もう何十回何百回か知りませんけれど、世界平和
の祈りについては申してまいりましたけど、まあ
こんなに分かり易い祈りはない訳ですね。真理の
祈りといってもいいけれども、まず現代、この
祈りに反対する人がない。たいてい宗教宗派の祈り
というものはね、何か一つこれを拝まなきゃ駄目
という風な形で出発しちゃうから、そこに把われが
出来るんだけれども。
世界人類が平和でありますようにというのは
これはもう大本心の祈りですね。そして、神様の
祈りですね。
これに反対しようと思ったって、これに反対
する人はなかなかないんですよ。だから、うまく
考えられた祈りですね。考えられたというよりも
神様方の御心を現わした祈りですね。そういう
意味で、これは真言だけど、神様の言葉でもあるし
真実の言葉でもあるけれども。
しかし、やっぱり皆それぞれに宗教宗派という
ものを、日本という国は特にもってますからね。
曹洞宗だ浄土宗だ浄土真宗だ、キリスト教だ
創価学会だ金光教と、あるでしょ。
それぞれに皆、祈ってきた対象、祈っている
対象、自分はこっちを祈っていても他の人は
別のを、というのはある訳ね。その時に、何が
何でも世界平和の祈りと言わないことです。
世界平和の祈りというのは、何も強制しなくても
すっとその人の本心の中へ入っていくもの
なんですね。これを広めないと、広めないと、と
やってしまうと、ピースポールは立つかもしれない
けども、祈りは深まっていかないということに
極端に言えばなるんですよ。
でも生身の人間というのは大事なんです。その
気持ちというものも大事なんです。気持ちの流れ
というものをくまないと、我々生きてる人間関係
というものは、この世の中ではありますからね。
その中で、世界平和の祈りというものの
素晴らしさとか本質とかいうものを知らせていこう
と思えば、まず世界平和の祈りがありますよ
ありますよという風なことを言わないでね
やっぱり和顔愛語で人に接していってね
そうすると、ああこの人のやさしさ、この人の
深さは何か違うなあというようなものを、神様の
方が感じさせて下さるんですよ。
で、それを皆が感じとって、ああこの人何か
あるなあという風になれば、やっぱり聞いて
きますよ。
五井先生の本でも誰の本でもね、体験談の
ものでも、渡してもらえばね、あとはこっちで
スイッチを切り換えますから。そうしないとねえ。
日本というのは特に宗教の国ですけどね、
霊(ひ)の本(もと)という位で。本にも
書きましたけど、要するに、霊的に指導者の立場に
ならないといけないのが日本人だけれども、それは
気負いたってなるんじゃないんです。いつの間にか
染みわたるように、本心の流れが皆の中に
染みわたるようにね、そういう風に導いていく。
そういう役割を日本人がもってる訳です。
日本人がもってるの。だから、その流れに
逆らった時にはね、つまり、強制したりするように
なった時には、せっかくこのものすごい光明真言
である祈りが、その大光明が発揮できなく
なっちゃう。こっちの光の流れは
止まらないんですよ。全然遮(さえぎ)られない
けれども、それを受ける人の想いに何かわくが
出来て、そうして、受け入れられないという拒否の
想いがきた時には、その光がすっと降りていけなく
なるんですね。
だから、その人の立場、年齢、経験、その人の
家の宗教、何をその人が信じてきたか、信じて
こなかったか、そういうものまでずっと心を配って
その上で伝えていくということがないとですねえ。
私なんか、まず話を聞きますよ。もちろん祈りが
一番大事だけれども、祈りをしましょうかとか言う
より前にね、祈り心でもって、その人の悩み苦しみ
というものをずっと聞いていくんです。
すると、聞いてもらうと、人間というのはねえ
静か心というものが生まれて来て、そうして、ああ
良かったなあ、聞いてもらえて落ち着いたなあと
いう気持ちになってくるんです。そういうやさしさ
