宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

さやけき生命(3)

2021-02-18 23:16:09 | 祈り
      (前日からの続き)
光というものは、どんなにでも働くんですね。
神様は光の元の元です。
神様というのは、どんなふうにでも人に
現われて来る。
その現われて来る時は、いい現われかたばかり
ではないんです。
非常に手の込んだ、もって廻った現われかたも
あるのです。
悪役も一人や二人置いといて、喧嘩をさせたり、
いろんなことさせたりして、神様が何故
こんなことまでされるのか?というような体験を
させて、人間の出来をもっと上にあげようとする。
だから光によって全部ワーッと良くなるかというと、
そうでもないんですよね。
それは御利益信仰と同じことになる。

ですから、ごほうび上げますよと言われたら、
その通りのものがポンと来ると皆思ってしまう
でしょうが、その人は何十生何百生何千生かけて
やって来た、いろんなことがあるわけですね。
いいこともあるし、悪いこともあるし、
過(あやま)ちもある。
それらが混合されて、生命の糸をつむぐように、
今いろんなことに現われて来ている訳でしょう。
その中で人間が、消えてゆく姿の中で、ただ
一つの光の自分を見つけていくためには、
ものすごい苦労が要るわけですよね。
だから、要らないものはもうけっこうですと、
もう辛いことはけっこうですと言いたくなる。
みんな言いたくなる。

ところが、その人の前生に借金がまだ払って
いないものは残っているんですね。
四次元の光が降ろされ、世界的にも個々人にも
いい方向へ行くんですが、ただその人が固有に
自分で消さないといけないものは、やはり皆、
それぞれに持っているわけで、その分だけは
なんか苦労がまだあるなぁーという
感じなんですね。
しかし、神様は平等だから、絶対に皆んなを
幸せにするんです。
だからそこに信を置けば、どんなものが来ようと、
たとえ自分が八つ裂きにされようと、そこで
「ありがとうございます。」と言って死ねるん
ですが、そういうわけにはゆかないのが
人間ですね。
何でこんなものが自分のところへ来るんだろうと、
御神水も飲んでるし、富士にも行ってるし、
いっぱい愛行やっているのに、いろんな活動も
やっているのに何故なんだと。
これは、御利益信仰になってきたら、うちの
信仰はだめだ。
           (つづく)

さやけき生命(2)

2021-02-17 05:42:59 | 祈り
       (前日からの続き)
ところが皆さんは、祈ってゆくんだけれど、
生活というものがあって、経済というものがあり
雑事があって、また、肉体を持っているから、
食べたり飲んだりしゃべったりしなくちゃ
ならなくて、雑事を片付けてるひまに、祈り
というのがどこかへ行ってしまう。
本体は祈ってるんですが、肉体の方は雑事を
優先してしまう。
本体は、肉体の我々がどんなに雑事にまぎれて
いようが何していようが、祈って祈って
祈り抜いているんです。
見えていないけれども、ずっと祈り抜いている
わけですね。
だからその祈り抜いているいのちというものが、
常に神様と出会っているし、神様と話を
しているし、神様といろんなことを語り合って
いる、呼び合っている。

そうでないと人間は生きてゆけないんですね。
我々のもとのもとは、神様の愛によって
生かされているわけで、その清(さや)けきいのち
というのは、自分の中にあるんです。
自分の中というのは、肉体の中という意味じゃなくて、
自分の本体、神様から分けられて来た光の中に
あるわけですね。

そのことを知っている人は少なかったんですが、
今はもうそんなことを言ってる場合じゃなくて、
いろんな人が印を降ろしたり、光を降ろしたりして、
実際に我々が神様のもとにある生命なんだと
わかってきた。
我々のいのちの親というものが神様であって、
その神様の大宇宙神の目指しておられるところは
大調和であり大愛であって、我々は大愛の子
なんですよね。
大愛の子というのは敵も味方もない。
大愛の子のみんなが、世界人類が手を取り合った
時には、真実の平和が築かれていかないと
うそになる。
そこで争いなんか起こって来たらこれはもう
うそになるんですね。

