今回は、本当に文字数が本文のみでいっぱいになってしまったので、前文には他に何も書けずに終わりますm(_ _)m
惑星シェイクスピア-第二部【5】-
「可愛いレイラ、一体あの方にどんな魔法を使ったのだね?『何もありませんでしたわ』なんて、おまえは落ち込んだように言ってたけど、見てごらん!王子は使いを寄こして『他の男の目に触れぬようにしてくれ』と、そうおっしゃっておいでなのだよ。ああ、わたしの可愛い、いとしのレイラ!!あの方はすっかりおまえのことを気に入っておいでなのだ」
「おかみさん、わたし、落ち込んでなんていません」
レイラは照れたようにそう言い返した。ただ、もしリッカルロ王子に気に入られなかった場合、それが他の男に変わるだけのことなのだとわかっていた。もしそうなら……彼女としては彼が良かったのだ。もちろん、ほんの二十分ほど話した程度のことで、相手の男の何がわかると言われてしまえばそれまででもあったが。
「それでおまえ、あの方の顔はしっかり見たのかえ?あたしはね、唯一その点だけが心配だったのだよ。おまえがもし、あの方の顔を一目見るなり驚いて、思わず『ヒッ!』なぞと悲鳴を洩らしでもしたら、話はすべてそれまでだとわかっていたからね」
「あの方は……素晴らしい方です」
娼婦として、初日の仕事(実際にはただ、リッカルロ王子と二十分会っただけ)がはじまってから、レイラは一人部屋を与えられるようになっていた。こちらは娼館とは廊下で繋がる形となっている、特別に稼ぎのいい娼婦だけが住める別棟だった。
「おかみさんから目の不自由な娘だと聞かされているはずなのに、変に不躾けな感じでもありませんでしたし……ようするに、あの方は紳士なのですわ。それで、わたしの隣に座るでもなく、室内を暫くうろうろしてから、『何か困っていることはありませんか?』とか、『お入用のものがあれば、持って来させましょう』とか聞いてくださって……最後に、『これからはなんの心配もないようにして差し上げます』って、そうおっしゃって出ていかれましたの」
「ホホホ」と、マルテは上機嫌に、何故か勝ち誇ったような声色で笑った。「そうさねえ。ま、おまえのことを気の毒な身の上の娘だとは、確かに話して聞かせましたよ。あと、まだ男のことを何も知らない処女だともね。もしかしたら、そのせいだったのかもしれないね。そんな気の毒な娘に対して、突然ケダモノのように襲いかかるだなんてことは、上品なお育ちのあの方には出来なかったのかもしれないよ」
「あの、おかみさん……リッカルロ王子は少しも醜くなどありませんでしたわ」
「ほう。そりゃあの方にとっては新趣の意見ということになるやもしれないね。まあ、あたしとしちゃ、こう考えていたのだよ。レイラ、おまえにとって王子さまがキスするのも嫌だというくらい醜く感じられなかったらいいなと、そんなふうにね」
「…………………」
レイラは一度黙り込んだ。むしろ、彼女のことを恐れさせたのは、リッカルロの顔の口蓋の奇形などではないのだった。百九十センチばかりもある精悍な体躯に、そこはかとなく漂う男らしさ……彼がハンサムか否かなどということはどうでもよく、レイラはそちらのほうがよほど恐ろしかった。けれど、自分は『目が見えない』という設定なのだと思うと、そのことを相手に悟らせるわけにもいかない。無論、リッカルロは自分よりも年下らしき娘が怯えているらしいとは気づいていた。もっとも彼はそれを、『目の見えぬ娘の、相手がどのような姿をしているかもわからぬ怯え』として受け取っていたのだったが。
「たぶん、なんともないと思います」と、レイラは恥らうように答えた。「むしろ、そんなことを気に病んでおられるのだとしたら、本当に気の毒と思ったくらいなんです。でも、わたしは目が見えないはずなんですから、あの方に『気にするほど醜くもなければ、むしろお美しいくらいですわ』なんて言えませんものね。それに、わたしの目が見えていても、やっぱりそんなことは言えませんわ。きっと、ただの王子さまに媚を売ろうとするおべんちゃらとしてしか受け取ってもらえませんものね」
「そうだねえ……ま、あの方が高潔で立派な方だということは、間違いのないところだよ。それで、そうしたリッカルロさまのご性格の美点に比べたら、あの方の口裂け具合のことなど周囲にいる者たちはどうでもよくなってくるんじゃないかね。なんにしても、あたしとしてもほっとしたよ。『あんな醜い男とだなんて、まあ!!』なんて、レイラ、おまえが気が狂ったように叫ぶような娘でなくてね」
このあと、マルテはすぐにレイラの部屋を出ていった。この薄幸であるはずの娘が、しみひとつない白い肌を微かに薔薇色に輝かせているように感じられ、マルテはそのことを何やら訝しんだのである。
『やり手婆よ、決してやりすぎるなよ』とは、彼女がマキューシオ・エスカラスより、かつて冗談で言われたことである。だがこの場合、マルテは事があまりにうまくいきすぎたことで、今後何か自分が落とし穴にでも落ち込むのではないかと、突然心配になったわけであった。その心許ない不安がどこからやって来るのかと考えた時――マルテはレイラの薔薇色の頬の輝きのことが思い浮かぶばかりだったのである。
(まさか、恋……?いや、娼婦が客と恋仲になるなんてのは、珍しい話じゃないにしてもね。何分、あの娘は初心すぎる。しかも、血筋はハクスレイ侯爵家の娘とはいえ、一度娼婦に身を落としているのでは、正妃になるというのは絶対無理だ。それに、リッカルロ王子は素晴らしい方には違いないがね、あたしが考えてるのは次のようなことだよ。レイラと男女の仲になることで、王子は男としてすっかり自信がつき、最初はあの娘との恋愛に夢中になるけれども、女とどのようにつきあっていけばいいか一度すっかり心得てしまうと、何人もの女性と浮き名を流してのち、どこぞのお貴族さまの娘を嫁御にもらうというね……)
マルテの狙いはこのことで、リッカルロ王子に目に見えぬ一生の恩を売るということだったが、自分のこの計略がうまくいきそうであるにも関わらず、それゆえにこそ不安を感じることに対し――マルテは廊下を歩いて娼館のほうへ戻っていきながら、軽く首を振った。何分、彼女のおかみとしての生活は、毎日目まぐるしいほど忙しい。この時も、廊下を歩いている途中で、この女主人の姿を探していた侍女たちに、マルテはあっという間に取り囲まれたほどだった。
「ジリアンが、また頭が痛いっていうんですけど、ちょっと仮病っぽいんですよねえ。どうします、おかみさん?」
