まあ一つ言えるのは、私は嘘つきじゃない
ということですね。
五井先生が亡くなった時に、つまり
昌美がね、五井先生が全部あなた方の業は
持って行きましたと。
だから、あと残ってるのは燃えかす
みたいなもんで、皆救われますよ
という風な言い方をしたと。ところが、今の
白光真宏会は、そういう言い方よりも、
むしろね、あなた方が神の子の自覚が
少なすぎるから、いつまで経ってもという
言い方をするけれども、それだったら、
五井先生は持って行ったというのは、
あれ嘘なんですかという質問が確かあった
と思いますがねえ。
五井先生は嘘は言わないんです。どこかの
総理大臣じゃないけどね、五井先生は本当に
嘘は言いません。業は持って行ってるんですよ。
ところがね、業というのはね、先っきの話
じゃないけども、つくろうと思えば、
いとも簡単に出来るんですよ。みんな楽な方に
行きたい、皆苦しまない方に行きたい、
辛い人生を送りたくないと、皆思いますよね。
だから、そっちの方に行かないようにして、
皆努力して生活してるにも関わらず、何か
家の中も職場もね学校も、何かいやな事が
起きてね、夫婦生活もうまく行かないとかね。
自分なんかもぐちゃぐちゃ思うし、何か
そんなことを考えると、それはあなたの心が
悪いだなんて、私が生きてる時は、そういう
言い方はしませんと言って来ましたね。
ところが、今の白光は、ちょっとそうじゃ
ありませんかという質問ですけど、とに角、
一つずつ分けて言いますとね、先っきも
申しましたように、業というものは、いとも
簡単に、人間の想いというものによって
つくってゆける。で、想いによって
出来るのは、業だけじゃないんですよ。神界
なんていう所はね、神界でも霊界でもそう、
この世の中でも本当はそうなんだけれども
つまり、皆の想いが現れて来たものが
この世界なんです。
例えば、向こうの世界へ行ってね、この人と
仲良くなりたいなあと想うと、たちまち本当に
仲良くなっちゃう。ところが、あの人に会いたく
ないなあと想うと、その人が出て来るとかね。
最初のところの霊界のとば口と言いますか
そういう何か修行させられるような時には、
そういう会いたくない人にすぐ会うとか
その想いがすぐそのまま実現するというような
そういう世界になっていく訳なんです。
それは、何の為にそれをくり返すかというとね
そういう事を通して、自分の本心、本体という
ものが、どれ程霊妙に出来ているか、神様の愛
によってつくられているか。自分は器じゃない
とか何とか言ってる場合じゃなくって、自分の
本当の姿をのぞいた時には、どんなに輝いて
いるかということ、それをいやでも観せられ
るんですよね。それを観る訓練させられる訳
なんです。その為に、色んないやな人に会ったり
又逆なことがあったり、すぐそれが目の前に
出てくるというのはそれなんです。
ところが、この世の中というのは、時間的な
余裕がありますから、会いたくない話したくない
と想えば、断わることだって出来るし、電話を
切ることだって出来るし、絶交することだって
出来るし、色んなことが出来る訳ですよね。肉体は
そうやって出来る、この世の中では出来るけども
本当の意味で出来ないというのは、その想いがね
結局切れてない訳なんです。想いはいくらでも
交通してる訳なんです。目に見えないだけで。
この世の中だって、霊界のつづきなんで
一続きなんで、結局、霊界もこの世も一緒
なんですよね。同じ空気とは言わないけれども
霊界の一部がこの世なんですよ。
ということになると、その想いの貯金
といいますかねえ、どういう想いを自分の中に
積み重ねて行くかということによって、それが
いわゆる業といいますか、カルマといいますか
そういう悪い方の業になっていくか、そう
じゃないかというので、随分と違って来る訳
なんです。ところが、そこに人間の弱さもろさ
というものがあって、先っきも言ったように
そっちの方へ行きたくないんだけれど
行っちゃうとか、行かされるとか。とてつもなく
苦しい所へ来ちゃったとか。そっちの方へ
行かないようにするけれども、ところが、これは
非常に難かしいところなんですがね。行かない
ように努力しているのにという事の中には
つまり、行かないようにしたい、恐怖だから
いやだから、あそこだけは避けたいと思って
