宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

肉の身の おもいを捨てよ

2019-11-05 11:27:20 | 祈り
あなたの
こころに
たずねよ
何が
正しくて
何が
よこしまな
ことであるかを

迷い出でなば
ただちに
こころに
おりよ
こころに
おりてゆくほどに
こころは
光の世界である
ことが
わかるだろう

しずかに
しずかに
神の前に
ひたすらなる
祈りを
ささげている
あなた自身に
出合うだろう

そのからだは
光にみちて
一点の
迷いも
惑いもなく
ただ
神への感謝と
とこしえの
いのちの流れへの
深い
祈りが
あるばかり
ちっぽけな
おもいは
光の
あなたの
前に
うちくだかれて
しまう

あなたよ
こころに
おりた
あなたよ
正しきものも
よこしまなるものも
そうした
一切の
とらわれや
人の
おもいを
超えた
愛とゆるし
こそが
大調和という
神のみこころの
源では
なかったのか

こだわり
とらわるる
肉の身の
おもいを
捨てよ
そして
そのまま
世界平和の祈りを
行じてゆこう

あなたは
今日から
私とともに
光かがやく
いのちと
なるのだ
     昭和62年2月2日

自分を愛し 人を愛する

2019-11-04 09:56:01 | 祈り
人が
人を
愛すると
いうことは
心と心
本心

本心

あわせて
自分のなかに
ある
また
相手の
なかにある
さわりのない
ひかりそのものの
いのちを
愛する
ということなのです

神は
人間を
愛するように
つくられている
のです
愛し
愛される
よろこびを
知るもの
それが
人間なのです

心は
本心は
いのちの
本源から
放射される
かがやくばかりの
神の人間に
対する
愛念を
送って
人の
愛の
おもい
愛の
はたらきを
つよめ
たすけるので
あります
愛することが
仕事
なのです

辛いことも
ある
怒りに
ふるえる
ことも
ある
けれど
それらは
みな
愛する
こころ
愛される
よろこびが
つよめられるための
過ぎゆき
消えてゆく
姿なのです

本当に
自分を愛し
人を愛するには
人は
大いに
傷つき
傷つけられ
血をながさなければ
なりません
そうすることに
よって
真実に
よわさを
持った
人のこころを
身に沁みさせる
ことができるからで
あります

誰も
傷つきたいと
おもう
人は
一人も
いないけれど
傷つくことに
よって
傷つくことの
かなしみを
傷つけられる
ことの
寂しみを
深く知ることが
できるのであります
人に
また
人の心というものに
やさしくなる
ことができるのであります

傷つき
傷つけられる
ことを
おそれて
ただ
自分を
高みにおき
神を
よびつづける
というのは
それは
おかしな話です
魂の
進化に対する
うえかわきに
目を閉じて
ゆくことになるのです

こころを
深くすること
どこまでも
どこまでも
朗らかな
本心の光を
たずね求める
旅を
消えてゆく
姿と
世界平和の祈りを
行じつつ
おこなう

日々の
一瞬一瞬の
自らの
気持ちの
移りかわりにも
やさしく
目をそそぎながら
いかなる
苦をも
いかなる
いたみをも
ただ
神様
ありがとうございます
という
感謝の
祈りに
かえて
自分を
人を
自らの
魂を
したいよる
人々の
魂を
ともに
神の愛に
ゆだねて
祈りのうちに
歩いて
ゆくこと

愛し
愛されるよろこびを
そこから
感じ切り
また観じ切って
日々を
生きてゆくこと
これこそが
祈りの光に
てらされた
私どもの
また
すべての
人々の
真性であり
本来の
姿なのであります

ともに
神の愛と
神への愛という
二つながらの
光を
受けつつ
すすんで
参りましょう
        昭和62年2月2日

やさしさは 神のこころ

2019-11-03 08:05:31 | 祈り
すなおな
心は
神からの
贈り物
人は
神の前に
すなおに
なって
はじめて
真実の
自分を
あらわす

真実の
自分の
かがやきを
知らされた時
それが
どれほどの
光に
つつまれた
ものであるかと
いうことに
人は
おどろきの
声を
あげるだろう

だが
あなたは
かがやいて
いるのだ
人間は
かがやく
いのち
ひかり
そのもの
なのだ

その光の
源は
自分と他人に
対する
やさしさ
どこまでも
どこまでも
やさしい
気持ち
これこそが
神のこころ
なのだ

世界平和の祈り

どんな
時にも
あなたを
やさしくする
たとえ
怒りが
こみ上げて
いても
涙が
胸を
ふさいでいても
いつか
やさしい
光で
みたしてゆく

神は

人間にとって
何が
一番
必要であるかを
知って
おられるのだ
それは
あくなき
やさしさ
そのやさしさの
かたまりである
そのやさしさを
あらわさずには
おかない
世界平和の祈りを
神は
この私に
しめして
下さった

ああ
世界平和の祈りよ
この祈り言のなかに
すべての聖者の
悲願と
神の
愛と
人間の
本来もっている
心とが
一つとなり
光にみちていることを

あなたがたに
伝えよう

すべての人の
こころを
鎮め
本心の
光を
あらわす
霊妙な
神の
計画が
すべての
宇宙に生きる
人類の
一人びとりを
愛と
平和の
気で
満たし
大調和という
みこころの
完成を
目ざして
おられる
神の
みこころが
私を
つらぬいて
やまないのだ