「今日の献立のことなんですけどね、予定してた食材が届かないっていうんですよ。どうします?」
「つけ払いにしてた、雑貨屋のレンドルフさん。用心棒のガルシッドが支払いを迫りにいったら、『金なんかねえ!』ですとさ。困った親父ですよ、まったく。店に売りもんなら色々並んでるわけですからね、なんだったらそっちで支払ってもらえってことなんですが、どうしましょう?」
といった具合に、それぞれの問題を片付けるうち、マルテの頭から一時的にレイラとリッカルロ王子のことは追いやられることになった。けれど結局、この上得意客と初心な娼婦の娘との関係はその後しっくりうまくいき――マルテとしてもすっかり胸を撫で下ろすということになるのだった。
* * * * *
その後、暫くの間……リッカルロはマルテの娼館に通い続けたが、レイラと第一王子との間で特にこれといった関係の進展は見られなかった。彼はただ、毎回花束を持って自分が買い取ったに等しい娼婦の元を訪れ、何かあれこれ話して帰るという、それだけであった。
レイラはリッカルロがマルテにどの程度の金を支払っているかは知らなかったが、結構な額を渡したらしきことはわかっていた。というのも、今のところレイラの懐のほうへはほんの小遣い程度のものも入って来ないのだが、そのことについて彼女に不満はない。何故かといえば、清潔な住居に十分な食事にきらびやかなドレスや宝石類などなど……先に投資してもらっている品が多いだけに、レイラとしては(自分はまだろくに働いてもいない)と思うばかりだったからである。
(あの方はわたしに会いに来ても何もせず、ただお話して帰るだけ……でも、本当にこれでいいのかしら?)
そんな状態が三か月も続いた頃、レイラも流石に不安になってきた。リッカルロ王子が週に一度か二度やって来るのを待ち受ける以外、レイラは特にこれといって仕事らしい仕事は何もしていない。小間使いの侍女たちの手伝いをすることは今もあったが、それも気楽な手仕事のようなものであって、何か責任があるというわけでもない。他に、マルテから「まあ、そういうことなら、ちょいと他の娘たちの頭に教養ってもんをすりこんでおくれ」と頼まれ、そうした授業をすることもあるといった程度のことである。
実際のところ、今ではレイラはリッカルロがやって来るのが楽しみでならなかった。ハープや歌に音楽、詩の朗読などなど……王子がやって来ると、いつでも鳥の翼のはばたきのように、瞬く間に時のほうは過ぎ去っていく。そして、いつでも彼が帰ろうとする素振りをするたび、レイラは『まだお帰りにならないで』とか、『何かお急ぎの用でもありますの?もしそうじゃないなら、まだいいじゃありませんか』と言いかけて、やはり言えない。この頃には特に、リッカルロの自分に対する、つまりは目の見えない気の毒な娘に対する気遣いが、実にこまやかなだけに、レイラは非常に重い罪悪感に苛まれ始めていたのである。にも関わらず、そんなふうに誘いかけるような言葉を口にするのは、なんともはしたないことであるように感じられたのだ。
そして、リッカルロが帰ってしまうと、レイラは次に彼がやって来る時まで、恋の甘いときめきと悩ましい溜息とで満たされた時間を過ごす。レイラはリッカルロのことを思うだけで幸せだった。けれども、そんなふうに感じているのは自分だけであって、彼にとってはそうでないのかもしれないと思うこともあった。結局のところ、リッカルロは目の見えぬ気の毒な娘に対して、何か慈善の優しい心から遊び相手になっているのであって、それ以上のことなど望んでいないかもしれないのだから……。
けれど、マルテの娼館のある、隣の区画にリッカルロは小さな屋敷を買うと、レイラをそちらへ連れて来るということにしていたのである。結局、マルテはレイラには従業員としての給金を一ルガルテたりと支払わなかったということになるだろう。このやり手婆はただ、国の第一王子が送って寄こした使者から、娼婦の買い上げ金にアドランス金貨の詰まった袋をもらうと――そのあと、レイラが金の籠の小鳥に独り言を囁いている部屋まで行き、「あんたは明日から早速、リッカルロさまと一緒に暮らすということになるよ」と彼女に教えたのだった。
目の見えない可哀想な娘の慰みにと、リッカルロのくれた小鳥は、人間の言葉をしゃべるセキセイインコだった。その白い頭に水色の羽を持つ鳥に向かい、レイラは恋の歌を教えているところだったが、突然のことにすっかりびっくりしてしまう。
「このあたしにしても、まったくもって驚きさ。もうこの娼館経営に携わって、あたしも三十年ほどにもなるがね、キスひとつしないうちに娼婦を買い上げた男なんぞ、リッカルロ王子が初めてさね」
「一緒にって……でもあの方は、リガンティン岩の上の、レガイラ城にお暮らしになっておられるのでは……」
「そりゃそうだよ。まったく、図々しい娘だね」と、マルテは思いきり笑ってやった。「そこに王子と一緒に住めるのでないことくらいは、レイラ、いくらあんたが世間知せずだとしても、わかっておいてもらわなくちゃ困るってもんだ。ここは歓楽街だがね、ひとつ隣の区画には、ミドルクラスの住民が住む閑静な場所があるんだよ。まあ、あの方がその気になれば、もっといい屋敷だって用意するのは簡単だったに違いない。けど、あんたが少しは知りあいのいる――どうやらそれは、あたしやこの娼館の人間のことらしいんだがね――近くに住めるのがいいと考えたらしいよ。まあ、かといって歓楽街帰りのしょうもない酔っ払いが壁に小便しない程度には離れていることが望ましいと思ったんだろう。そんな場所に小洒落たようなお屋敷を、おまえのために用意してくださったのさ。リッカルロ王子はもちろん、今まで通りレガイラ城で寝泊りされるだろうが、時々おまえのところへもやって来てくださるという、これはそうしたことなんじゃないかね」
「…………………」
「なんだい?まさかとは思うがね、レイラ。『なーんだ。お城に一緒に住めるわけじゃないの。しょんぼり』なんて思ってんじゃないだろうね。まったく、なんて恩知らずな娘だろう!最後に、ひとつだけ教えておくよ。あの方がおまえに対して無制限に金を使い、色々良くしてくださろうとも……決して尊敬と感謝と謙遜の気持ちってもんを忘れちゃいけないってことさ。そこのところさえわきまえていたらね、その後、もし他の女に心を移すようなことがあったにしても、おまえのことはおまえのことで、王子さまは大切にしてくださるだろうからね。そこのところ、ようく肝に命じておおき」
