宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

短 信(14)

2014-03-26 05:50:26 | 祈り
 御手紙拝見致しました。いつの世でも
重たいのは家族であるようです。

 あなたは、嘘がつけないとおっしゃって
おられますが、この場合、自分に正直に
なればなる程、あなた自身も、家族も
追いこむかたちになりはしないかと
おもわれます。

 嘘をついてはいけないというのは
そのとおりですが、昔から嘘も方便
という言葉があるように、優しさを発揮
させるための嘘、調和させるための嘘
というのは許されるものです。それは嘘
にはなりません。真理に近づくための
一つの手段なのですから。何でもかんでも
本当のことをいって、自分を傷つけ、人を
傷つけるというのは、宗教以前に、人間
としてあまり感心できることではありません。
 どうぞもっとおおらかになって世界平和の
祈りを唱えて下さいますように。
             合 掌
               昌 久

短 信(13)

2014-03-25 06:05:44 | 祈り
 拝復
 神様という方は愛にみちています。
 これは真実であります。

 我々は、いかに、この神様の愛に
我々自身を全託してゆくかということ
なのであります。宗教というものは、
祈りというものは、すべてここを
目ざしているのだといっても言いすぎ
ではありません。

 目の前に色々なことが起こる。その時
神様とおもう。お任せしますと祈る。これが
要点なのです。

 ただ、今は、そう思いにくいから、
世界平和の祈りのなかにすべてのおもいを
入れる。神様とよびにくければ私を呼んで
下されば、そのままに、神様まであなたの
おもいをつなぐ。これが私の役目です。
 ですから、どうぞ辛い時程世界平和の
祈り一念に日々をお送り下さい。私を
よんで下さればいいのです。
                合 掌
                 昌 久

短 信(12)

2014-03-24 07:42:55 | 祈り
 拝復
 人間界に呼びかけるのに、人間の
心のこもった言葉以外で何が出来る
というのかという点について、私は
今一度かいてみたいのだ。

 ただいたずらに自分を高みにおく者を
僕は信じない。人間というものの真性を、
等しくみんなが理解するためにも、言葉
というもののやさしさ、深さを極めることは
大事だと思っている。やさしさというものは
極めてゆけば強さにつながる。しかも、
その強さは、人間の心の内奥をつつむもの
であると僕は思っている。
 このつよさを獲得するために、人は
さまざまな道のりを経てゆかなければ
ならない。どこをどう点検しても、つよさに
つながらない道を歩かせられる場合も
あるのだ。しかし、その道を歩く時間も、
永遠という神の眼からみれば瞬間に
すぎない。君の道筋も、永遠につながって
ゆくものだ。

 人間界は、神界に到るまで顕われの
世界だ。そのあらわれは、人の心が
つくってゆくものだということを理解
できれば、この世の争いもなくなって
ゆくのだがと思う。おもいだけでは
この世はよくならない。おもいを祈りに
高め、祈りを光にかえて、僕等の本心の
なかに光体をかがやかすことこそ、今、
つとめるべきではないか。今この時期
だからこそ、一人一人の光をつよめて
ゆこうではないか。祈りのなかに僕は
いる。世界人類が平和でありますように
という祈(の)り言のなかに、僕は
いるのだ。五井先生は遠くにいるのでは
ない。ここにいるんだよ。一人一人の
なかに、君達のなかにいるんだよ。

 自在身のよろこびと、それゆえの切なさとを、
今、僕はしみじみと味わっている。しかし、
真理の光─神の愛はこんなことでいささかも
ゆらぐことはないのだよ。僕は白光を
愛している。白光につながっている同志の
一人一人を愛している。しかし、僕の念願は、
その君達の祈りを結集して、真の人間の
進化にむけてのそなえを一日も早く
成し遂げたいということだ。

 神界の光を、今地上に放射して、肉体を
持ったまま霊人になってゆくという、今は
そのはじまりの時なのだよ。人間という
ものの奥深さ、光の朗らかさを、祈りの
なかで覚えて欲しい。それは元々、我々
人間のなかにあるものだ。君のなかにも
あるのだよ。(疑ってはいけない)
 人のおもいを澄ませていれば、その時、
人は自然に光になってゆく。光という
ものは、闇を照らして心と心を結ぶものだ。
 そしてその心は、僕にも通じているのだよ。