ひたすら逃げる心で、それで何か
やってるようになっては、それはもう
業を引き寄せるのと一緒なんですよ。
そこがねえ、人間というのはね、非常に
難かしいんですよね。肉体を持ってると
そんなこと言ったって、五井先生、いやなものは
いやなんです。というのはこれは感情としては
分かるんだけれども、しかしね、仕組としては
そうじゃなくて、やっぱり、ああ想っちゃった
すいません、よろしくお願いしますと言って
パッと想いの転換をする。
そういうことによって、一瞬業になっても、業
というものは軽くなって、消えてって、ついに
消えていくという、そこの、信ずるというか信頼
するといいますかね、任せるといいますか、その
信仰というものが強いかどうか、ね、そこが
人間のためされるところなんですよね。
そこでもう一つ言えば、今、白光が伝えようと
している、つまり、あなた方は神の子なんだよと。
これも言い過ぎるとねえ。確かに、講師の性格
とかね、色んな人の性格によって、押しつけに
聞こえたり、色々に聞こえるんですよ。それで
実際に本当に苦しんでる人とかね、もう本当に
そうは思えない状況の中にいる人達なんかね
ため息ばっかりですから、想えって言う方が
無理だ、それは分かるの。
だから、想えという方が無理だから、この
消えてゆく姿があるんだけれど。今、消えて
ゆく姿よりも、神の子の方がというのはね
実際に世界そのものが、本当にものすごい
勢いで変わっていってるんですね。
例えば、あのイランにしてもイラクにしても
国連で平和のセレモニーがあるという
ことにしても、それは何を意味するか
といったら、この世界人類というか、世界の
中の空気というものをね、平和なものに
して行かなきゃなんない。平和なものに又
なってゆく。そういう時期なんです。今はね。
だから、皆が、そんなこと先生言ったって
出来ませんよと言ってるんだけども、先っきも
何かの話の中で私が言いましたようにね、
自分自身の肉体世界における状況は、ものすごく
辛いんだけれども、あなた方の中に隠れてる
霊妙な体の奥の奥のね、悟ってる体というものが
あって、そこのところが実は、パーッと働いて
光になって、あなた方が苦しんでいても、たとえ
病気で寝たきりになっていても、そのあなた方の
光が光明がね、世界中駆けずり回って、そういう
空気をつくっていく。そういう役割をあなた方
自身がね、見えなくともやってるんだという
事実をね、それを伝えたいと思って、今、みんな
講師の人たちがやっきになってる訳ですよ。
ところが、伝え方がへたなんだな。やっぱり、
皆のそれぞれの苦しみというものを、充分認め
なきゃいけない。認めなきゃいけないけども
苦しいばかりが人間じゃないということです。
つまり、私の言う人間というものはね、本当に
小さくにもなれば宇宙大にもなるもんだと。
前に言ったことあるでしょう。植芝先生が
私を訪ねてみえて来られた時にね、五井先生
私は宇宙ですと、私も、植芝先生私も
宇宙ですよと。その時に居た斉藤さんが、
宇宙と宇宙で何の話をしてるんだと、ねえ、
すごく怪訝(けげん)に思ったという話が
あるけどさ、それは何を言ってるか
といったら、それ程人間というものは
神様の本来のその愛というものに包まれた
無限大に本当に深い大きな存在なんだと。
だから、本当の人間というものは、宇宙
よりも大きく深くなるしね、ミクロよりも
小さくなる。
私がいつも言いますように、霊界という
ところは伸縮自在で、たとえ地球全部の人が
一度に死んだとしてもね、そんなことは
有り得ないですよ、有り得ないけど、霊界
では人口がどうのこうのと、そんなことは
問題じゃないんです。霊界というのは
もう自由自在なんです。
人間は、肉体持ってる間はものすごく
不自由なのね。肉体持ってる為に、家を
建てたり、ここへ住んでとか、土地のこと
財産のこと、色んなしがらみが出てくるし
肉体を養わなきゃならない、家族を養わ
なきゃと、色んなことが出て来て、そして
動きがとれない。ところが、死んじゃうと
自在身でしょ。何処へでも行ける。だから、
本当に色んな働きが出来る訳ですよ。
ところが先っきも言いましたようにね、人間
というのは、肉体を持っていても自在に
動きまわれる。それは距離だけじゃないんです。
色んな人の心の中に入って、光を燈すことが
