【かがやく天使】エドワード・タディエロ(オールポスターズの商品ページよりm(_ _)m)
さて、次回で(たぶん)最終回ということになります(^^;)
なので、今回と次回の前文では再びエミリー・ディキンスンの詩を紹介しようかな~と思ったり。。。
いえ、なんていうか、ディキンスンの詩って「死」について書かれたもの、死を扱ったものがとても多いんですよね
一番有名なものは以前にも一度引用させていただいた、「わたしが死のために止まることができないので……」ではじまるあの詩だと思うんですけど、他に代表的なものとしては、
>>わたしは頭の中に、葬式があるのを感じていた、
会葬者が行ったり来たり
足音が続いて――ひきもきらず―ー遂には
意識が破れるようにおもわれた――
そして人々がみな席につくと
礼拝の曲が太鼓のように――
鳴りひびき――鳴りつづけて――遂には
わたしの精神がしびれるように思った――
それから彼らが棺をかつぎ上げ
わたしの魂をきしみ通っていくのを聞いた
やはり同じような鉛の重い靴で、すると、
再び空が――鳴り始めた、
あなかも天のすべてが一つの鐘で、
耳一つの、「存在」であるかのように、
そしてわたしと、静寂は見知らぬ一族として
ここに、惨めに、ひとり残されて――
それから「理性」の中の板が破れて、
わたしは墜落した、ぐんぐん下へと――
落ちこみながら、世界にぶつかり
何もわからなくなった――もう――
>>わたしが死ぬとき一匹のはえがうなるのを聞いた
部屋のなかの静けさは
嵐のたかまりの間の
大気の静けさのようだった
側の目はすっかり乾上がり
息もしだいに募ってきた
最後のときにかの王者が
部屋に現われるのを見ようとして
わたしは形見を遺言し
いらないものに署名をした
ちょうどそのとき
一匹のはえが飛び込んで
ほの暗く不確かなどもったうなり声を立て
日射しとわたしとの間に入ってきた
それから窓がかすみ――もう
見ようとしても見えなくなった
(『ディキンスン詩集』新倉俊一さん訳編、思潮社より)
などでしょうか。
何分、今より百年以上昔の話ですから、エミリーのまわりでは何か悪いことをしたのでない善良な人々が病気や戦争など、その他色々なことで亡くなったものと思われます。
そして、そのことに「何故!?」という悲しみの眼差しを向けつつ、彼女に独自の磨かれた人生哲学によって詩を紡いでいったのではないでしょうか。。。
ディキンスンの詩にはおよそ、痛み・悲しみ・苦しみ・悩み・憂鬱……といった負の感情について網羅(?)されてる気がするのですが、それと同時に悩みが深ければ深いほど、苦しみや悲しみが大きければ大きいほど、ほんの小さな一雫の歓喜にもかけがえのない恍惚を覚えることが出来る……エミリー・ディキンスンという詩人は、そのような稀有な人生を送った人であったように思います。
あ、そーだ。わたし、ディキンスンとヒギンスン(エミリーが自分の詩について訊ね、「出版には適さない」とのたもうた人物☆笑)が会った時のことを書こうと思ってて、そういえばすっかり忘れてました
まあでも、またすぐ「聖女マリー・ルイスの肖像」という連載をはじめる予定なので……どうせまた前文で書くネタ☆に困るだろうと思うので、思いだしたら書こうかなって思います(^^;)
それではまた~!!
ぼくの大好きなソフィおばさん。-【26】-
六月の中頃――聖十字病院の周囲を彩る花壇が一年の中でもっとも美しく咲き初める頃、アンディは自分の人生において最愛の女性に会いにやって来た。
その日、その瞬間がやって来るまでの間、ソフィのほうでは何かと毎日が忙しく、慌しく過ぎていった。彼女は部分カツラ――ヘアピースを注文して髪の毛をボリュームたっぷりに見せるようにしたり、毎日顔をパックして皮膚を引き上げたり、誰の手を借りないでもひとりで真っ直ぐ歩けるようになるため、病院中をひとりで歩きまわり、筋力増強に努めたものである。
アンディとの再会が決まって以来、そのような努力をソフィが開始したため、ロイが一体どんな魔法を使ったのかと、病院スタッフたちは不思議がった。そこで彼はカンファレンスの場で種明かしせざる得なかったのだが、そのあとすぐ医師たちに彼女がかつての義理の息子と海辺の別荘で過ごす計画のことについて話した。
「そういうことか、なるほどね……わたしはてっきり、彼女が自分のことを好いてくれていて、それで最近めきめき綺麗になったのかと思ったのだがね」
リチャード・レイノルズ医師のこの言葉は、彼の意に反してスタッフにあまり受けなかった。というよりむしろ、看護師のひとりより「セクハラですよ、先生」などという厳しい言葉が飛ぶ。
「そうか。なるほどね……そんな最愛の息子さんが会いにくるというのであれば、それは身仕舞いも綺麗にし、美容にも気を使うようになるというものだね。もちろん彼女はもともと着てる物もセンスが良かったし、何もしてない時でも昔美人だったことがわかるような人ではあるが。じゃあその、ヴァ二フェル町に看護師をひとりかふたり派遣するとして、誰か行ってもいいと思う職員はいるかな?」
Oの字にセットされたテーブルを囲む職員の中で、すぐに手がふたり上がった。アデラ・マクファーソンとエマ・ビアズリーである。ソフィ・デイヴィスは職員の誰からも好かれてはいるが、特に彼女たちはソフィのほうでも気に入っている看護師だったのである。
「よし、じゃあ君たちふたりにお願いするとしよう」
細かい日程等については、これからまた相談することに決め、午後のカンファレンスはとりあえず終了した。ロイはソフィの病室へ向かったが、ドアを開けて顔を出すというのも何か野暮な気がして、医局のほうへ足を向けることにする。
廊下を歩いている途中でアデラとすれ違い、声をかけた。
「ヴァ二フェル町なんて君、このユトランド共和国のどこにあるか、知ってて手を挙げたんだろうね?」
「わたしもエマもそんなに無知じゃありませんとも」と、アデラは笑って言った。「最初にこの話をあなたから聞いた時から、エマと決めてたんですよ。わたしたちでデイヴィスさんのお世話をさせていただこうって」
「そっか。それじゃ僕としても安心だな。だってほら、やっぱり看護する側とされる側とで、相性っていうのもあるからね。その点、君たちふたりはソフィさんも気に入ってるようだし」
ロイとアデラは並んで廊下を歩いていきながら、突き当たりにある休憩室のところまでやって来た。自動販売機と本棚が並んでおり、薄い虹の色をぼかして並べたような色合いのソファがコの字に配置された場所である。ちょうど誰も人がいなかったため、ふたりはなんとなくそこへ落ち着いて、ジュースを飲んだ。
「ロイ、いつも不思議なんだけど、あなた特別な人を持つ気はないの?」
「どうしたんだい、一体急に?」
