「さん」と「くん」
今日の朝日新聞「耕論」欄に、『「さん」「くん」隠れた意味』と題して3人の方のコメントが載っていた。わたしたちが日ごろ使っている呼称についてである。
まず、弁護士の土井浩明さんは、刑務官が受刑者の名前を呼び捨てにするのではなく、「さん」付で呼ぶよう法務省が運用を改めたことを紹介し、それが受刑者の人権尊重につながり、刑務所での扱いが「懲らしめ」から「立ち直り」に向かうことを期待している。
はじめて知ったことだが、この改正が最近のことなら、遅きに失しているというべきだろう。
哲学者の三木那由他さんは大学院時代にトランジション(性的移行)し、それに伴い友人が「くん」から「さん」と呼ぶようになり嬉しかったが、同時に「くん」と呼ばれていたのには親しみが込められていることに気付いたという。小学校ではジェンダー平等の一環として、だれででも「さん」付けで呼ぶようにしているが、その習慣が身につくこと自体は意味があると認めつつ、三木さんはそれが平等のための一工夫に過ぎないと指摘する。
言語学者の大島デイヴィッド義和さんは、ジェンダー中立の「さん」付けが増えていくだろうが、それがマニュアル的に使われるようになると本来の敬意をこめてという意味が失われるのではないかという。そして、「くん」、「さん」、「ちゃん」など呼称の多様性には隠された面白さがあるという。
自分のことを考えてみる。
農村地帯の方言の中で育ったわたしには、「くん」というのは都会の言葉で友達の呼称に使うことは考えもしなかった。しかし、東京から集団疎開の子供が来て、「くん」付けで呼ばれると、馬鹿にされてはという気持ちがあったのか、相手も「くん」付けで呼んだように記憶している。
教員だった時代は、男子学生は「くん」を、女子学生は「さん」をつけて呼んでいた。深く考えたわけではなく、自然とそうなったのだが、女子学生を「くん」と呼ぶと親しくなりすぎるような潜在意識が働いていたのかもしれない。ジェンダーの裏返しといえばいえるだろう。
男子学生は「くん」付けだったが、外から学位論文の審査を頼まれたような時には、相手を「さん」付けで呼んでいた。してみると「くん」には上から目線的な意味があったのだろう。
ブログでは、人名に「さん」をつけて書いていること多いが、例えば夏目漱石とか森鴎外のような歴史的な人物には呼称をつけない。しかし、同世代の著名人はなんとなく呼び捨てにできない。北島三郎さんであり、大江健三郎さんである。外国人は呼び捨てにしている。マリリン・モンローさんと書くことはない。
理由はと訊かれると答えようがなく、身についているとしか考えようがない。確かに呼称にはジェンダー的要素はあるだろうが、自分としては差しさわりがない限り、自然体で行きたい。
最後に、嫌な思い出を一つ。現役時代に役目上地域の賀詞交歓会に出席することになった。臨席の国会議員があいさつに立ち、その中で政府や党の重鎮の名前を何人も挙げ、ことさらのように「くん」付けで話していた。その時の「くん」という呼称への嫌悪感は今でも時折思い出す。
STOP WAR!