さて、ようやく「10年目の鞠絵」です
ほんの13ページくらいの短編なんですけど、主な登場人物はあんまりパッとしない雰囲気の島田くん、そして大学の芸術学部で一緒だった美人の久野鞠絵さんと顔も人格も立派なハンサム津川克実くんといったところ。
3人は親友同士でとても仲が良かったのですが、素晴らしい青春の時間を三年ほど共有したある日のこと――鞠絵さんと克実くんは結婚し、大学を突然やめてしまうんですね。ひとり取り残されたように感じ、寂しい思いを味わう島田くんでしたが、そこへ10年ぶりに津川克実くんから電話がかかってきます。鞠絵さんが死んだということでしたが、この少し前に島田くんは鞠絵さんの夢を見ていて……今にして思えば、もしかしたら虫の知らせということだったのかもしれません。
薬を常用していて飲みすぎたのが鞠絵さんの死因ということでしたが、おそらく自殺だったのでしょう。島田くんは美男美女のふたりはてっきり結婚して幸福に暮らしているものとばかり思っていましたが、津川くんのほうでは絵のことというか、自分の才能のことで思い悩んでいたようで……ふたりの生活は、島田くんが想像していたようには、あまり幸福なものでなかったようです。
島田くん:「津川、どうして三人でいられなかったんだろう。オレはずっと三人でいたかったよ。オレはもう長いことあのころが恋しかったんだ。もう二度とあんな時期はないよな」
津川:「ああ……オレたち、若かったよな。あんなに対等だった時期はないよな」
――あらゆる可能性、あらゆる奇跡、手をにぎり合い、完全な円を構成していた。そしてその円は外宇宙へ向かって無限に広がっていた。
(「十年目の鞠絵」のあらすじ、終わりm(_ _)m)
……そのですね、津川克実=竹宮惠子先生、久野鞠絵=増山法恵さん――といったように思えるというのもありますが、あくまで創作の中でのことですから、「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」くらいのことではあると思います。
ただ、最後のページに書かれた>>「――あらゆる可能性、あらゆる奇跡、手をにぎり合い、完全な円を構成していた。そしてその円は外宇宙へ向かって無限に広がっていた」という部分だけ、わたし的には萩尾先生と竹宮先生と増山法恵さんのことについて描かれている……みたいに思ったんですよね(^^;)
ちなみに、雑誌に掲載されたのは1977年3月です。この頃、竹宮先生は「風と木の詩」の連載をすでに開始されており、筆のほうがノリにノっていたのではないかと思われますし、増山さんはそんな竹宮先生をマネージャー兼プロデューサーとして、バックアップするといった立場でなかったかと思います。
で、そう考えた場合、萩尾先生が何故このお話を描かれたのかな……なんて、ちらっと凡人的につい思ってしまったんですよね。そしてここからはわたしの勝手な想像によることですので、かなりのところ外れている可能性の高い推測だったりします(だったら書くなよ、とは自分でも思います^^;)。
自分的に、主要登場人物は3人とも、萩尾先生ご自身の部分的投影でないかと思っていたり。何分この頃、竹宮先生はようやくのことで『風と木の詩』の連載を開始され、筆のほうがノリにノっていたのではないかと思われますし、そう考えた場合、>>「ところがどうだ。傑作を描くはずのオレは、年ごとに何かの壁にブチ当たって小さくなってもがいている」……というのは、少なくとも竹宮先生のことではないと思う、というか。いえ、このころ萩尾先生はきっとスランプだったに違いないといったことでなく、漫画でもなんでも、<創作>ということのうちには――仮に人がどんなに褒め称えてくれようとも、そうした部分というのは潜在的にあるものだ、という意味です。
そして、自殺したと思われる鞠絵さんですが、こちらに関しても当然「増山さん」の死を願っているといったことではまるでなく(^^;)。「前までは大切だったけど、自分にはもうなんの関係もなくなった」=「死んだも同じ」となった時、漫画や小説といった創作手段を持つ方であれば、なんらかの形で相手を葬り去ることがあるという話(いわゆる<創作的死亡>というやつです)。