マルテとしては半分冗談としてこんなようなことを言ったに過ぎなかったのだが――レイラはよく見える両の瞳にみるみる涙を溜めると、その場にどっと崩れ落ちるようにして座り込み、泣きはじめたのだった。
「おかみさん、わたし、どうしよう……っ!!だって、あの方……リッカルロ王子は、あくまでもわたしが目の見えない気の毒な娘と思えばこそ、色々面倒を見てくださってるんですよ。それなのに、これからわたしが嘘をついてるなんていうことがバレたりしたら……きっと、今はある同情の気持ちもすっかり冷めてしまって、そのお屋敷からも追い出されて、大変なことになるに決まってます……っ!!」
「おやおや。そんなくだらないことを気にしてたのかえ」
マルテは、レイラの手を取って起き上がらせると、彼女のことをベッドに座らせた。カナリヤのほうは一体誰が教えたものか、『オドロキ、モノノキ、サンショノキ!』などという言葉を何度も囀っている。
「なあに、心配はいらないよ。なんだったら最後には、娼館のやり手婆がそんなふうに自分に入れ知恵したっていうふうに言えばいいってだけのことじゃないか。何分、リッカルロ王子はすっかりおまえに夢中であられるのさ。最終的にこうなるってことがわかってさえいりゃあねえ……こんな娼館なんて場所じゃなく、最初からわたしのほうであの方がお買い上げになったような屋敷におまえのことを住まわせて、そこに住んでる娘のことはどうとでもしてくださって構わないとでもいうように献上してたら良かったのかもしれないがね。そうすりゃ正妃になるってことだって、夢じゃなかったかもしれない」
「おかみさん……っ!!わたし、本当に一体どうしたら……今はまだ出会ってそんなに経ってないにしても、そのうち、すっかりわたしがあの方のものになってしまって、ただの退屈な娘だっていうことにでもなったとしたら……」
レイラは両方の手で顔を覆い、さめざめ泣いていた。リッカルロ王子はいつも、香りのいい花を持ってきてくださる。それも、自分の目が見えないと思い込んでいるため、香りを楽しめればと思ってのことだ。小鳥のこともそう。目が見えないと思えばこそ、そんな形ででも気持ちが慰められればと思い、その他、色々な手ざわりのハンカチや、刺繍で文字の浮きでている小間物類や……そんな贈り物を必ずしてくださる。それなのに、自分は最初からそんなリッカルロ王子の優しい心遣いを裏切ってしまっているのだ。
「まあ、そう気に病むような必要はないさ。最悪、そんな理由であんたがもし屋敷から追んだされるんだとしたら、その時はこのやり手婆を頼りな。その後の身の処し方については、あたしのほうで教えてやろう。次はまた別の男に囲われればいいなんていうことじゃなくね、その時の状況次第によって、レイラ、あんたのことはちゃんと面倒をみてやるってことを、最初に約束しておいてあげよう」
「おかみさん、ほんとに……?」
ひっくひっくとしゃくりあげるように泣くレイラに対して、マルテは優しくその背中を撫でて慰めた。こういう時、普通であれば(王子からしこたませしめたんだろうから、そのくらいは当然だ)と考えそうなものなのに、レイラにはそんな発想自体まったく思い浮かびもしないようだった。
「だから、そんな嫁入り前の娘みたいにしくしく泣くのはおよし。リッカルロ王子はきっと、レイラ、おまえのことを大切にしてくださるよ。捨てられた子犬、虐待された猫、酷使されて肩の肉のところが裂けた馬……たとえとしちゃなんだがね、あの方はたぶん、自分よりも可哀想なそんな存在のことが好きなんじゃないかね。あたしの見たとこ、王子にとっちゃ、あんたの目が見えないってことは思ったよりもずっと大切なことのようだ。だからもう暫く、事態のほうがどうなるか見極められるようになるまでは……あんたはまだ目が見えないってことにしておいたほうがいいよ。いいかい?これは命令だよ。最低でも、体の関係ってやつを持ってあの方がすっかりおまえに満足しておられるようだというくらいになるまでは――目の見えない娘のままでいることだね。レイラ、初心なあんたにゃわからないことかもしれないが、そのあとでなら、同じ怒るにしても全然話が別ってことになってくるんだからね」
レイラにはやはりわからなかった。彼女としてはもう、次にリッカルロがやって来た時にでもすべて話してしまいたくて堪らなかった。何より、そうすることで「嘘をついている」という罪悪感から解放されたかった。そして、それでもまだ自分のことを愛してくださるなら……その上でなら、自分も彼が用意してくれたというお屋敷に、一緒に暮らす資格があるように思われるのだった。
「いいかい、レイラ。あんたがすっかり本当のことを話してしまって楽になりたいという気持ちはわかる。だがね、あの方は自分が悪くもないのにあんなご容貌に生まれてきてしまったことで……実の父親からでさえも見捨てられてしまったのだよ。特に、母親以外の女性ということで言えば、本当に自分は愛されるのか、その値打ちがあるのかと、深い猜疑心をお持ちなのに違いない。その点、おまえは目が見えないのだから、そういうことであれば、本当に純粋に安心して愛情を注ぐということが出来るのだよ……レイラ、自分の罪悪感の解放なんてことより、この場合大切なのは何より、リッカルロさまのお気持ちのことだと考えるのだね。何より、一度ひとりの女の愛情を勝ち得ることが出来れば、それがあの方にとって男としても、将来の王としても自信がつくことだというそのことがあの方にとっては何より大切なのだということを、ようく心得ておくのだよ」
やり手婆マルテのこの指摘がいかに正しかったかがわかるのは、レイラにとって随分のちのことだった。とはいえ、賢明にも彼女は、とにかく男女のことではいくつもの修羅場をくぐってきた、おかみの言うとおりにするのが一番だと判断したのだった。そうなのである。マルテの推測は正しかった。リッカルロはレイラの美しさや若さといったものにも当然惹かれたのだったが、何より彼にはこの娘の目が見えないということが一番重要だったのである。そのことを気の毒に思い、心を痛めているというのも事実だったが、自分の口蓋の醜さが彼女の前には「まるきりない」、「見えていない」と思うと、リッカルロはなんの気兼ねもなく、マキューシオやティボルトの前でと同じように、安心していくらでも冗談を言うことが出来るのだった。
