【イースター島のモアイ像】(笑)
前回の前文で、次はエミリー・ディキンスンの「わたしが死のために止まれなかったので……」の詩を書こうと思います♪的に書いた気がするんですけど、↓の本文を読み返したら、聖書の引用箇所があったので、先にそちらについて書きたいと思います(^^;)
>>わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者に開かれます。
あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。
卵を下さいと言うのに、たれが、さそりを与えるでしょう。
してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。
(ルカの福音書、第11章9~13節)
↓に、>>「うん、わかってるよ。それに僕、父さんになんか何も期待したことないもん。聖書にさ――「誰が魚の欲しい子供に蠍を与えるでしょう」って書いてあるけど、うちの父さんはそんな人だよ。テニスのラケットが欲しいって言ったのに、サッカーボールをくれたりさ、とにかくいつもずれてるんだ。クリスマスの時に靴下の中に蠍が入ってるよりはいいかもしれないけどさ」……とあるわけですが、ようするにこれは聖書の福音書からの引用だっていう、それだけなんですけど(^^;)
なんにしても、エミリー・ディキンスンの詩についてはまた次回かその次あたり……と思いましたm(_ _)m
それではまた~!!
ぼくの大好きなソフィおばさん。-【6】-
「おばさんは今年の夏、父さんとどこへバカンスに行くの?」
授業が終わったあと、マクレガー先生からヨーロッパへ一緒に来ないかと誘われたことは伏せておいて、アンドリューは夕食後、図書室へやって来たソフィにそう聞いていた。
一応、机の上には適当に本が積まれているが、アンドリューは本を読む最中、始終窓のほうばかり気にして、数行読んではそちらをちらちら見てばかりいた。
やがて暗闇の中に女中頭のサラでない人影が浮かび上がってくると、アンドリューはほっと安堵して、もう窓の向こうになどまるで興味はないという振りをしながら、一心不乱に無我夢中といった様子を装い、『クラバート』という本を読んでいた。
だから当然アンドリューは、ソフィが正面口でなく、きのうと同じ脇のほうにあるドアから図書室へ入ってきても、「おばさんのことなんかまるで気づかなかったよ」という振りをし続けたのである。
おばさんのほうでも特に何も言わず、アンドリューの隣に座ると、積んである本の何冊かを手に取ってはパラパラめくっていた。ソフィのほうから何も聞いてこないので、アンドリューは不本意ではあったものの、突然ぶっきらぼうに夏のバカンスのことを口にしたというわけだった。
「バカンスねえ。何分、つい先だって新婚旅行へ行ったばかりだから、おばさんは少しのんびりしたいわ。でもお父さんが突然ジェット機であそこに行きたいだのここへ行きたいだの言って、おばさんのことを連れまわしたとしたら……おつきあいしなくちゃいけないでしょうね。アンドリュー、そしたらあんたも一緒に来る?」
アンドリューが適当に積み上げただけと知らないソフィは、ナボコフの『ロリータ』を手に取って、(こんな本をこの子は本当に読んだのかしら?)と訝っていた。
「僕はべつにいいや。だって、父さんなんかと一緒に旅行したって、ちっとも楽しくないからね。やれ、アンドリュー、おまえはなんとかがなってないとか、そんなこと言われてさ、楽しい旅行が台無しになっちゃうから、べつにいいよ」
アンドリューが「話が出来る人がいる」というだけで十分嬉しいと知らぬソフィは、この時ある名案を思いついて、ひとり興奮しだした。だから、アンドリューがきのうと同じようにちらと隣のソフィを盗み見た時――ソフィが猫のように目を輝かせているのを見て、アンドリューは驚いたのだった。
「坊や……あんた、あたしとふたりだけで旅行するってのはどう?」
(おばさんとふたりっきり!!)