出来る。そういう体を、深いところで
あなた方みんな持ってるんですよ。
私なんか先生、私なんか役に立ちますか、私
なんかお役に立ちませんから、どうぞ他の人を
求めて下さい。私なんかって、そんな
引っ込んじゃあ駄目なんですね。何故か
というと、皆平等に公平にそれを
持ってるんですよ。あなただけが
持ってるんじゃない。皆持ってるんです。
肉体の力量というか才能というかね、
そういう所だけでみちゃうと、そんなに
輝いてるものがあるなんて言ったって、肉体の
人間の我から観れば、そんなの私の中に
ある筈ないと思っちゃうから、否定して
しまうけども。否定しきれないというのはね、
ほらあなた生きてるじゃないですか。
生きているその根元は何かというと、神様
からの光ですよ。その光が来て、あなたは
その光に養われて生きてるわけ。だから
その光の元をあなたが体の中に持ってる
としか、私は言いようがない訳ね。皆それ
持ってるんです。
だから、その持ってるということを
ありがたく思ってね、そして、その用い方、
用いられ方というものをね。自分がどうしょう
とか、こうしょうとか、こんなもの
もらっちゃってとか、私にもらったって
どうしょうもないとかね、そんなこと
思わないで一旦もらっちゃったんだから、
あるんだから、謹んで受けて、そうして、
それをどう使って下さるかというのはね、
これは、我々は神様によって生かされてる
生命なんだから、それを一旦神様に
お返しして、何も生命をとるというんじゃ
ないんですよ。その使い方を神様の方で
どういう風に生きた方がこの人はいいか
どういう風に進んで行った方がいいか、ここで
結婚させちゃった方がいいとか、ここで結婚
させないで独身を通してね、芸術家に
なった方がいいとか、この辺でデザイナーに
なった方がいいとか、そういう事というのは
向こうの方で決めるんです。
だからね、色んなものをもらっちゃって、私
こんなものもらっちゃって分不相応でなんて
言ってる場合じゃないんです。場合じゃ
ないっていうことをね、今、白光真宏会は
皆に伝えたくてね、心あまって言葉足らず
と言いますかね。
しかしね、人間の中には、苦に把われるね、昔
ながらの我をつくしちゃう、どうしようもない
肉体想念といいますか、そういう想念の世界、我の
世界、業をつくりかねない世界もあるけれども
一方で、あなた方は、肉体を持ったまんま、自在に
色んな所へ自分の光を、実際にふりまいている。
そういう力を持っている。
人間というのは、その色んな所へ光をふりまく
明るい想いをふりまいて、自分も人も尊敬して
生命を尊んで、この世界を平和にしてというのが
人間の真性ですから、そっちの方を磨いていく
見つめていくという事が大事なんです。それは何も
現実の苦しみ、悩みだとか、自分の子供のことで
死ぬ程私は悩んでいるのに、その悩みを無視
するんですかって、そうじゃないんですよ。
さっき申しましたように、その悩みであろうと
苦しみであろうとね、神様というのは、守護霊さん
守護神さんというのは、それを必ず向こうで
良いように使って下さるわけ。だから、皆が
把われているのを放っておくというのではなく
必ずね、この世の中で使って下さる。この世の中で
良いように使って下さる。この世の中で駄目
だったら、次の世の中で使って下さる訳なんです。
だから、その事をね、きっちりと自分の中へ
たたき込んで、そうして、自分は生き通しの明るい
神様によって守られてる生命なんだ、だから、その
明るいすっきりとした生命になる人間が多く
なるように、多くなってゆくように、五井先生が
肉体を離れる時に、皆さんの業というものは皆
持って行って、洗い浄めて、今燃えかすしか
残ってないというのは、それはその通りなんですよ。
その時みんな業を持ってっちゃったんですよ。
だから、その業というものはね、もうふり返ら
なくていいんです。確かにそうなんです。
その後というのは、やっぱり皆の想いぐせ
ですよね、いつも私が言う。私なんてどうせとか
私がやったってこんなことはなりっこないとか。
ね、それから、変に責任感じたりとかね。色んな
その人の性格のね、個性といいますか、その
現われ方によって、何か苦しみがそこへ生まれて
きちゃう。それが業になってくる。だから、業
というのはね、消すのは大変なんですよ。本当に
