ハン・ガン(井手俊作訳)
『少年が来る 新しい韓国文学15』(株)クオン 2016年
重い小説である。読み終わってからこの稿を書くまでに時間がかかった。
1980年5月18日から27日かけて起こった、韓国光州市の民主化運動に対する全斗煥率いる軍部による, 戒厳令下での弾圧事件を題材にしている。
小説は6章とエピローグから成り、それぞれの章に登場する人物は1人称から3人称と扱いが変えられている。例えば、第1章に登場する小説の主人公トンホは、「君」と呼ばれ、第6章のトンホの母親は1人称で自分の言葉で語っている。
エピローグは1人称で書かれ、その「私」はおそらく著者自身を模しているであろう。
光州事件当時9歳だった「私」は、事件の前に家族とともにソウルに移住している。
この小説の主人公で軍に殺されたトンホは5歳上で、「私」の父親が在職していた学校の生徒で、「私」にもトンホとその家族には記憶がある。
事件から30年、トンホの死と自分の生を対比し、その死にまつわることを書くことを自らに課して、徹底的な調査を行い、トンホの兄との対話を経て小説の執筆にあたる。
エピローグまで読んで、わたしは小説のモチーフが理解できたように感じた。
書かれていることは凄惨である。射殺された学生や市民の死体、その処理、軍部による「被疑者」に対する虐待と拷問の様子。著者はそれを誇張もせず、控えめにもせず、客観的に記載している。
中学生のトンホは、自分の家の下宿人で親友のチョンデと一緒にデモに加わり、並んでいたチョンデに弾が当たって倒れたのを置いて逃げたことが心に残り、その遺体を探すために犠牲者の遺体が集められている場所に行き、遺体の整理を手伝い、母親や姉兄の忠告を聞かずその場に残って、軍によって射殺される。
各章にはトンホ本人とその親族が、事件当日から30年後までいろいろな時点で登場し、事件当時の記憶とその時点での思いを語っている。
登場人物は、いずれも軍からの弾圧を受け、拷問にさらされている。しかし、その語りは、そうした弾圧をおこなった軍部を直接的に糾弾するものではなく、事件の記憶を思い浮かべつつ、現在的な自己自身の思いを屈折した形で表現している。そして、その思いはいつもトンホへと回帰する。
例えば、トンホの姉は釈放後大学に進学し、出版社に編集者として働いていて、当局に手配されている著述家の所在を警察から聞かれ、平手打ちの拷問を受ける。それに抗議するのではなく、その平手打ちを忘れるために、事件当時の振り返り、編集業務を遂行する。
トンホの兄の同士だった男性は、今でも闘っているが、それは今生きている恥辱との闘いだという。
誰も当時の行動についての積極的な肯定は表明しない。しかし、だれも後悔を述べていない。
第6章に出てくるトンホの母親だけは、光州事件の犠牲者の母親たちと一緒に、全斗煥糾弾の行動に立ち上がっている。
著者は全斗煥をはじめとする弾圧者を決して許してはいないが、小説の中で彼らを直接的には糾弾してはいない。弾圧を受けた人々の気持ちに思いを馳せることによって、光州事件で受けた人々の傷をより深く表現している。
訳者の井手さんは、解説の中でこの小説を、「この事件で命を落とした人々への鎮魂の物語」と評している。非常に的確な表現であると感じつつ、わたしにはこの小説が著者自身の魂をも鎮めているように思える。
読んで良かった。
春を待ちかねて
10月に植えたクロッカスが小さな花を着けた。
STOP WAR!