といいますかねえ、労わりがないと、宗教という
ものはね、じわじわ染み込んでいかないんですよ。
宗教というものが、生きてる人間を尊敬しない
ものだったら、これは何にもならない。害するもの
だったら何にもならないんです。戦争するような
宗教だったら何にもならないでしょ。宗教という
ものはね、やっぱり自愛他愛の宗教じゃないと
いけない。自分を愛し、人を愛し、自分をゆるし
人をゆるし、でないと駄目なんです。
人の生命を尊敬するということは、その人の
立場をまず認めてあげる。その人の立場をまず
受け入れて、それから話をする。それにはねえ
苦労がいりますよ。洞察もいりますよ。色んな
ことがいるけれども、やっぱり私達には限界が
ありますね。だから、祈って祈って、守護霊様
守護神様、五井先生、五井先生と呼んで下さって
構わないから、五井先生お願いします、神様お願い
しますと、祈り心でその人に向かい合うとね
その人の今までは見えてこなかった、欠点ばかり
じゃない、弱さとか辛さとか苦悩だとかいうものが
見えてきて、ああこの人には上から物言っちゃあ
いけないなあとか何とか、守護霊守護神が知らせて
下さる。だから、その知らせに従って、自分の心が
唇が動いていくようになっていくんです。それが
任せるということになるのね。任せよう任せようと
思っても任せられないんです。そんなことは一切
抜きにしてね、ただふんわりと座って、ああ大変
だなと思いながら聞いてあげる。生身の一人の人間
として聞いてあげる。そういう事がね、支部や集会
という集まりをする人達の、指導するあなた方の
立場としては、とても大事なことになってく
訳ですねえ。
我々は、神様によって生命(いのち)を新しく
されるし、心も新しくされるし、本心というものを
磨いていただくんです。神様によって我々は
生きてる訳だし、糧をいただいてる訳で、我々の
生死というものも、天命というものも、神様が
貫いてずっと見て下さる。その信仰の上に立ってね
そうして、色々なものは神様が与えて下さるから
その上で、世界平和の祈りを唱えていく。
世界平和の祈りの中に、日蓮もいれば親鸞も法然
もいる、あれは神様の寄り集めの所ですよ。あの
祈りの全体というのはね。
だから、どの宗教であっても、くっつけて
祈っても祈らなくっても、世界平和の せと言った
だけで、皆あの中に全部入ってるから、宗教を
超えちゃった祈りなんだけれども、やはり、その
人の立場の尊敬、生命の尊敬というものを一番に
してね、あなた方は、その上で自分を磨いていく
ということから始めていかないと、上から物言う
とね、相手の心を萎びさせちゃうことになる。
初めから難しい課題を出したって、人間
というのはやっぱり駄目なんです。1+1=2から
始めないとね。あるいは、1の前はゼロがある
という、ゼロ以下のところで苦しんでる人が
沢山いるの。だから、そこへ百をもってきても駄目
なんですね。いきなり百を解けといっても、ゼロ
以下のところで喘いでる人にね、百のところまで
登っておいでといっても無理なんです。
ただ世界平和の祈りというのは、その百のところ
まで、あるいは千のところまで無理なく背伸び
なく、すっとゆける。光の集まり所だから
そういう祈りなんだけれども、そこへ導く為にもね
一旦は生身の人間の憂い辛さの所に立って
そういう所へ降りて、苦労をして、その上で共感を
して、そうして大変ですねと言った末に、自然に
皆さんで、では世界平和の祈りをしましょうか
と言って統一が出来るように、そういう雰囲気
づくりをしてゆく。ね、ここは本当に雑談の場で
いいんですよ。悩みの捨て所であっていいんです。
そういう所から、人生の苦労というものの諸相が
見えてくるし、生きるということの大変さもねえ
又色んなことも見えてくるし分かってくるしね。
これも我々の修行なんです。だから、全部神様が
備えて下さるから、神様に任せて、そうして祈って
頑張ってやっていって下さい。