人よ
あなたがたは
光を
持った
神の
いとし子
すなおに
すなおに
神のみこころの
前に
ぬかずき給え
       昭和62年2月1日

心について

2019-11-02 23:40:29 | 祈り
人間というものが、他とちがうということを
考えて参ります時に、何が一番ちがっているか
と申しますと、それは、心を持っているという
ことでありましょう。

よろこび、かなしみ、いかり、なげき、寂しむ。

心というものは、その折々に、私どもの
相(すがた)をうつして、正直なあらわれを
示すのであります。

ところで、この心というものが、どれほど深く
また広いものであるかということについては、
全くといってよいほど、知られておりません。

それは、たとえば、よろこびですとか、かなしみ
という、海で申しますなら、海の波が静かであるか、
あるいはさわだっているかというそういう
ところだけをみて、ああ、今日はおだやかだ
とかですね、一寸あれているなとか、判断をして
しまいがちなので、なかなか心というものの
深さが、私どもには伝わらないのであります。

ここにいうよろこびとか、かなしみとか、
普段私どもが、心だとみているものは、実は
気持ちの働きでありまして、海でいえば波に
あたるのであります。
それで、心というものをたずねて参りますと、
実は、ずっとずっと深いよろこびとか、
かなしみとか、迷いとか、とにかく
一切そういう波に惑わされない、
明るい大円光にたどり着くのです。

自分という人間の奥に、こんな明るい世界が
あったのかとおどろく程、そこは明るい。
なぜなら、そこは、神のこころの世界だから
であります。

人間というものは、いつも私が申します
ように、神の分生命(わけいのち)、神の
分霊(わけみたま)。
神のこころが人をつくり、人に分かれ、
この地上で、極みない神の愛のすがたを
あらわすべく存在しているものなので
あります。

ところが、想念というおもいの世界が、この
あらい肉の世界をおおっておりまして、
そのために、先程申しました海でいえば波に
あたる部分を、まさしく自分自身だと
勘ちがいして、永い間生きてきたのであります。

私は、さっき、気持ちの働きと申しました
けれども、これだって「気」を持つ--つまり、
ゆったりとした明るい、何物にもとらわれない
神の「気」が、私どものなかに流れ込んで
心をつくっているということでありまして、
本当のところ、気の流れを受け、気の流れの
ままに生きる、活かされているというのが
人間の真実の姿なのであります。

言葉をかえていいますと、お任せする
ということですね。

何に任せるのか?
人に任せるんじゃありませんよ。
こういう心を送って下さっている神に
任せるんです。
もっといいますと、こういう心に支え
られている自分の奥に存在する神様と
直結した自由の天地をたたえるのであります。
そして、この天地と直通の道路を、気持ちが
走るために与えられているのが祈り、世界平和の
祈りなのであります。

どうぞ、私どものおもいの一つ一つを大事に
して、よろこぶ時にはよろこび、かなしむ時には
かなしみながら、しかも、与えられている気の
働きを深めるために、こうした心を深く
するために、世界平和の祈りを日々瞬々祈って
いただきたいと思うのであります。
          昭和62年2月1日

心 かがやかせて

2019-11-01 05:09:04 | 祈り
心というものの
広さを
何に
たとえよう

宇宙をも
つらぬいて
愛と
やさしさの
光のなかに
大神様の
みこころの
なかへと
まっすぐに
入り込み
みこころと
一つになって
大円光と
かがやく

心というものの
かがやきを
そのとき
人は
はじめて
しらされるのだ

今まで
おぼろ気であった
分生命(わけいのち)
分霊(わけみたま)
としての
おのれを
支える

本心の
かがやき
やさしさと
愛にささえられた
とてつもない
広さを
知るのだ

人をみちびき
永遠の
いのちの
ながれへと
歩みを
はこばせる
こころの
広さよ
このこころが
神からの
贈り物である
ことを
気付かせるために
守護の
神霊たちは
天地自然に
愛と
美と
真を
あらわす
多くの
ものを
そなえたのだ

空のあおさも
また
極みなく
たかく
澄みゆく
大気も
ひとひらの
花弁を
ゆれさせる
風のやさしさも
みどりの
ゆたかさも
みな
この
神からの
贈り物である

こころを
あらわして
やむことが
ない
何かしら
天地自然に
対して
湧き上がる
感謝の
おもいを
人が
おさえることが
できない瞬間
というものが
ある

そのとき
人は
このこころと
いうものに
耳をすませて
いるのだ
心耳を澄ます
よろこびに
しずかに
ひたっているのだ

肉体は
それほどの
思いを
持たなくても
あなたの
奥の奥の
光体は
心耳を
すましはじめた
心に
よろこび
ずっと
深く
本心へと
あなたを
くだらせて
光そのものの
あなた自身と
対面を
果たさせようと
しているのである

いや
すでに
あなたは
光の
あなたと
会っている
世界人類が平和でありますように
という
祈り言の
なかに
出会って
いるのだ

光を送る
私は
肉の
あなたと
光の
あなたとが
瞬時に
合体し
まばゆいばかりの
光につつまれて
祈り言のなか
神の
愛を
からだいっぱいに
受けているのを
日々
みているのだ

そのとき
こころは
いかばかり
ふるえることだろう
こころは
歓喜にみちて
ふるさとである
神の愛と
ゆるしと
智恵に抱かれ
天地を
自在にかけめぐって
本心本体の
光を
神に
むすぶのだ

こころは
あなた自身を
みちびいてゆく
こころは
あなた自身なのだ
こころ

本心
光そのもの
あなた自身なのだ
         昭和62年2月1日