消すのは大変なんだけども、つくるのは本当にすぐ
出来てしまう。
だからね、皆そういう弱い自分の、人間の体と
本来の人間の奥深い、神様の光に満たされた神性の
体と、両方持っていて、そうして、今はその
神性の方の体を自覚せよと言っている。何も現実の
部分を軽視する訳じゃないんだけど、そっちの
想いの方よりも、むしろ、この世の中の空気を
明るくしてゆく為に、あなた方の想いを光にかえて
やっていくという事が、今大事なんで、その為に
白光が、色々言ってるんだということを理解して
いただいて、そうして、それでもやっぱり悩みは
悩みですから、それは軽蔑しないで、私はちっとも
軽蔑しないから。
そんなこと言ったって、私はくだらないことしか
想えないし、今こんな事がしんどい、あんなことが
辛いんだというのは、そのまま出せばいいじゃ
ないですか。そのまま私が光に変えますよ。ね、
自分の中に神の子なんか思えないとか、神のことは
思えないとかね、その決めつけだって把われ
なんです。業なんですよ。
だからね、そんなことはないんだから、そういう
色んな想い一切、良い想いも悪い想いもね、湧いて
くる思いというものは一旦認めて、うん、よしよし
としてやって、残るものは残して下さい、消す
ものは消して下さい。消えてゆく姿でよろしく
お願いします、五井先生よろしくお願いします
と言ってしまうと、残るべきものが残ってね、働く
べきところへあなた方がちゃんと働くように
こちらの方で、コースはちゃんと指定が
出来るようになっているんです。この人にこういう
所でやってほしい、働いてほしい、行ってほしい
というのはある訳なんですよ。
だから、そういう神霊が、皆さん方の為に用意
している人生の、この生命の永生のコースを
ちりがあまり積もらないように、自分の中の想いを
もう一度見渡して、そうして、色んなものが
あっても構いませんから、それをすっきりと、もう
一度私に渡し直して、そうして、自分の中の弱い
部分もたくましい部分も全部認めて、その上で
人間の真実の本来の生命にむかって進んで
行けるように、祈りを重ねていって欲しいと
思います。
昭和63年7月22日
ということですね。
五井先生が亡くなった時に、つまり
昌美がね、五井先生が全部あなた方の業は
持って行きましたと。
だから、あと残ってるのは燃えかす
みたいなもんで、皆救われますよ
という風な言い方をしたと。ところが、今の
白光真宏会は、そういう言い方よりも、
むしろね、あなた方が神の子の自覚が
少なすぎるから、いつまで経ってもという
言い方をするけれども、それだったら、
五井先生は持って行ったというのは、
あれ嘘なんですかという質問が確かあった
と思いますがねえ。
五井先生は嘘は言わないんです。どこかの
総理大臣じゃないけどね、五井先生は本当に
嘘は言いません。業は持って行ってるんですよ。
ところがね、業というのはね、先っきの話
じゃないけども、つくろうと思えば、
いとも簡単に出来るんですよ。みんな楽な方に
行きたい、皆苦しまない方に行きたい、
辛い人生を送りたくないと、皆思いますよね。
だから、そっちの方に行かないようにして、
皆努力して生活してるにも関わらず、何か
家の中も職場もね学校も、何かいやな事が
起きてね、夫婦生活もうまく行かないとかね。
自分なんかもぐちゃぐちゃ思うし、何か
そんなことを考えると、それはあなたの心が
悪いだなんて、私が生きてる時は、そういう
言い方はしませんと言って来ましたね。
ところが、今の白光は、ちょっとそうじゃ
ありませんかという質問ですけど、とに角、
一つずつ分けて言いますとね、先っきも
申しましたように、業というものは、いとも
簡単に、人間の想いというものによって
つくってゆける。で、想いによって
出来るのは、業だけじゃないんですよ。神界
なんていう所はね、神界でも霊界でもそう、
この世の中でも本当はそうなんだけれども
つまり、皆の想いが現れて来たものが
この世界なんです。
例えば、向こうの世界へ行ってね、この人と
仲良くなりたいなあと想うと、たちまち本当に
仲良くなっちゃう。ところが、あの人に会いたく
ないなあと想うと、その人が出て来るとかね。
最初のところの霊界のとば口と言いますか
そういう何か修行させられるような時には、