昭和63年8月26日
の祈りについては申してまいりましたけど、まあ
こんなに分かり易い祈りはない訳ですね。真理の
祈りといってもいいけれども、まず現代、この
祈りに反対する人がない。たいてい宗教宗派の祈り
というものはね、何か一つこれを拝まなきゃ駄目
という風な形で出発しちゃうから、そこに把われが
出来るんだけれども。
世界人類が平和でありますようにというのは
これはもう大本心の祈りですね。そして、神様の
祈りですね。
これに反対しようと思ったって、これに反対
する人はなかなかないんですよ。だから、うまく
考えられた祈りですね。考えられたというよりも
神様方の御心を現わした祈りですね。そういう
意味で、これは真言だけど、神様の言葉でもあるし
真実の言葉でもあるけれども。
しかし、やっぱり皆それぞれに宗教宗派という
ものを、日本という国は特にもってますからね。
曹洞宗だ浄土宗だ浄土真宗だ、キリスト教だ
創価学会だ金光教と、あるでしょ。
それぞれに皆、祈ってきた対象、祈っている
対象、自分はこっちを祈っていても他の人は
別のを、というのはある訳ね。その時に、何が
何でも世界平和の祈りと言わないことです。
世界平和の祈りというのは、何も強制しなくても
すっとその人の本心の中へ入っていくもの
なんですね。これを広めないと、広めないと、と
やってしまうと、ピースポールは立つかもしれない
けども、祈りは深まっていかないということに
極端に言えばなるんですよ。
でも生身の人間というのは大事なんです。その
気持ちというものも大事なんです。気持ちの流れ
というものをくまないと、我々生きてる人間関係
というものは、この世の中ではありますからね。
その中で、世界平和の祈りというものの
素晴らしさとか本質とかいうものを知らせていこう
と思えば、まず世界平和の祈りがありますよ
ありますよという風なことを言わないでね
やっぱり和顔愛語で人に接していってね
そうすると、ああこの人のやさしさ、この人の
深さは何か違うなあというようなものを、神様の
方が感じさせて下さるんですよ。
で、それを皆が感じとって、ああこの人何か
あるなあという風になれば、やっぱり聞いて
きますよ。
五井先生の本でも誰の本でもね、体験談の
ものでも、渡してもらえばね、あとはこっちで
スイッチを切り換えますから。そうしないとねえ。
日本というのは特に宗教の国ですけどね、
霊(ひ)の本(もと)という位で。本にも
書きましたけど、要するに、霊的に指導者の立場に
ならないといけないのが日本人だけれども、それは
気負いたってなるんじゃないんです。いつの間にか
染みわたるように、本心の流れが皆の中に
染みわたるようにね、そういう風に導いていく。
そういう役割を日本人がもってる訳です。
日本人がもってるの。だから、その流れに
逆らった時にはね、つまり、強制したりするように
なった時には、せっかくこのものすごい光明真言
である祈りが、その大光明が発揮できなく
なっちゃう。こっちの光の流れは
止まらないんですよ。全然遮(さえぎ)られない
けれども、それを受ける人の想いに何かわくが
出来て、そうして、受け入れられないという拒否の
想いがきた時には、その光がすっと降りていけなく
なるんですね。
だから、その人の立場、年齢、経験、その人の
家の宗教、何をその人が信じてきたか、信じて
こなかったか、そういうものまでずっと心を配って
その上で伝えていくということがないとですねえ。
私なんか、まず話を聞きますよ。もちろん祈りが
一番大事だけれども、祈りをしましょうかとか言う
より前にね、祈り心でもって、その人の悩み苦しみ
というものをずっと聞いていくんです。
すると、聞いてもらうと、人間というのはねえ
静か心というものが生まれて来て、そうして、ああ
良かったなあ、聞いてもらえて落ち着いたなあと
いう気持ちになってくるんです。そういうやさしさ
といいますかねえ、労わりがないと、宗教という