 この頃僕は、人生の真実ということを
考えている。真実に人生(天命)を走り抜く
ということは、人の力だけではできること
ではない。その背後に、守護霊、守護神が
あり、神の愛があり、ゆるしとみちびきが
あって、はじめて走りとおせるのだ。
 けれど、ここで僕は、へんに宗教の話を
したくはない。人生の真実を完うしよう
とおもえば、やはりやさしさなのだよ。
 どれだけのやさしさを人から受け、
より以上に人に返してゆくかという
ことなのだ。宗教などという面倒な言葉より、
ただ、あたたかい、やさしい雰囲気を持った人
として生きてくれる方が、僕ははるかに
うれしい。宗教にもとらわれずにいてくれ給え。
 世界平和の祈りは、そして僕は、そうした
君の助けをしてゆくわけだけれども。

 やさしさというものは、人の痛みを
覚えているとやさしくできるものだよ。
 相手に身をおくということだ。僕は
それをずっとやってきた。地上での六十余年は
その連続だった。そして、今もそうしている。
 やさしさの極みは神の愛だ。しかし、
神の愛を仰ぐ僕らのやさしさを目ざす旅は、
これでいいということがない。お互いに、
自己の本心をかがやかそうではないか。

 僕が今、寂しさの中にいることを、君は
承知してくれていることとおもう。この
寂しさも、真理の前に一瞬にすぎるもの
だとはおもう。しかし、寂しい。それは
僕が認められないからではなく、人が
神の愛のなかに素直に溶け入るため
には、どれほどの時をついやさなければ
ならないのかということを観じ切った上での
寂しさだ。こんなことを書くと、君は
困るだろうか?

 僕が神界に帰って、より人間らしく、
生き生きと、人のこころを持って生きて
いることを、僕は伝えたくて
たまらないのだよ。僕だけではない。
 人はみな、こんな風に生きているものだ
ということを伝えてゆきたいのだ。そうする
ことで、みんな本当の意味での安心を
得られるのではないか。五井先生だから
できているのではないのだよ。君も僕と
おなじなのだよ。すなおであって欲しい。
 よろこびにも悲しみにもすなおであって
欲しい。僕に遠慮する必要はない。背のびを
する必要もない。神様にかっこうをつける
必要はないのだからね。

 言葉は言霊だ。光がとびかっているのだ。
 言葉に光をやどすのではなく、元々光が
言葉になっているのだよ。又追伸をかくかも
知れないが、とりあえず、この短信を
おくることにする。ほがらかに生きて
くれ給え。
            昌 久

短 信(11)

2014-03-23 05:54:06 | 祈り
 拝復
 今あらわれている子孫の人々は先祖の陰徳を
受け、守られて生活しているのであります。
 つまり、我々の生命というものは、先祖
という時間も空間もはなれた人々を別個に
持っているのではありません。

 わかります?みんなが先祖、みんなが子孫
なんです。先祖の中にはだから自分が大いに
入っているわけで、よくみんな先祖供養しないと
罪が深くなるばちがあたるといいましょう。

 けれども、先祖は自分なんですよ。人間の
いのちというものは、生きとおしの生命
なんだから、先祖の中に自分がいたって、
ちっともおかしくないわけです。

 で、こういう人間にとって何が大事か
といえば素直ということです。

 素直というのは、弱い、何だかわからない
というんじゃありませんよ。弱さじゃない。
 本当の弱さというものが極まれば強さに
なるんだ。

 真理の他には、何物にも動かされないという
強さになってゆくのであります。素直な純な魂は
光そのものなのであります。

 今を大事にして、そして明日をのぞみながら
生きていって下さい。

 私はいつもあなたを見守っています。
                昌 久

短 信(10)