そういう会いたくない人にすぐ会うとか
その想いがすぐそのまま実現するというような
そういう世界になっていく訳なんです。
それは、何の為にそれをくり返すかというとね
そういう事を通して、自分の本心、本体という
ものが、どれ程霊妙に出来ているか、神様の愛
によってつくられているか。自分は器じゃない
とか何とか言ってる場合じゃなくって、自分の
本当の姿をのぞいた時には、どんなに輝いて
いるかということ、それをいやでも観せられ
るんですよね。それを観る訓練させられる訳
なんです。その為に、色んないやな人に会ったり
又逆なことがあったり、すぐそれが目の前に
出てくるというのはそれなんです。
ところが、この世の中というのは、時間的な
余裕がありますから、会いたくない話したくない
と想えば、断わることだって出来るし、電話を
切ることだって出来るし、絶交することだって
出来るし、色んなことが出来る訳ですよね。肉体は
そうやって出来る、この世の中では出来るけども
本当の意味で出来ないというのは、その想いがね
結局切れてない訳なんです。想いはいくらでも
交通してる訳なんです。目に見えないだけで。
この世の中だって、霊界のつづきなんで
一続きなんで、結局、霊界もこの世も一緒
なんですよね。同じ空気とは言わないけれども
霊界の一部がこの世なんですよ。
ということになると、その想いの貯金
といいますかねえ、どういう想いを自分の中に
積み重ねて行くかということによって、それが
いわゆる業といいますか、カルマといいますか
そういう悪い方の業になっていくか、そう
じゃないかというので、随分と違って来る訳
なんです。ところが、そこに人間の弱さもろさ
というものがあって、先っきも言ったように
そっちの方へ行きたくないんだけれど
行っちゃうとか、行かされるとか。とてつもなく
苦しい所へ来ちゃったとか。そっちの方へ
行かないようにするけれども、ところが、これは
非常に難かしいところなんですがね。行かない
ように努力しているのにという事の中には
つまり、行かないようにしたい、恐怖だから
いやだから、あそこだけは避けたいと思って
ひたすら逃げる心で、それで何か
やってるようになっては、それはもう
業を引き寄せるのと一緒なんですよ。
そこがねえ、人間というのはね、非常に
難かしいんですよね。肉体を持ってると
そんなこと言ったって、五井先生、いやなものは
いやなんです。というのはこれは感情としては
分かるんだけれども、しかしね、仕組としては
そうじゃなくて、やっぱり、ああ想っちゃった
すいません、よろしくお願いしますと言って
パッと想いの転換をする。
そういうことによって、一瞬業になっても、業
というものは軽くなって、消えてって、ついに
消えていくという、そこの、信ずるというか信頼
するといいますかね、任せるといいますか、その
信仰というものが強いかどうか、ね、そこが
人間のためされるところなんですよね。
そこでもう一つ言えば、今、白光が伝えようと
している、つまり、あなた方は神の子なんだよと。
これも言い過ぎるとねえ。確かに、講師の性格
とかね、色んな人の性格によって、押しつけに
聞こえたり、色々に聞こえるんですよ。それで
実際に本当に苦しんでる人とかね、もう本当に
そうは思えない状況の中にいる人達なんかね
ため息ばっかりですから、想えって言う方が
無理だ、それは分かるの。
だから、想えという方が無理だから、この
消えてゆく姿があるんだけれど。今、消えて
ゆく姿よりも、神の子の方がというのはね
実際に世界そのものが、本当にものすごい
勢いで変わっていってるんですね。
例えば、あのイランにしてもイラクにしても
国連で平和のセレモニーがあるという
ことにしても、それは何を意味するか
といったら、この世界人類というか、世界の
中の空気というものをね、平和なものに
して行かなきゃなんない。平和なものに又
なってゆく。そういう時期なんです。今はね。
だから、皆が、そんなこと先生言ったって
出来ませんよと言ってるんだけども、先っきも
何かの話の中で私が言いましたようにね、
自分自身の肉体世界における状況は、ものすごく
辛いんだけれども、あなた方の中に隠れてる
霊妙な体の奥の奥のね、悟ってる体というものが
あって、そこのところが実は、パーッと働いて
