神が
公平な
方であるのは
これはもう
うたがいがありません
実に平等
実に公平
どういう風に
公平かというと
とにかく
前の世の中での
借金を
守護霊や
守護神に手伝わせて
全部かえさせちゃう
ね、
これは
一人のこらず
そうさせて
みんなを
きれいな
からだにするんです
何も
イレズミなんか
消さないけどさ
すっきりとした
光そのものの
いのちにして
いつも
この世に生きていることを
少々辛いことがあっても
ああありがたいな
ありがたいなと
おもえるように
するんです
そして
もともと
人間はみんな
光なんだから
その自分のなかの光に
目がゆくようにするんです
そんなこといっても先生
うちは災難つづき
不幸つづき
つまずいてばっかり
いて
そんな
すっきりした生命
なんてもんじゃない
いつも
つっかえ
つっかえ歩いてる
前世の
借金返しなんか
どうでもいいから
今を楽にして下さい
という人がよくいるけど
なかなか
神様という問屋は
そうはいかないんだ
転んだ
つまずいた
けがをした
ってのは
それは
私がいつもいっている
消えてゆく姿でね
とらわれていると
業なんざ
いくらでも飛び込んでくる
払っても払っても来る
実にしっこいものなんです
だけど
神様の愛とゆるしの方が
もっとつよくて
とにかく、どんな業があっても
それを全部
消してしまうんだね
ただ
人間は
この地球上で
肉体をまとって
生活する内に
とらわれたり
不安がったりする自分を
自分だと
おもっちゃってからの
時間がながいですからね
もともと
人はみんな光だ
霊だっていっても
ピンとこないんですね
そんなピントの外れた話より
金がもうかる話をきかせてくれ
なんて
今の人は大概みんな
そういっちゃうでしょ
いやほんとうに
だからもう
ただ口で言葉で
説明したって
とっても追いつかないですよ
そこで
祈りというものが必要になってくるんです
祈りというのは
いのちを宣り出すということで
簡単にいえば
自分の肉体をはじめとして
自分というものを
生かして下さっている
いのちの元の光を
自分の奥にかがやいている
本心のなかにたずねて
そこで
自分のふるさとを確認する
ということですけれどね
ですから
祈りっていうのは
自分自身のすがた
その本体を確認するってことですけれどさ
自分で自分をおがむ
っていってもいいんだね
だけどみんな
迷ったり不安になったりしている自分を
自分だとおもってるから
そんな頼りない
こんな不確実な
自分なんかおがめない
とおもっちゃう
ね、そうおもう
だけど私のいってるのは
釈迦やキリストがいったのは
そうじゃない
この私というものを
生かしめているものをずっとたどってゆく
と
神の息吹き
神の光になる
それをおがめ、なぜならあなた方は
仏子、光の子なんだから
といったんですね
で、
祈りというものは
今は
思いわずらいとか
業とかにおおわれてはばまれて
すっかり
姿を消したかに
みえる
その光を
引き出して
祈ってくうちに
そうだ
自分のなかに
こんなしずかで
おちついた
世界があったんだ
光にみちた
世界があったんだという
そういう
真実の
自分自身との
出合いの場なんです
そうして
祈ってゆくことによって
みなさんそれぞれの
霊性というものが
みがかれてゆく
なぜなら
祈りに入ったとたん
それはものすごい
円光が
白光が
あなた方をつつんで
平和の祈りのなかで
ずっと高い世界にまでのぼって
いのちのせんたくをして
そうして又
おりてくるんだから
何べんも何べんも祈ってるうちに
たましいがすっかり
きれいに
そうじをされてゆくんです
気をかえて
そうして
朗らかに
生きてみようかなと
おもうようになる
それはもう
実に不思議なくらい
そうですね
だけど
神様ってのは
とにかく
一人のこらず
みんなを
救うんです
とりあえずそうじするための
その入口として
平和の祈りがあるとみんな
おもうでしょう
だけど
死んでみりゃあわかるけどさ
みんな
とにかく