2014-03-22 05:52:05 | 祈り
 僕は君の日々の祈りを受けながら、切なく、
すまなく思うと同時に、君の素直さをめで、又、
感謝していたのだよ。

 神にむかう心で一番大事なものは、
子どものような無邪気さであり、子が母を
慕うようにそのふところに飛び込む純な心
なのだ。

 君は感じすぎて、かえって思いを言葉に
出来ないところがある。

 そういう君の僕に対する甘えであり叫び
であっただけに僕の心は痛んだのだ、よく
生きてきてくれた。

 君の人生の中で幾つかのやり切れない
思いや、辛さを自分の中に大事にしまって、
明日というものを見つめて生きてくれた
ことを僕は何よりも嬉しく思い誇りに
思っている。人の気持ちがわかるという
ことは、その人間を深くするが同時に
大変辛いことでもある。

 僕は君の子どもの頃から、人の心に感じ
すぎて、返って無表情に立ちつくしている君に、
何とか早く僕の所へ来る方法はないものか
と考えていた。

 過去世で君は僕の弟子だったのだから、
つながらない筈はないが、子どもの頃からの
君を見ていると、僕の一人の人間としての
感情は、何とか早くと思ったのだ。

 君が、人を恋しがる人間だということは、
僕が誰よりもわかっているつもりだ。その
恋しがるという感情が、単なる甘えになっては
いないことも、合わせて僕は知っている
つもりだ。であればこそ、君には、君自身が
大事に育み、そだててきたものを土台にして、
その上にさまざまな可能性を試して欲しいのだ。

 僕は決して一人の人間を甘やかすつもりは
ないが、君の御家族よりも僕が一番君の本当の
すがたをしらされ、又、知っている人間だと
自負を持っているからこんなことも書くのだよ。

 少しは人間に慣れたかい、他人に慣れたかな、
まあ、しかしゆっくりやり給え。

 君は時々、僕の所に遊びに来てるんだが、
覚えていないかな。

 一年一年、年をかさねると、誰かしらを傷つけ、
追いつめて、考えれば僕らはその犠牲の上に
生きているといってもいいすぎではない。
 しかし僕がいつもいうように、生命の流れ
というものは本来、ほがらかで明るいものだ。
 傷つき、傷を負ってあるいは傷を
負わせることは、人間にとって深い痛みに
ちがいない。しかし、それを必要以上に
自分のせいだとか自分の責任だと思いすぎると、
せっかく守護神や守護霊や僕が用意した運命を
せまく暗くしてしまうことになるんだ。本当は
僕は、こういうお説教じみたことを、こうして
君に書きのこしたくはない。君という人は、
一生懸命考えすぎて、背負ってしまうところが
あるから、なるたけなら言葉にせずに、小さな
運命のつみかさなりを君の前には贈りたいのだ。

 しかし、あまり色々考えて、自分の運命を
自分勝手な箱の中にとじ込めておくのは、
どう考えても、面白くないじゃないか。

 だから、忠告めいたことをここに
つけ加えるのだ。

 このことは、君のこれまでの時間をずっと
みてきての僕の大きな希望でもある。

 僕が考えに考えて君のそばに置いた友人は、
そういう君と僕との希望を無理なくかなえて
くれると思っている。

 悟る前の僕は、寂しいところのある
ロマンチストだった。いつも真理を求めて、
悟ったと思う直前でその喜びが破られた
ことがしばしばあった。僕の孤独、それは
大勢の人の中にいて、自分がひとりだと思う
瞬間を消し切れぬ種類のものだった。

 人は誰でも好んで孤独を求める者はいない。
 けれども、親しい(家族を含めて)人達の中に
いて、忽然とひとりのおもいが湧き上がってくる
あの瞬間の孤独の深さを僕は覚えている。それが
詩になり、音楽になったのだ。

 君をみていて、僕は僕が若い時に感じ切った
孤独を想ったのだ。そして、同時に、その孤独を
生かし切るだけの魂と愛とを、神が備えて
下さったことに僕は感謝したのだ。

 こういう手紙だからいうが、実際、嬉し涙を
流したよ、僕は。

 生きるということは大変だ。

 出会うことも別れることも、これは、これを
上手くやろうとすれば、人生にとっての
一大事業だ。

 しかし、かっこうだけはつけずに、君らしく、
どんな出会いにも別れにも心を対じして
欲しいのだ。

 僕のいつもいう素直というのは、こういう
ことだ。

 自分を愛し、人生を愛する。その愛し方は
さまざまでも、かっこうをつけて本音を
出さないというのでは何もならない。

 神の世界は理想の世界ではない本質の
世界なのだ。

 自分の本当の姿をみきわめる勇気が、
この世において大切なのと同じように、神の
世界ではすなおな本音を出して生きることが
最も大切なのだ。

 僕は今、光の中にいて、一人一人のおもいを
光にしてかえしている。けれど悟る以前の
僕の気持ちや性格というものは、一人一人と
調和するために僕の中にのこっている。それは
決して脱けがらではないんだ。