アデラは将来的に修道女になる予定の女性である。そこでロイはそうした気安さから看護師の中でも彼女のことを特に気に入っていた。つまり、多少親密にしたとしても、周囲に誤解される気遣いがないという意味合いにおいて。
「だって……みんな言ってるわよ。ロイは男前だし仕事する能力もあるし、周囲の人間関係をよく見てバランスの取れた行動の取れる人だって。そういう人が浮いた噂のひとつもないっていうのは変じゃないかって」
「ようするに、僕がゲイなんじゃないかってこと?」
カフェラテを飲みながら、ロイは笑いを堪えるのに苦心した。
「そんなこと言ってないわ。その点はみんな、疑ってるってわけじゃないのよ。ただみんな、あなたがいい人だから幸せになって欲しいって、そう思ってるってこと」
「ははあ、なるほどね。ようするに僕もそろそろ四十だし、結婚して子供を持つとしたらそろそろラストチャンス……そんなことがナースたちの休憩室で話題になったわけだ」
「ロイ。これでもわたし、真剣なのよ」
アデラが隣の自分のことをじっと覗きこんできたため、ロイは急に居住まいを正すことになった。(まさか)とそう直感したのだ。
「実はわたし、あなたのことで迷ってるの。ここの病院へ移ってきてからずっと、本当はあなたのことがずっと好きだった。でも、修道女になるわたしの決心も相当固いものよ。それで、あなたが誰か他の女性とでもいいから、幸せになってくれさえしたら、安心して神さまにこの身をお捧げできるのだけど」
(やれやれ、参ったな)
ロイは愛飲しているカフェラテの味が急にまずくなったように感じ、とりあえずその場から逃げ出す姿勢を取った。
「僕も、君のことはもちろん好きだよ、アデラ。でもきっと僕と一緒になったりするよりも、イエスさまの花嫁になったほうが、君にとってさらに優れた選択だろうと僕は思う。それに何も結婚して家庭を持つことばかりが人間の幸福ってこともないだろう。そうした幸福の多様性といったことについては、ここの職員は徹底して教育がなされてるものだと思ったけど、今の君の言葉は意外なものだったよ、僕にとって」
「ロイ……世間一般の考えなんて所詮そんなものでしかないって、あなただってわかってるでしょう?わたしが修道女になるって知ってる人たちの中には、内心ではそのことを馬鹿にしていたり、男にモテないからだろうって噂したり、はたまた欲求不満になったりしないのかしらって言ったりする人までいるって知ってるわ。でもわたし、そんなこと気にしないの。ただ、わたしはあなたのことが気がかりだったっていう、それだけよ」
ロイは一瞬、本当のことを話そうかという衝動に駆られたが、長く結った髪をきっちりとピンで留めているアデラの髪型や、化粧っ気のない彼女が長い睫毛を伏せて恥かしそうにしている様子を見ていると――プロの精神科医としての本能のほうが条件反射的に動いてしまった。
「僕はね、アデラ、この間ソフィさんの義理の息子さんに会いに、リース湖のほうまで行ったんだけど、彼の奥さんがさ、列車が出発するまでにまだ時間があるからってリース湖まで案内してくれたんだ。国内屈指の透明度を誇る湖ってだけあって、すごく綺麗なところだった。この上もなく湖面が澄んでいて静かで……けどね、棲息してる生き物は極めて少ないんだよ。最初からそこで自生していた生物はオオサンショウウオくらいなものだったらしい。で、その後ヒメマスやニジマスなんかを町の人が放流したらしいんだけど、プランクトンが増えると当然水質汚染が進むし……なんかね、青い空や白銀の雲なんかを美しく鏡のように映す湖面を見てると悲しくなった。たくさん人がいるとそれだけ地球ってものは汚くなるし、人間のほうで絶滅すれば地球自体はもっとも美しい状態が保たれる……何かそんなことを思ってね。僕はアデラのこと、このリース湖みたいな子だなって思うよ。もちろん君には周囲の人たちとうまくやっていける能力があるから、水清ければ魚住まずっていうようなことじゃなくね。そのくらい心が澄んでいて綺麗だってこと。僕はね……たぶんとても良くない人間で、取り返しのつかないほどそんな君のことを傷つけるのが怖い。君は意外に思うかもしれないけど、昔つきあっていた女性に暴力を振るって大怪我をさせたこともあるし、実際の僕っていう人間はそんな程度の男だってことなんだ」
「そんなことないわ、ロイ……あなたはとてもいい人よ。ごめんなさい、なんだかわたし、ただあなたのことを困らせてしまったみたいで……」
アデラはオロオロすると、制服のポケットからハンカチを取り出し、涙を拭ってその場から逃げるように立ち去っていた。
そしてロイはカフェラテの残りを飲み干しながら、この件については自分にも責任があるかもしれないと感じた。アデラがそうした対象にはなりえないと思い、不用意に彼女に近づきすぎたのだ。
「先生、なんだかわたし、ここから出ずらいのですけど……」
自販機と本棚の斜め後ろの廊下から、ソフィのか細い声が聴こえてロイは驚いた。そちらのほうを覗いて見ると、ソフィが手摺に掴まって歩行訓練していたことがわかる。
「どこから聞きました?」
ロイは気を悪くするでもなく、むしろ快活に笑って応じた。
「ええと、欲求不満がどうのっていう単語が聞こえたあたりからですわ。アデラがまさかそんな単語を口にするなんてと思ったもので、続きが気になってしまいましたの。そしたら……」
「やれやれ。オオサンショウウオがどうの、なんという気の利かない男だと貴女は思ったことでしょうね。けれどまあ、大したことではないですよ。アデラとも数日もしたらまた前と同じ同僚になれると思いますし。それより、フィッシャー氏はどうされたんですか?」
彼が朝の九時頃ソフィの病室を訪れた時――看護師たちの間では、ちょっとした静かな騒ぎが起きた。表立って「キャーッ!!」などと叫ぶわけにはいかないものの、「ちょっとあれ見て!!」というように、互いに互いのことを肘で突つきあったり、じっと顔を見合わせたりしていたものである。
実際、ロイもまたアンドリュー・フィッシャーのことを見て驚いた。氏は揃いのダークブルーのスーツにネクタイをかっちりと締め、手には白い百合の花束を手にしていたからである。また髪のほうもロイが会った時には自然に梳かしつけてあっただけだが、明らかに理容室へ行ったばかりであることがわかる感じだったのである。
顔つきのほうもどこか精悍に引き締まって見え、ロイはすぐにこう思った。ソフィのほうで髪のボリュームのことや顔の皺などを気にしていたように――彼のほうでもまた「アンディも随分歳を取って……」などと、彼女に思われたくなかったのだろうと。
「アンディはこの近くにホテルを取ってましてね、朝からずっとわたしに張りつき通しで疲れたろうから、一度帰ってもらうことにしました。明日また来て、夕方の列車で帰るそうです」
「そうですか。ソフィさんは彼に会ったことでなんだか、三倍も若返ったように見えますね。旧約聖書でサラが、約束の子を身ごもるために若返ったのにも似た、そんな印象を受けますよ」
