私どものいのちは、日々神様からの光を
いただいて保たれているのでありますが
自分自身を絶えずあたらしくするために祈りが
あり、一瞬一瞬に、古い自分を返しつづけて
いるのだということを、考えてみたいと思う
のであります。
一体自分とは何でありましょう。自分とは
肉体だと思う人があるかも知れない。あるいは
又、心だと思う人があるかも知れない。
では、私は、何と思っているかをここで
申します。
自分とはいのちであります。いのちそのもの
であります。神の光を受け、霊要素、霊気を
呼吸して生きるのが自分自身、人間そのもの
なのであります。
人間というものは、こんなちっぽけな肉体の
中に閉じこめられているものではありません。
人間の真性は、天地宇宙をつらぬいて、
神の愛と一体となっているものであります。
神の光に抱かれ、宇宙神の愛とゆるしの
大光明の一筋となって永遠に生きゆく
相(すがた)、それが、いのちというものの
真実の相なのであります。
昔々、まだ、人間が、空気のように霊気を
呼吸し、神の光を、よろこんで身に浴びて
おりました頃、人間と神との交流、人間と
守護の神霊との交流というものは、誠に畏れを
持ちながら、和に満ちていたのであります。
いのちというものの朗らかさ、永遠に活きづく
本心そのもののかがやきが、神や守護の神霊
との交流のなかに、自らを突き動かして
いることを、人間達は知っていたのです。
実に自然に、いのちというものが、つねに
あたらしくされ、日々瞬々いただきなおすもの
であることを、本心本体そして心が知って
いたのであります。
祈りの言葉というものも、ひびきそのままの
交流であり、交歓でありましたが、つねに自らの
いのちのかえるべきところが神であることを
よろこびながらの祈りでありました。
こうしたすがたは、人間本来のものであり、
今、宇宙の星々に宇宙神の愛をうけて生きて
いる私どものすぐれた先達、宇宙人類達は、
さながらこういう心なのであります。
いのちの流れというものはとどまることを
知りません。そしてそれは、肉体などという
私ども肉体人間の眼を超えた、霊妙なひびきを
持つ光そのものの光体を貫き、遂に宇宙神の
みふところに流れ込んでいるものなのであります。
つねに新しくされるということは、古い自分を
脱ぎ捨てているということでありますけれども、
これが、この現世における「死」とおなじように
とらえられるならば、それは全くことなった死
なのであります。
本来、いのちというものは、ずっと、神の愛の
もとにみちびかれて絶えることのない流れ
でありますので、その節目節目における「死」は、
一つの仕事、修行をやりおえた私どもが、
さらに素直に神様の光のなかに生きるために、
また、より深くより広い人類の進化のために、
一区切りがついた、そして、次はここだという
本心本体への覚醒を指すのであります。
私どもは、すきとおるような神の愛と神への
愛を受け、又ささげるために、この地上に、
また宇宙に連なる存在なのでありますが、
こうした光体から、遂に神の光の一筋と
なるために、永遠のいのちを受けて
いるのであり、祈り-世界平和の祈りは、
各自に分けられたこのいのちのかがやきを、
いやが上にもかがやかすのであります。
こうした人間のいのち、自分自身は
かがやく神の光であり、いのちであると、
祈りのうちに、この宣言を神への最上の
そなえ物とする時、辺りはよろこびの光に
みちるのです。
どうか、果てしなく円環しつづけるいのちを
みつめるためにも、一切を消えてゆく姿と
観じ切る、とらわれを放つ神への信をかためて
いただきたいものであります。
昭和61年12月16日 夜
五井 昌久
いただいて保たれているのでありますが
自分自身を絶えずあたらしくするために祈りが
あり、一瞬一瞬に、古い自分を返しつづけて
いるのだということを、考えてみたいと思う
のであります。
一体自分とは何でありましょう。自分とは
肉体だと思う人があるかも知れない。あるいは
又、心だと思う人があるかも知れない。
では、私は、何と思っているかをここで
申します。
自分とはいのちであります。いのちそのもの
であります。神の光を受け、霊要素、霊気を
呼吸して生きるのが自分自身、人間そのもの
なのであります。
人間というものは、こんなちっぽけな肉体の
中に閉じこめられているものではありません。
人間の真性は、天地宇宙をつらぬいて、
神の愛と一体となっているものであります。
神の光に抱かれ、宇宙神の愛とゆるしの
大光明の一筋となって永遠に生きゆく
相(すがた)、それが、いのちというものの
真実の相なのであります。
昔々、まだ、人間が、空気のように霊気を
呼吸し、神の光を、よろこんで身に浴びて
おりました頃、人間と神との交流、人間と
守護の神霊との交流というものは、誠に畏れを
持ちながら、和に満ちていたのであります。
いのちというものの朗らかさ、永遠に活きづく
本心そのもののかがやきが、神や守護の神霊
との交流のなかに、自らを突き動かして
いることを、人間達は知っていたのです。
実に自然に、いのちというものが、つねに
あたらしくされ、日々瞬々いただきなおすもの
であることを、本心本体そして心が知って
いたのであります。
祈りの言葉というものも、ひびきそのままの
交流であり、交歓でありましたが、つねに自らの
いのちのかえるべきところが神であることを
よろこびながらの祈りでありました。
こうしたすがたは、人間本来のものであり、
今、宇宙の星々に宇宙神の愛をうけて生きて
いる私どものすぐれた先達、宇宙人類達は、
さながらこういう心なのであります。
いのちの流れというものはとどまることを
知りません。そしてそれは、肉体などという
私ども肉体人間の眼を超えた、霊妙なひびきを
持つ光そのものの光体を貫き、遂に宇宙神の
みふところに流れ込んでいるものなのであります。
つねに新しくされるということは、古い自分を
脱ぎ捨てているということでありますけれども、
これが、この現世における「死」とおなじように
とらえられるならば、それは全くことなった死
なのであります。
本来、いのちというものは、ずっと、神の愛の
もとにみちびかれて絶えることのない流れ
でありますので、その節目節目における「死」は、
一つの仕事、修行をやりおえた私どもが、
さらに素直に神様の光のなかに生きるために、
また、より深くより広い人類の進化のために、
一区切りがついた、そして、次はここだという
本心本体への覚醒を指すのであります。
私どもは、すきとおるような神の愛と神への
愛を受け、又ささげるために、この地上に、
また宇宙に連なる存在なのでありますが、
こうした光体から、遂に神の光の一筋と
なるために、永遠のいのちを受けて
いるのであり、祈り-世界平和の祈りは、
各自に分けられたこのいのちのかがやきを、
いやが上にもかがやかすのであります。
こうした人間のいのち、自分自身は
かがやく神の光であり、いのちであると、
祈りのうちに、この宣言を神への最上の
そなえ物とする時、辺りはよろこびの光に
みちるのです。
どうか、果てしなく円環しつづけるいのちを
みつめるためにも、一切を消えてゆく姿と
観じ切る、とらわれを放つ神への信をかためて
いただきたいものであります。
昭和61年12月16日 夜
五井 昌久