 僕は愛程大事なものはないといつも説いて
いるけれど、愛程、深くてすばらしく、反面で、
重く、やり切れないものはない。僕はずっと
個人相談をしてきて実際そう思うよ。

 けれど、それは、愛がやり切れないのではなく、
家族や恋人や友人や、あらゆる人間関係の中で
おこる重苦しさや、やり切れなさがたえられない
のであって、愛そのものは、輝やいているもの
だけれども、しかし、会うべき人には早く
会って、愛し合いたいと思うのが、人間の
いつわらざる心情だろう、僕は宗教家では
あるが、こういう人間の自然な心の移りぐあいを
決して馬鹿にはしていない。人の心というものの
すぎゆきや、移り具合いを、知らなければ、
どうして宗教家などといえるだろう。

 君はいつか、僕が「白光であることを
忘れなさい。」といったことを覚えて
いるだろう。あの時僕は、宗教というものに
とらわれて、自分自身も、ごくあたり前の
気持ちを持つ人間の一人だということを
忘れ果てて、ただ、しゃにむに、神や仏を
とく人達が、この世間にはどんなに大勢いて、
又、それが、どんなに大きく深いあやまちを
与えているかという事実と真実に無関心な
人々が多いことに歎きといきどおりとを
覚えていたのだ。

 白光の会員のみんなは勿論、ずっと君という
人間をみてきている僕としては、是非とも、
まわりのみえない誤った情熱を心に
うえて欲しくはなかったのだ。

 君はかって、
 宗教というものが、なくならなければ
(言葉が)駄目じゃないかとかなしんだことが、
あったけれども、人間の心がみんな本当に
平和になったら、その時、宗教というものは
御役御免になるのだ。

 神の世界は完全平和だ。僕はこのことを
知らせる為に修行をし、生まれてきた人間だ。
 しかし、僕は同時に一人の豊かな人間であり
霊止(ひと)でありたいと思うのだよ。

 どうか、心を豊かに、君が将来に備えられ
与えられた時間をすごしていって欲しいものだと、
師というよりは、一人の人間五井昌久として
心から願うものだ。

 この頃僕は、祈りは静かな魂、本体の
よろこびだということをしみじみ思う。それは
年をかさねるに従いこちら(神界)へ
きてから益々深くなった思いだ。神にいのちを
返した僕にとって、祈りが自分の本体の
よろこびであることは真理そのものだった。
 けれども、今僕がここに書いた静かな
よろこびは、霊体や霊覚では味わえないものだ。
 神様という愛の根元に出会って、一年又一年
とすぎ人間の心に湧いてくるそれは、しずかな
よろこびなのだ。ここで僕がよろこびといった
わけは、人が祈るその動機にはおそれや
かなしみがあることが多い、じゃあそういった
生な人間の声をとどけた祈りというものは、
よろこびなのかということになるんだが、実は
これはちがうんだ。祈りは神(光)への
エレベーターなんだよ、祈りそのものは
浄めだから決して想いに染まるということは
ないんだ。この真理が、一日一日、一年一年と、
僕の心の中でより確かな重さと位置を
占めはじめたと了解した時から祈りは
しずかな心(本心、本体の)よろこびだと本当に
深く心におもいがふき上がり僕はこうして、
いのちをいただいていることを、真実神に感謝
したんだよ。

 一年一年本当のよろこびや涙というものは
静かで、又深くなってくる。しかし、君のように
若い人には、精一杯、今を生きてもらいたい。

 つまらぬことをくどくどとかいた。

 どうか元気に、朗らかに。

 僕はいつも君を守っている。それでは。