宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

授与された お浄めの印の効果について

2012-09-29 09:10:05 | 祈り
 (問)講師、(常任幹事)、フェローに
それぞれお浄めの印が授与されており、
皆さんから求められれば、積極的にお浄めして
お上げなさいと言われております。お浄めの印を
いただいたものは、神を信じ愛一筋に、その人に
かわって祈らせていただく限りにおいて、入信
10年の人も20年30年の古い先生方
であっても、そのお浄めの効果には軽重なし
というつもりでお浄めさせていただいて
よろしいですか。私如きがという気持ちはやめて。


 (答)それでいいんです。印というのは何か
というと、天から流れてくる神様の愛の気という
ものをですね、ある人にはいやしの形で、ある人
には法則の形、又ある人には違う形でその時々に
応じて流すものなんです。それが印なんです。

 今、白光が色々分けてる、フェロー印、
講師(常任幹事)の印、宇宙子科学の印と。何で
分けているかというと、人間というのは本来
一つの神様から流れてきている生命でして、今
あなたが言ったように。本当に真心こめて、神様
お願い致しますと言う時には、皆軽重はないん
ですよ。守護霊さん守護神さんが後ろで働いてね、
こう上にいくんです。それは間違いないんです。

 ただ、印というのは無心に使えば使う程
いいんですが、無心に使おうと思うと、例えば、
印というのはね、私が統一会でこうやってる、
昌美がやってる、あるいは村田さんが
やってるのを見ていると、何か特別なものに皆
思うんですよ。
 で、自分があんなに使えるかしらと思うから、
例えば、フェローの印などもらっても、あれは
基本形であって、フェローの変形なんか
あるんですよ本当はね。だけどもらっても、
自分はその印の形を組むだけで精一杯だと
思うから動かないだけでしてね、あれは
こちらから観ていると、肉体的には動かして
ないけれども、霊体はずっと全部動いちゃって、
すごく複雑な印を皆切るんですよ。みんな
動かしていない様に見えるけれど、皆それぞれ
個性個性に応じて、フェローならフェローの
800人居たら、800種類の印がその人の
個性に応じて切れるんです。それは何故切れる
かというと、守護霊守護神が付いていて、
その人の世界に合った、世界に合ったというのは
世界が皆違うというのではなくて、その人の霊界
というのかな、その人が帰る魂のふるさと、
そこに応じて、この人だったらこの天地の
住人だから、こういう印がこの人には一番
伝えやすいな流しやすいなと思うと、上から
その気が降りていって、それで全部が印を
切り出すんですよ。

 で、如来印を組んで私を呼んで下さっている
時でも、如来印からずっと如来印の変形が
出来てですね、100人居たら100種類の印で
皆五井先生を呼んで神様を呼んで、一つに流れて
いっているんですよ本当はね。だから、印を
組むも組まないもなくて、これが印ですよと、
はいっといって与えられたら、肉体は動かなく
ても、霊体神体はそれで自由自在に切って
いるんです。そう考えて下すっていいんです。

 ただそれがね、今みんな動かしてもらって
おりますけれど、あれなんていうのもね、今
本部で、ここでやっているようなことをやればね、
ものすごくパニックになりますよ。何故か
というと、生前五井先生や昌美とかね、その人達
だけしか切れないようなものが何で切れるか
ということになって、それだけで真偽
どうしようかということになって、くだらない
話になるんです。
 結局、先程〇〇さんが言った、とっても
自分にはまだまだ切れないという想いね、それが
一つ邪魔をしているということとね。霊体は
自由自在に切っているのに肉体の想いという
ものは、自分はまだまだとか、あの人は偉いとか、
とてもあの人には及ばないとか、そういう余計な
想いがあるもんだから、肉体と霊体が一致
しないんですよ。霊体は自由自在に動いて
いるのに、肉体は中々それについてゆかない。

 だから、肉体と霊体は、自分が本当に使わせて
いただく時というのは、例えば〇〇〇〇ではなく、
つまり神様の愛が流れ込んで、神様の一つの器に
なって、神づまりにつまって、自分が言うんじゃ
なくて、後ろで守護の神霊が言って下さって
いるんだ、五井先生が言って下さっているんだ、
神様が私に言わせて下さってるんだという想いに
なればですね、〇〇〇〇という肉体的な個性とか
肉体の生命とかいうものは越えてしまって、
素直に天から言葉が流れてくるんです。

 言葉というのは神様の光ですからね。本当に
言葉の中に生命があって光があるということに
気がついていれば、みんな喧嘩なんかしなく
なるんですよね。
 だけれども、言葉というものは容易に口から
出そうと思えば出てゆきますから、それほど皆
考えずに出していって争いになってゆく訳です。