それでも起こって来ることがある。
つまりそれは、平和の祈りが足りないからだと。
足りないというのは、平和の祈りそのものは
輝いているし足りているんですよ。
ところが、そこに想いを向ける自分が足りない。
肉体が悪いわけではないけれども、何が
足りないのかというと、自分が肉体だけの
生命ではない、自分は神様の愛によって
生かされていて、神様から来たものであって、
その神様というのは、我々の大きな器を与え
光を満たして下さっている。
そういう時間が非常に少ない。
だから足りなくなって来る。

こんなんでいいのかと思う。
こんなんでやっていけんのかと思う。
月給が入って来ない、いろいろと
どうしようかなと思う。
これ全部消えてゆく姿ですよね。
たとえお金が無くても、光が入っていることに
気が付けば、お金なんてものはあとからついて
来るんだけど、人間というのは、やっぱり
生活してゆかなくちゃいけないから、お金が
無かったらやっていけるのかと思うことが
先にあって、光が入っていることには
気が付かない。
光を糧(かて)にしてゆくとお金が逆に入って
来る。
生かされているということを自分のサイフの
中に入れると、実際にこの肉体を養ってゆく
もとであるお金が入って来る。
逆なのね。
皆んなお金を求めて光を後にしてしまう。
         (つづく)

さやけき生命(いのち)(1)

2021-02-16 10:02:02 | 祈り
さやけき生命というのは、何ものにも
こだわりのないいのち。
こだわるもこだわらないも、光っている生命。
それはどこから来るかというと、神様から
来る。
それを我々はいただいている。
そのいただいているものが途切れないためには、
祈りの生活をしてゆかなくてはいけない。
いけないというよりも、祈ってゆかないと
生きてゆけないように我々の身体というものは
なってるわけです。
だから、祈ってゆく時に、我々は息をする事が
出来るし、魂も呼吸することが出来る。
霊も輝く事が出来る。
世界平和の祈りというのは、我々の肉体にも
霊体にも神体にも、すべての世界、三界にいる
我々自身に対して光を与えてゆくことが出来る。

そういうことを言っている訳ですね。
清(さや)けき生命というものは、神より来る
と言いましたけれども、神様と我々は、昔は
目に見えるかたちで耳に聞こえるかたちで、
感じるかたちで、手に触れるかたちで、縦にも
横にもつながっていたのですが、この世
というものが出来て、それで我々が地上に
降りて来た時に、肉体という衣をまとった時に、
だんだんとその粗い波動の中に入って行って、
そのことによって我々は、神というものを、
なんかひとつスリガラスを隔てたような、
そういうかたちで見るようになってしまった。

最初そんな遠いものではなかったのが、
だんだんと神様が雲上人になって、神様なんて
居るのかしらと。
人間世界の科学技術が発展し、哲学もすすみ、
肉体をまとった自分が自分だと思ってしまった。
そこから神と自分は容易につながらなくなった。

19世紀の末なんか、世紀末というような
思想が起こって来て、神は死んだなんていう
ことになって来たんですが、皆んながそれぞれに、
今また神様を求めることを、ブームみたいに
なっていますけれども、自分がどこから来たのか、
どうなるのか、こんなに今不安になっている
時代はありません。
なぜ不安になっているかというと、神様のことを
皆んな聞いたり求めたりするけれども、自分が
神様に守られているということを実感出来る
ことが、とても少なくなっている。
だから不安になるわけです。

神様の守りを実感するにはどうすればいいか
といいますと、これはもう祈ることです。
それしかないんですね。
祈って祈って祈り抜いてゆくと、光しか
残らなくなる。
これは真実なんです。
            (つづく)

朗らかに 永遠の進化の道を

2021-02-15 08:17:14 | 祈り
光というものが
すべてのあらわれのもとなのです
肉体人間の身体にしても
こまかい光波、粒子といっていい
光の粒が無数に支えているんです

で、もっとみていくと
ただそこには
神の智慧(霊)だけがあるんです
これを私は本心の光と
呼んでいます

霊があって
はじめてそれを人というのです
なぜなら人間は
神様の智慧(愛)によって
この地上に
つかわされたもので
あるからです

私どもは神の愛から分かれてきた
分生命(わけいのち)であり
分霊(わけみたま)なので
あります

人間の真実のすがたは
光であり 愛であるのであります
それは肉体人間だけをいうのでは
ありません
この世に
60年70年生かしめるだけの
愛ではない
人は神とともに
世界平和の祈りのなかで
宇宙と宇宙人類の進化のために
働きつづける器なのであります