実際の現実世界では相手が生きていても、「あの人はわたしにとって、わたしの人生にもうなんの関係もない」――そう感じた時に起きることがある、というか。わかりやすい例でいえば失恋ですよね。仮に相手が10万円程度金を踏み倒していなくなった場合、作中に描く時には「あいつ、わたしから50万も踏み倒してどっかいったと思ったら、そのまま会社やめていなくなっちゃったのよ」的に、ちょっと大袈裟に書いてみるとか。この場合、この人物が作中でどの程度ひどい目に遭って死ぬかは、作者のウラミの程度や未練の深さにもよるかもしれません(^^;)
そして、この『十年目の鞠絵』が発表されたのは、1977年の3月で、この前年の1976年、萩尾先生は『ポーの一族』と『11人いる!』とで、小学館漫画賞を受賞しておられます。ですから、漫画家としてはすでに若くしてひとつの<達成>を成し遂げておられたと思うんですよね。でも、実際には読んでいなかったとしても、『風と木の詩』がとうとう連載へと至って大変な評判らしい……といったことくらいは萩尾先生の耳にも入ってきていたでしょうし、そう考えると、かつての大泉の日々のことなどが心に甦ってきて、再び複雑な感情を経験されたんじゃないかな……と想像したりもするわけです。
また、この『十年目の鞠絵』の前に、『影のない森』という作品が収録されているのですが、こちらは離婚した奥さんに戻ってきて欲しいと思っているのに、現実の彼女のほうでは次の相手を見つけてうまくいっているらしい――ということで、喪失感に悩む男性の姿が描かれています。それで、こちらのお話についてどうこう言いたいわけではなくて、ただ、この男性が笛子さんという奥さんを失ったという喪失感……その感情には名前がなくて、彼はそれを「ナナシ」と呼んでいる、みたいに思ったんですよね。
つまり、そこだけの繋がりでいうと、萩尾先生が竹宮先生と増山法恵さんとの関係で喪ったものについては、「いまだ名前がない」のだろうなという気がしたというか。「大泉と下井草、青春と盗作疑惑の思い出」とか名づけるのも何か変ですし、何かこうぴったりくるような名前さえ見出せれば忘れられる――そんな気もするのに、実際にはそんなことは不可能なわけですから
わたし、増山法恵さんに関することでは、少しわからないというか、不思議に感じていることがあって。萩尾先生は例の盗作疑惑のことがあってのちも、増山さんとは1年くらい文通でお互いの近況報告などをしていたと言います。でも、それが途切れたのが何故かということについては特に書かれておらず、もしそれが自然消滅的なものであったとすれば、「お互い忙しいこともあり、その後はもう手紙のやりとりをすることもなくなってしまいました」で済みそうな気がするのに……どうもこの手紙に書かれた内容のことで、<何か>あったように感じられるわけです
そして、花郁悠紀子さんのお葬式ですれ違って以後、二度と会っていません――といったようにもお書きになっておられる。漫画家の花郁悠紀子さんがお亡くなりになったのは1980年で、萩尾先生と増山さんの文通のやりとりがなくなったらしいのは、1974年くらいです。花郁悠紀子さんのお葬式があったのは金沢だったわけですが、萩尾先生は花郁悠紀子さんと一緒に暮らしておられたことがあるし、何より彼女は『トーマの心臓』に盗作疑惑がかけられた時、怒って否定してくださった方でもある。そして、増山さんは増山さんで花郁先生と仲良くしておられたということなのかもしれません(いえ、わざわざ金沢まで行くということは、そのくらい親しかったということだと思うので)。
でも、にも関わらず萩尾先生と増山さんはこの時、特段話らしい話さえされなかったらしいことを思うと……お互いにもう、「それぞれ別の道を歩んでいる」という、そうしたことなのかなと思ったと言いますか(^^;)。