「先生、わたし、そんなことで誤魔化されませんよ――」
ソフィは「よいしょ」というようにロイの隣に腰を下ろした。彼女としてはこれでようやく、ずっと知りたかったロイ・アンダーソン医師のパーソナリティに迫れるというわけだった。
「先生、どうしてアデラなんていういい娘を放っておしまいになられるんですか」
レイノルズ医師ではないが、ロイはこの時、ソフィがもしや自分のことを好きなのではあるまいかと錯覚しそうになった。というのも、彼女は喜びで顔が輝き、瞳は恋する若い娘のようにキラキラしていたからである。
「いい娘だからですよ」と、ロイは溜息とともに仕方なしに答えた。本当は自分のほうこそが、フィッシャー氏との面談のことを聞きたいというのに、どうやら逃げ場はどこにもなさそうだったからである。「僕と結婚なぞするより、彼女はキリストの花嫁になったほうがより多くの人を救って、いい人生を送ることが出来ると思ったからです」
「違いますね」ソフィは茶色にクリーム色の花が散らばったワンピースを着ていたが、それはとてもセンスのいい柄だった。「先生にはたぶん、もっと他に秘密がおありなんですよ。過去に女性に暴力を振るったことがあるとか、アル中のヤク中だったとか、そんなことは実際一度立ち直ってしまったら、「だからそれがどうした?」という感じで女性とまたつきあいだすものです。もし先生がゲイだというのなら、それはそれでいいでしょう。アデラは口の堅い娘ですから、実はそうなんだと言っても他言は絶対しないと思います。にも関わらず先生は……」
「やれやれ、参ったな。御自分が幸せになったから、今度は他人にも幸せを強要しようというのですか?」
「そうですよ。わたしが今こんなにも幸せなのは、他でもない先生のお陰ですもの。そしてアデラはわたし、看護師の中では一番気に入ってる子なんですよ。だから、先生の本心をお聞きするまでは、ここから梃子でも動きませんわ」
相手が七十歳という高齢でなく、また死期も間近いというのでないのなら、ロイは『じゃあご勝手に』と席を外したことだろう。だが今日はロイも彼女に聞きたいことがある……ロイは仕方なく、「秘密ですよ」と言って、ソフィの耳元にある言葉を囁いた。
「えっ!?でも先生、今は薬とか色々あるじゃありませんか。わたしがもう三十も若かったらきっと、先生に試させてあげたことでしょうに」
ソフィはこの言葉を特に笑いもせず真剣に口にした。そしてロイは何故かそのことが嬉しかった。
「最近のものは試してませんがね、ようするに先ほど僕が言った女性に暴力云々というのはそういうことです。若い頃の僕というのはまあ……ソフィさんが言っていたところの、<内側もさ男>という奴だったんですよ。内にこもってもさっとしてましたね、実際のところ。で、相手の女性が思うようにならなかったりすると、暴力を振るったり……最低な男でしたよ、まったく。自分にそんな過去があるだなんて、誰にも知られたくないほどに」
「先生、でもわたし、そんな先生が好きですわ。わたしの話を共感的に聞いてくれて、いいアドバイスをしてくださる先生も好きですけど、先生がそんな欠けをお持ちだと聞いて、ますます大好きになりましたわ」
「ははっ、いいんですよ。普通の男性はね、僕くらいの歳になるともう一花咲かせてやろうと焦ったりするらしいんですが、僕はそうしたこととは無縁なんです。自分の仕事にも満足してるし、誰か人が自分が手助けしたことで幸せな姿を見ることが僕の幸せなんですよ。決して綺麗ごとを言うわけではなくね」
ソフィはアンディと再会できた喜びを消化するために、病院中を歩きまわっていたのだったが、ここにきてようやく疲労感が募ってきた。そこでポケットから小銭を出すとロイに渡し、一言「クランベリージュース」と言った。
「でも先生、ひとつ大切なことをお忘れじゃないかしら?もしアデラが「それでもいい」って言ったとしたら先生、一体どうなさるおつもりですの?」
「まさか」と、小銭を入れ、ジュースが自販機の下から出てくると、ロイはそれをソフィに渡した。「問題はそういうことじゃないんですよ。最初は「それでもいい」と言ったとしても、そのうち「カウンセリングを受けましょう、あなた」だのなんだの……僕はもうそうした面倒はご免なんです。アデラは本当にいい娘ですよ。僕以外の誰かと結ばれさえすれば、間違いなく幸せになれるだろうと思うくらいね」
「先生の決心は堅いんですのね。でも先生、アデラみたいな娘にとっては実際、セックスなんてことはどうでもいいんだと思いますよ。むしろ気にするのは男性のほうであって……まあ、男性のほうで女を信じられないということですわ。女のほうで仮に「気にしない」と言ったとしても、「そんなはずがあるか」といったようにね」
ロイは黙りこみ、飲み終わったラテを屑篭の中へ捨てた。すると、ソフィが自分に向かって手招きしたので、そちらのほうに彼は近づく。
「先生、手を貸してください。わたし、流石に病院の中を歩きまわりすぎて疲れました。わたしの部屋まで腕を組んで連れてってくださいな」
ロイは言われたとおりにした。そして綺麗に整ったソフィの部屋のベッドまで彼女のことを連れていき、先ほどまでフィッシャー氏が座っていたであろうパイプ椅子とは別のものを出して座った。
「これは精神科医としてではなく、個人的な好奇心から聞くことなんですがね、久しぶりに会った義理の息子さんとはどうでしたか?」
「お互い、会った瞬間に涙で、何も言葉になりませんでした」
今朝方あったことを追体験するように瞳を閉じ、ソフィはベッドの縁に腰掛けたまま言った。ロイはこの時、ソフィがなんだかまるで少女のように見えたのが不思議だった。おそらく、俯き加減の姿勢を彼女がとり、その姿を上から眺めたせいだとは思うのだが、その位置から見るとソフィは皺のないすべすべした肌をしているように見え、ワンピースから伸びた足をベッドの下でぶらぶらさせている様子が、なんとも少女らしかった。
「わたし、心配してたんですよ。会った瞬間にアンディの顔に失望の色が浮かんだらどうしようって。でも、そんな心配はすぐ通り越して、互いに抱き合って泣きました。今にして思うと、どうしてこんなに長い間会わずにいられたのか、わたしもアンディも不思議なくらいでした。それで、ここで」と言って、窓際のほうに面したベッドサイドのほうをソフィは軽くはたく。「ふたりで恋人みたいに抱きあって、色んな話をしたんです。よく考えると取り留めもないことばかりですわね。アンディが校長先生をしてるっていうフェザーライル校のことですとか、そのことに関連して、昔あんなことがあったこんなことがあったといった思い出話や……セスが亡くなってからわたしがどうしてたかとか、そんなことを話しました。お互い、想いが胸に詰まってうまく話せないものですからね、まずは差し障りのないことから始めるしかなかったんですわ。それで、ずっと話し込んでたらお昼になって、一緒に食事をして……また話の続きをして、そしたらあっという間に夕方でした。あの子、今日ここへ来るために随分スケジュールのほうを詰めたみたいでね、顔にも少し疲れが出てましたから、わたしのほうで話し疲れたっていうことにして、帰ってもらったんです。まあ、それにしてもびっくりしましたわ。あの子、全然変わってないんですもの。そりゃちょっとした小皺が笑った時に寄るとか、そんなことはありますよ。でもそんなの、わたしのほうがもっとひどいですしね、なんていうか、大切なのはそんなことじゃないんです……とにかく、最後に会った時以上に立派になってて、わたしは義理の母親として誇らしかったという、そんな気持ちですわ」