こうして、レイラは目が見えないと嘘をついていることを心苦しく思い、リッカルロのほうでは「噂では聞いているにしても、ここまで醜いとは思ってもいまい」ということについて、罪悪感を感じつつ――お互い、そのことについては触れぬようにしながら、やがてふたりは恋人同士として結ばれるということになる。
「あまり広いとはいえないが、使用人と住む分には十分と思う。もし気に入らなければ、もっと快適なところに引っ越せばいいのだし……」と、リッカルロがぶつぶつ呟きながら案内してくれた屋敷は、三角屋根の尖塔をいくつも持つ、くすんだ白さのレンガ造りの家だった。庭のほうは、おそらく彼が前もって手入れさせたのだろう、狭いながらも高い塀と生垣によって囲われたその場所は、薔薇やルピナスといった花が咲き乱れていて美しかった。
『目が見えない』という設定が足枷となるのが何より困るのは、レイラにとってまさにこうした瞬間だった。リッカルロは屋敷について<狭い>と言ったが、レイラは決してそう思わなかった。玄関ホールに大広間、キッチンや食堂、使用人たちが休むための部屋に、寝室や書斎、それに客間が一階と二階にそれぞれ三つもあったのだから。
「いいんです。わたし、リッカルロさまさえご一緒なら、どこだって……」
リッカルロはレイラの手を引くと、「そこに段差がある」とか、「階段を上る時には気をつけて」と言いながら、部屋のほうを案内してくれた。そうこうするうち、この時もレイラの瞳はみるみる涙で潤んできたものだった。それは、『目が見えない』という嘘をついていることの心苦しさ、やましさから生じたものでもあったが、リッカルロが『目の見えぬ取るに足りない娘のために』ここまで良くしてくれることに対する、心からの感動でもあった。
「俺は、いつもずっとここにいるということは出来ないが……侍女たちはみな口が堅いし、信用できる人間だ。あと、マルテがイーディという娘をあなたと住まわせると何かと便利だろうというので、彼女もそのうちここへやって来るだろう」
「まあ、イーディが!?」
レイラが明らかに嬉しそうにパッと顔を輝かせるのを見て、(マルテの言うとおりにしておいて良かったのだろう)と、リッカルロはあらためてそう感じた。
「入り用のものや欲しいものがあれば、いつでも彼女たちに頼んで買ってきてもらうといい。食事のことやなんかもそうだ。食べたいものがあれば作ってもらえばいいし……何か暮らし向きのことで不満なことがあれば、俺に直接そう言えばいいよ」
「不満だなんて、そんな……」
お礼の言葉を述べようとして、レイラはぐっと喉の奥に何かが詰まったようになった。だが、リッカルロは何かを察したように、レイラの手を取り、その甲にそっとキスしただけだった。
「まあ、あまりそう深く考えないことだ。たぶん、俺のほうでも君に何か言いたいことがありそうだと思えば、そう感じ取ることが出来るだろう。今、君が感謝の気持ちのあまり、どう言葉で表現したらいいか迷っていたように……そのことがわかれば、もう言葉なんていらないんだよ。大切なのは、ようするにそういうことなんじゃないか?」
「リッカルロさま、わたし……」
(なんだか、とても幸せで、幸せすぎて怖いんです……)
けれど、レイラはやはり言葉にしては何も言えなかった。レガイラ城からやって来た侍女は二人いて、一人は年がいっていて厳しい顔つきをした、アデレアという名の侍女。もう一人は二十代で、地味で暗い雰囲気の、シーリアという娘だった。彼女たちはリッカルロ王子が滞在中は、非常に無口で何も感じてないかのような義務的態度なのだが、二人きりの時にはレイラが目が見えないのではなく、耳が聴こえないと勘違いしているようによく喋った。そしてここへイーディが加わると、最初、二人の侍女は彼女のことを毛嫌いし、その後イーディとシーリアは徐々に仲が良くなっていったのだが――シーリアはアデレアの前ではそうと気取られぬよう注意していたようだった。
レイラがこの住み心地の好い屋敷へ引っ越してきた日、リッカルロは夕食を共にしてから、娼館での時のように、少しばかりおしゃべりして帰っていった。けれど、この次の週、彼がやって来た時は晴れていたのに、夕方から雲行きがあやしくなり、夜には雨となった。レイラは雨を口実にして、リッカルロに「帰らないで……!!」とようやく言うことが出来た。「だって、濡れてしまいますもの。帰るのだったら、こんな雷の鳴っている中でなしに、もっと小止みになるか、晴れてからのほうがようございますわ」と。
「もし明日も、雨がやまなかったら……?」
「ずっと、わたしのおそばにいてくださいませ。そしたらずっと、一緒にいられますもの。わたし、これから毎日雨が降るようにお祈りしますわ。リッカルロさまが帰らなくてもいいなら、何晩だって……」
「この雨は、農夫たちにとってはまさしく恵みの雨だろうな。ここのところ、ずっと日照り続きだったから……だが、雨は降りすぎたら降りすぎたで困るものだ」
リア王朝の暦で、その月は六月だった。農耕神アウルスディールの月でもあり、主都オルダスにある神殿では、毎日のように雨乞いの儀式が行なわれていたものである。
「神さまがきっと、上手く取り計らってくださいます。そして、その時にはリッカルロさまにおそばにいて欲しくて雨を願う娘のことなどより、神さまは農夫たちの願いのほうを叶えてくださるのですわ」
再びまた雷が鳴ると、レイラはびくっと体を震わせた。かといって彼女には、リッカルロに抱きつく勇気まではない。もしこの日、大雨が降りはじめて、雷まで鳴りだしたというのでなかったら――この心から愛しあう恋人たちは、結ばれるのがもう少し遅れていたかもしれない。とにかく、リッカルロとしてはレイラが雷ゆえに震え、怯えているというのが問題だったのである。それで、今暫くは彼女のそばにいようと考え……健気に何かを耐えるかのような様子のレイラがいつも以上に愛おしく感じられ、彼女のことを不意に抱き寄せたのだった。レイラのほうでも彼の体に抱きつき、あとのことは本当にもう、何も考える必要のない、ただ自然の成りゆきだった。
リッカルロの抱擁と、抱擁のあとの口接けと、絹のドレスを上手く脱がせてもらうのと……『相手の男のことがどんなに好きでもね、女の最初の時っていうのはレイプみたいなもんさ。そこのところに期待するのはよしとくんだね』というマルテの言葉が脳裏をよぎっていったが、レイラは怖くもあり、緊張しながらも、それでも初めての相手は絶対に彼が良かった。そして、大雨と雷の中ですべてが終わったあと――実際に彼女はもう、彼のこと以外は誰も、男のことなど欲しくないほどだったのである!