ものはね、じわじわ染み込んでいかないんですよ。
宗教というものが、生きてる人間を尊敬しない
ものだったら、これは何にもならない。害するもの
だったら何にもならないんです。戦争するような
宗教だったら何にもならないでしょ。宗教という
ものはね、やっぱり自愛他愛の宗教じゃないと
いけない。自分を愛し、人を愛し、自分をゆるし
人をゆるし、でないと駄目なんです。
人の生命を尊敬するということは、その人の
立場をまず認めてあげる。その人の立場をまず
受け入れて、それから話をする。それにはねえ
苦労がいりますよ。洞察もいりますよ。色んな
ことがいるけれども、やっぱり私達には限界が
ありますね。だから、祈って祈って、守護霊様
守護神様、五井先生、五井先生と呼んで下さって
構わないから、五井先生お願いします、神様お願い
しますと、祈り心でその人に向かい合うとね
その人の今までは見えてこなかった、欠点ばかり
じゃない、弱さとか辛さとか苦悩だとかいうものが
見えてきて、ああこの人には上から物言っちゃあ
いけないなあとか何とか、守護霊守護神が知らせて
下さる。だから、その知らせに従って、自分の心が
唇が動いていくようになっていくんです。それが
任せるということになるのね。任せよう任せようと
思っても任せられないんです。そんなことは一切
抜きにしてね、ただふんわりと座って、ああ大変
だなと思いながら聞いてあげる。生身の一人の人間
として聞いてあげる。そういう事がね、支部や集会
という集まりをする人達の、指導するあなた方の
立場としては、とても大事なことになってく
訳ですねえ。
我々は、神様によって生命(いのち)を新しく
されるし、心も新しくされるし、本心というものを
磨いていただくんです。神様によって我々は
生きてる訳だし、糧をいただいてる訳で、我々の
生死というものも、天命というものも、神様が
貫いてずっと見て下さる。その信仰の上に立ってね
そうして、色々なものは神様が与えて下さるから
その上で、世界平和の祈りを唱えていく。
世界平和の祈りの中に、日蓮もいれば親鸞も法然
もいる、あれは神様の寄り集めの所ですよ。あの
祈りの全体というのはね。
だから、どの宗教であっても、くっつけて
祈っても祈らなくっても、世界平和の せと言った
だけで、皆あの中に全部入ってるから、宗教を
超えちゃった祈りなんだけれども、やはり、その
人の立場の尊敬、生命の尊敬というものを一番に
してね、あなた方は、その上で自分を磨いていく
ということから始めていかないと、上から物言う
とね、相手の心を萎びさせちゃうことになる。
初めから難しい課題を出したって、人間
というのはやっぱり駄目なんです。1+1=2から
始めないとね。あるいは、1の前はゼロがある
という、ゼロ以下のところで苦しんでる人が
沢山いるの。だから、そこへ百をもってきても駄目
なんですね。いきなり百を解けといっても、ゼロ
以下のところで喘いでる人にね、百のところまで
登っておいでといっても無理なんです。
ただ世界平和の祈りというのは、その百のところ
まで、あるいは千のところまで無理なく背伸び
なく、すっとゆける。光の集まり所だから
そういう祈りなんだけれども、そこへ導く為にもね
一旦は生身の人間の憂い辛さの所に立って
そういう所へ降りて、苦労をして、その上で共感を
して、そうして大変ですねと言った末に、自然に
皆さんで、では世界平和の祈りをしましょうか
と言って統一が出来るように、そういう雰囲気
づくりをしてゆく。ね、ここは本当に雑談の場で
いいんですよ。悩みの捨て所であっていいんです。
そういう所から、人生の苦労というものの諸相が
見えてくるし、生きるということの大変さもねえ
又色んなことも見えてくるし分かってくるしね。
これも我々の修行なんです。だから、全部神様が
備えて下さるから、神様に任せて、そうして祈って
頑張ってやっていって下さい。
昭和63年8月26日