アンドリューは、そんなことは思ってもみなかったので、突然心臓がドキドキしてきた。もしソフィおばさんとふたりでヨーロッパにでも行けたら素敵だなとアンドリューは思ったが、そんな想像はすぐに架空の物語として凋んでしまう。何故なら、そんなことをあの父親が許すはずはないと思ったのである。
「ふたりでどこに行くの?」
それでもアンドリューは、現実的な懸念を口にする前にそう聞いておいた。どうせ駄目になることはわかりきっているけれども、夜寝る前に想像するよすがとして、行き先くらいは聞いておきたいと思ったのだ。
「そうねえ、どこがいいかしら。坊やはどこか行きたいところってないの?」
「僕は……」
(おばさんと一緒なら、べつにどこでもいいや)と言いかけて、アンドリューは黙りこんだ。父親が仕事でいなくなり、おばさんとふたりで先ほどとったディナーは素敵なものだった。まず第一に父親の前でのように萎縮しなくてすむし、ソフィはアンドリューのしゃべることはなんでも面白がって聞いてくれた。
「僕は、頭の中じゃ色んな国へ旅行しに行ったよ。アフリカとかヨーロッパとか中国とか……でもイースター島に行きたいなんて言っても、おばさんはいまいちピンと来ないでしょう?あとはアラスカかフィンランドに行ってオーロラを見るとか、たぶん女の人にはつまんないと思うから、いいよ」
「そうねえ。モアイ像にはおばさんもちょっとは興味あるけど」
ソフィが何気なくそう口にすると、アンドリューの様子が突然一変して、今度はソフィのほうが驚いた。
「おばさん、モアイ像って、今もどういうふうに作られたかわかってないんだよ!そんでね、なんでモアイ像を作った人たちが滅びたかっていうとね、元々は同じ部族だった人たちが争うようになったからなの。そんで、狭い島の中で食糧を奪い合ったり互いを殺しあったりしてる内に、どっちも滅びちゃったんだって。ほら、何分あんなに小さな島のことだから――食糧にできるものなんて限りがあるでしょう?だからその少ないものを奪いあってるうちに滅びたんじゃないかって言われてるらしいよ。そんでね、それは実はイースター島だけのことじゃなくって、いずれ地球規模で同じことが起きるんじゃないかって言われてることなんだよ。ようするにさ、地震とか飢饉とか、色んな悪いことが重なって地球の食糧事情が悪化した場合……戦争で奪いあったりするようになって、どんどんひどいことになるかもしれないって、そう本に書いてあるのを読んだよ」
「坊やは物知りなのねえ」
感心したようにソフィは言って、きのうと同じようにアンドリューの頭を撫でた。何故なのだろう、マクレガー先生が「よし、いいぞ、アンディ」とか「よく出来たな、アンドリュー」と褒めてくれてもちっとも嬉しくないのに――ソフィに感心してもらえるのは、アンドリューにとってとても心地好いことだった。
「おばさん、お父さんが来週末になって帰ってきたら、今年の夏は坊やとバカンスに出かけたいって話してみるわ。お父さんとは一緒に旅行してきたばかりだし、義理の母と息子が仲良くするちょうどいい機会だと思うって、言ってみるわね。ただ、期待はしないでちょうだい。お父さんにはお父さんの計画があるかもしれないし、理由はなんであるにしても、それが理不尽なものでもなんでも、お父さんの言うことは聞かなくちゃいけませんからね」
「うん、わかってるよ。それに僕、父さんになんか何も期待したことないもん。聖書にさ――「誰が魚の欲しい子供に蠍を与えるでしょう」って書いてあるけど、うちの父さんはそんな人だよ。テニスのラケットが欲しいって言ったのに、サッカーボールをくれたりさ、とにかくいつもずれてるんだ。クリスマスの時に靴下の中に蠍が入ってるよりはいいかもしれないけどさ」
「坊や、蠍じゃなくって、ザリガニ釣りってしたことある?」
ソフィは机の上の本を脇にどけると、そこに頬杖をついて、義理の息子のことを覗きこみながら聞いた。
「ううん、ないよ。釣りっていっぺんしてみたいなって思うけど、うちの池で釣り針にパン屑なんかつけてさ、鯉なんか釣ってもしょうがないもん」
(まあ、九つにもなるのに、釣りもしたことがないだなんて!)
今時の都会の子というのは、そんなものなのだろうか……ソフィは少しばかり不思議になったが、なんにしても、バートがいいと言いさえすれば、今年の夏、この子はまずは魚釣りを覚えるだろうとソフィは思った。「ヴァ二フェル町?そんなど田舎に行ったってつまんないや!」と言われるかもしれなかったが、ソフィはアンドリューのことを自分の生まれ故郷へ連れていきたいと考えていたのである。
けれどもその計画のことはまだアンドリューに伏せておこうと思った。何分、バートがなんて言うかわからなかったし、期待させるだけさせておいて最後に駄目になるよりは――最初はまるで期待していなかったのに最後には素晴らしいことが起こった!というふうになるほうがいいような気がしたからである。
それが一体なんの縁か偶然かはわからぬにしても、翌週の週末になってバートランドが帰ってくるまでの間、ソフィとアンドリューの関係は至極しっくりうまくいっていた。むしろアンドリューなどは(このまま父さんが一生帰ってこなくて、おばさんとふたりきりならいいのに!)と思うほどだったが、当然この父親は結婚したばかりの新妻と過ごすために帰ってきた。