もともと、リッカルロにはレイラが何かを話している途中で、みなまで言わずとも彼女が何を言いたいかわかっているところがあり、それはレイラにしても同じなのだった。彼らふたりの間には恋愛の駆け引きのようなものはなく、口にした言葉は大抵が、ありのまま、そのままの意味である場合が多かった。そして、そんな性格的傾向のふたりが肉体的にも結ばれ、その上、お互いにがっかりすることもなかった以上――リッカルロとレイラのお互いに対する愛は、以前にも増して限りなく、大きく広く、天上の愛をも越え、さらに燃え上がるばかりだったと言える。
アデレアもシーリアもイーディも、ふたりの間に生じた変化に当然気づいていたが、この件について特に何も言わなかった。イーディはレイラの恋の喜びについて話相手になってやり、時々そのことをからかったりもしたが、アデレアとシーリアの二人はいつでも『知らぬ存ぜぬ』といった態度だったものである。
リッカルロは、オールバニー公爵領における政務に関してますます精をだし、時間があれば恋人のいる屋敷を訪れ、愉しい時を過ごし、この間自分が実は王子であるとか、よしんば王位を継ぐことになったとすればどうすべきか……といったことは、彼の中で一時的に棚上げにされた。何故なら、リッカルロにはこの愛おしい姫のことしか目にも胸にもなかったからだし、いずれは誰か、レイラ以外の貴族の娘と結婚せねばならない――といったことなど、まったく考えることさえ出来ぬほどだったのである。
リッカルロとレイラの、こうした新婚の蜜月にも等しい期間というのは、その後三年以上も続いた。何より、レイラにとって不幸だったのは、リッカルロが王命により、戦争へ出征せねばならないことだったに違いない。彼は『初陣を飾るなどと言っても、俺は一応軍の総司令官でもあるわけだから、腰抜けのように一番後ろに控えるということになるだろう。だから、命の心配だなんだ、おまえがそんなに気に病む必要はないんだよ』と恋人によく言って聞かせたものだった。だが、レイラとしては見解がまるで違った。彼女はリッカルロともう二度と会えないのでないかと心底心配し、やもすれば気でも狂ったようにその話しかしないほどだったのである。
『もしリッカルロさまがお帰りにならなかったら、わたしも死にます』とか、『ああ、よりにもよって戦争だなんて!まるで悪魔がやって来て、わたしのことを試してでもいるかのようだわ。だってそうでしょう?戦争ですって!なんて恐ろしい!!あなたが戦地にいる間、わたしはまんじりとも出来ず、そのうち衰弱して死んでしまうでしょうよ』……といった具合に、自分が代わりに悪魔と取引するから戦争へなど行かないで欲しいと、泣きながら嘆願することまであるほどだったのである。
そして、レイラの目が実は見えるということがわかったのも――そんな最中のことだった。レイラは戦争の神ヴァルキリーの神殿に毎日のように詣でるようになっていたわけだが、その帰り道、レイラはイーディと目抜き通りに並ぶ商店のひとつで買い物をしていた。リッカルロはティボルトとともにいて、茶屋のひとつでアプリコットジュースを飲んでいた。通りは人混みでごった返していたが、リコリスティーを飲むティボルトの肩越しに、リッカルロは自分の恋人の姿をはっきりそれと認めたわけである。(目の見えない彼女がひとりでいるはずがない……)そう思いはしたが、やはり反射的に体が動いた。「悪いが、先に帰ってくれ」と親友に言い、リッカルロはレイラの後を尾けた。無論、恋人に近づこうと人混みの中を進むうち、彼にしても気づきはした。隣にイーディがいるということについては。だが、今の今までリッカルロは想像してもみなかった自分に驚いたのである。こんなふうにレイラが庶民の娘のように当たり前に街中へ出かけていき、暗殺者のような存在に殺される可能性もあるということを……。
(いや、まったく考えなかったわけではない。もちろん、ものものしい警護をつけた今より大きな屋敷に、レイラのことを住まわせることは出来る……だが、それならそれで第一王子の愛人がそこに住んでいると周囲に知らせるようなものだと、最初の頃はそう思っていたのだ。けれど、俺もそろそろ色々なことを考える必要があるのかもしれん)
リッカルロはレイラと、この件で初めて喧嘩らしい喧嘩をした。リッカルロは自分が戦争へ行っている間、地方にある別荘へレイラのことを移そうとしたのだ。ところが、「どうして別荘へなんて?」、「いや、俺が主都にいる間はいい。だが、留守にする間、やはりおまえのことが気にかかるのでな」、「大丈夫よ。ここでも地方の別荘でも戦地でも、人は死ぬ時には死ぬものですもの」、「俺が戦地へ赴くことは、それが王命である以上、リア王以外には絶対に変えられん。それに、俺は死にはしない。だから、心配はいらないよ」、「わたし、わたしね……カルロ。実は目が見えるのよ」――レイラから突然、なんの脈略もないところでそう言われた時、リッカルロは驚いたりはしなかった。実は前から薄々そうと気づいていたからではない。自分の戦争行きのことが決まってから、レイラはずっと情緒不安定で、突然何かの発作でも起こしたようにヒステリーを起こしたりと、様子のほうがおかしかったからである。
「だから、きっと神さまがすべてをご承知の上で、わたしに罰を与えたんだわ。わたし、あなたと出会ってからずっと幸せだった……でももう、そんな生活も終わりになるのね。きっとこの戦争は、あなたのこともわたしのことも変えてしまう……わかっているのよ。だって、ここのところわたし、すっかり嫉妬か何かで狂った女みたいに、あなたにとっては疎ましい存在になり果ててるんですものね。だけど、自分でもどうしようもないの。朝起きてから夜眠るまでずっと、そのことが頭から離れないのよ。ああ、よりにもよって戦争だなんて!どうしてよりにもよって神さまは、こんな酷い罰をこの嘘つき娘に与えようとなさったのかしら……」