アンディはベッドの上でソフィと寄り添うようにして抱きあい、ソフィは彼の肩にもたれ、アンディは彼女の腰に手を回し……そうして長い時間、ふたりきりで色々なことを語りあった。時にお互い、頬に熱く切ない涙を流しながら。
「良かったですね。それで、来月のヴァ二フェル町行きについてなのですが、看護師のアデラとエマが同行を承知してくれています。ソフィさんのほうでは異存なかったでしょうか?」
「異存だなんて、とんでもない!」もう一度ソフィが顔を上げた時、彼女から少女の魔法は去り、彼女は歳相応よりも多少は若いという顔立ちに戻っていた。「わたしもう、これでいつ死んでもいいくらいですわ。アンディにもう一度会えたんですもの……これ以上の贅沢を望むつもりはありません。先生、どうかもう一度先生に感謝させてくださいな。せっかくの休日をわざわざ二日も潰してフェザーライルまで赴いてくださって。最初にすぐ感謝できなかったことを、どうか許してください」
「いいんですよ、全部僕が好きでやったことですからね。それに、僕は実際、ソフィさんから話を聞くのが毎日楽しみで堪りませんでした。ここだけの話ですがね、やっぱり患者さんとの相性っていうのがあるんですよ。僕ひとりの思い込みでなければ、僕とソフィさんは実際結構馬が合う……ですよね?」
「そりゃそうですわね。わたしももし先生と馬が合わなければ、きっとあんなにペラペラ自分のことをしゃべったりすることはなかったと思いますもの。ありがとうございます、先生。これで死ぬまでの間につかえていた重荷の半分以上が一気に消えた気がします。あとはまた時々アンディに会って……それだけで十分ですわ。他にはもう何も、何ひとつ欲しいものはありません」
ロイはソフィのことを慰めるように、彼女の肩に手を回した。ソフィは両方の手で顔を覆い、さめざめと泣いている。これは悲しい涙というよりも、嬉し涙に近いものなのだろうとは思うものの、それでもやはり御夫人に泣かれてしまうと、ロイとしては何か切なかった。
「例のヴァ二フェル町行きのことですがね、実はもうすでにアンディさんにお話してあるんです。息子さんは今年、御友人の方とフランスやドイツで過ごすそうですし、妹さんはお母さんとユトランド国内でまだ出かけたことのない場所へ小旅行へ行くとのことでした。何より、アンディさん自身が貴女とふたりきりで過ごすことを願っておられるので……ソフィさんも自分の心の思ったとおりにしたほうがいいですよ」
「人の気遣いや善意って、本当に美しいものですわね、先生。わたし、もしかしたら癌になって良かったのかもしれません。いずれわたしは死にますけれど、これがもし脳卒中で突然とか、老衰っていうことでしたら、アンディとは死に目にようやく会えるかどうかというところだったかもしれませんもの。ああ、わたし本当にもう、いつ死んでもいいわ」
ソフィは涙を拭うと、幸福と満足の吐息を着いていた。癌という病いを宣告されると、大抵の患者はまず「何故自分が」と思う。ソフィ自身にしてもそのように思い悩み、眠れぬ夜が一体幾夜あったことだろう。けれど、癌という病いに彼女が意義を見出しつつある今……ソフィと冷厳な<死>との間には、もしかしたら何か和平交渉に近いものが成立しつつあるのかもしれなかった。
「ソフィさん、死ぬ時期は人間には選べないものですよ。僕が前にいた病院であったことなんですがね、「危篤です」、「もはや時間の問題です」と言われていた患者さんで、なかなかお亡くなりにならないことがありました。最初、医師が「今夜が峠です」と言うので、親族はそうかと思って患者を囲み、これまでの感謝やら何やら言って涙を流したのですが、翌日もそのまた翌日も亡くならないとなると――集まってる親族の方の顔にもどんどん疲労の色が濃くなっていきましてね、「今度こそ死ぬ」、「いや明日死ぬ」、「もしかしたら明後日かも……」といったような具合で、息を引き取られた時にはなんというかもう、「やっと死んだ!」というような感じでしたね。すでに九十歳にもなるおじいさんだったんですが」
「やだわ、先生。そんなこと言って、わたしのことを脅さないでくださいな。わたし、死ぬ時には花火みたいにパッと散るようにして死にたいんです。でも、アンディに会ってしまったら、やっぱり生きることへの欲望みたいなものが出てくるものですわね。あと一分でも一秒でも長く、あの子の顔を見ていたい……わたしは本当に幸福な人間ですわ、先生。自分で生みもしなかった子にここまで温情をかけてもらえるなんて……実の親子同士であってさえ、そうないことですもの」
「そうですね。僕も礼拝の時に、ソフィさんとアンディさんが一分一秒でも長くいられるようにお祈りしたいと思います。それから、病いからの回復と、痛みがないようにということを祈りますね。他に、何か祈りのリクエストはありませんか?」
「先生、わたしも先生のこと、お祈りしますわ。だって、わたしにとって先生は天使みたいな方なんですもの。そしてアデラとエマもわたしにってはそうなんです。先生、天使同士といったものは結ばれたり、結婚したりしないものなんでしょうか?」
「それは、神様に聞いてみないとわかりませんね」
ロイはそう言って言葉を濁すと、「では、また明日」と言い残してソフィの部屋をあとにした。そしてソフィの部屋のドアを閉めた途端に――アデラ・マクファーソンのことがすぐにも思い出された。この時ロイの胸中にあったのは、(過去の過ちを繰り返すな)ということだったかもしれない。ロイはそちらの能力がないにも関わらず、不幸なことにはこれまで女性に随分モテてきた。そうした経緯からついうっかりつきあってしまい、失敗を繰り返してきたというわけである。
だが自分はすでに何年も女の肌に触れていない……そう思うと、ロイは何かとても寂しい気がした。ソフィとアンディとの間にある魂の絆のようなものを知ったせいで、余計にそう感じるのかもしれない。けれど彼はもちろん、だからといって「アデラ、さっきのことなんだけど」といったように声をかけることはない自分を知っていた。そしてそれでいいのだと思った。何よりお互いのために、それが一番良いことなのだと。