みずからのこころをすなおにして
神に祈りをささげ
神をしたいつつ
この地球世界を愛と平和の気で
満たしてゆく
それぞれの持ち場で
世界人類が平和でありますように
と祈って下さるときに
我々は光となって
無数の神霊や宇宙の兄弟と
ともに働いて
いるのであります

世界を平和にし宇宙を平和にする
それは神のみこころである
と同時に
我々人間が真実希求
しつづけてきた祈りで
あります
世界平和の祈りのもとに
我々は本当の人間の姿
我々自身の姿を
しっていくのであります

世界平和の祈りを祈ることは
光に出会うことであり
自分自身にかえる
ことなのであります

私どもは私どもの
ふるさとである大元の
いのちと光
神の名をよびつつ
その愛のもとに世界平和の祈りを
なしつづけて
朗らかに永遠の進化の道を生きて
まいりましょう
   平成2年2月8日 記
     本当の人間 了

一人一人が 光の送り手に

2021-02-14 23:28:06 | 祈り
私たちのいのちは
ずっと宇宙と宇宙神のみこころにまで
つながり つらなっているので
あります
無限のなかで
私たちは生かされているのです

祈って祈って祈り抜き
すきとおるまでに
高い魂を持つ兄弟たちが
私たちのこの地球と地球人類に
光を送りながら
進化の行方(過程)を見守っているのであります
彼らはずっと前から光を送りつづけて
くれていたのですが
今や私たち一人ひとりの器をとおして
地球の浄化を
私たちとともに成し遂げ
宇宙神のみこころである
宇宙の完全平和にむけて
まい進してくれているのであります

私たちの器
それは
世界平和の祈りを祈りつづける
ときに
人間本来の霊光をあらわす
光明体としての私たちの器を
いうのであります

前にもいいましたように
人は
自覚せざる霊人であったわけですが
今日のように変化の激しい時代
まさにこの地球が
新しい時をきざもうとするこの時期に
あたっては
私どもは
霊(神の智慧の光)が私どもをみちびいている
私どもはその光を持っているのだ
という事実を自覚しつつ
世界平和の祈りを祈りつづけることによって
一人一人が
光の送り手となっていかねばならない
ときになってきたのであります
一人一人の想いと祈りがこの世界を
かえていくのであります

こう申しますとちっぽけな人間一人に
何ができるか
と多くの人は思ったようでありますが
それは人間というものを
肉体という不自由きわまりない世界でしか
生きないものとみるところからくる
思い込みでありまして
くり返して述べておりますように
人間というものは
そんなちっぽけなものではないので
あります

人間は
神の分生命(わけいのち)
分霊(わけみたま)であって
つねにその大愛と無限の世界から
光を送られているものであり
また同時に
神界霊界幽界にも存在して
働きつづけているものなのであります
つまり
人間というものは
自由自在な働きを
本来
その世界で
神の光をうけながら
なしつづけていくものなのであります
なしつづけているものなのであります

ところが
この肉体というものをまとううちに
肉体にまつわる我というものが
出て参りまして
本来肉体は
人間の地上での衣服であるにすぎない
筈だったのが
長年月の間に
業想念と光とが入りまじって
しまったのであります
そして
それを人間のすがただとおもい間違って
しまったのであります

そこで
この地上に生きる我々自身の長い間の
思い込みを払い
自分自身を残りなくあらわすために
すなわち
光明そのものの自分
永遠のいのちのなかに神を
たたえてゆく自分をあらわすために
祈りというものが
必要になったのであります

なかでも
消えてゆく姿で世界平和の祈りを
なしつづけて参りますときに
我々は
大元の生命(いのち)
光へとかえってゆくのであります

いのちというものがずっと神から
ながれてきて
私どもを養い
光(愛)が我々の智慧として
本心を照らしているという事実を
私どもはこの世界平和の祈りのうちに
しらされてゆくのであります
そうして
我々人間の本来の姿
愛と智と
祈りのうちに
朗らかに
生きとおして
神のもとへとかえってゆく人間の
すがたは
実に永遠に宇宙へと溶け入り
遂に
中心帰一
神の
大慈光のなかへと
みちびかれていくことを
しるのであります
   平成2年2月6日、8日 記