バートランドは七月の第一週目の土曜と日曜の二日滞在し、また翌日の月曜には仕事へ赴く予定だったため――ソフィは大いに彼にサービスしなくてはいけなかったし、彼が人間として気難しく「ねじくれた」ものを持っていると知っていたため、必要以上にはアンドリューと親しげな気配を滲ませようとはしなかった。つまり、彼よりも息子のアンドリューの子供としての立場を持ち上げたり、遠まわしにでも父親としての彼の責務を非難しようものなら、恐ろしいことになるとソフィは直感していたということである。
だからその後、女遊びの激しい夫などより、義理の息子のほうが遥かに可愛らしいし愛おしいと感じるようになってからも……ソフィはアンドリューのことをより深く愛しているといったように、バートの前で見せつけることはしなかった。
何によらず、このバートランド・フィッシャーという男は、二番手ということが我慢できない人間であった。そしてそれは、血の繋がった息子に対してでさえ、平気で牙を剥き一番という地位を取り戻すということを意味していたといえる。
父親が帰ってくるという土曜の夕方、いつも以上にソフィがめかしこんでいるのを見て、アンドリューはこの時、まるでおばさんと初めて会ったかのような錯覚を覚えたほどだった。綺麗に髪を結い上げて化粧を施し、素敵なナイトドレスを着たソフィは本当に美しかった。メイドのサラやアンナなどは、「やがて重力があの立派なおっぱいや尻を垂れ下がらせるだろう」と言っていたが、その後十年が過ぎてからも、アンドリューはソフィのことを変わらず綺麗だと思い続けることになる。
ただ、やはり夕食の席では父親の顔を立てるためかどうか、いつものようには会話がまるで弾まなかった。アンドリューもそのことに不満があったわけではないが、ただこの時生まれて初めて――父親よりも自分のほうが実は上位に立っていることに気づいたのである。つまり、いつも夕食の席でアンドリューはたあいもないことでソフィのことを笑わせることが出来たし、自分といる時のほうが彼女はリラックスして楽しそうに見えたということだった。
父親の帰ってきた週末は、アンドリューにとってとてもつまらないものだった。というのも、ソフィが何かと甲斐甲斐しく父親の世話をしなくてはならないため、彼女は図書室にやって来ることもなかったし、池で一緒に鯉に餌をやったりすることもなかったからである。
「父さんなんて、早く死んじまえばいいのに」
日曜日の夕方、美しい装いに包まれた義母と父が外へ出かけてゆくと、アンドリューは自分の部屋でそんなふうにひとりごちたほどだった。
そんなふうだったから、当然、月曜の朝にバートランドがいなくなると、アンドリューは心底ほっとした。けれどこの時にはすでに、義理の母親と過ごす夢のようなバカンスといったことは、彼の心には消えてなくなっていたといっていい。もちろん、金曜や土曜の夜などにアンドリューは空想の世界で継母とふたり、モアイ像の下で写真を撮ったり、実際は行ってみたこともないフィンランドで白夜を体験したりしたのだったが――まさか、そんな夢がその夏、本当に実現するとは思ってもみなかった!
「坊や、お父さんからお許しが出たわよ」
月曜日の夕方、ソフィがそう嬉しそうに図書室で言った時、アンドリューはそれが俄かに現実のこととは思えぬほどだった。
「……本当に?」
「ええ。日曜日にね、外出した先のレストランでそう聞いてみたの。たまたま偶然、近くに知り合いの方がいらして――「これが新しい奥様ですか!」だの褒めそやされて、すっかり得意になってたから、言うなら今だわって思ったの。それでその人がいなくなったあとに聞いてみたら、「まあ、いいだろう」って。それでね、アンドリュー。行き先はイースター島でもなければアラスカでもないんだけど、おばさんの生まれ故郷になんて坊やは興味あるかしら?」
「べつに、僕はどこでもいいんだよ!おばさんと一緒だったらどこだって!」
嬉しさのあまり、つい本音を洩らしてしまい、アンドリューはとても恥ずかしくなった。ソフィのほうではそんな彼の様子を見て、アンドリューがようやく年相応に子供らしい顔をするようになったと、そう感じていたのだが。
「ただ、本当に何もないど田舎でね……海辺にある家を借りて、近くの川に釣りをしに行ったり、森や山にバードウォッチングをしにいったりっていう、そんな生活を夏中送ることになると思うけど、坊やはそれで本当に構わない?」
「別に全然いいよ。それがどんな鄙びたところだってさ、マクレガー先生と一緒にヨーロッパへ行ったりするよりは、僕にとっては断然いいよ。それで、おばさんの故郷ってどこなの?」
「ここから四百五十キロばかりも離れた、ヴァ二フェル町っていうところよ。昆布とかサンマとかニシンが採れることで有名なところ。坊や、地図を持っていらっしゃい」
「うん!」
アンドリューは国内や海外の地理関係の本が並んだ本棚へすっ飛んでいくと、すぐに自分たちの住むユトランド共和国のページを開いてみせた。ソフィは「ここがノースルイスでしょ」と、自分たちの住む都市を指差してから、その指を少しずつ南下させていく。
「このポートレイシアっていうところから、電車を乗り継ぐのよ。ポートレイシアまではたぶん五時間くらいね。それからさらに二時間くらい揺られて、ヴァ二ウェル町の駅に着く感じかしら。ノースルイスからポートレイシアまでは、きっと電車は人でいっぱいでしょうね。でもポートレイシアからヴァ二フェル町へ向かう電車には、大して人は乗ってないと思うの」
