宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

さやけき生命(8)

2021-02-23 09:21:33 | 祈り
     (前日からの続き)
自分が生きているんじゃないんです。
我々は生かされているんです。
そのことを皆んなが忘れてしまう。
すべてが神様の器であって、もう神様に
預けてしまえば、そこから、その人の
個性を使って、声を使って身体(からだ)を
使ってね、その人のそれなりの働きが、
神様から、お前これをやれ、あなた
これをやって下さいというのが出て来る
わけですよ。
だけど、自分なんかどうも働きが
うまく出来ないとか、うまく印が組め
ないからどうしようとかで焦る。
焦るのは自分がやろうと思うから焦るのね。
自分というのを消していく。
自分というものが消えていった時に、
ただあるものは神様の光だけが残る。
我々は光なんだから、光というのは自在
なんだから、自由なんだから、その自由な
生命のままに動いてゆけば、何事も
出来るんです。
神様がなさしめて下さるわけですね。

ですから、私がやろうと思ってはいけない。
私が責任を負おうなんて思わなくていいんです。
そんなものは神様の方で、五井昌久という
人間を通してなされる。
「お前、人類の業を背負え」と言われて、私が
負ったんですから。
もう歯をくいしばって、目をむいて、そういう
ことをやる必要は一切ない。
四次元の光も降りたんだから。
まだ追いかけて、業を背負うなんてことは
しなくていい。
ただ、その人が受け持たなきゃいけない宿題
というものはありますよ。
固有に消してゆかなければいけないものが
来るかもしれない。
痛みとして来るかも知れない。
あるいは、生活不安として来るかも知れない。
しかしそれは、あなたがあなたの借金払いを
しているんですよね。
          (つづく)

さやけき生命(7)

2021-02-22 08:29:28 | 祈り
      (前日からの続き)
世界平和の祈りというのは、地球人類だけ
ではなく、宇宙にいる人類すべての、星々
すべての、ふるさとの祈りなのです。
肉体だけで祈るのでもなく、霊だけで祈る
のでもなく、全体が祈るんです。
言葉だけで祈るんじゃないんです。
想いも何もかも、波動全体で皆んなが光って
祈っている。
私が祈っていると同時に、私だけではなく、
私から広がって、あらゆるすべてのものが
祈る。
そういう祈りになってゆくわけですね。

だから、この世界平和の祈りというのは、
非常に広大無辺なものなんです。
どこからどこまでがどうの、どこからどこ
までが光るとか、これ祈ったらどうなるとか、
そういう小さなことなんていうのは、
私の神様は相手にしない。
宇宙神の広大さなんて、そんなものではない。
私たちなんかの一つや二つの生命を使っても、
それでもまだ、もっともっと大きなことを
なさる。
そんなものですよね。

生命を捨てざれば生命を得ずというのは、
それなんです。
捨身になって神様を信じ、本当に信じるところ
から出発する時に、光はサーッと入って来る。
信じなきゃ入らないかというと、そうじゃない。
信じないところにも入るんだけれども、より信じて
よりゆだねて祈る時に、神様から来る光というのは、
素直に自分の心へ入って来る。
そのことによって、我々の道が生かされてゆく。
生きるわけではなく、生かされてゆく。
        (つづく)

さやけき生命(6)

2021-02-21 07:39:26 | 祈り
     (前日からの続き)
自分だけが光る祈りじゃないんですよね、
世界平和の祈りというのはね。
尽十方(じんじっぽう)に広がり、強烈で
やわらかく、祈ってる人も祈られてる方も
光になって、敵も味方もなくなってというのが
世界平和の祈りですよ。
そういう祈りを常に口ずさんで呟いて、
身体の中に入れてゆく時には、もう自分の
身体だか神様の身体だか、身体が有って無い
ようなね。
本当に把われがなくなって来て、神様の久遠の
光と一緒で共に生きている。
自分の中に光が流れ込み、その光に支えられて、
神様に支えられて我々は生きているんだなあ
ということを、これを悟らせて下さるのが祈り
ですよね。