>>続く。
さて、次回で(たぶん)最終回ということになります(^^;)
なので、今回と次回の前文では再びエミリー・ディキンスンの詩を紹介しようかな~と思ったり。。。
いえ、なんていうか、ディキンスンの詩って「死」について書かれたもの、死を扱ったものがとても多いんですよね
一番有名なものは以前にも一度引用させていただいた、「わたしが死のために止まることができないので……」ではじまるあの詩だと思うんですけど、他に代表的なものとしては、
>>わたしは頭の中に、葬式があるのを感じていた、
会葬者が行ったり来たり
足音が続いて――ひきもきらず―ー遂には
意識が破れるようにおもわれた――
そして人々がみな席につくと
礼拝の曲が太鼓のように――
鳴りひびき――鳴りつづけて――遂には
わたしの精神がしびれるように思った――
それから彼らが棺をかつぎ上げ
わたしの魂をきしみ通っていくのを聞いた
やはり同じような鉛の重い靴で、すると、
再び空が――鳴り始めた、
あなかも天のすべてが一つの鐘で、
耳一つの、「存在」であるかのように、
そしてわたしと、静寂は見知らぬ一族として
ここに、惨めに、ひとり残されて――
それから「理性」の中の板が破れて、
わたしは墜落した、ぐんぐん下へと――
落ちこみながら、世界にぶつかり
何もわからなくなった――もう――
>>わたしが死ぬとき一匹のはえがうなるのを聞いた
部屋のなかの静けさは
嵐のたかまりの間の
大気の静けさのようだった
側の目はすっかり乾上がり
息もしだいに募ってきた
最後のときにかの王者が
部屋に現われるのを見ようとして
わたしは形見を遺言し
いらないものに署名をした
ちょうどそのとき
一匹のはえが飛び込んで
ほの暗く不確かなどもったうなり声を立て
日射しとわたしとの間に入ってきた
それから窓がかすみ――もう
見ようとしても見えなくなった
(『ディキンスン詩集』新倉俊一さん訳編、思潮社より)
などでしょうか。
何分、今より百年以上昔の話ですから、エミリーのまわりでは何か悪いことをしたのでない善良な人々が病気や戦争など、その他色々なことで亡くなったものと思われます。
そして、そのことに「何故!?」という悲しみの眼差しを向けつつ、彼女に独自の磨かれた人生哲学によって詩を紡いでいったのではないでしょうか。。。
ディキンスンの詩にはおよそ、痛み・悲しみ・苦しみ・悩み・憂鬱……といった負の感情について網羅(?)されてる気がするのですが、それと同時に悩みが深ければ深いほど、苦しみや悲しみが大きければ大きいほど、ほんの小さな一雫の歓喜にもかけがえのない恍惚を覚えることが出来る……エミリー・ディキンスンという詩人は、そのような稀有な人生を送った人であったように思います。
あ、そーだ。わたし、ディキンスンとヒギンスン(エミリーが自分の詩について訊ね、「出版には適さない」とのたもうた人物☆笑)が会った時のことを書こうと思ってて、そういえばすっかり忘れてました
まあでも、またすぐ「聖女マリー・ルイスの肖像」という連載をはじめる予定なので……どうせまた前文で書くネタ☆に困るだろうと思うので、思いだしたら書こうかなって思います(^^;)
それではまた~!!
ぼくの大好きなソフィおばさん。-【26】-
六月の中頃――聖十字病院の周囲を彩る花壇が一年の中でもっとも美しく咲き初める頃、アンディは自分の人生において最愛の女性に会いにやって来た。
その日、その瞬間がやって来るまでの間、ソフィのほうでは何かと毎日が忙しく、慌しく過ぎていった。彼女は部分カツラ――ヘアピースを注文して髪の毛をボリュームたっぷりに見せるようにしたり、毎日顔をパックして皮膚を引き上げたり、誰の手を借りないでもひとりで真っ直ぐ歩けるようになるため、病院中をひとりで歩きまわり、筋力増強に努めたものである。
アンディとの再会が決まって以来、そのような努力をソフィが開始したため、ロイが一体どんな魔法を使ったのかと、病院スタッフたちは不思議がった。そこで彼はカンファレンスの場で種明かしせざる得なかったのだが、そのあとすぐ医師たちに彼女がかつての義理の息子と海辺の別荘で過ごす計画のことについて話した。
「そういうことか、なるほどね……わたしはてっきり、彼女が自分のことを好いてくれていて、それで最近めきめき綺麗になったのかと思ったのだがね」
リチャード・レイノルズ医師のこの言葉は、彼の意に反してスタッフにあまり受けなかった。というよりむしろ、看護師のひとりより「セクハラですよ、先生」などという厳しい言葉が飛ぶ。
「そうか。なるほどね……そんな最愛の息子さんが会いにくるというのであれば、それは身仕舞いも綺麗にし、美容にも気を使うようになるというものだね。もちろん彼女はもともと着てる物もセンスが良かったし、何もしてない時でも昔美人だったことがわかるような人ではあるが。じゃあその、ヴァ二フェル町に看護師をひとりかふたり派遣するとして、誰か行ってもいいと思う職員はいるかな?」
Oの字にセットされたテーブルを囲む職員の中で、すぐに手がふたり上がった。アデラ・マクファーソンとエマ・ビアズリーである。ソフィ・デイヴィスは職員の誰からも好かれてはいるが、特に彼女たちはソフィのほうでも気に入っている看護師だったのである。
「よし、じゃあ君たちふたりにお願いするとしよう」
細かい日程等については、これからまた相談することに決め、午後のカンファレンスはとりあえず終了した。ロイはソフィの病室へ向かったが、ドアを開けて顔を出すというのも何か野暮な気がして、医局のほうへ足を向けることにする。
廊下を歩いている途中でアデラとすれ違い、声をかけた。
「ヴァ二フェル町なんて君、このユトランド共和国のどこにあるか、知ってて手を挙げたんだろうね?」
「わたしもエマもそんなに無知じゃありませんとも」と、アデラは笑って言った。「最初にこの話をあなたから聞いた時から、エマと決めてたんですよ。わたしたちでデイヴィスさんのお世話をさせていただこうって」
「そっか。それじゃ僕としても安心だな。だってほら、やっぱり看護する側とされる側とで、相性っていうのもあるからね。その点、君たちふたりはソフィさんも気に入ってるようだし」
ロイとアデラは並んで廊下を歩いていきながら、突き当たりにある休憩室のところまでやって来た。自動販売機と本棚が並んでおり、薄い虹の色をぼかして並べたような色合いのソファがコの字に配置された場所である。ちょうど誰も人がいなかったため、ふたりはなんとなくそこへ落ち着いて、ジュースを飲んだ。
「ロイ、いつも不思議なんだけど、あなた特別な人を持つ気はないの?」
「どうしたんだい、一体急に?」
アデラは将来的に修道女になる予定の女性である。そこでロイはそうした気安さから看護師の中でも彼女のことを特に気に入っていた。つまり、多少親密にしたとしても、周囲に誤解される気遣いがないという意味合いにおいて。