ずっと祈り放しなんです
人間というものは
肉体を脱いで
幽界をとおって
そして
霊体になって
霊身になって
そこでも
いろんな
自分を
すなおにするための
修行場があって
だんだん
だんだん
微妙な
からだになっていって
すきとおっていって
でも
最後まで
私たちは
祈ってる
世界人類が平和でありますように
とやってるんです
ここで
おわりって世界じゃない
なぜなら
祈りは
神からおろされた
愛のエレベーターで
その
神の愛は
はいこれでおわりって
もんじゃないでしょ
無始無終ですよ
ずーーっと永遠に愛愛愛で
ゆるしの光を
放ちつづけているんです
そうすると
人というのは
神様から分かれてきたもんだから
だから
これでおわりってことはあり得ない
製造元がおんなじなんですからね
だから
祈りっていうのは
世界平和の祈りっていうのは
神が
わが子を
いちんちもはやく
自分の生まれたところへつれてきて
お前さんはここで生まれたんだ
そして
ここまで道案内してきた
私はあなたたちの
親なんだってことですね
そういう
ことが
わかるように
出来てるんだね
だから
なんにも
心配せずに
全部あずけて
一生懸命
神様を
おもって
祈ってゆけば
みんなそれぞれ
ああ私は
生かされてるんだなあ
という
よろこびが
おのずと
湧いてきますよ
それも
一人一人にあった
経験をさせて
そのなかで
みんなが
ああそうか
ああそうか
って
登れるように
登りの階段
光の階段を
上ってゆけるように
神様は
ちゃんと
何もかも
用意して下さって
いるんです
だからね
だから
なんにも心配することは
ないの
何にも
心配しないで
五井先生を
呼んで
世界平和の祈りを
して下さい
毎日毎日
ねてもさめても
とにかく
気がついたら
祈ってください
私を呼んで下さい
私が
みんなを
光の世界へ
つれてゆきますから
愛の世界へ連れてゆきますから
いいですね
それではどうも
ありがとうございました
平成2年1月6日
公平な
方であるのは
これはもう
うたがいがありません
実に平等
実に公平
どういう風に
公平かというと
とにかく
前の世の中での
借金を
守護霊や
守護神に手伝わせて
全部かえさせちゃう
ね、
これは
一人のこらず
そうさせて
みんなを
きれいな
からだにするんです
何も
イレズミなんか
消さないけどさ
すっきりとした
光そのものの
いのちにして
いつも
この世に生きていることを
少々辛いことがあっても
ああありがたいな
ありがたいなと
おもえるように
するんです
そして
もともと
人間はみんな
光なんだから
その自分のなかの光に
目がゆくようにするんです
そんなこといっても先生
うちは災難つづき
不幸つづき
つまずいてばっかり
いて
そんな
すっきりした生命
なんてもんじゃない
いつも
つっかえ
つっかえ歩いてる
前世の
借金返しなんか
どうでもいいから
今を楽にして下さい
という人がよくいるけど
なかなか
神様という問屋は
そうはいかないんだ
転んだ
つまずいた
けがをした
ってのは
それは
私がいつもいっている
消えてゆく姿でね
とらわれていると
業なんざ
いくらでも飛び込んでくる
払っても払っても来る
実にしっこいものなんです
だけど
神様の愛とゆるしの方が
もっとつよくて
とにかく、どんな業があっても
それを全部
消してしまうんだね
ただ
人間は
この地球上で
肉体をまとって
生活する内に
とらわれたり
不安がったりする自分を
自分だと
おもっちゃってからの
時間がながいですからね
もともと
人はみんな光だ
霊だっていっても
ピンとこないんですね
そんなピントの外れた話より
金がもうかる話をきかせてくれ
なんて
今の人は大概みんな
そういっちゃうでしょ
いやほんとうに
だからもう
ただ口で言葉で
説明したって
とっても追いつかないですよ
そこで
祈りというものが必要になってくるんです
祈りというのは
いのちを宣り出すということで
簡単にいえば