「ど田舎だから?」
旅行の楽しみと喜びではち切れそうになっているアンドリューを見て、ソフィは微笑ましい気持ちになりながら言った。
「そうよ。ど田舎だから。でもまあ、考えようによっては長閑でいいところよ。マクレガー先生には来週お暇を出す予定だし、それまでに坊やが夏休みにする課題を作っておいてくださるっておっしゃってたわ。お父さんがね、そういう条件で坊やが夏休みも私立中学受験のことを忘れず勉強するっていうなら――バカンスに出かけてもいいってお許しをくださったのよ」
「僕、マクレガー先生なんていなくても、ひとりでだって一生懸命勉強するよ!」
アンドリューは興奮しきりといった様子で、そうソフィと約束した。もっともソフィとしては、夏の間くらい勉強といったものから一切解放されたほうが、よほどアンドリューの心の滋養になっていいと考えていたのだが。
「じゃあ、明日は早速、ふたりでデパートまで買い物に行きましょうね。向こうに着いてから、重い荷物なんかはサラに送ってもらうにしても――まずは身のまわりのものをトランクに詰めるのよ。坊やにとって、一夏過ごすのにこれとこれとこれはどうしても必要だって思うものをね。下着や新しい服なんかも買いましょう。向こうにも小さな店くらいはあるし、十キロくらい北へ行ったところにショッピングセンターなんかもあるんだけど……まあ、とにかく坊やは自分で持てる手荷物を出発の日までに用意しておいてちょうだいね」
「うん、わかったよ!」
アンドリューにとっては、旅行そのものも当然楽しみなのだったが、この楽しみな旅行の準備をするのも面白かった。ソフィおばさんと一緒にデパートへ買い物に出かけ、新しい服や下着やバッグを買ってもらったのだが――「おばさんはこっちとこっち、どっちが僕に似合うと思う?」と聞いたり、買い物に疲れて喫茶店でサンデーを食べたり、ソフィが宝石店で用事を済ませる間、ゲームセンターで遊んだりするのも面白かった。
もっとも、家の主人であるバートランドの許可が下りているとはいえ、この旅行に反対する勢力が僅かばかり屋敷内には残っていた。サラとアンナは、「あんな立派な高級車と運転手がいるってのに、わざわざ電車で田舎に行くんですとさ!」と言ったり、「お坊ちゃまがあの継母に何をされるかわかったもんじゃない!」だのと、ヒソヒソ噂しあったものだった。
「じゃあ、奥様。奥様は使用人をひとりも連れていかないで、そんなど田舎に滞在するおつもりなので?」
当然、自分とアンナ――あるいは他のメイド――がついていくものとばかり思っていたため、夏休みは少し長めに休暇を取っていいと言われた時、サラは拍子抜けがしたものだった。
「ええ、そのつもりだけど、それがどうかしたの?」
「まさか……現地で誰か人をお雇いになるおつもりなので?そんな得体の知れない、素性のわからない人にお坊ちゃんを任せられやしませんよ!なんでしたらやっぱり、このわたしかアンナが……」
旅行用トランクに自分の女主人が下着類を詰め込んでいるのを見て、サラはますます不審に思った。何故あんなフリルやレースのたくさんついた下着をこの女はわざわざ選んで持っていくのだろう?もしや、向こうで誰か男が待っているといった按配なのではあるまいか……。
下着類のことや若い男との浮気といったことではなく、サラが何故こうも反対の意を唱えるのか、ソフィにはわかる気がしていた。彼女は赤ん坊の頃からアンドリューを知っており、またバートランドの前妻のことも、アンドリューを育てた祖母のことも知っているのだ。その他、このお屋敷で起きた多くのことを目撃してきた、フィッシャー家の生き字引きといった女性なのである。
それなのに今、アンドリューが自分の手を離れて目に見えないところに行ってしまい、その面倒を見ることすら叶わないことに、おそらくひどく感情を害されるものがあったに違いない。
「八月の何日かにね、バートランドの社交的な用事で、わたしもこっちへ戻ってきたりすると思うの。その時にね、もしアンドリューがこっちへ来たがらずにひとりで留守番したいって言ったら、あなたかアンナにでも来てもらうことにしようと思うんだけど、どうかしら」
「ええ、ええ、よござんす」サラはようやくここで納得した。これで取引は成立というわけだった。「その時にはわたしが坊ちゃんの面倒を見させていいだきますとも。けど奥さま、他に普段のお食事なんかはどうするおつもりなので?」
ソフィはサラが(なんて派手な下着だろう)と軽蔑しているとも知らず、無造作にブラジャーやスリップ、洋服類などを詰め終えると、ひとつ目の旅行トランクを完成させていた。そして今度はふたつ目へと取り掛かることになる。
「もちろん、わたしが作るのよ。決まってるじゃない。他に一体誰がいるっていうの?」
「お言葉ですが、奥さま」と、サラは少しばかり胸を張って言った。「ここのお屋敷の食事を毎日作ってるのは、一流のシェフでございますよ。失礼ですが奥様は、これまでろくにお食事作りなどされたことはないのではありませんか?」
「やあねえ、わたしをそこらのお嬢さまと一緒にしないでちょうだい」そう言ってソフィは笑った。「今度、あなたにもわたしのフレンチトーストとオムレツを食べさせてあげるわ。絶品よ」
(オムレツにフレンチトースト!そのくらいのことで得意になっているとは!)