「だって……みんな言ってるわよ。ロイは男前だし仕事する能力もあるし、周囲の人間関係をよく見てバランスの取れた行動の取れる人だって。そういう人が浮いた噂のひとつもないっていうのは変じゃないかって」
「ようするに、僕がゲイなんじゃないかってこと?」
カフェラテを飲みながら、ロイは笑いを堪えるのに苦心した。
「そんなこと言ってないわ。その点はみんな、疑ってるってわけじゃないのよ。ただみんな、あなたがいい人だから幸せになって欲しいって、そう思ってるってこと」
「ははあ、なるほどね。ようするに僕もそろそろ四十だし、結婚して子供を持つとしたらそろそろラストチャンス……そんなことがナースたちの休憩室で話題になったわけだ」
「ロイ。これでもわたし、真剣なのよ」
アデラが隣の自分のことをじっと覗きこんできたため、ロイは急に居住まいを正すことになった。(まさか)とそう直感したのだ。
「実はわたし、あなたのことで迷ってるの。ここの病院へ移ってきてからずっと、本当はあなたのことがずっと好きだった。でも、修道女になるわたしの決心も相当固いものよ。それで、あなたが誰か他の女性とでもいいから、幸せになってくれさえしたら、安心して神さまにこの身をお捧げできるのだけど」
(やれやれ、参ったな)
ロイは愛飲しているカフェラテの味が急にまずくなったように感じ、とりあえずその場から逃げ出す姿勢を取った。
「僕も、君のことはもちろん好きだよ、アデラ。でもきっと僕と一緒になったりするよりも、イエスさまの花嫁になったほうが、君にとってさらに優れた選択だろうと僕は思う。それに何も結婚して家庭を持つことばかりが人間の幸福ってこともないだろう。そうした幸福の多様性といったことについては、ここの職員は徹底して教育がなされてるものだと思ったけど、今の君の言葉は意外なものだったよ、僕にとって」
「ロイ……世間一般の考えなんて所詮そんなものでしかないって、あなただってわかってるでしょう?わたしが修道女になるって知ってる人たちの中には、内心ではそのことを馬鹿にしていたり、男にモテないからだろうって噂したり、はたまた欲求不満になったりしないのかしらって言ったりする人までいるって知ってるわ。でもわたし、そんなこと気にしないの。ただ、わたしはあなたのことが気がかりだったっていう、それだけよ」
ロイは一瞬、本当のことを話そうかという衝動に駆られたが、長く結った髪をきっちりとピンで留めているアデラの髪型や、化粧っ気のない彼女が長い睫毛を伏せて恥かしそうにしている様子を見ていると――プロの精神科医としての本能のほうが条件反射的に動いてしまった。
「僕はね、アデラ、この間ソフィさんの義理の息子さんに会いに、リース湖のほうまで行ったんだけど、彼の奥さんがさ、列車が出発するまでにまだ時間があるからってリース湖まで案内してくれたんだ。国内屈指の透明度を誇る湖ってだけあって、すごく綺麗なところだった。この上もなく湖面が澄んでいて静かで……けどね、棲息してる生き物は極めて少ないんだよ。最初からそこで自生していた生物はオオサンショウウオくらいなものだったらしい。で、その後ヒメマスやニジマスなんかを町の人が放流したらしいんだけど、プランクトンが増えると当然水質汚染が進むし……なんかね、青い空や白銀の雲なんかを美しく鏡のように映す湖面を見てると悲しくなった。たくさん人がいるとそれだけ地球ってものは汚くなるし、人間のほうで絶滅すれば地球自体はもっとも美しい状態が保たれる……何かそんなことを思ってね。僕はアデラのこと、このリース湖みたいな子だなって思うよ。もちろん君には周囲の人たちとうまくやっていける能力があるから、水清ければ魚住まずっていうようなことじゃなくね。そのくらい心が澄んでいて綺麗だってこと。僕はね……たぶんとても良くない人間で、取り返しのつかないほどそんな君のことを傷つけるのが怖い。君は意外に思うかもしれないけど、昔つきあっていた女性に暴力を振るって大怪我をさせたこともあるし、実際の僕っていう人間はそんな程度の男だってことなんだ」
「そんなことないわ、ロイ……あなたはとてもいい人よ。ごめんなさい、なんだかわたし、ただあなたのことを困らせてしまったみたいで……」
アデラはオロオロすると、制服のポケットからハンカチを取り出し、涙を拭ってその場から逃げるように立ち去っていた。
そしてロイはカフェラテの残りを飲み干しながら、この件については自分にも責任があるかもしれないと感じた。アデラがそうした対象にはなりえないと思い、不用意に彼女に近づきすぎたのだ。
「先生、なんだかわたし、ここから出ずらいのですけど……」
自販機と本棚の斜め後ろの廊下から、ソフィのか細い声が聴こえてロイは驚いた。そちらのほうを覗いて見ると、ソフィが手摺に掴まって歩行訓練していたことがわかる。
「どこから聞きました?」
ロイは気を悪くするでもなく、むしろ快活に笑って応じた。
「ええと、欲求不満がどうのっていう単語が聞こえたあたりからですわ。アデラがまさかそんな単語を口にするなんてと思ったもので、続きが気になってしまいましたの。そしたら……」
「やれやれ。オオサンショウウオがどうの、なんという気の利かない男だと貴女は思ったことでしょうね。けれどまあ、大したことではないですよ。アデラとも数日もしたらまた前と同じ同僚になれると思いますし。それより、フィッシャー氏はどうされたんですか?」
彼が朝の九時頃ソフィの病室を訪れた時――看護師たちの間では、ちょっとした静かな騒ぎが起きた。表立って「キャーッ!!」などと叫ぶわけにはいかないものの、「ちょっとあれ見て!!」というように、互いに互いのことを肘で突つきあったり、じっと顔を見合わせたりしていたものである。
実際、ロイもまたアンドリュー・フィッシャーのことを見て驚いた。氏は揃いのダークブルーのスーツにネクタイをかっちりと締め、手には白い百合の花束を手にしていたからである。また髪のほうもロイが会った時には自然に梳かしつけてあっただけだが、明らかに理容室へ行ったばかりであることがわかる感じだったのである。
顔つきのほうもどこか精悍に引き締まって見え、ロイはすぐにこう思った。ソフィのほうで髪のボリュームのことや顔の皺などを気にしていたように――彼のほうでもまた「アンディも随分歳を取って……」などと、彼女に思われたくなかったのだろうと。
「アンディはこの近くにホテルを取ってましてね、朝からずっとわたしに張りつき通しで疲れたろうから、一度帰ってもらうことにしました。明日また来て、夕方の列車で帰るそうです」
「そうですか。ソフィさんは彼に会ったことでなんだか、三倍も若返ったように見えますね。旧約聖書でサラが、約束の子を身ごもるために若返ったのにも似た、そんな印象を受けますよ」
