つよさと
やさしさは
神の心
神の愛
そこには
自分だけを守ろうとする心は
みじんもない
神の光をあびた
つよさと
やさしさとは
この世界に生きる
すべての人々の
天命を完うさせずには
おかない
この神の
つよさと
やさしさとを
あらわしたものが
消えてゆく姿で
世界平和の祈りなのだ
友よ
平和の祈りは
いつも
君のなかにあって
君の本心に鳴りひびき
美しい光明は
絶えることなく
その肉の身から
放射されている
いや
君は
君たちは
すでに霊人なのだ
この現界と
神界霊界幽界をつらぬいて
神のみこころのなかに生きる
君たちは
霊人なのだ
肉体人間の君が
たとえ
迷いの波を出しても
私の名を呼び
世界平和の祈りを唱えるとき
君がどこにいても
光は
君のところに届くだろう
神は
肉体人間が
幾百度幾千度
自分をはなれても
かならず
極みのない愛で
その人々を
光の住者にすることを
誓われたのだ
そして私が
神様から預けられたのが
消えてゆく姿で世界平和の祈り
だったのだよ
君よ
人間にとって
一番大事にしなければならないのは
すなおな心で
無心に祈るということだ
その時間がながければ
ながいだけ
その人自身は
透明になる
もともと
人は
すきとおっていたのだから
そこへかえってゆくだけなのだが
一口にそういっても
無心に祈ってゆく
その段階は
すきとおるその段階は
いくつもいくつも
あるんだよ
上下関係じゃない
本心とともに祈る
ぴったりよりそって祈る
ということのむずかしさだ
心を澄ましていく
ということが
統一のなかでは最も求められることだ
けれども
統一なんてことをあまり考えずに
ということはどういうことかというと
ただとにかく
世界平和のなかに入る
ということが
大事なんだ
電車のなかで
バスのなかで
歩きながら
何処でも
祈りを唱えることはできる
君が祈りを唱えるとき
即座に
そこに
祈りの座がととのえられるんだ
霊眼でみれば
そうなんだよ
かって私が歌に詠んだように
世界平和の祈りを祈ると
たちまち
その人は光につつまれる
無碍光
無限の神のゆるしと智慧の光に
つつまれてゆくんだ
そしてそのとき
その人自身は
自覚するしないにかかわらず
光の世界の住者なんだよ
だから
祈りは決して
かたちではないんだよ
形式じゃないんだよ
君たちが
祈って
そのスイッチを
神様に合わせれば
神様のところまで
のぼってゆく
実際
そんなふうに出来ているし
そんなふうになってるんだ
ただ
そうするには
すなおな心で
無心に祈るということが
さっきもいったように
必要なんだ
私なんか
自分なんかという
肉体にまつわる
我を出していると
なかなか
のぼってはいけないんだ
人間はもともと
そんな存在じゃないんだからね
だけど
なかなか
今の君たちは
そういうふうに思いなさいといったって
とてもむずかしかろうというんで
世界平和の祈りがあるんだよ
消えてゆく姿で世界平和の祈りを
行じてゆくと
実に無理なく
人間は
人間の本来の光のなかで
働くことが
できるのだ
だから
世界平和の祈りをいつも唱えて
私の名前を呼びつづけてごらん
いつの間にか君たちは自分自身が何ものをも
つらぬいていく
神の愛に
結ばれている
朗らかな
一すじの光であり
いのちであるということを
しることができるだろう
平成2年2月12日 記
やさしさは
神の心
神の愛
そこには
自分だけを守ろうとする心は
みじんもない
神の光をあびた
つよさと
やさしさとは
この世界に生きる
すべての人々の
天命を完うさせずには
おかない
この神の
つよさと
やさしさとを
あらわしたものが
消えてゆく姿で
世界平和の祈りなのだ
友よ
平和の祈りは
いつも
君のなかにあって
君の本心に鳴りひびき
美しい光明は
絶えることなく
その肉の身から
放射されている
いや
君は
君たちは
すでに霊人なのだ
この現界と
神界霊界幽界をつらぬいて
神のみこころのなかに生きる
君たちは
霊人なのだ
肉体人間の君が
たとえ
迷いの波を出しても
私の名を呼び
世界平和の祈りを唱えるとき
君がどこにいても
光は
君のところに届くだろう
神は
肉体人間が
幾百度幾千度
自分をはなれても
かならず
極みのない愛で
その人々を
光の住者にすることを
誓われたのだ
そして私が
神様から預けられたのが
消えてゆく姿で世界平和の祈り
だったのだよ
君よ
人間にとって
一番大事にしなければならないのは
すなおな心で
無心に祈るということだ
その時間がながければ
ながいだけ
その人自身は
透明になる
もともと
人は
すきとおっていたのだから
そこへかえってゆくだけなのだが
一口にそういっても
無心に祈ってゆく
その段階は
すきとおるその段階は
いくつもいくつも
あるんだよ
上下関係じゃない
本心とともに祈る
ぴったりよりそって祈る
ということのむずかしさだ
心を澄ましていく
ということが
統一のなかでは最も求められることだ
けれども
統一なんてことをあまり考えずに
ということはどういうことかというと
ただとにかく
世界平和のなかに入る
ということが
大事なんだ
電車のなかで
バスのなかで
歩きながら
何処でも
祈りを唱えることはできる
君が祈りを唱えるとき
即座に
そこに
祈りの座がととのえられるんだ
霊眼でみれば
そうなんだよ
かって私が歌に詠んだように
世界平和の祈りを祈ると
たちまち
その人は光につつまれる
無碍光
無限の神のゆるしと智慧の光に
つつまれてゆくんだ
そしてそのとき
その人自身は
自覚するしないにかかわらず
光の世界の住者なんだよ
だから
祈りは決して
かたちではないんだよ
形式じゃないんだよ
君たちが
祈って
そのスイッチを
神様に合わせれば
神様のところまで
のぼってゆく
実際
そんなふうに出来ているし
そんなふうになってるんだ
ただ
そうするには
すなおな心で
無心に祈るということが
さっきもいったように
必要なんだ
私なんか
自分なんかという
肉体にまつわる
我を出していると
なかなか
のぼってはいけないんだ
人間はもともと
そんな存在じゃないんだからね
だけど
なかなか
今の君たちは
そういうふうに思いなさいといったって
とてもむずかしかろうというんで
世界平和の祈りがあるんだよ
消えてゆく姿で世界平和の祈りを
行じてゆくと
実に無理なく
人間は
人間の本来の光のなかで
働くことが
できるのだ
だから
世界平和の祈りをいつも唱えて
私の名前を呼びつづけてごらん
いつの間にか君たちは自分自身が何ものをも
つらぬいていく
神の愛に
結ばれている
朗らかな
一すじの光であり
いのちであるということを
しることができるだろう
平成2年2月12日 記