、世界各地であった彼のコンサートに、間違いなくヨウランは足を運んでいるのだ。彼女が一体いつ整形したのかはわからないにせよ、テレビで見た彼女の姿にしても、レオンはどこかで見かけたといったような記憶すらない。
>>『悲しいことに、天才というものはある一定の時を過ぎると見慣れてしまうものなのでしょうか。ショパン・コンクールでのデビュー時、世界各国が挙げてレオン・ウォンの才能をあれほど賞賛したにも関わらず、デビュー後、5~6年を過ぎた頃から「彼のピアノは中国雑技団仕込み」だの、「ナルシストによる自惚れた演奏」といった、まったくお角違いもいいところの講評がされることがありました。むしろ彼は、ジュリアード音楽院のピアノ科の学生として充実した時を過ごし、その才能にはますます磨きがかかっていたというのに……今読み返してみれば愚の骨頂としか思えない、そうしたいくつかの批評をお目にかけましょう』
レオンも、続く音楽雑誌や新聞などから引用された文章には、思わず笑いが込み上げた。しかも、掲載された日付が今から十年も昔のものであるのを見て――レオンはそこに書いてあることよりも、そんなものをいつまでもコレクションしてあれこれ思っていたヨウランのほうが、むしろ薄気味悪かったといえる。
(そうだ、大丈夫だ……君貴も言ってた。ヨウランが僕と実の父親との性の現場を見たことについては――本の中に彼女がクローゼットに隠れていたなんていう記述はなかったって。それで、もし読んでいてそうした矛盾した点が少しでもあれば……現時点で僕にヨウランを訴える気がなかったとしても、それがいかに小さなものであれ、五つも六つも矛盾した箇所を指摘できたとすれば、本自体の信憑性も疑わしいものになってくるって)
『いいか、レオン。問題は本に書いてあることが事実かどうかなんてことじゃない。この本を読んだ人間に、すべては嘘八百、義理の兄に恋をした気違いストーカー女の戯言だといったように思わせることがもっとも肝要な点なんだ。まったく、俺からしてみたらおまえがあの女ピーピング・トムめを訴えないのが、まったく残念でならないぞ。あの娘がその昔、「抱いて」と言って素っ裸でおまえの部屋で寝ていたというのは事実だ。そのことを逆恨みしたのが、この本を書いた動機だろう……レオンか弁護士がそう指摘して、あの女が慌てふためくところを見られないというのは、なんとも残念だからな』
ロイ&タナー・エージェンシーのCEO、ロイ・シェパードには訴訟を起こしたほうがいいと、薦められてはいた。だが、レオンがなんとしても嫌なのは、裁判の過程で、どの部分が真実に根ざしていて虚偽の可能性が高いのか――その点について明らかになることであった。そうなった場合、ヨウランのほうでは調査した結果の資料など、提出できる証拠はいくらもあるに違いない。
>>続く。