「先生、わたし、そんなことで誤魔化されませんよ――」
ソフィは「よいしょ」というようにロイの隣に腰を下ろした。彼女としてはこれでようやく、ずっと知りたかったロイ・アンダーソン医師のパーソナリティに迫れるというわけだった。
「先生、どうしてアデラなんていういい娘を放っておしまいになられるんですか」
レイノルズ医師ではないが、ロイはこの時、ソフィがもしや自分のことを好きなのではあるまいかと錯覚しそうになった。というのも、彼女は喜びで顔が輝き、瞳は恋する若い娘のようにキラキラしていたからである。
「いい娘だからですよ」と、ロイは溜息とともに仕方なしに答えた。本当は自分のほうこそが、フィッシャー氏との面談のことを聞きたいというのに、どうやら逃げ場はどこにもなさそうだったからである。「僕と結婚なぞするより、彼女はキリストの花嫁になったほうがより多くの人を救って、いい人生を送ることが出来ると思ったからです」
「違いますね」ソフィは茶色にクリーム色の花が散らばったワンピースを着ていたが、それはとてもセンスのいい柄だった。「先生にはたぶん、もっと他に秘密がおありなんですよ。過去に女性に暴力を振るったことがあるとか、アル中のヤク中だったとか、そんなことは実際一度立ち直ってしまったら、「だからそれがどうした?」という感じで女性とまたつきあいだすものです。もし先生がゲイだというのなら、それはそれでいいでしょう。アデラは口の堅い娘ですから、実はそうなんだと言っても他言は絶対しないと思います。にも関わらず先生は……」
「やれやれ、参ったな。御自分が幸せになったから、今度は他人にも幸せを強要しようというのですか?」
「そうですよ。わたしが今こんなにも幸せなのは、他でもない先生のお陰ですもの。そしてアデラはわたし、看護師の中では一番気に入ってる子なんですよ。だから、先生の本心をお聞きするまでは、ここから梃子でも動きませんわ」
相手が七十歳という高齢でなく、また死期も間近いというのでないのなら、ロイは『じゃあご勝手に』と席を外したことだろう。だが今日はロイも彼女に聞きたいことがある……ロイは仕方なく、「秘密ですよ」と言って、ソフィの耳元にある言葉を囁いた。
「えっ!?でも先生、今は薬とか色々あるじゃありませんか。わたしがもう三十も若かったらきっと、先生に試させてあげたことでしょうに」
ソフィはこの言葉を特に笑いもせず真剣に口にした。そしてロイは何故かそのことが嬉しかった。
「最近のものは試してませんがね、ようするに先ほど僕が言った女性に暴力云々というのはそういうことです。若い頃の僕というのはまあ……ソフィさんが言っていたところの、<内側もさ男>という奴だったんですよ。内にこもってもさっとしてましたね、実際のところ。で、相手の女性が思うようにならなかったりすると、暴力を振るったり……最低な男でしたよ、まったく。自分にそんな過去があるだなんて、誰にも知られたくないほどに」
「先生、でもわたし、そんな先生が好きですわ。わたしの話を共感的に聞いてくれて、いいアドバイスをしてくださる先生も好きですけど、先生がそんな欠けをお持ちだと聞いて、ますます大好きになりましたわ」
「ははっ、いいんですよ。普通の男性はね、僕くらいの歳になるともう一花咲かせてやろうと焦ったりするらしいんですが、僕はそうしたこととは無縁なんです。自分の仕事にも満足してるし、誰か人が自分が手助けしたことで幸せな姿を見ることが僕の幸せなんですよ。決して綺麗ごとを言うわけではなくね」
ソフィはアンディと再会できた喜びを消化するために、病院中を歩きまわっていたのだったが、ここにきてようやく疲労感が募ってきた。そこでポケットから小銭を出すとロイに渡し、一言「クランベリージュース」と言った。
「でも先生、ひとつ大切なことをお忘れじゃないかしら?もしアデラが「それでもいい」って言ったとしたら先生、一体どうなさるおつもりですの?」
「まさか」と、小銭を入れ、ジュースが自販機の下から出てくると、ロイはそれをソフィに渡した。「問題はそういうことじゃないんですよ。最初は「それでもいい」と言ったとしても、そのうち「カウンセリングを受けましょう、あなた」だのなんだの……僕はもうそうした面倒はご免なんです。アデラは本当にいい娘ですよ。僕以外の誰かと結ばれさえすれば、間違いなく幸せになれるだろうと思うくらいね」
「先生の決心は堅いんですのね。でも先生、アデラみたいな娘にとっては実際、セックスなんてことはどうでもいいんだと思いますよ。むしろ気にするのは男性のほうであって……まあ、男性のほうで女を信じられないということですわ。女のほうで仮に「気にしない」と言ったとしても、「そんなはずがあるか」といったようにね」
ロイは黙りこみ、飲み終わったラテを屑篭の中へ捨てた。すると、ソフィが自分に向かって手招きしたので、そちらのほうに彼は近づく。
「先生、手を貸してください。わたし、流石に病院の中を歩きまわりすぎて疲れました。わたしの部屋まで腕を組んで連れてってくださいな」
ロイは言われたとおりにした。そして綺麗に整ったソフィの部屋のベッドまで彼女のことを連れていき、先ほどまでフィッシャー氏が座っていたであろうパイプ椅子とは別のものを出して座った。
「これは精神科医としてではなく、個人的な好奇心から聞くことなんですがね、久しぶりに会った義理の息子さんとはどうでしたか?」
「お互い、会った瞬間に涙で、何も言葉になりませんでした」
今朝方あったことを追体験するように瞳を閉じ、ソフィはベッドの縁に腰掛けたまま言った。ロイはこの時、ソフィがなんだかまるで少女のように見えたのが不思議だった。おそらく、俯き加減の姿勢を彼女がとり、その姿を上から眺めたせいだとは思うのだが、その位置から見るとソフィは皺のないすべすべした肌をしているように見え、ワンピースから伸びた足をベッドの下でぶらぶらさせている様子が、なんとも少女らしかった。
「わたし、心配してたんですよ。会った瞬間にアンディの顔に失望の色が浮かんだらどうしようって。でも、そんな心配はすぐ通り越して、互いに抱き合って泣きました。今にして思うと、どうしてこんなに長い間会わずにいられたのか、わたしもアンディも不思議なくらいでした。それで、ここで」と言って、窓際のほうに面したベッドサイドのほうをソフィは軽くはたく。「ふたりで恋人みたいに抱きあって、色んな話をしたんです。よく考えると取り留めもないことばかりですわね。アンディが校長先生をしてるっていうフェザーライル校のことですとか、そのことに関連して、昔あんなことがあったこんなことがあったといった思い出話や……セスが亡くなってからわたしがどうしてたかとか、そんなことを話しました。お互い、想いが胸に詰まってうまく話せないものですからね、まずは差し障りのないことから始めるしかなかったんですわ。それで、ずっと話し込んでたらお昼になって、一緒に食事をして……また話の続きをして、そしたらあっという間に夕方でした。あの子、今日ここへ来るために随分スケジュールのほうを詰めたみたいでね、顔にも少し疲れが出てましたから、わたしのほうで話し疲れたっていうことにして、帰ってもらったんです。まあ、それにしてもびっくりしましたわ。あの子、全然変わってないんですもの。そりゃちょっとした小皺が笑った時に寄るとか、そんなことはありますよ。でもそんなの、わたしのほうがもっとひどいですしね、なんていうか、大切なのはそんなことじゃないんです……とにかく、最後に会った時以上に立派になってて、わたしは義理の母親として誇らしかったという、そんな気持ちですわ」