そう思い、サラは心の中でせせら笑った。そして継母の陰謀でど田舎へ行くことになったアンドリュー坊ちゃまが心底気の毒になった。きっと坊ちゃまは、来月自分が行った頃にはひどく痩せていて、今以上に顔色が悪くなっているだろう……そして、今は崇拝しているおばさんが、自分の父親以外の男と浮気していると知り、その頃にはすっかり幻滅しているに違いない……。
サラはそんなことを仲のいい女中のアンナと話したものだった。実際には、八月の半ばにサラがヴァ二フェル町へ行ってみると、アンドリューはすっかり日焼けして栄養状態も満点といった様子をしていたのだが、「どうだった?」とアンナに聞かれた時には、ありのままの状態を差し引いて報告したのである。つまりは、坊ちゃんはまあまあ快適に夏休みを過ごしており、まあまあ田舎にも楽しいことがあるようだ、といったように。
>>続く。
前回の前文で、次はエミリー・ディキンスンの「わたしが死のために止まれなかったので……」の詩を書こうと思います♪的に書いた気がするんですけど、↓の本文を読み返したら、聖書の引用箇所があったので、先にそちらについて書きたいと思います(^^;)
>>わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者に開かれます。
あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。
卵を下さいと言うのに、たれが、さそりを与えるでしょう。
してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。
(ルカの福音書、第11章9~13節)
↓に、>>「うん、わかってるよ。それに僕、父さんになんか何も期待したことないもん。聖書にさ――「誰が魚の欲しい子供に蠍を与えるでしょう」って書いてあるけど、うちの父さんはそんな人だよ。テニスのラケットが欲しいって言ったのに、サッカーボールをくれたりさ、とにかくいつもずれてるんだ。クリスマスの時に靴下の中に蠍が入ってるよりはいいかもしれないけどさ」……とあるわけですが、ようするにこれは聖書の福音書からの引用だっていう、それだけなんですけど(^^;)
なんにしても、エミリー・ディキンスンの詩についてはまた次回かその次あたり……と思いましたm(_ _)m
それではまた~!!
ぼくの大好きなソフィおばさん。-【6】-
「おばさんは今年の夏、父さんとどこへバカンスに行くの?」
授業が終わったあと、マクレガー先生からヨーロッパへ一緒に来ないかと誘われたことは伏せておいて、アンドリューは夕食後、図書室へやって来たソフィにそう聞いていた。
一応、机の上には適当に本が積まれているが、アンドリューは本を読む最中、始終窓のほうばかり気にして、数行読んではそちらをちらちら見てばかりいた。
やがて暗闇の中に女中頭のサラでない人影が浮かび上がってくると、アンドリューはほっと安堵して、もう窓の向こうになどまるで興味はないという振りをしながら、一心不乱に無我夢中といった様子を装い、『クラバート』という本を読んでいた。
だから当然アンドリューは、ソフィが正面口でなく、きのうと同じ脇のほうにあるドアから図書室へ入ってきても、「おばさんのことなんかまるで気づかなかったよ」という振りをし続けたのである。
おばさんのほうでも特に何も言わず、アンドリューの隣に座ると、積んである本の何冊かを手に取ってはパラパラめくっていた。ソフィのほうから何も聞いてこないので、アンドリューは不本意ではあったものの、突然ぶっきらぼうに夏のバカンスのことを口にしたというわけだった。
「バカンスねえ。何分、つい先だって新婚旅行へ行ったばかりだから、おばさんは少しのんびりしたいわ。でもお父さんが突然ジェット機であそこに行きたいだのここへ行きたいだの言って、おばさんのことを連れまわしたとしたら……おつきあいしなくちゃいけないでしょうね。アンドリュー、そしたらあんたも一緒に来る?」
アンドリューが適当に積み上げただけと知らないソフィは、ナボコフの『ロリータ』を手に取って、(こんな本をこの子は本当に読んだのかしら?)と訝っていた。
「僕はべつにいいや。だって、父さんなんかと一緒に旅行したって、ちっとも楽しくないからね。やれ、アンドリュー、おまえはなんとかがなってないとか、そんなこと言われてさ、楽しい旅行が台無しになっちゃうから、べつにいいよ」
アンドリューが「話が出来る人がいる」というだけで十分嬉しいと知らぬソフィは、この時ある名案を思いついて、ひとり興奮しだした。だから、アンドリューがきのうと同じようにちらと隣のソフィを盗み見た時――ソフィが猫のように目を輝かせているのを見て、アンドリューは驚いたのだった。
「坊や……あんた、あたしとふたりだけで旅行するってのはどう?」
(おばさんとふたりっきり!!)
