イースター島
NHKBSから放送された『フロンティア モアイの真実 イースター島繁栄と崩壊』をビデオで観た。昨年10月に放送されたものの再放送である。
以前ブログに書いたが、わたしは2001年の暮れから2002年の正月にかけて、休暇を利用してイースター島を訪れている。
番組では、二人の考古学者と地元の研究者らが行った研究によって明らかにされてきた、イースター島の歴史と、その中におけるモアイ像の意味が紹介されている。
イースター島はチリから3700㎞離れた文字通り絶海の孤島で、わたしが乗ったサンチャゴからの飛行便は、週3回の往復だった。
周囲は約60㎞。現在の人口は8000人である。
1722年4月5日にヨーロッパ人が上陸して、その日が復活祭に当たっていたので、イースター島(スペイン語ではIsla de Pscua)と名付けられた。本来の名前は、広い大地を意味するラパ・ヌイ。もっと古くはテ・ピト・ホテ・ヘヌア(世界のヘソ)と呼ばれていたそうだ。
島に人が住み着いたのは、1200年頃と推定されている。
島には千体以上のモアイ像が残されている。大きいものでは8メートル、200トンを超える。モアイの製造場所はわかっていて、作りかけのモアイ像が残されている。ここから一番遠いところまでは14㎞あり、その距離を運ぶ方法には諸説があったが、番組では綱を操ってモアイを歩かせる方法が紹介されていた。
作りかけで放置されたモアイ
運ぶ途中で放置されたモアイ
ちなみに、日本は世界で唯一モアイの製造を認可された国で、北は北海道から南は沖縄まで「国産」のモアイが置かれている。1960年に起きたチリ大地震による津波で、イースター島は大きな被害を受け、遺跡が破壊された。その復興に日本の建設会社が重機を持ち込んで協力し、そのリターンでモアイの製造が認可された。
モアイがなぜ作られたか諸説があり、わたしがガイドさんから聞いたのは、村の守り神として作られ、海を背に村の方を向いているという説明だった。しかし、海に向かっているモアイもあり、これは祖先が渡ってきた方を見つめているのだと説明していた。もちろん想像による話だが、わたしはなんとなく胸に落ちた。
海を見つめるモアイ
ドローンを使った調査によって、モアイが現存するか立っていた場所は、水源のある所と一致することが分かった。川のないこの島において地下にしみ込んだ水が湧き出るところは貴重であり、そこに村落が作られ、モアイは水の所有権の象徴ではなかったかと推定されている。
モアイは1700年代以降作られなくなった。その原因として、島の人口が増加し(1万人とも3万人ともいわれる)、その結果資源が枯渇し、人々の間に争いが生じ、多くの村落が崩壊し、モアイも破壊されたというのが定説であった。
壊れて倒れているモアイ
日本の学校教科書にも、「宇宙船地球号」のモデルとして、この説が記載されていた。
しかし、これはヨーロッパ人が描いた歴史である。地元の研究者らの調査によって、イースター島の人口は3000人をピークとして推移していたことが分かった。島の住民は安定した生活を維持していたのだ。
それを破壊したのは、スペイン人をはじめとするヨーロッパ人による奴隷狩りであった。島の住民の三分の一が奴隷として連れ去られ、一部島に帰された人の持ち込んだ疫病によって、島民の多くが死亡した。
DNA調査によって、現在の住民にはポリネシア、スペイン、チリを起源とする断片が混在していることが分かった。しかし、一部にゼヌーというコロンビアの太平洋沿岸にいた先住民のDNAが見いだされた。しかも年代的には1200年頃からのものと考えられる。
コンティキ号の冒険で有名なトール・ヘイエルダールは、イースター島民の南米起源説を唱えていたが、あるいは南米からの移入があったかもしれない。
わたしが案内されたモアイの台座の石組みが非常に精巧で、ペルーのマチュピチュやクスコで見られるものと共通しているので、南米からの移住者がこの技術をもたらしたのではないかと言われているとガイドさんは説明していた。
モアイの台座の石組み
イースター島には、ロンゴロンゴと呼ばれる文字らしきものが残されている。まだ解読はされていないが、この解読が行われれば島の歴史はより明確な形で解明されるだろう。
岩に掘られたロンゴロンゴ
島の研究者たちは、遺跡の一つ一つが自分たちと祖先を結びつけるものとして、外圧によって断絶させられたラパ・ヌイの歴史を復元する研究を続けている。
(写真はいずれも2002年撮影)
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