自分の肉体をはじめとして
自分というものを
生かして下さっている
いのちの元の光を
自分の奥にかがやいている
本心のなかにたずねて
そこで
自分のふるさとを確認する
ということですけれどね
ですから
祈りっていうのは
自分自身のすがた
その本体を確認するってことですけれどさ
自分で自分をおがむ
っていってもいいんだね
だけどみんな
迷ったり不安になったりしている自分を
自分だとおもってるから
そんな頼りない
こんな不確実な
自分なんかおがめない
とおもっちゃう
ね、そうおもう
だけど私のいってるのは
釈迦やキリストがいったのは
そうじゃない
この私というものを
生かしめているものをずっとたどってゆく
と
神の息吹き
神の光になる
それをおがめ、なぜならあなた方は
仏子、光の子なんだから
といったんですね
で、
祈りというものは
今は
思いわずらいとか
業とかにおおわれてはばまれて
すっかり
姿を消したかに
みえる
その光を
引き出して
祈ってくうちに
そうだ
自分のなかに
こんなしずかで
おちついた
世界があったんだ
光にみちた
世界があったんだという
そういう
真実の
自分自身との
出合いの場なんです
そうして
祈ってゆくことによって
みなさんそれぞれの
霊性というものが
みがかれてゆく
なぜなら
祈りに入ったとたん
それはものすごい
円光が
白光が
あなた方をつつんで
平和の祈りのなかで
ずっと高い世界にまでのぼって
いのちのせんたくをして
そうして又
おりてくるんだから
何べんも何べんも祈ってるうちに
たましいがすっかり
きれいに
そうじをされてゆくんです
気をかえて
そうして
朗らかに
生きてみようかなと
おもうようになる
それはもう
実に不思議なくらい
そうですね
だけど
神様ってのは
とにかく
一人のこらず
みんなを
救うんです
とりあえずそうじするための
その入口として
平和の祈りがあるとみんな
おもうでしょう
だけど
死んでみりゃあわかるけどさ
みんな
とにかく
ずっと祈り放しなんです
人間というものは
肉体を脱いで
幽界をとおって
そして
霊体になって
霊身になって
そこでも
いろんな
自分を
すなおにするための
修行場があって
だんだん
だんだん
微妙な
からだになっていって
すきとおっていって
でも
最後まで
私たちは
祈ってる
世界人類が平和でありますように
とやってるんです
ここで
おわりって世界じゃない
なぜなら
祈りは
神からおろされた
愛のエレベーターで
その
神の愛は
はいこれでおわりって
もんじゃないでしょ
無始無終ですよ
ずーーっと永遠に愛愛愛で
ゆるしの光を
放ちつづけているんです
そうすると
人というのは
神様から分かれてきたもんだから
だから
これでおわりってことはあり得ない
製造元がおんなじなんですからね
だから
祈りっていうのは
世界平和の祈りっていうのは
神が
わが子を
いちんちもはやく
自分の生まれたところへつれてきて
お前さんはここで生まれたんだ
そして
ここまで道案内してきた
私はあなたたちの
親なんだってことですね
そういう
ことが
わかるように
出来てるんだね
だから
なんにも
心配せずに
全部あずけて
一生懸命
神様を
おもって
祈ってゆけば
みんなそれぞれ
ああ私は
生かされてるんだなあ
という
よろこびが
おのずと
湧いてきますよ
それも
一人一人にあった
経験をさせて
そのなかで
みんなが
ああそうか
ああそうか
って
登れるように
登りの階段
光の階段を
上ってゆけるように
神様は
ちゃんと
何もかも
用意して下さって
いるんです
だからね
だから
なんにも心配することは
ないの
何にも
心配しないで
五井先生を
呼んで
世界平和の祈りを
して下さい
毎日毎日
ねてもさめても
とにかく
気がついたら
祈ってください
私を呼んで下さい
私が
みんなを
光の世界へ
つれてゆきますから
愛の世界へ連れてゆきますから
いいですね
それではどうも
ありがとうございました
平成2年1月6日