アンドリューは、そんなことは思ってもみなかったので、突然心臓がドキドキしてきた。もしソフィおばさんとふたりでヨーロッパにでも行けたら素敵だなとアンドリューは思ったが、そんな想像はすぐに架空の物語として凋んでしまう。何故なら、そんなことをあの父親が許すはずはないと思ったのである。
「ふたりでどこに行くの?」
それでもアンドリューは、現実的な懸念を口にする前にそう聞いておいた。どうせ駄目になることはわかりきっているけれども、夜寝る前に想像するよすがとして、行き先くらいは聞いておきたいと思ったのだ。
「そうねえ、どこがいいかしら。坊やはどこか行きたいところってないの?」
「僕は……」
(おばさんと一緒なら、べつにどこでもいいや)と言いかけて、アンドリューは黙りこんだ。父親が仕事でいなくなり、おばさんとふたりで先ほどとったディナーは素敵なものだった。まず第一に父親の前でのように萎縮しなくてすむし、ソフィはアンドリューのしゃべることはなんでも面白がって聞いてくれた。
「僕は、頭の中じゃ色んな国へ旅行しに行ったよ。アフリカとかヨーロッパとか中国とか……でもイースター島に行きたいなんて言っても、おばさんはいまいちピンと来ないでしょう?あとはアラスカかフィンランドに行ってオーロラを見るとか、たぶん女の人にはつまんないと思うから、いいよ」
「そうねえ。モアイ像にはおばさんもちょっとは興味あるけど」
ソフィが何気なくそう口にすると、アンドリューの様子が突然一変して、今度はソフィのほうが驚いた。
「おばさん、モアイ像って、今もどういうふうに作られたかわかってないんだよ!そんでね、なんでモアイ像を作った人たちが滅びたかっていうとね、元々は同じ部族だった人たちが争うようになったからなの。そんで、狭い島の中で食糧を奪い合ったり互いを殺しあったりしてる内に、どっちも滅びちゃったんだって。ほら、何分あんなに小さな島のことだから――食糧にできるものなんて限りがあるでしょう?だからその少ないものを奪いあってるうちに滅びたんじゃないかって言われてるらしいよ。そんでね、それは実はイースター島だけのことじゃなくって、いずれ地球規模で同じことが起きるんじゃないかって言われてることなんだよ。ようするにさ、地震とか飢饉とか、色んな悪いことが重なって地球の食糧事情が悪化した場合……戦争で奪いあったりするようになって、どんどんひどいことになるかもしれないって、そう本に書いてあるのを読んだよ」
「坊やは物知りなのねえ」
感心したようにソフィは言って、きのうと同じようにアンドリューの頭を撫でた。何故なのだろう、マクレガー先生が「よし、いいぞ、アンディ」とか「よく出来たな、アンドリュー」と褒めてくれてもちっとも嬉しくないのに――ソフィに感心してもらえるのは、アンドリューにとってとても心地好いことだった。
「おばさん、お父さんが来週末になって帰ってきたら、今年の夏は坊やとバカンスに出かけたいって話してみるわ。お父さんとは一緒に旅行してきたばかりだし、義理の母と息子が仲良くするちょうどいい機会だと思うって、言ってみるわね。ただ、期待はしないでちょうだい。お父さんにはお父さんの計画があるかもしれないし、理由はなんであるにしても、それが理不尽なものでもなんでも、お父さんの言うことは聞かなくちゃいけませんからね」
「うん、わかってるよ。それに僕、父さんになんか何も期待したことないもん。聖書にさ――「誰が魚の欲しい子供に蠍を与えるでしょう」って書いてあるけど、うちの父さんはそんな人だよ。テニスのラケットが欲しいって言ったのに、サッカーボールをくれたりさ、とにかくいつもずれてるんだ。クリスマスの時に靴下の中に蠍が入ってるよりはいいかもしれないけどさ」
「坊や、蠍じゃなくって、ザリガニ釣りってしたことある?」
ソフィは机の上の本を脇にどけると、そこに頬杖をついて、義理の息子のことを覗きこみながら聞いた。
「ううん、ないよ。釣りっていっぺんしてみたいなって思うけど、うちの池で釣り針にパン屑なんかつけてさ、鯉なんか釣ってもしょうがないもん」
(まあ、九つにもなるのに、釣りもしたことがないだなんて!)
今時の都会の子というのは、そんなものなのだろうか……ソフィは少しばかり不思議になったが、なんにしても、バートがいいと言いさえすれば、今年の夏、この子はまずは魚釣りを覚えるだろうとソフィは思った。「ヴァ二フェル町?そんなど田舎に行ったってつまんないや!」と言われるかもしれなかったが、ソフィはアンドリューのことを自分の生まれ故郷へ連れていきたいと考えていたのである。
けれどもその計画のことはまだアンドリューに伏せておこうと思った。何分、バートがなんて言うかわからなかったし、期待させるだけさせておいて最後に駄目になるよりは――最初はまるで期待していなかったのに最後には素晴らしいことが起こった!というふうになるほうがいいような気がしたからである。
それが一体なんの縁か偶然かはわからぬにしても、翌週の週末になってバートランドが帰ってくるまでの間、ソフィとアンドリューの関係は至極しっくりうまくいっていた。むしろアンドリューなどは(このまま父さんが一生帰ってこなくて、おばさんとふたりきりならいいのに!)と思うほどだったが、当然この父親は結婚したばかりの新妻と過ごすために帰ってきた。
バートランドは七月の第一週目の土曜と日曜の二日滞在し、また翌日の月曜には仕事へ赴く予定だったため――ソフィは大いに彼にサービスしなくてはいけなかったし、彼が人間として気難しく「ねじくれた」ものを持っていると知っていたため、必要以上にはアンドリューと親しげな気配を滲ませようとはしなかった。つまり、彼よりも息子のアンドリューの子供としての立場を持ち上げたり、遠まわしにでも父親としての彼の責務を非難しようものなら、恐ろしいことになるとソフィは直感していたということである。