光になって、あなた方が苦しんでいても、たとえ
病気で寝たきりになっていても、そのあなた方の
光が光明がね、世界中駆けずり回って、そういう
空気をつくっていく。そういう役割をあなた方
自身がね、見えなくともやってるんだという
事実をね、それを伝えたいと思って、今、みんな
講師の人たちがやっきになってる訳ですよ。
ところが、伝え方がへたなんだな。やっぱり、
皆のそれぞれの苦しみというものを、充分認め
なきゃいけない。認めなきゃいけないけども
苦しいばかりが人間じゃないということです。
つまり、私の言う人間というものはね、本当に
小さくにもなれば宇宙大にもなるもんだと。
前に言ったことあるでしょう。植芝先生が
私を訪ねてみえて来られた時にね、五井先生
私は宇宙ですと、私も、植芝先生私も
宇宙ですよと。その時に居た斉藤さんが、
宇宙と宇宙で何の話をしてるんだと、ねえ、
すごく怪訝(けげん)に思ったという話が
あるけどさ、それは何を言ってるか
といったら、それ程人間というものは
神様の本来のその愛というものに包まれた
無限大に本当に深い大きな存在なんだと。
だから、本当の人間というものは、宇宙
よりも大きく深くなるしね、ミクロよりも
小さくなる。
私がいつも言いますように、霊界という
ところは伸縮自在で、たとえ地球全部の人が
一度に死んだとしてもね、そんなことは
有り得ないですよ、有り得ないけど、霊界
では人口がどうのこうのと、そんなことは
問題じゃないんです。霊界というのは
もう自由自在なんです。
人間は、肉体持ってる間はものすごく
不自由なのね。肉体持ってる為に、家を
建てたり、ここへ住んでとか、土地のこと
財産のこと、色んなしがらみが出てくるし
肉体を養わなきゃならない、家族を養わ
なきゃと、色んなことが出て来て、そして
動きがとれない。ところが、死んじゃうと
自在身でしょ。何処へでも行ける。だから、
本当に色んな働きが出来る訳ですよ。
ところが先っきも言いましたようにね、人間
というのは、肉体を持っていても自在に
動きまわれる。それは距離だけじゃないんです。
色んな人の心の中に入って、光を燈すことが
出来る。そういう体を、深いところで
あなた方みんな持ってるんですよ。
私なんか先生、私なんか役に立ちますか、私
なんかお役に立ちませんから、どうぞ他の人を
求めて下さい。私なんかって、そんな
引っ込んじゃあ駄目なんですね。何故か
というと、皆平等に公平にそれを
持ってるんですよ。あなただけが
持ってるんじゃない。皆持ってるんです。
肉体の力量というか才能というかね、
そういう所だけでみちゃうと、そんなに
輝いてるものがあるなんて言ったって、肉体の
人間の我から観れば、そんなの私の中に
ある筈ないと思っちゃうから、否定して
しまうけども。否定しきれないというのはね、
ほらあなた生きてるじゃないですか。
生きているその根元は何かというと、神様
からの光ですよ。その光が来て、あなたは
その光に養われて生きてるわけ。だから
その光の元をあなたが体の中に持ってる
としか、私は言いようがない訳ね。皆それ
持ってるんです。
だから、その持ってるということを
ありがたく思ってね、そして、その用い方、
用いられ方というものをね。自分がどうしょう
とか、こうしょうとか、こんなもの
もらっちゃってとか、私にもらったって
どうしょうもないとかね、そんなこと
思わないで一旦もらっちゃったんだから、
あるんだから、謹んで受けて、そうして、
それをどう使って下さるかというのはね、
これは、我々は神様によって生かされてる
生命なんだから、それを一旦神様に
お返しして、何も生命をとるというんじゃ
ないんですよ。その使い方を神様の方で
どういう風に生きた方がこの人はいいか
どういう風に進んで行った方がいいか、ここで
結婚させちゃった方がいいとか、ここで結婚
させないで独身を通してね、芸術家に
なった方がいいとか、この辺でデザイナーに
なった方がいいとか、そういう事というのは
向こうの方で決めるんです。
だからね、色んなものをもらっちゃって、私
こんなものもらっちゃって分不相応でなんて
言ってる場合じゃないんです。場合じゃ
ないっていうことをね、今、白光真宏会は
皆に伝えたくてね、心あまって言葉足らず
と言いますかね。
しかしね、人間の中には、苦に把われるね、昔