だからわたし、増山さんは萩尾先生が小学館漫画賞を受賞した時も、特段お電話などをして「おめでとう!すごいわね!!」と言うことさえなかったのかなと思いました。いえ、「普通の」友達であれば、仮に暫く連絡を取りあってなくても、小学館漫画賞を受賞したと聞いたら、電話をしたり電報を打つなり、相手のことを祝福すると思うわけですけど……竹宮先生の心情のことを思うと、そうも出来なかったということなのかどうか。
いえ、わたし的に「トーマの心臓」という作品は、増山さんにとっては「そうよ!これこそわたしの言ってる少年愛よ!!」と彼女が評しそうに思うのですが、実際のところ萩尾先生と増山さんの関係が途切れてるのは、萩尾先生がこの「トーマの心臓」を連載されてる頃ではないかと思われるわけです。
竹宮先生との関係が駄目になってしまった理由は『少年の名はジルベール』を読むとよくわかるわけですけど……実際のところ、萩尾先生は何故「関係を絶たれたか」について本当の意味で理解したのは、『少年の名はジルベール』を読んだマネージャーの城章子さんから話
を聞いてではないかと思うんですよね。だから、「理由のわからない、名づけようのない感情」について、最初からそうとわかってさえいたら、萩尾先生は色々考えたり悩んだりされなかっただろうなと思うと――本当に胸が痛みます
ただ、『一度きりの大泉の話』には、>>「私の人間関係失敗談です」と書いてあるわけですけど、萩尾先生は特段人間関係に失敗したわけではない、といったようにも思うわけです。
『10月の少女』には、「デクノボウ」というタイトルの、漫画家がいかにネームというものに悩まされるか……といったことがテーマ(?)の、エッセイ風漫画が収録されています。そこに、漫画家として親しいささやななえさんや、青池保子先生、美内すずえさんもまた、ネームにいかに苦しめられるかについて、興味深いことを色々語っておられたり。もし、例の盗作疑惑といったことがなかったら、たぶん竹宮先生についても、『竹宮先生(ケーコタン)の場合』みたいな感じで、萩尾先生は必ず数コマ使ってそうです。でも、交流がなくなって以降、萩尾先生のほうでは竹宮先生の漫画は一切読めなくなったとはいえ……竹宮先生のほうでは何かの折にこうした萩尾先生の漫画などを読まれ、「ああ、本当に萩尾先生のまわりはいつも楽しそうだな」と、寂しい感情を味わったことが一度もなかったといえば、そんなことは絶対ないだろうと、一読者としては思うのです(^^;)
正直、「一度きりの大泉の話」を読んだ時には、「なんてヒドイ話なのっ!さめざめ☆」といった感じであり、竹宮先生に対しては怒りしか感じませんでした。ところが、「少年の名はジルベール」を読むと、竹宮先生も相当苦しかったんだな……ということがわかり、一読者としてはあるひとつの疑問が思い浮かんでくるわけですよね。
つまり、もしこうした行き違いといったことがなかったとしたら――『ねえ、わたしモーさまに昔、結婚したいって言ったことあったわよね』とか、『そうそう、あなた自分のことナルシストちゃんだって言ってたのおぼえてる?』とか、『アッハハ。今思い返すと、イタイ女よねえ』……みたいに、何かの対談で話したりして、ふたりの名前が並んだ雑誌の特集などで大泉時代のことが色々語られていたかもしれないわけですから……。
>>人間には多様な面があります。多面体のように。もっと異なる面に出会われた方も、多々おられることは理解しています。
ただ、私と竹宮惠子先生たちとの面と面との出会いでは、このようになってしまいました。それを良いとか悪いとか残念とかああしていればとか考えるのは放棄いたしました。とてもとても一言では言えないからです。
(『一度きりの大泉の話』萩尾望都先生著/河出書房新社より)
萩尾先生のような天才が、そうした形で色々考えるうち、その中からひとつも作品を描くことがなかった――とは、少し考えにくいことから、この「十年目の鞠絵」という短編は、やっぱり竹宮先生や増山さんのことがあって、そうした感情に区切りをつけるために描かれたお話だったのではないだろうか……と、凡人としてはやはり思ってしまうわけです(^^;)
それではまた~!!