それで、何のために祈るかというと、やはり
自分の生命が輝くために祈る。
自分の生命が輝くというのは、エゴイズムの祈り
じゃないんです。
自分の生命というのは、神様から流れて
来ているもの。
神様の奥の奥の生命と、自分の生命とが
一体なんだ、共にある生命なんだと思って
祈る時には、両方輝くわけです。
肉体界も輝くし、幽界も霊界も天界も全部が輝く、
すべての世界が輝く。
目に見える世界も目に見えない世界も、すべてが
輝いて、すべてが赦し合って、すべてが大愛の
世界になってゆく。
本来我々が、そういう世界の住人なんです。

そこへ目指して行くんじゃないんです。
そこへ帰るんですね。
その世界から我々は来ている、地球へやって来て
いろんな仕事をしている。
元々が光っているわけです。
光ってるけれども光っているなんて到底思えない
ような、様々なことがあって、苦しみがあり、
どうしようもないいろいろなことがあって、最後に
ふるさとである世界平和の祈りのところへ、皆んなが
今、たどり着いてきた。
             (つづく)

さやけき生命(5)

2021-02-20 08:48:24 | 祈り
     (前日からの続き)
例えば、自殺をする人がいるでしょ。
入水する人もあれば飛び込む人もある。
いろいろな苦しみもあるけれども、そういう
自殺ではなくて、実際に捨身(しゃしん)をする。
自分の身を捨てて、自分が光になって、業を消す
というかたちの自殺もある。
つまり、神様に押されて、守護霊様に押されて、
守護霊様の光によって霊界に転出するという、
その死もある。
これは人間の智恵では分かりかねる。
たとえプラットホームからボーンと飛び込んで、
肉片がいっぱい散って顔もわからない状態になった
としても、本人が本当に悲しみ嘆いて自殺する
場合と、そうでない場合とがあるんです。

なんであの人がと思う人が不幸になったり
死んでしまったりね。
あっという間に居なくなったりする時には、
何かしらの神様の方のおもんばかりが後ろで
働いている。
だから、自分がやろうと思わないことです。
自分の生命だと思わないことです。
神様から流れて来ている生命だと思うことです。

「久遠の光、神と共に」と書いたのは、久遠の光
というのは、消えることのない絶えることのない
光ですよね。
これが、我々のこの身体(からだ)を貫いて
流れている。
そして、この光というものは大宇宙につながって
いる。
宇宙神のみこころにつながってる。
その大愛につながってる我々というものを、
自分の中で、そうだそうだと本当に思おうと
すれば、これはやっぱり祈るしかない。
何でもいいけれども、我々は世界平和の祈りに
つながった。
だから、世界人類が平和でありますようにと
祈ってゆく時に、皆んながそこで光になる。
         (つづく)

さやけき生命(4)

2021-02-19 10:43:12 | 祈り
       (前日からの続き)
世界平和の祈りというのは、そんなものではない。
世界平和の祈りというのは、皆んなが光一元の
生命ですよ、本当は皆んな迷ってないんですよと。
でもそれを言ったら、じゃあ迷った人は
救われないのか、迷ってるあなたが悪いんだという
ことになると困るから、それは消えてゆく姿ですよ、
大丈夫ですよと皆をこうして連れて来たわけです。

だけれども、今地球の進化のスピードが非常に速く
なって来ている。
そこに肉体人間が肉体つけたままで、その進化の
スピードに合わなきゃいけなくなっている。
速度を合わせなきゃならなくなって来てる。
だから、そのずれがあるから非常にみんな辛い。
個々の運命というものも、ハイスピードで
良くなったり悪くなったり、揺れもどしが来たり、
地震が来たりと、現われては消え、現われては
消えている。
今まではゆっくり歩いてよかったのが、ちょっと
少速歩になったり、強歩になったり、ある時点では
走ったり、小走りになったりしなきゃいけない。
今までそんなこと無かったから、一体どうなって
いるんだろう、どうなるんだろうなんですよね。

雲仙でもそうです。
あれもやはり一つの現われですね。
地球を本当に浄化して霊化させてゆく。
肉体波動なんか持たなくても、霊体で行ったり
来たり出来るくらいの地球になってゆくわけで、
雲仙の噴火で亡くなられた人たちの本体は、それを
知ってるんですね。
でもそんなこと言ったって、残された人たちは
たまらない。
            (つづく)