アンディはベッドの上でソフィと寄り添うようにして抱きあい、ソフィは彼の肩にもたれ、アンディは彼女の腰に手を回し……そうして長い時間、ふたりきりで色々なことを語りあった。時にお互い、頬に熱く切ない涙を流しながら。
「良かったですね。それで、来月のヴァ二フェル町行きについてなのですが、看護師のアデラとエマが同行を承知してくれています。ソフィさんのほうでは異存なかったでしょうか?」
「異存だなんて、とんでもない!」もう一度ソフィが顔を上げた時、彼女から少女の魔法は去り、彼女は歳相応よりも多少は若いという顔立ちに戻っていた。「わたしもう、これでいつ死んでもいいくらいですわ。アンディにもう一度会えたんですもの……これ以上の贅沢を望むつもりはありません。先生、どうかもう一度先生に感謝させてくださいな。せっかくの休日をわざわざ二日も潰してフェザーライルまで赴いてくださって。最初にすぐ感謝できなかったことを、どうか許してください」
「いいんですよ、全部僕が好きでやったことですからね。それに、僕は実際、ソフィさんから話を聞くのが毎日楽しみで堪りませんでした。ここだけの話ですがね、やっぱり患者さんとの相性っていうのがあるんですよ。僕ひとりの思い込みでなければ、僕とソフィさんは実際結構馬が合う……ですよね?」
「そりゃそうですわね。わたしももし先生と馬が合わなければ、きっとあんなにペラペラ自分のことをしゃべったりすることはなかったと思いますもの。ありがとうございます、先生。これで死ぬまでの間につかえていた重荷の半分以上が一気に消えた気がします。あとはまた時々アンディに会って……それだけで十分ですわ。他にはもう何も、何ひとつ欲しいものはありません」
ロイはソフィのことを慰めるように、彼女の肩に手を回した。ソフィは両方の手で顔を覆い、さめざめと泣いている。これは悲しい涙というよりも、嬉し涙に近いものなのだろうとは思うものの、それでもやはり御夫人に泣かれてしまうと、ロイとしては何か切なかった。
「例のヴァ二フェル町行きのことですがね、実はもうすでにアンディさんにお話してあるんです。息子さんは今年、御友人の方とフランスやドイツで過ごすそうですし、妹さんはお母さんとユトランド国内でまだ出かけたことのない場所へ小旅行へ行くとのことでした。何より、アンディさん自身が貴女とふたりきりで過ごすことを願っておられるので……ソフィさんも自分の心の思ったとおりにしたほうがいいですよ」
「人の気遣いや善意って、本当に美しいものですわね、先生。わたし、もしかしたら癌になって良かったのかもしれません。いずれわたしは死にますけれど、これがもし脳卒中で突然とか、老衰っていうことでしたら、アンディとは死に目にようやく会えるかどうかというところだったかもしれませんもの。ああ、わたし本当にもう、いつ死んでもいいわ」
ソフィは涙を拭うと、幸福と満足の吐息を着いていた。癌という病いを宣告されると、大抵の患者はまず「何故自分が」と思う。ソフィ自身にしてもそのように思い悩み、眠れぬ夜が一体幾夜あったことだろう。けれど、癌という病いに彼女が意義を見出しつつある今……ソフィと冷厳な<死>との間には、もしかしたら何か和平交渉に近いものが成立しつつあるのかもしれなかった。
「ソフィさん、死ぬ時期は人間には選べないものですよ。僕が前にいた病院であったことなんですがね、「危篤です」、「もはや時間の問題です」と言われていた患者さんで、なかなかお亡くなりにならないことがありました。最初、医師が「今夜が峠です」と言うので、親族はそうかと思って患者を囲み、これまでの感謝やら何やら言って涙を流したのですが、翌日もそのまた翌日も亡くならないとなると――集まってる親族の方の顔にもどんどん疲労の色が濃くなっていきましてね、「今度こそ死ぬ」、「いや明日死ぬ」、「もしかしたら明後日かも……」といったような具合で、息を引き取られた時にはなんというかもう、「やっと死んだ!」というような感じでしたね。すでに九十歳にもなるおじいさんだったんですが」
「やだわ、先生。そんなこと言って、わたしのことを脅さないでくださいな。わたし、死ぬ時には花火みたいにパッと散るようにして死にたいんです。でも、アンディに会ってしまったら、やっぱり生きることへの欲望みたいなものが出てくるものですわね。あと一分でも一秒でも長く、あの子の顔を見ていたい……わたしは本当に幸福な人間ですわ、先生。自分で生みもしなかった子にここまで温情をかけてもらえるなんて……実の親子同士であってさえ、そうないことですもの」
「そうですね。僕も礼拝の時に、ソフィさんとアンディさんが一分一秒でも長くいられるようにお祈りしたいと思います。それから、病いからの回復と、痛みがないようにということを祈りますね。他に、何か祈りのリクエストはありませんか?」
「先生、わたしも先生のこと、お祈りしますわ。だって、わたしにとって先生は天使みたいな方なんですもの。そしてアデラとエマもわたしにってはそうなんです。先生、天使同士といったものは結ばれたり、結婚したりしないものなんでしょうか?」
「それは、神様に聞いてみないとわかりませんね」
ロイはそう言って言葉を濁すと、「では、また明日」と言い残してソフィの部屋をあとにした。そしてソフィの部屋のドアを閉めた途端に――アデラ・マクファーソンのことがすぐにも思い出された。この時ロイの胸中にあったのは、(過去の過ちを繰り返すな)ということだったかもしれない。ロイはそちらの能力がないにも関わらず、不幸なことにはこれまで女性に随分モテてきた。そうした経緯からついうっかりつきあってしまい、失敗を繰り返してきたというわけである。
だが自分はすでに何年も女の肌に触れていない……そう思うと、ロイは何かとても寂しい気がした。ソフィとアンディとの間にある魂の絆のようなものを知ったせいで、余計にそう感じるのかもしれない。けれど彼はもちろん、だからといって「アデラ、さっきのことなんだけど」といったように声をかけることはない自分を知っていた。そしてそれでいいのだと思った。何よりお互いのために、それが一番良いことなのだと。
>>続く。