だからその後、女遊びの激しい夫などより、義理の息子のほうが遥かに可愛らしいし愛おしいと感じるようになってからも……ソフィはアンドリューのことをより深く愛しているといったように、バートの前で見せつけることはしなかった。
何によらず、このバートランド・フィッシャーという男は、二番手ということが我慢できない人間であった。そしてそれは、血の繋がった息子に対してでさえ、平気で牙を剥き一番という地位を取り戻すということを意味していたといえる。
父親が帰ってくるという土曜の夕方、いつも以上にソフィがめかしこんでいるのを見て、アンドリューはこの時、まるでおばさんと初めて会ったかのような錯覚を覚えたほどだった。綺麗に髪を結い上げて化粧を施し、素敵なナイトドレスを着たソフィは本当に美しかった。メイドのサラやアンナなどは、「やがて重力があの立派なおっぱいや尻を垂れ下がらせるだろう」と言っていたが、その後十年が過ぎてからも、アンドリューはソフィのことを変わらず綺麗だと思い続けることになる。
ただ、やはり夕食の席では父親の顔を立てるためかどうか、いつものようには会話がまるで弾まなかった。アンドリューもそのことに不満があったわけではないが、ただこの時生まれて初めて――父親よりも自分のほうが実は上位に立っていることに気づいたのである。つまり、いつも夕食の席でアンドリューはたあいもないことでソフィのことを笑わせることが出来たし、自分といる時のほうが彼女はリラックスして楽しそうに見えたということだった。
父親の帰ってきた週末は、アンドリューにとってとてもつまらないものだった。というのも、ソフィが何かと甲斐甲斐しく父親の世話をしなくてはならないため、彼女は図書室にやって来ることもなかったし、池で一緒に鯉に餌をやったりすることもなかったからである。
「父さんなんて、早く死んじまえばいいのに」
日曜日の夕方、美しい装いに包まれた義母と父が外へ出かけてゆくと、アンドリューは自分の部屋でそんなふうにひとりごちたほどだった。
そんなふうだったから、当然、月曜の朝にバートランドがいなくなると、アンドリューは心底ほっとした。けれどこの時にはすでに、義理の母親と過ごす夢のようなバカンスといったことは、彼の心には消えてなくなっていたといっていい。もちろん、金曜や土曜の夜などにアンドリューは空想の世界で継母とふたり、モアイ像の下で写真を撮ったり、実際は行ってみたこともないフィンランドで白夜を体験したりしたのだったが――まさか、そんな夢がその夏、本当に実現するとは思ってもみなかった!
「坊や、お父さんからお許しが出たわよ」
月曜日の夕方、ソフィがそう嬉しそうに図書室で言った時、アンドリューはそれが俄かに現実のこととは思えぬほどだった。
「……本当に?」
「ええ。日曜日にね、外出した先のレストランでそう聞いてみたの。たまたま偶然、近くに知り合いの方がいらして――「これが新しい奥様ですか!」だの褒めそやされて、すっかり得意になってたから、言うなら今だわって思ったの。それでその人がいなくなったあとに聞いてみたら、「まあ、いいだろう」って。それでね、アンドリュー。行き先はイースター島でもなければアラスカでもないんだけど、おばさんの生まれ故郷になんて坊やは興味あるかしら?」
「べつに、僕はどこでもいいんだよ!おばさんと一緒だったらどこだって!」
嬉しさのあまり、つい本音を洩らしてしまい、アンドリューはとても恥ずかしくなった。ソフィのほうではそんな彼の様子を見て、アンドリューがようやく年相応に子供らしい顔をするようになったと、そう感じていたのだが。
「ただ、本当に何もないど田舎でね……海辺にある家を借りて、近くの川に釣りをしに行ったり、森や山にバードウォッチングをしにいったりっていう、そんな生活を夏中送ることになると思うけど、坊やはそれで本当に構わない?」
「別に全然いいよ。それがどんな鄙びたところだってさ、マクレガー先生と一緒にヨーロッパへ行ったりするよりは、僕にとっては断然いいよ。それで、おばさんの故郷ってどこなの?」
「ここから四百五十キロばかりも離れた、ヴァ二フェル町っていうところよ。昆布とかサンマとかニシンが採れることで有名なところ。坊や、地図を持っていらっしゃい」
「うん!」
アンドリューは国内や海外の地理関係の本が並んだ本棚へすっ飛んでいくと、すぐに自分たちの住むユトランド共和国のページを開いてみせた。ソフィは「ここがノースルイスでしょ」と、自分たちの住む都市を指差してから、その指を少しずつ南下させていく。
「このポートレイシアっていうところから、電車を乗り継ぐのよ。ポートレイシアまではたぶん五時間くらいね。それからさらに二時間くらい揺られて、ヴァ二ウェル町の駅に着く感じかしら。ノースルイスからポートレイシアまでは、きっと電車は人でいっぱいでしょうね。でもポートレイシアからヴァ二フェル町へ向かう電車には、大して人は乗ってないと思うの」
「ど田舎だから?」
旅行の楽しみと喜びではち切れそうになっているアンドリューを見て、ソフィは微笑ましい気持ちになりながら言った。
「そうよ。ど田舎だから。でもまあ、考えようによっては長閑でいいところよ。マクレガー先生には来週お暇を出す予定だし、それまでに坊やが夏休みにする課題を作っておいてくださるっておっしゃってたわ。お父さんがね、そういう条件で坊やが夏休みも私立中学受験のことを忘れず勉強するっていうなら――バカンスに出かけてもいいってお許しをくださったのよ」