この日も、ふたりは食堂で美味しい食事をしながら、ここのところ繰り返し何度もしている戦争の話で素晴らしいディナーのひとときを台無しにすることになったわけだが――深刻度という意味において、この日はまったくの別段階をリッカルロは経験することになったわけである。
「目が見える……?」
リッカルロは疑いの気持ちから、(そんな馬鹿な)と思った。実際、給仕をしたシーリアが(何かあったのだろうか)と、再び食堂へやって来たが、彼女の硬質な顔の表情には一向変化などない。
「シーリア、おまえそのこと……もしかして知っていたのか?」
「はい。存じておりました」
大抵の女性というのはおしゃべりなものだが、シーリアはその点実に変わった娘だった。というのも、彼女は母親が子供をしつけるのに、実際に悪いことをするというよりも、悪いことをしそうだと見るなり、すぐ体のどこかをつねってきたため――この母が死んだのちも、その見えざる手につねられることを絶えず用心するかのように、すっかり無口になっていたのである。ゆえに、彼女の舌がよく動くのは、同性の、気を許した相手との会話だけに限られていた。
「何故そのこと、俺に言わなかった?ということは、そもそもアデレアも知っていたということになるな?いや、責めるつもりはない。ただ、知りたいのだ。何故今こんな時になるまで……」
リッカルロは最初は冷静だった。いや、取り乱すようなみっともない真似だけはするまいと、自制心を総動員すべく努力もした。だが、やはり彼はもう一度レイラと目と目が合うなり――カッと頭に血が上り、スープ皿の下のランチョンマットを引くと、その上にあったスプーンやフォークごと、床に落としていた。
「何故俺に黙っていた!!言う機会ならば、何度となくあったはずだぞっ。それなのに俺は――俺は……おまえのことを目の見えぬ気の毒な娘と思えばこそ……っ」
初めて自分の心から愛する恋人が激昂する姿を見て、レイラは芯から体が震えたように、その場から動けなかった。自分は一体何を期待していたのだろうか?『そんなこと、前からなんとなく気づいていたさ』と、笑って許してもらえるとでも?だが、レイラはリッカルロの青い瞳の奥に、怒りの炎が赤く燃えるのがはっきりわかり、自分の許されざる罪深さを思い知ったのだった。
この時、不思議なことにこの場を救ったのは、シーリアの一切何も感じてないような無表情な顔と、何ものにも動じない、まったくおろおろしたところのない態度だったに違いない。彼女が(あなたさまは何故、そのようなコショウの如き小さなことでお怒りになられるので?)とでも言いたげな泰然自若たる態度だったため、リッカルロはむしろ、自分の正当な怒りを鞘に収めるしかなかったのだ。
「………帰るっ!!」
リッカルロはそう言うのがやっとだった。本当は、『もう二度とここへは来ない』とか、『おまえとはもう終わりだ』といった言葉も喉までこみ上げていたが、賢い彼にはこの時点ですでにいくつかわかっていたことがある。まず第一に、マキューシオが<やり手婆>と呼ぶマルテは、当然このことを知っていたに違いないし、おそらくは彼女の入れ知恵により、レイラは苦しい嘘をつくことになったということ、第二に、自分が容貌の醜さを気にしていることから、奇妙なことには善意によって、そのように仕組まれたのだろう……という、このふたつのことだけははっきりわかっていたのである。
だが、リッカルロはやはり感情として許せなかった。こんなに純粋で美しい娘が他にいるだろうかと信じてきたレイラが、最初から自分を騙していたこと、「目が見えない」と思えばこそ、あれやこれやと本当であればする必要のないことに、自分がいかに心を砕いたかということや……いや、正直にいうとその点についてはリッカルロ自身、欺瞞的なものを感じてはいる。レイラの目が見えないと思えばこそ、自分は心底ほっとして彼女と接することが出来たのだし、心から安心してあれやこれやと親切にすることが出来た――そのことの内にはある種のずるさも存在したことを、彼は公正に認めぬわけにはゆかぬからだ。
とはいえ、もはやどちらが正しいか正しくないかではなく、とにかくリッカルロはレイラのことが許せなかった。そしてこの時点においては、いつか許せるのか、時が経てば許せるようになるのか、それとも許したい気持ちはあっても、やはり許せぬ気持ちのほうがやがては勝ってしまい、うまくいかなくなってしまうということになるのか――リッカルロにもわからなかった。ただ、暫くはとにかくレイラの顔を見たくもなければ話もしたくなかったので、今の気持ちに変化でも起きぬ限り、彼女のいる屋敷の敷居を跨ぐ気には到底なれなかったわけである。
実際のところ、王都へ呼びつけられ、突然戦争のことをリア王から直々に命じられて以降、リッカルロは忙しかった。何分、数万規模の兵を動かすことになるのだし、普段の政務に加えて軍略会議を連日のように開き、あらゆる戦法について精査せねばならなかった。リア王は若い頃、ほとんどスポーツ感覚で出兵させ、何人将兵を失うことになろうとも何度となく隣の<西王朝>へ攻め込んでいったということだったが、リッカルロにはそんな考え方は出来なかった。犠牲を必要最低限に抑えるためにも、<西王朝>が驚きのあまり自ら降伏するような機略や奇策といったものがどうしても必要だと感じていた。ゆえに、一時的に恋人との関係のことについては頭から締め出すことにし、ただこのことにのみ彼は専心することにしたのである。
