(前日からの続き)
本当の真実の姿というのは、それでは何か
といえば、それはどんな時にも動かされない、
どんな時にも迷うことがない、疑う余地のない
神様の愛の光というもの。
例えば、どんな業の中にあっても、その業を
ゆるやかに、愛情をもって消してゆきながら、
ついに、その業の闇をも光に変えてゆく、
そういう大愛。
それが真実の光の世界であります。
で、この真実の光の世界というものを、実は
私たちはそれぞれの心の中にもっておりまして、
本当はこれが原動力になって私たちが生きて
ゆくことができるということであります。
ですから、そこへずっと気持ちを集中し心を
集中し、祈りを集中してゆけばですね、いつも
私が申しましたけど、一分キリスト一分釈迦
一分老子になることができる。
老子が無為と申しましたのは、何もしない
ということではありません。
あるがままの自己というものをほがらかに
認めて、そうして、そのほがらかな自己という
ものをさらにポーンと投げ出して、笑顔
でもってそれを見つめていると、そこから光
というものが見えてくる。光以外に見えてくる
ものはない。
そういう世界であります。
そういう世界に本当は人間は遊ぶことができる。
(つづく)
本当の真実の姿というのは、それでは何か
といえば、それはどんな時にも動かされない、
どんな時にも迷うことがない、疑う余地のない
神様の愛の光というもの。
例えば、どんな業の中にあっても、その業を
ゆるやかに、愛情をもって消してゆきながら、
ついに、その業の闇をも光に変えてゆく、
そういう大愛。
それが真実の光の世界であります。
で、この真実の光の世界というものを、実は
私たちはそれぞれの心の中にもっておりまして、
本当はこれが原動力になって私たちが生きて
ゆくことができるということであります。
ですから、そこへずっと気持ちを集中し心を
集中し、祈りを集中してゆけばですね、いつも
私が申しましたけど、一分キリスト一分釈迦
一分老子になることができる。
老子が無為と申しましたのは、何もしない
ということではありません。
あるがままの自己というものをほがらかに
認めて、そうして、そのほがらかな自己という
ものをさらにポーンと投げ出して、笑顔
でもってそれを見つめていると、そこから光
というものが見えてくる。光以外に見えてくる
ものはない。
そういう世界であります。
そういう世界に本当は人間は遊ぶことができる。
(つづく)