「僕、マクレガー先生なんていなくても、ひとりでだって一生懸命勉強するよ!」
アンドリューは興奮しきりといった様子で、そうソフィと約束した。もっともソフィとしては、夏の間くらい勉強といったものから一切解放されたほうが、よほどアンドリューの心の滋養になっていいと考えていたのだが。
「じゃあ、明日は早速、ふたりでデパートまで買い物に行きましょうね。向こうに着いてから、重い荷物なんかはサラに送ってもらうにしても――まずは身のまわりのものをトランクに詰めるのよ。坊やにとって、一夏過ごすのにこれとこれとこれはどうしても必要だって思うものをね。下着や新しい服なんかも買いましょう。向こうにも小さな店くらいはあるし、十キロくらい北へ行ったところにショッピングセンターなんかもあるんだけど……まあ、とにかく坊やは自分で持てる手荷物を出発の日までに用意しておいてちょうだいね」
「うん、わかったよ!」
アンドリューにとっては、旅行そのものも当然楽しみなのだったが、この楽しみな旅行の準備をするのも面白かった。ソフィおばさんと一緒にデパートへ買い物に出かけ、新しい服や下着やバッグを買ってもらったのだが――「おばさんはこっちとこっち、どっちが僕に似合うと思う?」と聞いたり、買い物に疲れて喫茶店でサンデーを食べたり、ソフィが宝石店で用事を済ませる間、ゲームセンターで遊んだりするのも面白かった。
もっとも、家の主人であるバートランドの許可が下りているとはいえ、この旅行に反対する勢力が僅かばかり屋敷内には残っていた。サラとアンナは、「あんな立派な高級車と運転手がいるってのに、わざわざ電車で田舎に行くんですとさ!」と言ったり、「お坊ちゃまがあの継母に何をされるかわかったもんじゃない!」だのと、ヒソヒソ噂しあったものだった。
「じゃあ、奥様。奥様は使用人をひとりも連れていかないで、そんなど田舎に滞在するおつもりなので?」
当然、自分とアンナ――あるいは他のメイド――がついていくものとばかり思っていたため、夏休みは少し長めに休暇を取っていいと言われた時、サラは拍子抜けがしたものだった。
「ええ、そのつもりだけど、それがどうかしたの?」
「まさか……現地で誰か人をお雇いになるおつもりなので?そんな得体の知れない、素性のわからない人にお坊ちゃんを任せられやしませんよ!なんでしたらやっぱり、このわたしかアンナが……」
旅行用トランクに自分の女主人が下着類を詰め込んでいるのを見て、サラはますます不審に思った。何故あんなフリルやレースのたくさんついた下着をこの女はわざわざ選んで持っていくのだろう?もしや、向こうで誰か男が待っているといった按配なのではあるまいか……。
下着類のことや若い男との浮気といったことではなく、サラが何故こうも反対の意を唱えるのか、ソフィにはわかる気がしていた。彼女は赤ん坊の頃からアンドリューを知っており、またバートランドの前妻のことも、アンドリューを育てた祖母のことも知っているのだ。その他、このお屋敷で起きた多くのことを目撃してきた、フィッシャー家の生き字引きといった女性なのである。
それなのに今、アンドリューが自分の手を離れて目に見えないところに行ってしまい、その面倒を見ることすら叶わないことに、おそらくひどく感情を害されるものがあったに違いない。
「八月の何日かにね、バートランドの社交的な用事で、わたしもこっちへ戻ってきたりすると思うの。その時にね、もしアンドリューがこっちへ来たがらずにひとりで留守番したいって言ったら、あなたかアンナにでも来てもらうことにしようと思うんだけど、どうかしら」
「ええ、ええ、よござんす」サラはようやくここで納得した。これで取引は成立というわけだった。「その時にはわたしが坊ちゃんの面倒を見させていいだきますとも。けど奥さま、他に普段のお食事なんかはどうするおつもりなので?」
ソフィはサラが(なんて派手な下着だろう)と軽蔑しているとも知らず、無造作にブラジャーやスリップ、洋服類などを詰め終えると、ひとつ目の旅行トランクを完成させていた。そして今度はふたつ目へと取り掛かることになる。
「もちろん、わたしが作るのよ。決まってるじゃない。他に一体誰がいるっていうの?」
「お言葉ですが、奥さま」と、サラは少しばかり胸を張って言った。「ここのお屋敷の食事を毎日作ってるのは、一流のシェフでございますよ。失礼ですが奥様は、これまでろくにお食事作りなどされたことはないのではありませんか?」
「やあねえ、わたしをそこらのお嬢さまと一緒にしないでちょうだい」そう言ってソフィは笑った。「今度、あなたにもわたしのフレンチトーストとオムレツを食べさせてあげるわ。絶品よ」
(オムレツにフレンチトースト!そのくらいのことで得意になっているとは!)
そう思い、サラは心の中でせせら笑った。そして継母の陰謀でど田舎へ行くことになったアンドリュー坊ちゃまが心底気の毒になった。きっと坊ちゃまは、来月自分が行った頃にはひどく痩せていて、今以上に顔色が悪くなっているだろう……そして、今は崇拝しているおばさんが、自分の父親以外の男と浮気していると知り、その頃にはすっかり幻滅しているに違いない……。
サラはそんなことを仲のいい女中のアンナと話したものだった。実際には、八月の半ばにサラがヴァ二フェル町へ行ってみると、アンドリューはすっかり日焼けして栄養状態も満点といった様子をしていたのだが、「どうだった?」とアンナに聞かれた時には、ありのままの状態を差し引いて報告したのである。つまりは、坊ちゃんはまあまあ快適に夏休みを過ごしており、まあまあ田舎にも楽しいことがあるようだ、といったように。
>>続く。