ながらの我をつくしちゃう、どうしようもない
肉体想念といいますか、そういう想念の世界、我の
世界、業をつくりかねない世界もあるけれども
一方で、あなた方は、肉体を持ったまんま、自在に
色んな所へ自分の光を、実際にふりまいている。
そういう力を持っている。
人間というのは、その色んな所へ光をふりまく
明るい想いをふりまいて、自分も人も尊敬して
生命を尊んで、この世界を平和にしてというのが
人間の真性ですから、そっちの方を磨いていく
見つめていくという事が大事なんです。それは何も
現実の苦しみ、悩みだとか、自分の子供のことで
死ぬ程私は悩んでいるのに、その悩みを無視
するんですかって、そうじゃないんですよ。
さっき申しましたように、その悩みであろうと
苦しみであろうとね、神様というのは、守護霊さん
守護神さんというのは、それを必ず向こうで
良いように使って下さるわけ。だから、皆が
把われているのを放っておくというのではなく
必ずね、この世の中で使って下さる。この世の中で
良いように使って下さる。この世の中で駄目
だったら、次の世の中で使って下さる訳なんです。
だから、その事をね、きっちりと自分の中へ
たたき込んで、そうして、自分は生き通しの明るい
神様によって守られてる生命なんだ、だから、その
明るいすっきりとした生命になる人間が多く
なるように、多くなってゆくように、五井先生が
肉体を離れる時に、皆さんの業というものは皆
持って行って、洗い浄めて、今燃えかすしか
残ってないというのは、それはその通りなんですよ。
その時みんな業を持ってっちゃったんですよ。
だから、その業というものはね、もうふり返ら
なくていいんです。確かにそうなんです。
その後というのは、やっぱり皆の想いぐせ
ですよね、いつも私が言う。私なんてどうせとか
私がやったってこんなことはなりっこないとか。
ね、それから、変に責任感じたりとかね。色んな
その人の性格のね、個性といいますか、その
現われ方によって、何か苦しみがそこへ生まれて
きちゃう。それが業になってくる。だから、業
というのはね、消すのは大変なんですよ。本当に
消すのは大変なんだけども、つくるのは本当にすぐ
出来てしまう。
だからね、皆そういう弱い自分の、人間の体と
本来の人間の奥深い、神様の光に満たされた神性の
体と、両方持っていて、そうして、今はその
神性の方の体を自覚せよと言っている。何も現実の
部分を軽視する訳じゃないんだけど、そっちの
想いの方よりも、むしろ、この世の中の空気を
明るくしてゆく為に、あなた方の想いを光にかえて
やっていくという事が、今大事なんで、その為に
白光が、色々言ってるんだということを理解して
いただいて、そうして、それでもやっぱり悩みは
悩みですから、それは軽蔑しないで、私はちっとも
軽蔑しないから。
そんなこと言ったって、私はくだらないことしか
想えないし、今こんな事がしんどい、あんなことが
辛いんだというのは、そのまま出せばいいじゃ
ないですか。そのまま私が光に変えますよ。ね、
自分の中に神の子なんか思えないとか、神のことは
思えないとかね、その決めつけだって把われ
なんです。業なんですよ。
だからね、そんなことはないんだから、そういう
色んな想い一切、良い想いも悪い想いもね、湧いて
くる思いというものは一旦認めて、うん、よしよし
としてやって、残るものは残して下さい、消す
ものは消して下さい。消えてゆく姿でよろしく
お願いします、五井先生よろしくお願いします
と言ってしまうと、残るべきものが残ってね、働く
べきところへあなた方がちゃんと働くように
こちらの方で、コースはちゃんと指定が
出来るようになっているんです。この人にこういう
所でやってほしい、働いてほしい、行ってほしい
というのはある訳なんですよ。
だから、そういう神霊が、皆さん方の為に用意
している人生の、この生命の永生のコースを
ちりがあまり積もらないように、自分の中の想いを
もう一度見渡して、そうして、色んなものが
あっても構いませんから、それをすっきりと、もう
一度私に渡し直して、そうして、自分の中の弱い
部分もたくましい部分も全部認めて、その上で
人間の真実の本来の生命にむかって進んで
行けるように、祈りを重ねていって欲しいと
思います。
昭和63年7月22日