ところが、リッカルロがレイラの元を訪ねなくなってから二週間と経たぬうち、彼の住むレガイラ城へ、アデレアとシーリアとイーディが交替で直訴しにやって来た。アデレアもシーリアも、もともとはレガイラ城に仕えていた侍女であったから、他に城内に務めている知り合いなどいくらでもいたわけである。そこで、彼らや彼女たちを通じて、ほんの五分、あるいは三分、第一王子と謁見できる時間というのを作ってもらうことが出来たのである。
「あんまりでございます、リッカルロさま」
普段あまり顔色を変えないアデレアに涙を浮かべてそんなふうに言われると、リッカルロも流石に良心の疼くものがあった。
「レイラさまが一体あなたさまに何をしたと言うのです?ただ、忙しい御政務の間のちょっとした気晴らしを提供したり、一緒に楽しいひとときを過ごしてきたという、それだけではありませんか。確かに、わたくしもシーリアも、あの方の目がお見えになるらしいとすぐに気づきましたよ。また、そのような嘘をついているのが心苦しいということでも、レイラさまは随分悩んでおいでのようで……ですが、わたくしもシーリアもイーディも、暫くは何も言わないほうがいいと、三人で意見を同じくしてあの方のことを説得したのでございます。そうこうするうち、リッカルロさまもレイラさまも、あの方のお目が見えるか見えないかなんてことはどうでもよく、すっかりお互い、鏡の中の自分でも見るように、愛情をお隠しにならないような御関係になられて……わたくしどももそれでほっとしましたし、もうそうなればレイラさまの嘘がばれようとばれまいとどうでもいいとすら思っておりました。ええ、それはもうまったく」
(疑いようもなく)と言うかわりに、アデレアは片方の眉を少しだけ上げた。それが彼女の無意識の癖だった。
「ようするに、三年以上も一緒にいて気づかなかった俺のほうが間抜けだったのだと、そう気づけということか?」
「いえ、そこまでは申しておりません。ただ、不思議なものでございましてね、リッカルロさま。わたしくもシーリアも、レイラさまの目がお見えになるとわかっているものですから……実はあなたさまもそうとすでに気づいておられるのに、あえてわかってない振りをしておいでなのではないかと、そんなふうに思っておりました。まあ、わたくしの親戚にも目の見えぬ娘がおりますけれど、そうした学校のほうへ通いましたら、身の回りのことは大体自分で出来るようになって、驚くほど変わって帰ってきたということでございます。親のほうはもう、そのような寮に入れるという時には涙々でございましたよ。娘のほうでも、寮の自分の部屋でひとりきりになった時には大号泣したとか……それでその後、わたくしがその娘の家へ食事へ行ったらばですね、まあまったくびっくりですよ。もしあの娘の目が見えてないと教えられてなかったとしたら――大抵の人間はそうと気づかないんじゃないかというくらい、なんでも自分ひとりで出来るんですからね。ですからまあ、レイラさまもそんなにあからさまに目が見えない振りの演技をしておられたというわけでもありませんし、レイラさまにはレイラさまで、リッカルロさまがそのうち自然とお気づきになるのではないかという希望があったのでございます」
「…………………」
リッカルロは一度黙り込んだ。彼にしても一応わかってはいるのだった。自分はそのうち間違いなく、レイラのいる屋敷のほうへ足を向けることになるだろうとは。だが、彼が毎日思っているのは(だが、それはまだ今ではない)という、ただそれだけのことなのだ。
「アデレア、おまえの言いたいのはそれだけか?」
「ええ、まあ」と、アデレアは第一王子の怒りなど少しも恐れていないように、首を傾げた。彼女としては、このくらいまでを聞けば、お優しい性格のリッカルロさまはお心を動かされるだろうと思っていた。だが、もう一押し必要らしいと考えたわけだった。「リッカルロさまがお忙しいことはわかっております。ですが、毎日すっかり塞ぎ込んでいるレイラさまを見ているわたくしどももつらいのです。一度でもほんのちょっとお顔を見せてくださって、『暫くやって来れなかったのは忙しかったからで、怒ってるわけではないのだよ』と、何かそんなようなことをレイラさまにおっしゃっていただけたらと、そう思いまして」
この時、執事がやって来て、王宮からの使者と会う時刻であることを告げた。そこで、アデレアは空気を察し、すぐに礼とともに辞去していた。だが、この次の日もさらに翌日もリッカルロがやって来ないため――今度はシーリアが「ほんの五分、いえ三分で結構でございます」と言って、謁見の約束を取りつけたわけだった。
「わたくしはあの日以来、よく眠れませんでした」と、シーリアは挨拶も早々に本題のほうへ入った。「もしや、何かわたくしに大きな責任があったのではないかと、そんなふうに思ってしまったのでございますよ。ああ、リッカルロさま、お願いでございます。このままあなたさまがおいでにならなかったら、レイラさまはすっかり衰弱して死んでおしまいになるでしょう。わたくしは決して大袈裟に申し上げているのではないのでございます……!きっと戦争が、自分からリッカルロさまを取り上げておしまいになると、何故かレイラさまはそのように頑なに思い込んでおられるところがあるのですよ」
「将兵はみな、俺のことを守るために戦うようなものなのだぞ。それなのに、何故一番死にそうもない俺が真っ先に死ぬ予定表に組み込まれねばならんのだ」
シーリアは胸の前で両手を組み合わせ、瞳に涙を浮かべると、懇願するように続けた。