 とに角、そういう印を組んで、はいやって
下さいという時には、積極的にやっていいんです。
 その積極的にやる時には、私がやるんじゃ
ないんだという想いでやれば、どんな人でも
やっていけるんですよね。講師あるいは
宇宙子科学が一本指だとか何だとか、そういう
ことに決して把われることはない訳で、皆一緒
なんです本当に。ただその人の住む世界、
その人の魂を支えている世界によって、霊人の
種類が違います。それから、霊人の応援の
種類が違います。ですから、ある人に弁財天が
ついてある人に寿老人がついているというのと
一緒でしてね。守護霊さんの格が上とか下とか
いうのではなくて、その人のこの世の中での
働き、向こうへ行っての働きの違いを現わす
意味で、皆それぞれに分かれているという区分
だけの意味ですよね。

 ですけど、違う働きが全部一つになって、
神様は愛である、神様というのは無限の愛の
ゆるしの方で、我々から見たらあの人に何か
役割があるんだろうかと思われるような人でも、
こちらからは分からないけれども、神様の方
から見れば、大いに用いてゆこうと思って
いらっしゃる訳で、人間が肉体の目から見て、
あの人は役立たずだなあと思っても、神様の側
から見たら、こんなに素晴らしい器はない
という人がある訳なんですよね。決して
印なんか切らなくても、宗教なんか入ら
なくっても、目がきれいな人でも口のきけない
人でも、何でもいいんです。何でもいいんです
と言ったらいけないけれども、とに角、
その人の想いが気持ちが心が光輝いているか
いないか、そこなんですよ。

 だから、印というのもいかに素直になるか
ということ。ただそれだけなんです。印を
切らせていただく時には、その辛い悲しみ
そういう想いを捨ててね、どうにも神様と
呼んでるだけでは駄目です。だから何とか柏手を
打ってお浄めをして下さいという時には、私が
中に入ってますから、その人の天命が完う
されますようにと祈って、そこで柏手を打って
お浄めをしてゆけば、その人自身も空っぽに
なる、打った人自身も浄められるという、両方
いいんです。ですから、軽重なし誰かれなし
と考えて下さればいいんです。たださっきも
言ったように区別はあります。

 しかし、区別というのは、大きな働きを、
大調和という一つの大きな目的の中に、その
流れの中に入れ込む為の仮の区別ですから、
あくまで仮の区別ですから、全く誰がどうの
誰がどう偉いとか、フェローは良くって幹事は
どうのこうのということはありません。全く
ありません。ただ人間というのは、やっぱり
一つずつ段階を踏んで、あなた七年来ましたよ、
この印を上げますよと言っていかないと、
誰も彼も平等ということになれば面白くないし、
人間の癖というか想い癖というか習慣というか、
そういうものを神様はよくご存じですからね。

 そういう人間の人間らしい良いところも悪い
ところもひっくるめて、それをとったら、とに角
人間は一所懸命にならないということをよく
御存じですから、七年経ったらフェローの印を
もらえるんだとかね、くだらないことですけど、
何かそういう目標というものを持たないと。
 実は休んでる時にも休んでいない時にも、
印なんて切り切りに切っているんですよね。
 切りっ放しなんだけど、そんなこと肉体人間は
判りませんからね。で、息をするのと同じように
印を切ってる、印を切ってるということは神様に
想いが流れていると。想いが流れているという
よりも、神様の方から人間に対する想いが来て、
そして、本心の奥の奥の方から神様ありがとう
ございますという流れが想いが、神様の方に
流れ込んでいって、それで生命というものは
成り立っている訳ですからね。

 だから、自分は意識するしないに関わらず、
神仏の光と人間は交流をして生きている
ものです。
 感謝しながら成り立っているもんですから、
その生命の成り立ちが判ってくると、自然に
祈り心が湧いてくるし、祈りが出てくるし、
あるいは印が組めるようになる。そうなって
ゆくんです。本当に何事にも無駄ということは
ないんです。

 例えば、フェロー印の七年目というのは、七
というのは完全数でしょう。一・三・五・七
というのは全部完全数なんですよ。七というのは
全部の一つのまとめなんです。東洋も西洋も
完全数は七なんですよね。元をたぐって
ゆけばね。七は一つの目標ではあるけれども、
それぞれの霊体幽体神体というものに対しても、
完全数に近づいた所で、一つの神界からのサイン
というんですか、気の流れというものを
受けとめる、あなた器になりましたよという
許可が出たことで、その人の霊位というのか、
そういうものを喜んで、私は一所懸命
やりましょうと、本当に輝いて一段二段と
昇るんです。

 そういうことで、神様には無駄がないん
ですよ。全くこんなのはくだらない事じゃ
ないかと思ってることでも、それは人間の
想念の方でくだらないと思うだけでして、
向こう側からすれば、全く人間というものを
深く深く考えて捉えて、人間がいかにしたら
深く愛し合えるようになるか、赦し合える
ようになるか、認め合えるようになるか、調和
できるようになるかという、そこだけを考えて
やっている。それがすべての現われなんです。
 ですから、不満や不平、不安や怒り、そういう
ものも一体どこから来ているものかということを、
一回考えてみて、とに角祈ってゆくということが
大事だと思います。