コモエスタセニョール&セニョリータ!!
酔いしれてみたいのよ赤坂の夜・・・
浅草キッド気取って捕鯨船で
泥酔中の川崎堀の内ゲイバー
「ホエールズ」ノブオママ(たけしファン)、
偶然居合わせた青空キュージコージ師匠の
「ゲロゲーロ」ギャグに爆笑しすぎて自分もゲロゲーロ(^^)
今日も浅草的ラテンチューンでトーヨーカン?
にお送りしまっす☆
さてさて、自粛お休み中は昔語りということで、
先週は僕の丁稚奉公時代、その始まりを書いた。
たかが2年、されど2年。
余りに濃い2年であった。
ダイバーといっても作業ダイバー、仕事の8割は地方の工事現場、
港湾、ダム、河川、造船会社のドッグ等、
現場から現場へと旅芸人並みの地方巡りであった。
宿泊施設はいわゆる現場内、
あるいは現場近くの「飯場」である。
いわゆる組み立て式、プレハブの宿泊施設。
基本寝泊まり3食付きなので、あまりお金を使わない、
使う必要がないのだが、明日をも知れぬ危険作業のストレスなのか、
刹那的な人種の吹き溜まりみたいな感じで、
飯場では常時花札、麻雀、相撲&野球と賭博となんでもありあり!
勝っても負けても酒と女に全財産をぶち込むような豪快な人が多かった。
泥酔して刃傷沙汰、地元の不良といざこざを起こして警察騒ぎなどしょっちゅうで、
最初の半年は、どうしたら逃げられるのか?
ということばかり考えていた。
「このままだと殺される」と思い必死だった。
イジメが現場でも飯場でもキツかった。
「おいサトシ、昼休みだから潜る練習すっぞ。ウエット着てこい」
と声をかけられれば、
「よし、仕事を覚えるチャンスだ」なんて
真面目に気合が入ってしまうくらいウブだったオレは、
先輩にとってはいじめ甲斐のあるカモである。
空気の入ってない空ボンベをこっそり背負わされ、
オーバーウエイト(ウエットスーツの浮力よりも重いおもり)を腰に巻かれて、
ドボン!と海へ突き落され、
レギュレーターから呼吸はできない、
オーバーウエイトで水中落下、
必死に泳いで浮上しようとして
足ヒレ履いてるのにバタバタやりすぎて両足首ねん挫。。
溺れる!!とウエイトベルトを外して今度は急浮上、
岸壁のコンクリートに頭から激突して脳震盪、
耳抜きする暇がなくて鼻血ブー!!
「先輩、ボンベに空気入ってないっすよ!!」
と抗弁しようが、
「あっそ、水深30メートルくらいのとこにスパナがあるから素潜りで取ってこい」
とか云って、取ってくるまで許してくれない、
みたいな虐待訓練が繰り返されるのであった。
丁稚仲間の中には、
耐えられずに辞める奴、逃げる奴、消える奴、沢山いたが、
逃げる意気地のないヤツは
いつまでもいつまでもイジメられた。
逃げずにやる。
とにかくやる。
そんな毎日を耐えて耐えて、
いつしか、当たり前になったころ、
「オマエ、結構使えるな」と仮免許取得の日が訪れる。
かわいがってくれる先輩がひとりひとり、増えていく。
仕事終わり、飯場の風呂場に溶接機を持ち込んで
先輩に水中溶接の指導してもらったり、
船の操縦方法、星や灯台の見方、
水中銃の撃ち方、ワカメの採り方、
何から何まで教わった。
酒、博打、女も全部その頃教わった。
費用も全部先輩がもってくれた・・・。
日給2500円でも、セブンスターひと箱、220円あれば生きられた。
そんな丁稚奉公が明けて3年目、
一人前として見習い期間は終了、
フリーランサーとして、プロダイバーとして独立する。
日給は基本25000円。10倍である。
そこに、水中溶接などの特殊作業、
大深度手当などのオプションフィーがつくので、
飯場暮らしで生活経費ほぼゼロ、
手元にまるっと100万近くの金が毎月入るのだから、
前記のような浮世離れした日常になってしまうのである。
勿論、バブル期の建設ラッシュも追い風だったかもしれない。
ベイブリッジにレインボーブリッジ、東京湾横断道路、
みなとみらいに関西空港埋め立て、仕事がわんさかあった。
若くて、怖いもの知らずで、自信過剰だった・・・。
大きな会社(新日鉄、川崎重工など)の構内の現場に入るときは、
必ず体力測定があったが、
背筋200kg、握力70kgあったのを覚えてる。
仕事で鍛えた鋼の肉体であった。
6mmのウエットスーツを着て10kgのウエイトを巻き、
ボンベを背負い、足ヒレを付けて一日中泳いでるのだから当然だ。
筋肉フェチの年上スナックママによくモテたものだ(ホント)
あれから30年・・・今じゃフニャチンだ。
情けない↓↓
キャネコサトシ