「お許しくださいませ、リッカルロさま……!決してそのような意味ではないのでございます。ただ、レイラさまはあまりお食事のほうもお取りにならず、日々みるみる痩せてゆかれるばかり。馬巣織りの衣服を身に着けて、ただ毎日お祈りしておられるのですわ。それも、あなたのお心が自分に戻ってくるようにというよりは、戦争であなたが矢傷ひとつ負うことなく無事に戻って来られることを必死に祈っておられるのでございます。ああ、リッカルロさま!後生でございますから、一度だけでもちらとお顔を見せに来てくださいませ。そしたら、レイラさまだけでなく、わたくしどもも安心なのでございますから……」
「アデレアとシーリア、おまえたちの気持ちはよくわかった。だがな、俺は本当に忙しいのだ。今日もこのあと、軍略会議がある。それに軍の総司令官であるこの俺が、その合間合間に愛人に会いにいくというのも……そんなのはどこか、やる気のない腑抜けのすることという気もするしな。そういうことなのだと思って、俺なぞいなくとも、それなりに楽しく暮らせとあれには伝えてくれ。目が見えるのなら、なおのこと達者に暮らせとな」
この日、シーリアはがっかり肩を落として王城から帰ることになった。彼女はアデレアから、『まあ、あともう一押しってとこだね。なんにしても、もう少し時間が必要ってことだよ。レイラさまにリッカルロさまが必要なように、リッカルロさまにだってレイラさまが必要なんだからね』と、そんなふうに聞いていた。だが、シーリアからこのことを聞くなり、アデレアのほうでも楽観的な考えをすっかり捨て、仰天していた。『なんだって!?このままじゃレイラさまは死んじまうとまで言ったのに、目が見えるのならばなおのこと達者で暮らせと言われただって?ムムム。こりゃ確かに重症だよ。どうしたもんかねえ』
キッチンで鴨の羽をむしりながらそんな話を二人がしていると、イーディがキッチンのほうへやって来た。そして、『そういうことなら次はあたしが行って、王子さまのことをどうにか説得してきますよ』とバチッと片目を瞑って申し出たわけだった。
実際のところ、イーディは実にうまいことやったものである。彼女がさめざめ泣いてリッカルロ王子にレイラ姫の意気消沈した様子について長々描写してみせると――彼はこの前日、自分がシーリアに言った言葉を気にしていたのであろうか。明日にでも、必ず屋敷を訪問する旨、約束してくださったのである。
「一体どうやったんだい?」
アデレアが不思議そうに聞くと、イーディはぺろりと舌を唇の横っちょに突き出していたものだった。
「自分のまだ生きてるおっかさんが死んだとこ想像して、さめざめ泣いてみせたんですよ。それで、レイラさまが『こんなことならいっそのこと、目なんか見えなくなればいい』と言って、針で目を潰そうとされたって話をしたら……一発でしたよ」
「まあ、なんて罰当たりな嘘を……」シーリアは呆れたように言ったが、その実、彼女もまたイーディの手際に感心していた。「イーディ、あんた芝居小屋の女優にでもなれそうなくらいの演技力じゃないの」
「なんにしても、明日に備えてあたしらはせいぜい美味しいもんでもこしらえなきゃあね」と、アデレア。「目が見えないという嘘にさらに嘘を上塗りしたという気もするけれど、まあそこはそれ。リッカルロさまも心の底ではレイラさまに会いたいに決まってるんだから、きっとこれで何もかもうまくいくに違いないよ」
――だが残念なことに、三人がそんなふうに軽く考えていたほど、問題のほうは簡単に解決しなかった。『目が見えないという嘘をついていた上、今度はいっそ目が見えなくなればいいと言って針で目を潰そうとしたことがさらに嘘だった』のがリッカルロにわかったからではない。賢いこの第一王子はもちろんちゃんとわかっていた。アデレアもシーリアもイーディも、自分たちの女主人を愛すればこそ、長い距離、城までの坂道を汗をふきふき上ってきたのだろう。そこに若干の嘘が混ざっていようとも、そんなことはまったく問題ではないのだ。ただ、リッカルロは「目が見える」とわかったレイラと、涙を流して自分に許しを乞うレイラと、以前と同じような関係に戻ろうとしながら……ふと気づいてしまったのである。自分がなんとも名状しがたいものを失ってしまったらしいということに。そして、その喪失感は、彼が当初自分で思っていた以上に大きなものだった。
それは、もし仮に一言で簡単に言うとしたら「安らぎ」だった。いや、もしかしたら「安らぎ」と「癒し」だったかもしれない。レイラの目が見えなければこそ、リッカルロは彼女という存在に大きな安らぎを感じてきた。けれど、これからはそうではないのだと、彼はハッとするような思いで気づいたのである。一見、ふたりの関係はかつての仲睦まじいそれに戻ったようであったが、リッカルロはもう、心のどこかで冷めている自分を感じていた。無論、レイラは相も変わらず愛らしく、すっかりやつれている彼女と会った時、リッカルロが心底後悔したというのも本当のことである。
そして、この日以降暫くの間――リッカルロは自分が以前のとおり、レイラが望んでいるだろうところの自分を演じているにすぎないということに、嫌にはっきりと気づいていった。それは一言で言うとしたら、以前はあれほど忙しい政務の合間でも、レイラと会うのが楽しみでならなかったのに、今ではそこまでする価値があるのだろうかと疑いはじめ、さらには彼女という存在が癒しどころか、一緒にいて「疲れる」相手になりはじめている……そんなふうに感じている自分を発見し、心底驚いたわけだった。
リッカルロはこのことで深く悩んだ。というのも、「目が見えない」と嘘をついていたことについては、彼は彼女のことをすっかり許していた。これは本当である。だが、にも関わらず、元の関係にはどうやら戻れそうにないことが……リッカルロのことを戸惑わせた。そして自分の手に余るこの問題に関し、彼は気は進まなかったが、ふたりの親友に相談せざるをえなかったわけである。
>>続く。